阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

大田南畝「小春紀行」より 廿日市→広島城下→海田市

2020-01-17 21:36:36 | 大田南畝
二葉の里の七福神めぐりの回で道に迷いながらたどりついた岩鼻跡と言う場所について、南畝の小春紀行に記述があった。つい十日前に歩いた場所でもあり、引用してみることにしよう。南畝は文化元年に長崎奉行所に赴任、翌年十月に長崎を出て江戸に帰るまでの旅を記述している。それでは文化二年(1805)十月二十三日に廿日市の宿を立って広島城下を抜け、海田市の宿で昼休みをとるまでの記述から、まずは草津に至るまでを引用してみよう。


廿三日寅の半にやどりを出て、宿の中を左右に曲り行、田間をゆけば五日市村あり、海を右にし田を左にしゆきて八幡川をわたる、土橋なり、又海を右田を左にしゆくを、海老の鹽濱といふ(いびの鹽濱といふやうようにも聞ゆ)いびの坂を上り下りて又右に海あり、坂を上り下る處を小ごえ山といふ、人家わづかにあり、又海を右に見つゝ坂を上り下れば、人家長くたてつゞけり、草津といふ、左に寺あり、この所にて夜明けたれば、これまで見のこしつる所多かるべし、

この部分で疑問なのは、海老の塩浜が八幡川より東に記述されていることだ。ひろしまぶらり散歩の海老塩浜跡でも、海老山(かいろうやま)の西側となっている。午前四時頃宿を出て夜明け前の道中でもあり塩浜が見えていなかったのか、あるいは後で書く時に間違ったのだろうか。一方、「いびの鹽濱」「いびの坂」という当時の現地の発音の記述があるのは貴重だと思う。そして「小こえ山」とはどこか。このあとのくだりで己斐川をこゑ川と書いているから、井口の小己斐だろうか。しかし小己斐島、小己斐明神以外、西国街道筋にも小己斐という地名があったのかどうか、はっきりしない。

上の続き、広島城下に入るまでを引用してみよう。

左右ともに田ある所を行に、右に海ちかくみゆ、左に少し人家あり田間をゆきて左に鳥居あり、岨を左にし土手に上りゆけば、右に田をへだてゝ海みゆ、川ありこゑ川橋を渡る、長き土橋なり、松原といふ所に人家わづかにあり、左右ともに畑にして、右に海とほくみゆ、小屋川の板橋をわたりて木戸に入れば、廣島の城下なり

岨は「いしやま」という訓になるようだ。「こゑ川橋」は己斐川(山手川)にかかっていた橋と思われる。しかしこの記述の通り次の小屋川(天満川)を渡ったあとに広島城下の入り口である木戸があり、古い広島城下の地図は西が切れてしまっていて己斐川にかかる橋を確認することができない。ネットにある明治十年の地図は読み取りにくいがどうやら「己斐土橋」と書いてあるようだ。これは土橋か板橋かという種類を書いたもので橋の呼び名ではないのだろう。場所は現在放水路にかかっている己斐橋と大差ないようだが、己斐川橋という記述は見つけられなかった。一方で己斐をこゑと南畝が聞いていたことは興味深い。秋長夜話には「己斐村は峡(カヒ)村なるへし 」とあったけれども、別の語源の可能性もあるのかもしれない。

己斐川を渡ってデルタに入ると、左右ともに畑とある。やはりデルタの中では稲作は難しかったのだろうか。私は幼少の頃(昭和45年ごろ)、南観音に住んでいたことがあり、その時期の原風景はネギ畑であって陸稲が植えてあったのは覚えているが普通の田んぼは記憶にない。広島城下でも貞国が商いをしていた水主町などデルタの海側の地域の井戸がどうであったのか興味があるのだけど、こういう記述を積み重ねて考えてみたいと思う。

次の小屋川は天明年間の火災が原因で天満川に、橋も小屋橋から天満橋に改称になったとあり、南畝が訪れた文化二年はすでに天満川となっていたはずだ。しかし川の名前はお上が決めてもすぐに浸透するものではないことは、私が最近調べている三篠川の例でも顕著である。三篠川という名称はかつてはデルタを流れる太田川の美称であったのを、明治三十年代に高田郡安佐郡(当時)を流れる支流の名前に移動させたはずだが、その後もお城の近くの雁木のあたりは三篠川と呼ばれ、今でも基町と寺町の間を三篠川と呼ぶ方はいらっしゃる。南畝が古い地図を持っていた可能性も勿論あるけれども、川の名を訪ねた時に小屋川と返ってきたとしても不思議な事ではない。

それでは次は広島城下の記述、

城下の市町にぎはゝしき事佐嘉にまされり、左におさん焼餅といへる札あり、右に名酒うる家あり、川あり板橋の長きをわたる、根小屋橋といふ、左に本屋あり、左に折れ右に曲りて川あり、板橋あり元やし橋といふ、右に本屋二軒ばかりみゆ、左に名酒屋あり、九霞堂といふ、小き板橋をわたり、左に曲り右にまがりゆけば古着屋多し、左に小社あり、こゝを夷町といへば、夷をまつれるなるべし、左へ曲がり右へ曲がれば川あり、板橋をわたる京橋といふ、これまで左の方に城の門みへしが、これより見へずなりぬ、川あり板橋をわたる、ゑんこう橋といふ、人家あり、こゝにしてやうやく城下をいでゝ田間をゆく、」

おさん焼餅とはどんなお餅だったのだろうか。餅屋、酒屋、本屋、古着屋と西国街道沿いの城下の様子が伺える。根小屋橋で検索すると全国各地にある橋で、これも南畝が間違えたのだろうか。普通は猫屋橋と書いて、豪商の猫屋九郎右衛門が私財を投じて橋をかけたということになっている。これには別に異説はないようだ。今のところこの橋を根小屋橋と書いた例は見つからないのだけど、こや橋、ねこや橋と続いていることは、少し引っかかる部分ではある。

広島城下を西国街道が通るにあたって、少し北にある東の出口の猿猴橋に向かって左右にジグザクと北東方向に曲がって進んでいて、胡子神社が左手なのはアレと思ったけどこれで正しいようだ。してみると広島城下までのアップダウンや左右の景色も正確なのかもしれない。ここは私にはどこを通っているのかイメージがわかない部分もあり、詳しい方に検証していただきたい。

次は海田市の宿まで、

人家間々あり、左右ともに山ある所をゆく、右に人家あり岩鼻といふ、左の岨に立岩多き故の名なるべし、こゝにきよらなる家あれば、しばしやすみて酒くむ、右かたに田面はるかに見渡されて、朝日のかげさやけし、田間をゆけば、一里塚と見えて左右に松あり、土橋の長き川をわたり、田間をゆく人家少しありて鍛冶多し、田間をゆきて岨を右にし田を左にし、又田間をゆき人家をこへ、田間をゆきて、海田市の宿にいり、脇本陣猫屋新太郎がもとに晝休す、家居あらたにたてつゞけて、庭に松あり、長門の船木よりこれまで、食物の味よろしからねども、飯は精をいとはざりき、これよりして飯の粗にして糠くさきもまじれり、姫路よりして東は食味ともによろし

岩鼻はお正月に二葉の里歴史の散歩道で歩いた場所、その時はよくわかってなかったが、私がマンションとマンションの間を横切ったあたりにも昔は岩があったようだ。そのあとの矢賀の一里塚から府中大川を渡って府中町浜田の空城山までは良く歩くコースで、右の岨とは空城山のあたりだろうか。海田までには船越峠などアップダウンがあったはずだが、記述のどのあたりが峠なのか良くわからない。海田の脇本陣の猫屋さんは広島の猫屋町から移ってきたそうだから猫屋橋を建てた人の子孫ということだろうか。お米の話、しっかり精米してなくて糠臭いという。昔は確かに広島のお米は評判が良くなかったけれど、今はそうでもないような気がする。もっとも南畝は普段から良い物を食べていたのかもしれない。

南畝はこの前日、二十二日に厳島神社に参拝している。面白いのは、「此ほとりに牡鹿のむれあそびて人をおそれざれば、試に鼻紙を出してくはしむるに、さながら飼へる犬のごとし」とあって、宮島の鹿は今とそんなに変わらないということがわかる。鹿は質の悪い再生紙だと匂いだけかいでやめてしまうけれど、当時の鼻紙は支倉遣欧使節団でも欧州人に珍しがられたとのことで、上質の紙だったようだ。

ここまで読んで来て感じることは、私はまだまだ江戸時代の広島城下についての知識が足りないようだ。南畝についてもわからない事が多い。それで疑問に思うことはあっても中々結論にたどりつけない。こういう紀行文が他にもあれば読んでみたいものだ。



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