阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

本因坊算砂の辞世

2020-01-04 21:48:16 | 囲碁
本因坊算砂(ほんいんぼう・さんさ)は囲碁における最初の名人で、信長から家康のころに活躍した人だ。本因坊とは京都、寂光寺の塔頭の名前で、算砂以降は囲碁家元のひとつ本因坊家として、今は毎日新聞社主催の棋戦の名称としてその名を留めている。私も京都で過ごした学生時代は囲碁部に所属していたこともあって、何度か左京区寂光寺の算砂のお墓にお参りしたことがある。最近あれこれ読んでいる狂歌の本の中にその算砂の辞世を見つけて懐かしくもあり、少し書いてみたい。

まずは珍菓亭編 「五十人一首」の算砂の辞世を見てもらおう。珍菓亭とは柳門の祖、貞柳の別号である。上方狂歌の筆頭と言っていい貞柳が選んだ五十人の中に算砂が入っている訳だ。碁盤と算砂の肖像画とともに、次の歌が載っている。


         本因坊算砂

 碁なりせば かうをも立て生べきを死ぬるみちには手もなかりけり


「かう」とは囲碁用語でコウ(劫)のことで、この歌の面白さを知るためにはコウの説明が必要だろう。日本棋院の囲碁入門のコウのページに良い解説があるのだけど、訳の分からないブログのリンクはクリックできないという方も多いだろうから、画像を拝借。



囲碁は孤立した一つの石であるならば、上下左右の四か所を相手に抑えられると取られとなって盤上から除かれてしまう。1図の場合は白が真ん中の一か所空いたところに打てば黒の一子を取ることができ、2図となる。ところが次に黒が打つと、白の一子を取って1図となる。くり返してきりがないから仏教の長い時間を表すコウ(劫)という言葉で呼んでいる。未来永劫の劫といえばわかりやすいだろうか。ルールでは1図から白がコウを取って2図になったら、黒はすぐには取り返すことができず、一手よそに打ってから、その次の手では取り返すことができる。そしたら白もすぐには同じコウは取れなくて、一手おいてからということになる。その他所に一手打つ手をコウを立てる、コウダテと呼んでいる。算砂の歌の「かうをも立(たて)て」はこのことを言っているのだけど、それがどうして「生(いく)べき」につながるのか。

詰将棋といえば、王手を連続して詰みになるまで読めば正解だけど、詰碁は少し事情が違っている。黒から打ち始めて相手の白石の一団を取ってしまえば「黒先白死」という結果になる。また、自分の黒石を取られないように打つ問題ならば「黒先活(生き)」となる。そしてもう一つ、両者最善の攻防の中で上記のコウが生じて、生死はコウの勝ち負けに委ねられる「黒先コウ」という結果になることもある。普通の詰碁ならばここまでであるが、実戦であれば、こちらに有利な結果が全く得られない「手なし」ということもある。下の句の「手もなかりけり」も囲碁ならではの言い方ということになる。つまり、算砂の歌は、

もし囲碁であったならば、死にそうな石でもコウで粘って生きることもできるのに、自分が死ぬとなると打つ手がないことだ

という意味になる。学生時代、よく解説会を聞きに行った宇太郎先生の本から詰碁でコウになる例を見ておこう。宝ヶ池プリンスでの解説会の冒頭だったか、「本因坊の由来をお話ししましょうか」とおっしゃって、みんなタイトル戦の進行が気になって首を横に振ったが、今思うと宇太郎先生が本因坊について語られるのを聞いておけば良かったと思う。



(橋本宇太郎著「詰碁・奥の細道」より、詰碁の解答例。右上は黒先白死であるが、左下は黒先コウが正解となっている。)

これで算砂の歌は理解できたことになるが、算砂とコウといえば、もうひとつ有名なお話がある。それは、本能寺の信長公の御前で算砂が碁を打って、三コウ無勝負という珍しい形が生じ、そして本能寺を退出した直後に本能寺の変が起きたという。三コウについて簡単に書いておくと、上記のようなコウができてコウダテしながら争ったとしても、一手おきに他所に打っているのだから局面は少しずつ進行していく。しかしコウの形が3つ以上あって、お互いに取り番になるコウの場所だけに打って行ったら、一回りして全く同じ局面に戻ることになる。コウ以外の場所には打っていないから、碁が進まない訳だ。今のルールでも同じ局面が二度現れた時点で無勝負ということになっている。また、本能寺の変の直前に三コウが生じたことから不吉の前兆と言われることもある。「爛柯堂棊話」本能寺にて囲棊の事を引用してみよう。


「天正十年信長公光秀が毛利征伐援兵に赴く武者押しをし給んとて江州安土より御登京都本能寺に御座あり六月朔日本因坊と利玄坊の囲棊を御覧あるにその棊に三刧といふもの出来て止む拝見の衆奇異の事に思ひける子の刻過ぐる頃両僧暇給りて半里許り行に金鼓の聲起るを聞き驚きしが是光秀が謀反にして本能寺を圍むにてぞありける後に囲棊の事を思ひ出て前兆といふことも有もの哉と皆云ひあへりとぞ其時の棊譜なりとて今も傳へたり此の棊を思ひ見るに利玄が隅の石を取らるゝを見損じたる本因坊が布置手配りの様子是亦前兆とも云べきか」


この本能寺での対局は途中までの棋譜が伝わっているけれども、三コウができそうな余地は無いという。また日本棋院の囲碁の歴史のページにも、「江戸時代になって伝えられた話で史実とは異なるとする説が今日では有力となっています 」とある。しかし、算砂が秀吉や家康の御前で碁を打ったのは事実らしい。

話を算砂の歌に戻そう。この歌は囲碁名人の辞世という点でも囲碁の用語が入り、それは狂歌という観点からも縁語となっていて良くできた歌といえるだろう。最初に紹介した五十人一首に選ばれるのもうなずける。こういう良くできた辞世を見るたびに思うことは、まだ元気な時に辞世の歌として準備していたのかどうかという事だ。しかし、どうもそうではないようにも思われる。算砂の死後四十年後に編まれた古今夷曲集にはこの歌を


      臨終に棊打なりければ

 棊なりせば劫(こふ)を立てても生くべきに死ぬる道には手もなかりけり 算砂


とあり、語句が少し違っている。また、「坐隠談叢」には、


辞世に曰く
    碁なりせは刧を打ても活くへきに死る途には手もなかりけり
此歌につき「碁ならせば刧なと打ちて活くべきに死ぬるばかりは手もなかりけり」とし又他に「碁ならばや刧をもたてゝ活くべきを死ぬるみちには手一つもなし」とするものもあり茲には加賀の本行院に傳ふる者に據る

と3つのパターンを載せていて、上の2つと合わせて5種類、同じ歌意でありながら語句がどれも微妙に異なっている。これは紙に書かれた辞世の色紙が出発点ではなく、伝言ゲームが行われた結果だろう。本因坊家の口伝が外部に伝わるうちに、様々な表記のずれが生じたのかもしれない。しかし意地悪な見方をすれば、元は算砂の歌ではなかった可能性もあり得るだろう。前に見た一休さんの正月の歌のように、ことわざや慣用句、あるいは歌謡が有名人の歌として伝えられるようになったパターンかもしれない。よくできた辞世であるだけに、名人の歌と言われてみんなすんなり信じてしまったという可能性は考えられないだろうか。

【追記】

美濃の國に野瀬といふ碁打いまはの時、 

  碁なりせば劫を棄ても活くべきに死ぬる道には手一つもなし

とあり、似た歌が算砂でない人の歌として出ている。 醒酔笑は元和9年、算砂の没年に成立とあり、算砂が亡くなる前から似た歌が存在した可能性が高い。



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