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映画「林竹二の授業」を語る会・記録③

2024-12-08 | 教育


宮前:
 今日、持ってきた児童の感想文の中にですね、「てにをは」が全くできない子がいるんですよ。文章を見るとおかしいねって。でも、それを竹二先生にそのまま送ったということです。つまり、それだけ熱量があるっていうことですよね。子どもにとってね、「てにをは」なんかそっちのけで、今日良かったっていうところを表現したんですよね。そういうことができたということですね。子どもたちに感想を書いてもらって最初見たときね、こんな感想書いてって思うと、恥ずかしくて送れないと思ったんですよ。正直言ってね。だって、後からも読みますけども、林先生と宮前先生に比べて一番最初は読みましたけど、別なことも別な形で書いてるんですよ。つまりね、林先生の授業を受けて、一番見てたのは私のことなんですよね。いつも授業をやってくださってる宮前先生と林先生の違いをビシッと捉えて書いてるんですよ。いや、もうね、この感想を読んだとき、林先生に送りたくないっていうのがまず一番最初の私の気持ちだけど、子どもたちの正直な気持ちを書いてるわけ。うん、これを送らないっていうことは絶対できない。だから送りました。そしたら、それを読んで、「宮前さんありがとう、その感想を私のところに送ってくれて本当にありがとう。これから丁寧に読んで私も子供たちの気持ちを払います」という感想を書いてくれたんですよ。
 実はですね。そうなんですよ、寝てる子もいるんですよ。実際、私も大学で仕事をしたりしたからなんですが、実はこういう経験をしたから、毎時間授業の感想を書いてもらった。大学生だから、高校生に書いてもらっていいんですよ。つまりね、共同授業で、どんなことが心に残ったのかな、あるいは先生に対する注文あったら書いてって。それを読むとね、やっぱり自分がね、変えなくちゃなんないこといっぱいあるんですよ。さっき学ぶっていうことは、子どもの問題意識、あるいは子どもの問いっていうものが生まれなくちゃ駄目だっていうことをお話したんですけど、実は目の前の子どもが学んでるか学んでないかなとわからないですよね。 
何についてこの子はやってるのかな、何を考えてるのかなということを様々な角度から見る自分の手立てっていうのを、自分なりに持たないと駄目だと思うんです。私は、この子どもたちが感想文を通して、自分を見つめることができるっていうことで、それ以来その子どもたちの感想っていうのもすごく大事やってます。だから先生もね、寝てる子も多いんですけど、寝てる子が何を書いてるのか、どうしてこういう感想を書いてるのかなと。これね、ぜひやってみてください。
 さっきもお話したように、林先生に送りたくないなと思った感想がたくさんあるんですけど、ある子どもがこういうことを書いていました。「林先生が大学の学長だと宮前先生から聞いていたので、白いひげをピンとさせて気難しいような人かなと思っていました。林先生に会うまでは、林先生の前で間違ったらどうしようというような心配がありましたが、あったら心配がいっぺんに消えてしまいました。それは林先生がとても感じが良くて、優しそうな先生だったからです。宮前先生が転任してきて、僕たちと初めて会ったときは、優しそうなふうには見えませんでした。やっぱり林先生は偉いんだなと思います。ありがとうございます」。
 こういうね、短い文章でズバリ書いてある感想を読むとね、いくらね、かっこいいことを喋ったっていくら子どもたちね、受けるようなことを喋ったってやったって、子どもたちは、もう見透かしてるんですよね。だから、だからそういう自分のやってることを子どもたちはどう受け止めてるかっていうことは、何らかの形でちょっと教えてもらう。すごく大事じゃないかなと思います。
さっき●●先生も林先生の子どもを見る眼差しのことをちょっと話されてました。実は、優しそうな先生だっていうことを感じ取ったのは、林先生も僕たちに向けてる眼差しなんですよ1人1人のことを見て、それでできるだけわかりやすい言葉で喋らなくちゃなと思って、そういう心遣いまで感じ取って、優しそうな先生で安心した。宮前先生よりずっと言ってもうズバリね、もう私なんかも見透かされてる子どもたちは教室で、その教師の話を様々な気持ちで聞いてますから、その子どもたちの本音の部分をね、ちょっとでもいいから探ってみるっていうことも私は大事なことじゃないかなと思います。

参加者F:
 今の宮前先生の話にくっつけてなんですけど、今日の映画もちょっと気分良くないなって思って。さっきの宮前先生の話もつまんねぇなと思ったのもあるんですよ。それは何かっていうと、何でこんな素晴らしい人たちが、林竹二先生を大学の立派な先生だって子どもにすり込んで授業するのかな。宮(前)ちゃんも●●ちゃんも、みんな同じなんですよね。なんで林先生が来る前に「こんな素晴らしい先生来るんだよ」ってなっちゃうと、高校生にも関わってきたし小学生も大学生も関わってきたけど、特に小学生の子って本当いい人なんですよ。だからその場の空気を読んで、一番ここでこう発言したらみんな喜ぶよねって発言しかしないんです。だから、はっきり言って、あんまり当てにしてないです。私は子どもに書かせるのは信用できないんです。
 ある意味でこの次なんですよ。私、今まで何度も宮前さんに言ってきていることを彼は無視して今日話したんですけど、林竹二先生のことを忖度して子どもたちはあんなふうに書いたんであって、宮ちゃんが駄目だってなんか全然思ってないんだよ。宮前先生の素晴らしい学級経営の上に立った林先生が授業してたにすぎないよって、そう思いますよ。
 みんな、いや本人もわかってるけど、謙虚に言ってるのかもしれないけども、なんかね、あんまりね、そういう人たちを持ち上げ過ぎちゃうと話の論点がボケてきちゃって、やっぱり子どもたちが宮前先生よりもあっちがいいよねって言えるくらいの風通しの良い関係を、宮ちゃんは作ってきたっていうことは、私はすごいことだと思うよ。そういうふうに私は話してたんですけどどうでしょうね。

参加者L:
 今、先生がおっしゃったように、林先生御自身、「いかに宮前君っていうのは、子どもに信頼されて、もうね、心が通い合ってる先生がいる」とおっしゃっている。学級経営にだって言いますし、それから、これ確か、「ビーバー」を受けて、「アマラとカマラ」を受けて「開国」ってやっぱりな、なんかやんちゃそうなね、特徴ある、あるんでやっぱ3年間いますし、それが久茂地小学校には、安里先生ってすごい教育熱心な校長先生もいらっしゃって、その方も、その林先生、心酔してる。やっぱり、そのもとで授業研究がですね、湊川のことで、だけど、林先生ね、やっぱかなり生徒と湊川で通じ合うので、水入らずでやぶっていうふうにやったら見事に失敗し、それはそ『教育の再生を求めて』に載っています。「私の実習記」っていうところにあって、もう子どもがね、騒いで全然いうことを聞かない。それが「開国」についても、これはちょっと別件のところで林先生変わったよね。そんな昔話は聞きないって言われたんで。
 ただ、林先生ただもんでないのは、そこで生徒に言われたので、何とかね昔話じゃないようにっていうことで、それである意味でさっき話題になってましたね、田中正造ですね、そういうある種リベンジをして、やっぱ田中正造の授業ってのは相当生徒たちに入っているので、だからそれを林先生は心得ていて、結局あの、通常のですよ、通常のやっぱり学級経営があっての話だっていうことでやっぱり林先生は、いかに本当に湊川の先生方っていうのが、もう厳しい状況でね。あるのに対しても生徒指導もすごいやってるんで。そういうところにね、うん。やっぱりどっかで自分が傲慢だったっていうことを林さんはっきり言っていらっしゃるので。ですから、今の先生のおっしゃった論点、すごい大事です。これはあくまでそういう本音を言えるような、そういう宮前がいたからこそ、こういうのが出てきたということ。いや、本当に戦争です。そこ本当、間違えたなので、そこは人間がちょっと今ね、SNSとかネットで訳わかんなくなってると。やっぱり、そこは信じられんとなって。
 ちょっと長くなってごめんなさい。林先生はですね、やっぱり自分は授業の事はわからない。哲学で学ぶってことはやってきたっていうんで、授業にあたってね、あの斎藤喜博って、いわゆる授業名人を呼んできてですね、最初はやってたんだけどやっぱりね、実は沖縄でも授業やったらしいんですけどね。いわゆる、さっきお話が出たように、教師の差ってのをもってるのかな、好きに走るとこがあったので、さっきの授業論でですね、著作集の7巻じゃないかなと思うんですけど、その末尾はね、ちょうどやっぱり斎藤喜博とかなり考えが違ってきたと思ったんで。結局ね、教育というのは出会いに終始するものではないかってこと書いてあって、何のために授業するかっていうと、それは心をね、まっすぐなんだよっていうので、やっぱり、そこは本当大事なとこなんで、すいません。あの、先生ね、大事なことを話してくださったので、あくまで楽曲で人と人とを繋ぐ。そこで先生がおっしゃってた林先生はね、自分の差がすごい決まって、自分のスタイルでやれっていうのになかなかね、自分のスタイルじゃなくて、型を求めるので。
 林先生の教育の仕事っていうのは、福島に始まって福島で終わると思ってます。晩年ね、さすがに林先生もそんな動けなくなったときに、須賀川養護学校の若草学級っていうところの仕事をお知りになって、そこいわゆる五重苦の勝弘くんという重い障がいを抱えたお子さんに対して、安藤哲生先生という、まさに今って人と人とのコミュニケーションで、本当に何か安藤先生が勝弘君と出会ったときはね、植物みたいだった。ところが、安藤先生をね、こうやって勝弘君の方で自分の触ったりとかやりながら、「勝弘、安藤先生だ」って呼びかけた。そしたら3ヶ月経ったときに、ふとね、意思表示が出てきて、何とか立てるようにしたいって思った。それでは無理だったんですけど、ちゃんとね、腰が立つようになってですね、表情も。
 最後の林先生のメッセージっていうのは何のために教育するかっていうと、一人一人自分を変えようとする。神様からね、いただいた、もう科学を超えた命って言ってしまうと、だから自分が自分を変えてくようなその命があるわけで、勝弘君は歩みはものすごく遅いけれども、その命をね、ちゃんと自分で引き出す。その手伝いってのは安藤先生とかですね、当時の須賀川の先生がなさったということで、それを林先生の最後の記録なんか教育の根底にあるものっていうところで、勝弘くんのお話をして、それが結果的にもう最後のメッセージで目的は思いました。

林:
 私も2年前に、確か林竹二先生の展示を宮教大でやったときに聞きたいなと思っていたこともあって、今日楽しみだったんです。私なんかが林竹二さんの本いろいろ見てると、興味深いエピソードとしてですね、例えば斎藤喜博さんと論争した話などもあって、斎藤喜博さんはどっちかといえばですね、教育とはかくあるべしというものを磨きに磨いていって、古い封建的なものは捨てるべき、だからより新しい未来型に向かって教育ってのは民主主義。林竹二さんは東北大でセミナーしてるときに、ちょっとそれ違うんじゃないかと孔子はこう言ってるよと、途中からはもっと江戸時代の日本の人だってこういうことを考えてたんだぞ、寺子屋でそういうことに立脚して、年寄りも子どもも一人一人尊重しなきゃ教育にならないんじゃないかということで、喜博さんとは相当食い違う部分があったと思います。
 ソクラテスとプラトンの研究なんかもずっと竹二さんはしてたんですけども、それもソクラテスをあたかも完成した聖人のように祭り上げることに大反対して、若い頃ソクラテスが何を目指してたのかっていうことを、自分は大事にしてるんだっていうことで、若き日の美しかったソクラテスっていうのをわざわざ書いたりしてるんですよ。林竹二さんの精神の持ち方として、すごくなんていうか、常に学びたいっていう、若々しさというかですね、そういうところがすごくあるわけだから何か教育学を完成させたとかって言ってる人に対しては、何かクエスチョンを投げかけて、本当にあんた、教育っていうものをそれ完成なんですかと。
 自分は沖縄に行ってまだまだ学びに行かなきゃいけないんだっていうことで、自分も生徒の一人のような気持ちで、まだもっともっとこういう学校があるんだっていうところにどんどん突き進んでいって、最後75歳ぐらいになってさすがに体が動かなくなったっていう感じだと思うんですよね多分、林竹二さんがこの映画がもし一人歩きしたら、一番困っちゃうんじゃないかなと思って、林竹二さんの完成させた教育学としてこれ見てほしくないと思うんですよ。
 竹二さん自身が65歳から小学校に出会い、70歳になってから湊川に出会い、沖縄の小学校に出会いながら、自分が今まで足りなかったなっていうことを常に考え続けるという。どんどん晩年に向かうにつれ旅に出ていくわけなんですけども、そこでやっと田中正造が理解できたということなんですよね。だからさっきのバスケ部の人たちが、部活が厳しすぎて授業中ずっと寝てるっていうことに、竹二先生がもし出会ったら、やっぱり若き日のソクラテスに立ち戻って、一緒に薪割りしたりとか、一緒に畑仕事をしたりして、今日精一杯一緒に頑張ったなっていうふうな、例えばそういうふうなアプローチもするんじゃないのかなと。その生徒の一人に自分もなりきって、一緒に考えるんじゃないのかなっていうふうにですね、そういう若々しさを竹二先生の生き方からは学んできました。

渡部:
 なるほど。ただね、僕は今日の映画を見てですね、阿部さんが冒頭で言われましたけども、やっぱり問題含みだという点が2つあります。それはまず、これは教師である自分に対しても思うことなんですけども、しかもこの授業実践から50年後も批判するってことに、何て言うんだろう、アンフェアなことでもあるんですが、例えば『アマラとカマラ』は、現在の心理学では、これはもう否定されてる説ですよね(※鈴木光太郎『オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険』,新曜社,2008年,参照)。
 これを前提に「人間とは何か」を授業でやったことに対して、もう生きてはいないので、何とも竹二さんにはお答えいただけないと思うんですけども、やっぱり僕も授業やりながら一生懸命教材研究しててもやっぱり間違ってしまったと、誤った事実をもとに授業でやってしまう可能性があるわけです。しかも、それをもとに「人間の本質だ」といったときに、全くこれが出鱈目だったっていうことに、竹二さんが今生きていたらどう答えるのか?これが一つです。
 それから『開国』の授業で、子どもたちは「ペリーが沖縄に来ていた」ということにとても驚いたという感想が多かったですよね。あれ、僕は聞いてとても違和感がありました。授業の終盤に島津斉彬を立派な政治家と評して教えていましたが、それを薩摩に搾取されてきた琉球、沖縄で語るのかというのが、とても違和感がありました。これは僕の友人で、琉球新報社の新垣さんって記者がここ(福島)に来て話してくださったことですが、琉米条約っていうのは通商条約かな、彼がそれを修士論文で書いたんですけども、これは当時もアメリカが先に琉球を独立国として認めていた証なんだと。すると、その独立国である琉球を明治の日本政府が琉球処分で、一国の独立国を侵略、植民地化した証であるということを、彼は教えてくれたんですよね。
 でも、林竹二さんは、あの授業の中で島津斉彬のような立派な政治家がいたから、日本は植民地化されなかったんだぞっていうような授業をしたのを見て、それを沖縄でやることの歴史的なセンスというものに、僕はやっぱりこれは50年後からアンフェアな批判になるかもしれないけど、やっぱり批判的な視点を当時、時代的な制約もあって持てなかったのかもしれないけれど、でも1977年って沖縄復帰5年後ですよね。その時点でやっぱりそのような視点を持ってなかったっていうことの違和感といいますか、彼の無意識の植民地主義を批判的に論じなければいけないんじゃないかなと思うわけです。  
 ただ、今、薫平さんがおっしゃったように、当然これを完成系として見ないんだというのであれば、なるほどこれを更新するのは後の人たちの役目だと思うんです。

林:
 あとね、竹二先生がもう一個印象に残ったこととしては、基地問題とかあるじゃないですか。あと学校の関係で言ったら、夜間中学が閉鎖されちゃう問題っていう、具体的に今最前線にある社会問題。林竹二先生はそれに対してどうしろと言ったか。それに対して、ハチマキ巻いて座り込みしたり、火炎瓶投げたりっていうのは浅いって言ってるんですよね。それよりは、本来すべき授業をしっかりやるべきことだと言ってまして、これは米軍基地に反対して、抵抗している人たちにとっては、ちょっと冷たいというかですね。それちょっと突き放したような言い方をしてるんだけど、本当の仕事場とか学校を放って、ハチマキ巻いて火炎瓶投げに行くよりは、もっと深いところで勝負したがというようなことなんですよね。だから、そこはまだ竹二先生がどういう世の中のあり方を願ってたかまではわかりませんけども、沖縄であえて、場合によっては、ほとんど本土で最も憎むべき島津の権化みたいな人が名君だったみたいな授業をわざわざしたっていうのも浅はかだったのか。それとも、いろんな議論を持って、本土の方にも悩みながらいろんなことやろうとした人たちがおったんだぞという、そういう視野で考えてほしいというメッセージだったのか。そこはわかりません。

参加者K:
 すいません、ちょっと話についていけないんですけど、まず林竹二先生は、この人間とは何かと開国っていう事業を、どうして沖縄でやろうとしたのかっていうあたりのところがはっきりしないんですが。ただ、それだけ私が林竹二先生の本をたくさんちゃんと読んでないんでわかんないので、初歩的なことですけど、映画を見てると、何でこれをわざわざ沖縄を選んでやったのかなっていうのがわからなかった。

参加者L:いろんなそれはなんかちょっと私も覚えますもんね。林先生ってやつも結構ね沖縄いろいろね、今ご議論あったように、島津の評価とかあるにせよやっぱ林先生は沖縄をね犠牲にして、あの米軍基地問題をね、うん。それでちょっと、一応紹介します。結局ね、はっきりちょっと『教育の再生を求めて』の序文の方に日本の教育ってのはね、結構大きな輪を打ち捨ててそしてあの見せかけの虚栄をね、田中正造研究は深まったってお話なんですけど、この谷中村を見捨てて、それで日本はね、戦前の大日本帝国としてのまさに虚栄ですよね。だからね、先生おっしゃった大変な犠牲が生じてしまったわけだから。そういうふうになぞらえて、やっぱりね、谷中村を見捨てて、それらの大日本帝国が栄えたと。
 また、戦後ですよ、多大な犠牲を払ったのに同じ間違いを犯して大きな骨を打ち捨ててやってるんで、そんな罪滅ぼしみたいなことをしたいので沖縄だったら引き受けていいかなみたいな話だったんですね。元々さっきグループ現代っていうね、確か阿部さんの方からあったと思うんだけど、かなりの社会派のところだったので、何とか林竹二の授業ってのは、元々は映画に残したって気持ちだったと。ただ、それをどこでね、やるかっていうところでは、なかなか考えがあったし林竹二もね、そういう意味では相関性があったように、やっぱり誤解を受けるってのはまずいってあったんで、何か記録取りたくないってなったらしいです。でも、沖縄っていうことで、何とか引き受けた。
 ただですね、その半年、これ確か2月の授業なんですけど、10月に北海道の旭川で授業準備をしていて、脳梗塞で倒れちゃうんです。それ林先生、なんでたかっていうと、自分はさっき先生から言ってね、子供がこんな力が子供を見てっていうふうに言ってるのに、結局ね、林の授業はどうのこうので批判するにせよ、逆にそういう自分をこうも違うんだよね。カリスマシース群したって結局は、自分がやってるその子どものことを見ないで授業の方ばっかねどうすればいい授業もできる人がね、できるかっていう。なんかそれに疲れちゃって、倒れてしまったっていうそれがあったと。でも、何とか沖縄の約束を守りんなきゃっていうんで、結構必死でですね、リハビリしてだから鎌田の映画の中では、先生ちょっとね、手が病気したから手がけててちょっとチョーク落としちゃう場面とか、1枚目確認とかあるいはコップがね、駆動するなんてのが、ということで、うん。だからちょっと島津田式とかねまたいろいろあるとは思うんですけれども。うん。かなりあれですそういう大きな思いがあったし、それがそういうのがあったらもう、実は兄弟ですね。
 林先生の学長時代は沖縄から学生の時点でなんかね、まだ完全復帰する前なんで那覇市長の女性の城間さんって方は、実は京大出身の方で女性市長だっていうんで、結構ね沖縄から学生が実は兄弟くるってのはちょっとやっぱちょっと林先生の講演会ってのもあったということであります。はい。

渡部:
 今のKさんの質問ですけども、やっぱり『教育の再生をもとめて』の序文にこう書いてあります。
 「私は私沖縄に赴かせた同じ力が私を湊川にはいらせたような気がする。ともに、それは、私にできるささやかなつぐないであった。/日本という「国」は、太平洋戦争の「あと始末」をつけるため、沖縄を切り捨てた。あるいは売り渡した。そしてその繁栄の中で、現在の見せかけだけの繁栄を手に入れた。そしてその繁栄の中で、国も人間も亡びようとしている。日本の「学校」は、その体制を守るために、子供たちを切りすててきた。その切りすての上に、いま学校は繁栄を(むしろ繁昌といった方がよいだろう)きわめている。そして、その虚構の繁栄の中で、教育は死に絶えようとしている。湊川に集まっている生徒たちは、公教育の中で最も甚だしく切り捨てられた位置にいる子どもたちだ。私は湊川に入って、すべての学校が、平然と実行している子供の切りすてが、どれほどの無惨を産んでいるかをつぶさに見た。それは子供をかれらの人生から切りすてることであった」ということです。

宮前:
 今のところは、林先生の本当の気持ちをね、書き残されてる部分だと思うんですよね。だから、私は林先生のこういう様々な取り組みは、授業ってこういうものだっていうモデルを見せるようなつもりで全くない。やっぱりね、授業って、本当のところはどうでなくちゃなんないのかなっていう思いをね、ずっと追い求めてきた教育哲学者として、だから、私はどちらかというと林竹二先生は抵抗の人だったと思うんですよ。国に対しても、文部科学省に対しても、一般の学校現場の取り組みに対しても、本当にこれでいいのかっていう問いを持とういう意味ではね、私は田中正造の姿を林先生に見るし、田中正造から林先生いわゆる抵抗の根っこの部分をね、出るんだよなっていうふうにだから、やむにやまれぬ思いで現場に入ってるていう風にも思うんです。
 私に「宮前くんのところに応援に行くよ」って言ってくれてるんですよね。ええ、だけど、だけど、そうやって現場に入って、子どもたちが一生懸命頑張っている姿を見るにつけね、うん、本当に学校の取り組みはこれでいいのかな、どの子も学びがってるのに本当に学ぶ場所になってるか、学校は本当にこれでいいのかっていう、林竹二のやむにやまれぬ問いかけが、この実践にまで突っ走る姿だなと思います。それで、先生方を批判したり落としてるっていうよりも、むしろね、林先生の問いかけの根っこにあるは、あとは文部科学省の行政の姿だったり、あるいはその国の沖縄に対するその取り組みが本当にこれでいいのかっていう問いがね、林先生を突き動かしてるとじゃないかと。
 例えば、教育亡国っていう林氏は最後の著作、あれなんか読むとね、うん。もうやむにやまれぬ写真集の叫びを私は聞くんですよ。だから、なんていうんでしょう。私達こうやって授業をあえて映像で見たりすると、これが授業なんだっていうそのモデルを見せてるんだ。でも、何でもないですね。むしろ本当に授業ってこれでいいのかなっていう、林先生の問いかけの映像でもあるように、私は林先生がもう散々苦労してね、あれを残している意味がないっていうふうに私は思っています。それで、私一番心に残ってる言葉は、教師の仕事、それは魂の世話だっていう、林先生の言葉ですよね。何かを教えて点数を上げるとか、学力を上げるなんていうことではなくて、その子の持ってる本当の良さ、本当の素晴らしさっていうのを引き出し伸ばしていく。ハイセンスの授業の中でも、教育っていうEducationと言ってるけれども、あれは子どもの隠されている能力を引き出すことになる。
 実は、魂の世話っていうことを言い始めたのは、どういうふうにして授業をいろいろやってる中から、本当の教師の仕事は魂お世話なっていくと考えたんだなって、私は思って。引き出すっていう仕事は、仕事が教師の仕事なんだっていうことを言ってたんですけど、そうではなくって、楽しい世話、それが教師の仕事だっていう言葉は、やっぱり私は大事にしていきたいなと。

参加者G:
 皆さんにいろんなアドバイスいただいてありがとうございます。私やっぱり一番やりたいのは、学ぶこと何かがわかったっていうときの幸せな気分そのわくわく感とかそういうのを知って欲しくて授業をしてるつもりなんですが、そこに行くその話が聞けないとか、何かを見せても好奇心を持たないとか、そういう子がすごく増えてるので、そこが何とかしたいなっていつも思ってるんです。
 けれども、もうその領域って私達、教師ではもうなんかどうにもできない。もちろんクラスには1人か2人目を輝かせてじっと聞いてる子もいます。もうガヤガヤしてる中でも遠く後ろの方でずっと聞いてる子もいます。だからそういう生徒が2人3人いるので救いにはなってるんです。けども、だから、なんか、これは私の感想でしかないんですけど、最近の子って何ていうのかな、欲がないっていうか、自分の人生をもっと豊かにしたいっていう欲がないのかなって。諦めてるのかなっていう気がして、そう思うとなんていうか、教師だけじゃなく、周りの大人って本当にこんなこういう人生になってしまうような、それでもいいって思ってしまうような若者、子どもたちを育ててるのって、すごく罪深いなって思うんですよね。だからそこなんか何とかできないのかなって、いつも思うんですけど、何だか先の二つの選挙を見ても、アメリカの選挙を見ても、なんかすごく暗い気持ちになってしまうんですけど。
 でも、高校の教師をしていて日々しんどいなと思うんですけどでも、たわいのない会話とかを生徒としてるとすごく楽しいです。それだけは楽しいです。そこが好きだなと思っています。最後にごめんなさい。一個だけくだらない点です。私さっき50代後半で大学に入って、そこから10年経って教員やってますって言いました40代です。40代後半で大学入ったので、今まだ60代ですすみません、70代ではございません!すいません!

中村:
 映画を見る前に、この4人で事前に1回ミーティングをした日があったんですね。そのとき林竹二先生の話をいろいろ、ああでもない、こうでもないと喋った後に、なぜか知らないんですが、西田敏行さんの『学校』っていう映画の話になって、もうすごい盛り上がったんですね。なんか、西田敏行の話で盛り上がって。その後にお亡くなりなったんですけども、その後、実は僕は生徒たちに「西田敏行って知ってる?」って聞いたら、半分ぐらいかな。
 なんかよくわかんないからみようよってことで、『学校Ⅱ』を授業で使って養護学校の話を見終わったところ。3回か4回ぐらい授業かかったんですけど、そのときに、永瀬正敏演じる若い先生が、やはりを苦労して生徒を何とか見つけて学校に戻ったときに、「本当に何を僕は教えたんだ、何を与えたんだろう」って、もうわかんなくなっちゃうんですよ。西田敏行が「いや、教えるとか与えるとかっていうんじゃなくて、生徒から僕らが学んだことを返すんだよ」っていう。もう、渋い言葉を言ってるシーンがあって。だから、もうさっきGさんが先ほど見せてるとか、教えるとかって言ってたんだけども、多分そうじゃないんじゃないかな。僕らが子どもたちをじっと観察して一緒に学んでいく中で、何かを僕らは学び取って一緒に学んでいく中で、学び取ったものをやっぱり返していって、一緒に育ってくっていう。多分そういうことなんだろう。
 そこでその時間がやっぱり今までなかったから、そういうふうになって、だからそれを回復するっていうことが多分これからの授業のテーマになるんじゃないかなって。僕は工業高校の定時制ですごく苦労してきたときに、やっぱ体験したので、西田敏行のあの言葉はすごくしみて何回見てもいいなと思ってます。ぜひフォーラムでリバイバル上映してもらえないかなって思っているんですよ。本当にやった。

渡部:
 僕は分校に勤めていたことがあるんですけど、そこは村の子が3分の1、あとは中学校時代に不登校だった子が3分の1、あとはグレーゾーンの障害があったり、学力といったらもうというところで、でもやっぱり、さっきGさんさんおっしゃったように、生徒の勉強がおもしろいなっていう目が輝く瞬間って、教師業を続けられるモチベーションなんすけど。
 ある世界の問題をつなげていくという教材を自分で作ったんですよ。そしたら、言葉なんか持てないような、運転免許も取れないような子たちが、先ほどの感想文にあったような「てにをは」も書けないけれど、なんとか自分たちでその世界の問題を言葉で繋いでいくということを、もう必死になってやるんですよね。だから、林竹二の本を読んでて本当に共感するのは、学力といっても、お勉強の学力と関係なく、何かをやって、作っていって、それって面白いよねと感じるいう力は、どこかみんなにあって、僕らの仕事ってはそれを探り出すしかないんじゃないかな。今の中村さんのお話聞いてて思い出しました。

林:
 皆さん今日は活発な議論をしていただきましてありがとうございました。また岩崎先生とそのお友達の先生たち、あと宮教大からいらっしゃってきました。ありがとうございました。皆さん教育現場でいろんな経験、悩みをされて、阿部さんも広い意味では教育的なそういう意味で言えば、一緒にこの企画して良かったなと。
 それでちょうどあの西田敏行さんの話も9月ぐらいだったと思うんですけども、『学校』っていう映画、たぶんこの4人は全員30回ぐらい見てるんじゃないかということです。やっぱり、何か学校とか、授業とかっていうもので、それで竹二さんが人間になるっていうのはどういうことなのかという。これは21世紀に入ってこんなに世の中が混沌とすると思わないときから、警鐘鳴らしてます。一人一人が深いところでじっくり黙って、ゆっくりとした考えを持てるような働きかけを生徒の一人になって一緒に作っていくっていうことが、こんだけ新しい世の中だとますます必要なんじゃないかなと思いますので、僕自身に言うと明日からまた一人の生徒に戻って、本当の学生たちと一緒に考えるように生活したいなというふうに思いました。また今日の話した記録など頑張ってまとめていただいて、貴重な貴重な記録になると思いますので、はい。また共有できるようにまとめたいと思います。どうも長い時間お疲れ様でした。ありがとうございました。

映画「林竹二の授業」を語る会・記録②

2024-12-08 | 教育


宮前:
 私は何度も林先生の授業も見てきました。そうですね、例えば、ある偉い先生は、これは大学の授業じゃないとかいう先生もいましたし、それから学校現場の先生はやっぱり教師主導の授業だねっていう話もされました。だから、確かにそういうふうに見えるんですけど。
 実は私のときの6年生の授業「人間について」というのは、まさに今日の4年生の「ビーバー」の授業と同じように、人間と動物はどういうところが違うんだろうねということを、先生は子どもたちに問いかけたんです。写真も1枚も持ってこないし、何の資料もなかった。今日の映画の授業を見たときにですね、林先生が何を一番大事にして、子どもたちに考えなくちゃいけないこととかね、あるいはどうしてそうなんだろうとか、その子どもたちの学びの根源にあるものを育てることをものすごく大事にされていることがわかった。だから、例えば湊川とか淀川とかいろいろなところで授業をやっているんですけど、普通の学校では学べないような子どもたちが、本気になって学べる。
 なぜそうなのか。それは、子どもたちに考えなくちゃとか、どうしてそうなんだろうとか、一人一人の子どもにね、まず疑問を持たせなくちゃっていうような授業作りに悪戦苦闘されたんですよ。だから、ものすごい資料を集めてやってるんですよ。つまり、一方的な問いかけのように見えるんですけれども、子どもたちが解決するための手がかりになるような問いかけをする。あるいは、子どもたちの今考えてることを聞き出しながら、周りの子どもたちにも問い返してみる。先ほど垂直的な学びと横に広がる水平的な学びを話されたんですけど、グループの中でやるものもあるんですよね。みんなで関わり合う学びの姿もどんな形でもやれると思うんですけど、林先生はそんな指導方法のノウハウなんかないんですよね。だからああいう形でやって、子どもたちに「考えなくちゃ、どうしてそうなんだろう」と考えさせて、それが全員ではないにしても、ああいう子どもたちの表情になってると思いますし、だから、あっという間の一時間だったとかね。先生の方を向ききりだったとか、あるいは宮前先生の授業のときよりも、すごくおもしろかったとか、楽しかったというようなことを書いてくれた。
 そういう意味ではね、私の学校でやったスタートのときの6年生の授業から比べると、今日の映画で見た林先生の授業っていうのは、雲泥の差があるんですよ。それは何かっていうと、まさにその子どもたちに活動するアクティブじゃなくて、心の中で解決するアクティブな学びをするための授業の組み立てに、ものすごく頑張ってこられたんだなということを改めて思いました。

参加者E:
  宮前先生の後にお話をするのはちょっと緊張するんですが、いろんなお話が出てきました。私の中でもまとまってるわけではないのですが、あの授業の映画を観て一つ思うのは、林先生の、特に「ビーバー」とそれから「カマラとアマラ」との授業は、子どもたちの心に刺さっていたなっていう気がします。結局、その「人間とは何か」っていう問いはすごく難しいんですけれども、子どもたち自身が聞かれて、子どもたちのレベルで答えられる授業だったと思うんですね。
 それと比べて、「開国」については、ちょっとやっぱり難しさが出てきたのは、特にあの授業の感想で、実は多かったのが「那覇にペリーが寄ったことが印象に残った」と答えていた子どもたちが非常に多かったんですが、実は林先生が「開国」についての二時間目で伝えたかったこと、鎖国じゃなくて、開国というのも実は大変なことだったんだと、それを次にあまり取り上げられていない阿部正弘と島津斉彬らっていう人がお膳立てをしたんだぞ、そこに素晴らしさっていうのはあったんだよねって、それがとても大変だったんです。素晴らしいことだったんだっていうことについて、感想を述べた中で、そこに言及した2人の女の子で、よく発言していた子と、ちょっと眠そうにしてんのかなと思ってたあのイガグリ頭の子が、実はすごく中身を捉えて、あの反応してたと思うんです。そういった意味で言うと、「開国」の授業はちょっと難しかったなという気がします。
 ただ、改めて林先生の授業の素晴らしさをどう考えるかというと、林先生はスタートで「ビーバー」を通して、今日は人間について考えるよ、「カマラとアマラ」を通して人間について考えるよという。「ビーバー」と、それから「カマラとアマラ」についての話は、一見関係なさそうにな話なんですが、子どもたちにとっては「ビーバー」の話はすごくわかりやすいわけですよね。そうすると、授業作りでいうところの教材っていう言葉になると思うんですよ。狙いに迫るための一つの素材として一つそれが提示されると、その教材についての林先生のその深さがとてつもないので、それを子ども向けにどう展開するかということにおいて、林先生の授業素晴らしいなと思っています。
 それから、主体的対話的深い学びっていう話なんですけど、実は県の学力対策会議の中でも発話をどういうふうに減らすかというのが課題であると、本庁の会議で出てきています。今日の林先生の授業は発話だらけなんで、そういう意味で考えると、まさに発話をどう減らすかということからすると、もうお話尽くめのことだったんですけれども、そのときの主体的っていう言葉がとても引っかかる。それをどう考えるかということになると思うんですけど、私も最初に林先生のあの本(『教育の再生をもとめて』)を読ませていただいたときにですね、主体的対話的じゃなくても、もっと問題解決学習だとか、子どもが予想立ててそれをどういうふうに追求していくっていうのが授業のスタイルだよってなっていた。
 この本をどう考えればいいのかというのはとても難しい話になるんですけどただ、主体的っていうのは、自分自身がどういうふうに学習をコントロールして、自分の学びを作っていくことを主体的と言うんですけど、あの子どもたちは主体的ではなかったのか。宮前先生の方からは問いをどう育てるかということがその核心なんだというお話あったんですけど、主体的っていうのはやっぱ強烈な自分から、これは何だろうっていう思いだと思うんですよね。それが「学習課題を作りましょう」と子どもたちで作った課題だから勉強しましょうというのは、形式的なものとしてそうなってしまう。でも、子ども自身が本当に追求したいっていうものとして、それが成立しているとするならば、多分目をそらさず黙って聞いていても、それは主体的な学びになるんじゃないかなという気がししました。
 今日の映画の中で、2回目だけ子どもたちのインタビューがあったんですけど、私はあの時、あのフィルムだけを見て子どもたちが主体的であったかどうかっていうのを判断するのは正直難しい部分もあるなと思うんです。でも、子どもの終わった後の感想にこそフィルムに表れてない子どもの、何て言うんですかね、思いというか、そういうものが多分表れているんじゃないかなと思います。

阿部:ちょっと今一つ思ったのは、その感想すらもやはり書かされると、もしかするとペルソナを被るじゃないですけど、演技をするじゃないですけど、そういうこともありうるのかなって思ったんですね。
 やっぱり、今回のなぜこれが映画になったのかっていうのは1977年、78年の世相もあると思うんですね。やっぱり林竹二が沖縄で授業をしたっていうことは、グループ現代の小泉修吉さんという戦後を代表する、ある意味でその社会性のすごい強い映像素材を作ってる会社の人ですから、久茂地で授業することに対しては、林竹二先生が相当準備をしたっていうふうに聞いてますし、他の小学校での授業実践を読む限りは、「開国」の授業の中でペリーが沖縄に寄ったっていう話をあまり入れてなかったなと思うんです。
なので、とりわけそこは映画として非常に映画的な場であるということでああいう風になったんだと思うし、当然カメラ4台が普段入らない教室に置かれたら、子どもたちもやっぱり演技をして一生懸命聞くっていうのがあったんで、この映画だけを見て林竹二の全部を知るってことはできないと、僕も最初からわきまえて入りました。ただ、あの映画を見てすごくやっぱ彼に興味を持ったのは、自分も授業や人前でその何か映画の話をするときに、必ずそのパワポってものを使って対応してしまうんですね。あれは非常に便利な電動紙芝居でして、あれを駆使すると、すごくなんかな付加価値が増すというか、見た目がいいんですけど、聞き終わってみると、なんか意外と残らないっていうか。
 むしろ何もなく、その先生が我々に向かってばあっと話をしてくれて、先生の表情を一心不乱に見ながら聞き終えた後の印象の方が、パワポを何百何十万も見せられて60分過ごすよりも、ある意味脳裏に残るなっていうふうに、やっぱり今回映画を見て改めてやっぱ思い起こしたんですね。
 そういう意味では、やっぱり論理を生徒に伝える上でパトスっていう情熱が必要なんだけど、でもそれだけじゃやっぱり駄目です。いわゆるその人間が持っている伝える教師の資質っていうか、オーラですね。そういう伝える力っていうか、それを誤解を恐れずに言えばカリスマ性というか、そういうものを持ってる先生が、もしその場に自分が立ち会ったんであれば、同じ話を別の教師に聞かされるより、林竹二に聞かされたときのインパクトの方が大きいってことはありうる。
だから例えばアジテーターってのは怖いとやっぱり思っていて、これを一つ間違えると自分のメンターとか教師、師匠がとてつもない悲劇になっちゃう。例えばケネディの演説なんか聞いてると引き込まれるけど、ヒトラーやトランプの演説聞いても引き込まれるわけで、そういう意味で師を選ぶって本当にすごく大切だなっていうのはやっぱり今回思いました。はい。

参加者F:
 50年間、教育の世界に身を置いて、一月末に辞めて、やっと今はもう自治会で若い人たちとか、じいちゃんばあちゃんとこれまでと全く違う生活をして、それはそれなりに楽しい状況になってます。
 40年前ぐらいですかね、最初にこの映画を見せていただいて、あのときと今日見たので、同じだなっていうのと違うなって思うものがあるし、あと経験によっても違う。やっぱり、皆さんに「何、そんなことなの」って言われそうなことの一つが、今日の映画制作した委員会の人たちって、男性ばっかりだったんだ。女性一人も入ってないんだなっていうのを感じるような時代なんだなって私は思う。皆さんはどうですかね。ですから、もう時代が変わってきてるので見方考え方もすごく変わってきてるのかな。
 でも、私が見て、40年前に見たのと、今日見たので、全く同じものが一つだけ間違いなくあるなって思ったものがあった。それは、さっき阿部さんがおっしゃってる話を聞いていて、そろそろお話しなくちゃって思ったんです。例えばですよ、とても貴重で高価な食材を準備していれば、本当に誰からも素晴らしい料理だねって思われる料理ってできるのかな。あるいは、新鮮な食材を使ったからって、マニュアルもちゃんとレシピもあって、だったら作れるのかな。これを学校に置き換えれば、先ほどお話あったように教材はしっかりしたものがある。それに対して、いわゆる学びの過程と言われる学習過程もしっかりと佐藤学先生に作ってもらったとか、これでやれば誰だっていい授業になるよねって、思ってる人なんて教師の中に一人もいないじゃないですか。誰もいないんですよ。私はでも、今言ったことが、林竹二先生の授業は私から見ると、すごいことだなと思ってるんですね。ちょっと私事で恐縮ですけれども、二本松には23の小・中学校あるんですけれども、ちょっと前まで時間があるとしょっちゅう学校に行っていた。子どもと先生の姿を見に来てるんだといっていた。だから、授業も30分、あるいは5分でも十分。
 そこで何を見てるのかなというのと、今日の林先生の私の見方は同じなんですよね。林竹二先生の子どもたちに対する真摯なあの接し方という話題がここで出てこないと、本当の林先生のことは理解できないのかな。私はそのことがあるから余計自分がへこむんですよね。いつも彼を見ると、立派なことを人前で話してる割には大した人間じゃねよな俺はな、と思っちゃうんですよ。林先生のああいう姿があるからこそというか、詳しくは皆さんの方が知ってるのかもしれないけど、林先生がなんであの学校を選んでるのか。高等学校についても、(林先生が選んだのは)ちょっと言葉悪く言えば、学力がない、勉強できない子の高校だよね。確かに福島県だって今、私も高校に勤めいてましたけど、7割近くが生徒指導困難校じゃないですか。進学校なんて3割ぐらいじゃないですか。どこも厳しいですよ。私も厳しい学校にいました。でも、そういう厳しい子どもは、もしかするとある意味、概念的なものがすり込まれてない。だから、本当にこの人って信用できるなっていう人の話をしっかりと受け止めて考えることができる学校を林先生は選んでたのかなって、私は思ってしまうんですね。小学生はもとよりそういうところは素直だから、林先生の、あの、何て言うんですかね接し方を見てたら、子どもたちって本当に違和感がないんじゃないですかね。
 怖い人だなとか、上からばっかり見てる人だなとか、嫌だなと思わない。だから、23の学校回ったときも、それパッと見るとわかっちゃうんですよね。その先生と子どもとの関係っていうか、先生の凄さっていうか。それをやっぱり今ここできちんとみんなで話し合っていくってことが大事だと思う。だから、さっきの阿部さんの最後の言葉と私聞いて、そうなんだよな、学校の先生ってそれを除いて喋るんだよな、スキルの部分だけで喋るからいつまで経っても何にも変わらないと思ったんです。 やっぱり、先生って憧れられなくちゃなんないよね。そういう先生が今いなくなってきている中で、実は各学校にいるんですよね、そういう先生。そういう先生を見られないわけ。そこら辺に私は問題があるのかなと思いながら話聞いてました。

阿部:
 すみません、自分ばっかり喋って申し訳ないんすけど、本当に僕、生徒の側から発言できると思うんで、市民の方が思い出したら発言してほしいんですけど、僕はその林竹二のような「この先生は一生忘れないぞ」っていう先生に一人も出会ってないんですよ。福島を出るまで本当に先生なんてつまらない人たちばっかりだなって思ってたし、全く影響を受けたことないんですよ。
 それが初めて影響を受けたのは、やっぱり大学に行ってから大学の先生だったんですね。やっぱり進学校じゃないとそういう先生に巡り合いなのかな、ぐらいにずっと思い込んでたんですけど。でもね、やっぱり何かそういう先生に、小中高の段階でもし巡り会えてたら、自分の人生もちょっと変わってたんじゃないかなとかって思うし、そういう意味ではこの子どもたちがどういうふうに受け止めたかわからないんですけど、林竹二のあの表情ややり取りのコミュニケーションを見ていると、ああいう瞬間って自分にはほとんどなかったな。非常にそういう意味でも羨ましく思って、だから渡部さんとか中村さんとかと出会えたら、自分が生徒だったら、多分もっと自分ももっと違うましな人生を歩んでいたんじゃないかななんて思ってます。

中村:
 さきほど宮前さんが、生徒に問いを与えて、そしてそれを育てることでそれを自分で解決したり、答え求めていくってことを林健さんは求めてたんじゃないか、っていうことをおっしゃって、僕もやっぱりそこの問いを問題意識って僕なんかよく言ってたんです。高校生なんで、そういう問題意識をどういうふうに育てていくかそのためにどう学んでいくかっていうそこがやっぱ一番の課題だなというふうに考えて授業を展開しているつもりです。その話を聞いたときに、今はもうやらなくなっちゃったんですけども、高校3年生の最後に森鴎外の舞姫っていう小説を読んで、大体いつも定期テストっていうのは、ここでこれはどうだったかあったかあなたはどう考えましたかっていうふうに聞くんですけれども、僕は意地悪で、最初にこれ全部一緒に読むから、その中で自分でこれが一番大事だなと思ったところに線を引いて、自分でそこに問題を立てて、そして自分で答えを書いてきなさいという問題を出すんです。問題を作れ、そして答えを自分なりに書きなさい。そうするとね、やっぱりそうやってそういうふうに声かけてテキストを読むと、やっぱりすごく読みますね。
 だから、なんていうのかな、そのテキストを一緒にやっぱり読んでいくっていうことを映画の中で、特に「開国」の中で、大名が相談して云々っていうところにこだわった授業に一時間かけてましたよね。あれができるっていうのはすごいと思いますし、見た目は動いてないように見えても、すごく頭の中で、身体全体で動いてたっていうのが、表情になって表れてたということが、やっぱりアクティブ・ラーニングの本質なんじゃないかなと思います。
 僕はアクティブ・ラーニングの「アクティブ」というところが好きじゃなくて、本当は欧米ではオートノマス・ラナーっていうらしいですね。オートノマスというのは自治であって、自分で自主的にその根をどう育てるのかというのが本当の教育なんだと言われてるっていう。僕はアクティブっていってる限り、多分本当の意味でのアクティブにならないんじゃないかなっていうことを林竹二さんに改めて今日教わったなっていうことを感じます。すごく大きな絵を描いた授業。大きなピクチャーが「開国」っていう、あの一行の中に一行の中にいろんな人たちが動いているってことを、それを提示してるっていうのはやっぱりすごいスケールが大きいなっていうことをやっぱ感じますね。
 ですので、ちょっとこれは勘ぐり過ぎなのかもしれないんですけども、「カマラとアマラ」の方でも、最後に理性っていうことで、これもすごくやっぱりすごいスケールの大きなあの言葉が出てきましたし、そこには何かやっぱり沖縄でやってる授業だということもあるのは、やっぱり戦前の日本が過ちを冒してきた反省というのがすごくあったのではないかなと、勝手に想像しながら、やっぱりそういう点では今にも通じる作品というか、問いかけというのがあの映画の中にはあったなということを感じています。当たってるかわかんないんですが、はい、そんな印象を持ちました。

参加者G:
 いろんなことを言いたいことがたくさんあるので、うまく話せるかどうかわからないですけど、私は50代後半になってから大学に入り直して、まだ教員免許を取って10年にしかならなくて、今は高校の英語の非常勤講師をしています。高校は7年目で、その前も私立高校や、あと京都の小学校でちょっと教えてくださいと言われてやったことがあります。なので、教員の経験はすごく浅いんです。今日、私がここに来た目的は主に皆さんにどうすればいいのか相談に乗ってほしい、っていうか解決策を聞きたいなと思ってきたんです。けれども、林竹二先生のことは「は」の字も知らなかったです。
 私は関西出身なので、育ちもアメリカなので、先生のことはほとんど知らなくて、今日昨日、開国を初めて見た最初の映画を見て、真っ先に思ったのはこんなクラスだったら楽だろうなって思いました。もうお行儀がいいですし、目が輝いてるし、ちゃんと礼儀作法できいて、きっちり座り寝てる子は一人もいませんよね。あくびしてる子は今日の映画ではいましたけど、もう本当にもうキラキラして、じっと先生の目を見て、話をじっと聞いてるっていうのが本当に羨ましくて。私が今教えてる高校1年生のクラスは男子36人で、全員バスケットボール部です。けども、もうね、寝てる。最初っから最後までね。いくら起こしても起きません。あと、お喋り。私が文法を教えていても、お喋りをずっと続けて、いくら注意しても、何回注意してもやめません。もう、注意して、その瞬間は収まるんですけど、その次の瞬間また喋り始めてるんですね。あと2年生3年生も持ってるんですが、そこまでひどくはないんですが、反応がないんですよ。何を問いかけても反応がないです。こういう生徒に、今のその今日見た映画「開国」を、林竹二先生のあの授業をしたらどうなるのかなって、もうぜひやっていただきたいと思います。
 だから、何て言うんでしょう。もちろん林先生のね、今までの先生方が素晴らしい教授法についていろいろ分析し、お話しされてましたけども、あの授業を今の子たちの前でしたらどうなるのかなって、私も林先生のように一つの題材を詳しく話したり、英語の授業でも私は今のイスラエルとガザの戦争の話とか、ちょうど教科書の単元が『アンネの日記』なんですけど、『アンネの日記』なので、イスラエルとガザの戦争に繋げて、こうなんだよって歴史を話したり、ドキュメンタリーを見せたりしました。中には寝ずにちゃんと聞いてる子も二、三人はいましたけれども、ほとんどの子は興味持たないんです。だから、どうすればこういう子たちに、林先生のような語り口のペースで、もうパワポも何もないからいいのかもしれないんですけども、どうすればいい?今の子たちにあの授業をすればいいのか。その、主体的に考える、主体的に考えさせる授業ができるのかっていうのは、ぜひもうベテランの先生方に教えていただきたいですね。

阿部:僕もすごくそこを聞きたいところです。

参加者A:
 皆さんのお話を非常に興味深く聞いております。私もですね、アクティブ・ラーニングが絶対これしかないなというふうには全然思っておりませんし、主体的で対話的な深い学びっていうのは、本質はどこなんだろうっていうのは非常に大事な問いだと思っています。今日の映画の中にそのヒントっていいますか、本質がたくさん現れていたというのは感じています。
先ほどそちらの大学の先生がおっしゃった中で、実は、林先生みたいなレベルにはいかないにしても、ああいう授業ができる力のある教員っていうのは、結構いると思うんですね。今の現代の小学校の中にも中学校の中にもいると思うんですけれども、先生方のその力を発揮できないような、現場の空気感っていうんですかね、やっぱり今日のような授業も、今の先生がやったらば、いや「今の授業最高だったよ」って褒めてくれるのは難しいと思うんですね。
 文科省から降りてきてる指導法っていうのは、あの教師主導の形ではないので、難しいと思います。なので、やはり必ずしもアクティブ・ラーニングだったり、対話だったりっていうことが正解ではないと思いながらも、それをやらないと怒られるというか、認められないというような画一的な指導法の推進というあたり、体制批判するわけではないんですが、そういうのはやっぱりよくないのかな。それぞれ先生方のスタイルがあって、その先生方の味があって、それを自信を持って発揮できるような現場にもっとしていかないといけないのかなっていうふうには思います。もちろん、リスクもありますし、どんなスタイルだってそのスタイルの中のピンと切りはあると思いますから、全てがいいと思いませんけれども、やっぱり先生方は自信なくしている感じがあるんだよね。もっと思い切って、自分を活かせる指導法を現場で発揮できる、そういう現場を追求していく必要があるのかなっていうふうには感じました。

阿部:
 生徒が話を聞き、授業に突入してくれないっていう、そんな事例を皆さん抱えてらっしゃると思うんで、そこ戦って、教員をされてるんですか?聞きたいんですけど。

参加者I:
 教員してなくていつもサッカーの応援ばっかりしてて、ワイワイ騒いでる感じだけなので今日の映画見てたら、いや、俺だったらキャーとか言って立ち上がって騒ぐなって思いました。暴れて対決したいなって思いました。そんな理性とかバカ言ってんなよ、みたいなね。僕は、だから個人的には、全然どっちにも当てはまらないっていうか、ふざけんなって思いました。ただ、極めて時代的で、もちろん、アクティブ・ラーニングは糞ですよ。あんな(林竹二の)講義も糞ですよ。そんなのね、だって、出会って深まっていくわけじゃないですか。出会うのは水平で、深まるのは垂直でしょって分けて考えるのは沙汰の限りですよ。
 だから、そういうものがカリスマ性になるっていうんならしょうがないけど、カリスマって大したもんでもない。教員がカリスマって、過ちを犯すに決まってるじゃないすか。林竹二も過ちを犯し切ってると思います。ただ、瞬間瞬間に、やっぱり僕はそこで沖縄だよねっつったのは、20年30年経ってから、子どもたちの中で時限爆弾として、もう発火するっていう可能性があると思って聞いてました。でも、それは発火しないかもしれない。だから、そういうところが随所にあるわけですよね。僕、寝てたので、あんまり何かわかってなかったかもしれないけど、様々にいろいろな、つまり文明装置っていうのと文化装置っていうのと、その軍事的な問題とか、あの授業を聞いて大人になってから、めっちゃいろいろなフックがかかってるって思うんですよね。あのキラキラした目で見てるのも無理ですよ。そんなね、そんなものはなくていいと思うけれども、あのフックを命がけでかけてるっていうのは、授業としては沙汰の限りだと僕は思いますし、授業者としてもあんな授業やったらそわそわして、もう耐えられない。
 僕だったらあの3倍発話をして、生徒に嫌がられるような授業をしちゃいますけど、でもそれは俺のスタイルだからしょうがないので、その中で2人ぐらい釣りあげたら勝ちって、僕はいつもそういう授業しかしてないこなかったので、もう批判非難ごうごうだ ったですけど、でも、その2人が俺の授業守ってくれたっていうか、そういう経験はしてきました。弟子はいます。だから少数の弟子はいます。それができない奴はやめた方がいいですよ。でも40人相手にやったらカリスマでやばいですよ。だから、その割合だし、今日はみんなのためにやろうとか、今日は一人のためにやろうとか、そういうふうに動くもんだと思いますけどね。全然、何か感想でした。はい、半分寝てたので、ずっとその程度に、だからふざけんなと思って聞いていただければ結構です、はい。

参加者J:
 今の2人でもいいから釣り上げられたらいいっていう話、僕もそれでいいと思います。Gさんへの答えになるかどうかわかんないんだけどバスケットの生徒が多そうだから、全然教材をね、伏せてバスケの別の教材っていうか、何か持っていって。うん。食いついてきそうなものをやったらどうなのかなと思いながら聞いてました。
 あのやれるかやれるかどうかっていうかね、そういうのできないって言ってるけど、僕は全く教師のなり外れっていうか、もう棒にも箸にも引っかからないうちに大学出ちゃった組なんですが、ちょうどその頃、林竹二さんの授業ってこれじゃなかったら授業じゃないよなっていうのを、この本から学んだ。要するに授業が成立するかしないかっていう問題で、成立さえすれば、小学生であろうが大学生であろうが、あの子どもからでも、主体性っていうのは目覚めて、そこからどんどん自分で広げていくことができるようになるだろう。今日の林さんがカリスマがどうっていうよりも、子どもたちにとって何であったかっていうと、非日常経験であったと思うんですよ。だから、普段はもうみんな、またその話かとか聞き飽きたような題材しか出てこないっていうような中で、何か刺激を得られないでいるわけだから、月に一遍ぐらい皆さんの現役の方たちが、非日常的な爆弾を落とすのはちょっとどうかなと思うけども、何か仕掛けてね、何年後かに、それが「あのときおもしろいこと言ったな」って思い出すような、そんな風にしてもらえたらいいのかなって。
僕はもう、これだけの人たちが、今、授業っていうものについて話し合うっていうことに可能性があるわけですから、何もしなかったものが頑張ってほしいなんて言えた口じゃないんですけれども、本当に教育については、今でも考え続ける。子どもたちについては、折に触れて、伝えていきたいものは自分なりに小さいようなと思ってところです。

参加者K:
 皆さんのお話を受けて深めて、私、話すってできないので、浅いところ戻っちゃうかもしれないんですけれども、本当に50年前ぐらいの今日、今日の映画は授業だったかなと思うんですけど、教員にとっては本当に天国のような子どもたちの態度だと思うんですね。私が50数年前の今日の子どもたちの年齢だったので、話を聞けっていう指導がすごい時代だったんですね。朝の会でも、教室では先生方全員が、とにかく授業者の話を聞けって、集中して純粋な気持ちで新しい目で聞けみたいなのがすごかったので、うん。それはそれでやっぱり素晴らしいことだったんじゃないかなって思います。
 今、学校でパートタイムジョブで教えているんですけど、毎日本当に話聞けっていうことで戦ってるし、毎回あのがっかりするなっていう感じです。ていうのは、学校の中でそういう文化がもうなくなっているので、私だけが「話を聞きなさいよ」みたいな強い指導をするんで、子どもたちもちょっと反発するし、何か他の先生方に言ってもあんまり通じないっていう古いタイプなんですね。でも、たまにすごく関心を持って触れて目がキラキラってする瞬間があるので、それを糧にやってるかなっていう感じです。多分ちょっと希望的観測ですけれども、何かそのときの授業が将来的にその子どもに残ってくれるかなって思えるようなときがあるかなと思います。
話が別なんですけれども、単純なお話になっちゃうんですけど、先ほど阿部さんがおっしゃった、宮前先生のところに林先生が来たときの授業で、何も写真も何もなかったとおっしゃってましたよね。阿部さんが、何でしたっけ、パソコンを使っての資料を見せないでやった方がいいんじゃないかっていうことをおっしゃったときに、その林先生も、もしかしたら本当に紙・写真も何もなく、子どもたちにストレートに語りかけて、そこで人間とは何かっていうのを一人一人の子どもが語りかけて、もっと子どもたちに発言させてほしかったなって思いました。そういうふうな授業をやってみた方がストレートに今の子どもたちにも届いて、いろんな考えが出てきて、深まっていくのか、将来的に何かの種として残るのかなって思いました。
 林先生は、やっぱり自分の意図した答えの返ってくるものを受け取って進めてるかなっていう感じがしたので、その高みまで目指さなくても、そうやってストレートに問題をぶつけて子どもたちのレベルがいろいろであっても、もっと表に出してくれたら、もうちょっと良かったかなっていうふうな感想を正直に持ちました。

参加者B:
 私、福島大学で大学院生を指導したときの話をしたいと思うんですが、教職大学院で先生やってて、そして大学に来て大学院の授業を受けてる学生なんですよね。悩みはですね、子どもが話聞いてくれない。子どもの授業が成り立たないっていうところから始まってですね、修士論文のテーマは何かご紹介したいと思うんですけど、今日は林先生の話がずっと流れていて、子どもの表情ということで、今はですねソフトがありまして、先生の表情と投げかけと子どもたち子どもの表情と、一つの画面にドッキングできるんですね。うん。
 ですから、今、先生はどういう表情で何を語って、何を訴えてるのかっていうリアルなタイムと子どもたちがそれを答えるっていうところは、いったどういうきっかけでどうなってるのかっていうところですね。結論を言いますと、修士論文は不備だったということでした。私と大学院生のやり取りの中で。というのは、今日(の映画)はですね、カメラアングルが緊張してる子供たちの表情ばっかり撮ってましたよね。その大学院生は表情とその意図した質問に答えている、うなずいたり答えている子どもたちのことだけは撮るんですけど、他の子どもたちの様子はとってないんですよね。ですから、3画面でやったらどうか。教師とそれから受け答えしている子と、あと全体を俯瞰したものと組み合わせて、もっとおもしろいものができるんじゃないかというような話が一つの結論でありました。自信を持ったのですね。先生、熱量ですよ。訴えかける。必ず聞いてる子がいるんですよ。こうやって俯瞰して見るとうなずいたり、そうだなと思ってる子がいるんですよ。脚光を浴びないけど、教室の隅にいるはずですよ。先生(Gさん)、諦めないでください。必ず聞いてる子がいます。
 そしてもう一つ、笑い話のような結論はちびまる子ちゃんの先生の言葉でやると授業をやると、子どもはすごく嬉しくて、聞いてくれる。あの人はこちらに出てくる先生、すごく丁寧なんですよね。どんな子にも言葉は、親しくてもそうですね。ちびまる子ちゃん、いい言葉でしたね、こんな感じですよね。真摯な熱情を持って子どもたちにかけると必ず1人か2人お話が出ましたけど、必ずいるんですね。その後にいるだけで、また頑張る力が出ると思います。

渡部:
今のお話なんですけど、僕は、やっぱりそこはブラックボックスでないと駄目じゃないかなって思ってるんですね。つまりその表情がどう反応したとか、それを評価はしないまでも、それは内的な活動とその表情的なものを結びつけることは、たとえ授業観察でも、それは僕はなんか違和感以上のものを覚えます。アクティブ・ラーニングっていうのは本来、見えないところにアクティブさがあるし、それが基本だと思うんですよね。それを何でもかんでも見える化しようにすると、それはどこか監視とか管理とか、そういうことに繋がらないだろうかって、僕は今のお話で伺って聞いた感じたんですけどもいかがですかね。

参加者B:
 その話の中で出てきたのは、結局そういう表情が明るかったり、受け答えのある子にどうしてもカメラがいってしまう。ここがやっぱ問題だというのが一つの問題点でした。つまり、教師の答えにうまく乗ってくれる行為だけを取り上げる。そうでなくて、教室って40人なら40人の子どもがいて成立してるんだというところに目を向けないと、深みのある授業を目指すときにはうまくいかないんじゃないかなっていうのが一つの話でしたですね。

参加者I:
 頷いてるやつは「赤べこ」って言って、話はわかってないっていうのが教員の常識です。すげえ熱心にこっち見て「赤べこ」してくれたのに、全然文脈取れないか、何聞いてるのかって思いますよ。だから、その内面と外面のそこが大事なんですよ。僕だから食ってやってるような奴、そんな客かもしれない。本当に嫌かもしれないんですよ。こんなわからんブラックボックスっていうのも、ちょっとやだなって思うね。嫌だなと思うんですけど、そこに踏み込んじゃったら、内面を見るっていう可視化してるってこと。もちろん、そりゃそうですよね。それはだからわからないし、ずれたりいろいろあるよねっていう話ですよ。感想を書かしたら、無表情のように見えた子が、そうそうそうこんなこと考えてたのかってそうなんだからあれが僕の経験そうすると、ちょっと寝てるやつの方がちゃんと食べないかんそうめんとか考えたこと、赤べこは意外と感想ありきたりだそうそれなんですよ。なんじゃこりゃっていうその辺は非常に難しいというか、簡単には言えない。生徒の感想はありましたよね。

参加者:
 素晴らしい生徒たちが聞いてるなと思いながらずっと見てたんだけれど、でも、感想を聞いたら、中には、いや、緊張して何の話だったか覚えていないって言ってる子も一人いたし。なんだか質問してもちゃんと答えられないし、マイク向けたら逃げる子もいたし、けっこうちゃんと聞いてなかったのかなとか思って、ちょっと安心したんですよ。なんでこんな怖い顔して私の方見てるんだろうって、すごい緊張してる学生が一番感謝の言葉を述べてくれたとか。なんか、そういう経験はたくさんあるので表情だけではわからないんですね。あと、私、子どもたちの感想ですごく感心したのは、あの小柄な男の子が、小さなことをいくつも結びつけて大きなことがわかったっていうようなことを言っていて、なんて優秀な感性の豊かな子どもだろうと思って。ああいう子が1人でもいたら、なんか本当に教師冥利に尽きるなっていうのがすごい印象に残りました。

参加者D:
 全体的に女の子が元気なのも印象に残って、さっきのお話に出た、撮影したりとかスタッフは男の人ばっかりだったけど、ちょうど70年ぐらいだと女の子たちが元気になり始めて、あの人たちが今社会でいろんなことをしてるんだろうななんていうのも想像しながら映画を思い出しました。あと、皆さんのお話を聞いて、元気が出ました。というのは、200人のアンケートに8人変なのが入ってた私から見れば変なのがあったとしても、その他はちゃんとわかっていてくれたりとか、問題意識を持ってこういうことを調べてみようと思うとか決意表明はあんまり書くなとか言ってるんですけれども、こういうことに興味を持ったっていうようなのがあるのでそっちだけ見てようかなって思って乗り切ろうと思いました。

映画「林竹二の授業」を語る会・記録①

2024-12-08 | 教育

映画「林竹二の授業」を語る会@如春荘 2024年11月25 日(140mins)
◎「林竹二の授業」上映実行委員
【阿部】 阿部泰宏(フォーラム福島支配人) 
【中村】 中村 晋(高校国語科教諭)
【林】   林 薫平(福島大学食農学類准教授)
【渡部】 渡部 純(高校公民科教諭)
◎ゲスト 
【宮前】 宮前 貢(みやさき みつぐ)

※以下、発言された参加者はアルファベッドで表記した。プライバシーにかかわる発言は部分的に割愛した。聞き取りにくい部分や意味が取りにくい部分は適宜加筆修正を施した。

阿部:
 以前、今回の(林竹二の授業記録映画「ビーバー」、「カマラとアマラ」、「開国」)3本を上映したんですけども、あのときの反響というのがすごく、自分の中で印象に残っておりました。見終わった後に劇場内のロビーあちこちに島ができて、見終わったお客さんたちが激論を交わしてる光景があったんです。ちょっと耳を傾けてみますと皆さん、多分学校の教員の方らしくて、「今のどう思う?」みたいな感じであちこちでこういう議論が起きてるんですね。あれはすごく自分の中で印象的で、やはりあの公開されるべき映画だなと思ったんです。そこから僕も林竹二を読むようにはなったんですけど、自分は全然門外漢ですので。
 あれから30年経って、自分ももうそろそろキャリアの終わりに来てる。今思うのは、70年代80年代とか、あの辺りのサブカルチャーも含めた文化文物っていうものが、今マーケットになりつつあるんですね。果たして、あの時代のいろんな物言いとか、あとはそういったカルチャーとか、芸術も、あらゆるものが、果たして今この現代に本当にどこまでアクチュアルなのだろうかっていうのがあって、今古い映画をちょこちょこスポット当てていきたいなって思ってる中で、今日はこの林竹二の授業をやってみようと企画したわけなんです。忌憚のない意見の交換ができたらいいなというふうに思ってます。
前置き長くなってしまったんですけど、今日はどうもよろしくお願いします。はい。今渡部さんがおっしゃったように、我々4人で企画したんですけどちょっと中村さんから一言お願いします。

中村:
  実行委員の一人として名前が挙がってました中村です。普段は、そこの森合の工業高校に勤めてまして定時制の方で学んでいます。学んでるというか教えています。教えながら学ぶという感じなんですけども、阿部さんにこういう映画があるんだけどもってきた言われたときに、私も定時制の方で長く教えてるというか、震災前に一回同じ学校でやってましてその頃はかなり荒れてていて、生徒も大変だったんですけども、そのときに、あの林竹二の本 を読んで学ぶことを教えることとは一体何なのかってことを非常に考えさせられた。それがやっぱりずっと残ってましたので、その話を聞いたときにはぜひ映像の中でもいいので、その肉声を聞いてみたい。そんなことで協力できればなと思って、今回実行委員をさせていただきました。本当に今日学ぶことが多いかなと思いますので、いろんな話し合いができればなと思いますよろしくお願いします。

林:
  皆さん、こんにちは。福島大で農業、林業を教えています林と申します。私もこのフォーラム福島から如春荘で深く語り合いながらテーマを味わうカフェロゴさんに繋げてもらい、前回の『越後奥三面』(姫野忠義監督)という民俗学の作品を語る会のときから一緒に参加させてもらってます。
 私は農業の歴史や農村の歴史などを勉強してる中で、田中正造さんのことを研究してるうちに、その田中正造研究の中ですごく個性的な議論の仕方をしている林竹二さんを知り、若い頃から一方的にどういう方なんだろうかと思って本を読んできました。今日いくつか資料を持ってきました。
 林先生っていうのは、最初は東北大学で哲学を教えながら、教育行政に対して少し批判的なスタンスをとって議論をしていくようなお仕事をされて、その後一つの転換点を迎える。それが宮城教育大移った後ですね。全国の小学校とか、定時制高校などで授業をしてまわる第二の人生で、さらに僕自身の感じ方からするとその中でも前半と後半があって、前半は小学校が多いです。後で宮前先生にお話しいただきますが、郡山の白石小学校を始めとして小学校での出前講義始めて、そのまた後半に湊川と出会うということが起こるわけです。そこからいわば、社会の中ですごく取り残された世界ででも、授業の仕方によっては、その青年たちの生き生きとした表情を引き出せるという。これが林先生が最後にたどり着いたところだったなと思います。そのときに、ようやく林先生は田中正造研究をまとめる踏ん切りがついたんですよ。それまでの断片的な考察や色んな雑誌に書いていた短文を、湊川に出会ったときに、田中正造のこともわかったという逆の現象が起こると、私自身は思ってます。
 ですので、今日のテーマである学校で授業をしていくということと、竹二先生の田中正造を終生追い求めたということが林先生の中では、裏表で繋がってたということですね。皆さんの「人間について」の授業を見た感想などを共有しながら、私自身も勉強させてもらいたいと思ってます。はい、よろしくお願いします。

渡部:
 渡部です。普段は福島市内の高校で社会科(公民科)の教員をやっています。実は、薫平さんがおっしゃっていた湊川の授業実践の本(『教育の再生をもとめて』・筑摩書房)というのは、僕が学生時代にずっと読んでいた本です。僕は教員養成学部出身ですが、割と教員養成学部だと林竹二の実践は当たり前に知っている話なんです。特に僕の6歳ぐらい上の先輩が田中正造を研究していて、林竹二の授業を熱く語る人がいました。でも、その熱さがいまいちよくわからないというのがずっと印象に残ってました。
 今回の映画上映の話は、中村さんと阿部さんの間で出たのですが、その時期に、実は僕、若干鬱気味だったんです。僕はいわゆる進学校というところに勤め始めて6年目なんですね。それまでは実業系の高校をまわって、やんちゃな生徒たちを追っかけまわしたりしていたんですが、でも、授業だけは唯一救いでした。生徒の反応があって楽しかったんです。ところが、いわゆる進学校に来てみたら、もう2、3ヶ月で円形脱毛症になってしまいました。というのは、詰め込み教育と課外、課題のオンパレードで、国公立にとにかく100人以上いれるとか、そんな僕が高校生の頃に言われていた昭和の価値観の教育が令和の時代になってもまだやっていることに我慢がならなくて、精神的に追い詰められて円形脱毛症になったんです。それでも、まぁなんとか耐えながら5年間やってきたんですけれども、とうとうですね、この春にもうやってられない思いになっていた。そんな時に、ふと本棚にあった、この『教育の再生をもとめて』を手にしたときに救われたんです。
 その一部が今日お渡しした資料にありますが、この中の9ページに4行目あたりに「教師は子どもたちの不幸に対して自分に加害責任のあることほとんど気づいていない」とあります。僕は、よく課外授業の「課外」を「加害」と読み替えて言うのですが、それを職場で共有できる人がいなかった。まぁ、去年あたりからちょっとずつ仲間は増えてきてはいるんですが。そんな絶望していたときに、林竹二に再び出会った。そのときに阿部さんと中村さんが上映会をしようという話がドンピシャリにあって、そこに薫平さんが加わって上映会をしようとことになったわけです。
 薫平さんもおっしゃった湊川での授業実践というのは、底辺の高校生たちにも授業が通じるんだっていうことに意義があったかと思うんですが、それが一周まわって今、進学校と言われるところの子どもたちや教員にこそ、こういう話が必要だなと思っています。ただ、今日はあの映画を見てですね、自分の中でいろいろ問題含みの授業だなという感想をもった部分もありますので、そういった話を皆さんと共有できればいいかなと思っています。よろしくお願いします。

阿部:
 はい。基本的には皆さんも自由にも発言していただくような形をとっていきたいなと思ってるんですけど、ちょっとその前にご紹介したい方がいます。実は林竹二が初めて退官後に小学校で授業をされるにあたってスタートになったのが、福島県郡山市にある白岩小学校っていうところなんですね。薫平さんがそこにちょっと関心をもって、その白岩小学校で林竹二を呼んだ元教員の方をいろいろ調べていただいたところ、そのとき林竹二の愛弟子だったという宮前貢さんに今日来ていただいています。薫平さんからちょっとご紹介していただいていいですか。

林:
 本によれば、郡山市の白岩小学校での授業は1971年2月です。林先生は自分が大学院で教えていた宮前という先生が、若い先生として働いてるところだから、そこにまず行ってみたということを書かれてましたので、郡山の教育委員会に連絡とって、この人まだ生きてますかと聞いてみました。宮前先生は、最後は金透小学校の校長先生までされた方なんですけど、まだご健在でしょうかっていうことを聞いたら、生きてるも何もご健在で、なおかつ退職後に福島大学で教授やってるじゃないですか、あなたのとこにいるじゃないですかって言われました。その後、阿部さんと一緒に宮前先生のところにお会いしにいったところ、今日の映画鑑賞とこちらの哲学カフェにもご参加いただけることになりました。
 宮前先生は1970年度、71年度に白岩小学校小学校の6年生の担任の先生をされていました。だから、林竹二先生が宮教大に行った最初の時期ですね。70年代だから、林竹二先生としては東北大時代の仕事が一段落して、少し動けるような状況になっていた。多分大学紛争でバリケードをしたっていうハードな時期が少し落ち着いた頃だったのかなと思うんですけど、宮前先生に当時のそのクラスの様子と、後に活字になって有名になりましたけども、生徒たちの全員分の感想文の現物をまだ保存していらっしゃいましたので、そのようなエピソードを含めて今日共有していただけるということになり、二本松から遠路お越しいただきました。

宮前貢:
 どうも皆さんこんにちは。いつの間にか83歳になってました。実は私、東北大学大学院で林竹二先生のご指導をいただいて、それで小学校の先生になりたいと、福島県の石川町立山形小学校という小さな小学校に赴任しました。その後、郡山市立白岩小に勤めて、5年生と6年生を受け持っていて、6年生のときに林先生が「君のところにぜひ行って授業やりたい」という話をくださった。私としては大変驚いたし、「君が小学校の先生になるってことだから、ぜひ学校に行って応援したいんだ」という思いが林先生にはあって、あの白岩小学校に来てくださったんですね。
 実は、今日の映画を見に見て、子どもが書いた感想文の中に、こういう感想があったのを思い出しました。ちょっと読みますね。「林先生との一時間は宮前先生とちがって、目も先生の方を向きっきりで意見もズバズバと思い浮かぶし、喋るときはあるけど、宮前先生のときとは大違いです」。この感想のように本当にね、私と林先生の授業との違いをズバズバ言います。それで、今日の授業を見たときに、子どもたちが本気になって林先生の問いかけに対応して頑張ってる姿を改めて見せていただいて、そうなんだよな、これが林先生の授業なんだよなってことを改めて思い、いろいろお話したいことがあります。
 後でお話したいと思うんですけれど、こういう企画に、これだけの先生方が集まってくださっているということは、私はすごいことだと思ってます。小中高校の先生、先輩の先生とご一緒してね、林先生の授業からいろいろ学びたい、あるいは学んだことはこういうことだ、これからやっぱりこうあるべきじゃないかっていうような話がね、できればすごく素晴らしい会議になるなと思います。どうぞよろしくお願いします。

阿部:
 はい。ありがとうございます。どなたから発言されたい方いらしたら、挙手いただきたいんですけど。多分、今日はほとんどの方が教職員の方が多いのかなと思いますが、僕のような一般人っていうのが割と少ないと思うんで、我々一般市民とちょっと的な感じなんですけども。逆に僕からお聞きしたいんですけど、先生方は今の映画を多分見て、どういう所感を持たれたのか、忌憚のない意見をちょっと伺いたいんですね。渡部さん、今ちょっといろいろ問題含みだなっていうふうに言ったと思うんですけど、そこの部分もちょっとお聞きしたいんですけれど、いいですか?

渡部:
 問題含みの話は後でもいいかなと思います。僕は、やっぱり24年間教員をやって、授業をやってきたのですが、いま勤めている進学校の生徒に「なんでこんなに疲れてるんだろう」、「何でこんなにみんな目が死んでるのかな」という印象が一番にあります。僕も下手な授業ですけどね、授業をやっていて自分がおもしろいなって思うものをやると、こういう眼差し(※林竹二の授業を受けた児童の眼差しを写した写真)で見てくれる瞬間があって、それがあるから教員をやめられないでいるんです。でも、正直にいうと、今日の映画に映っていた児童の微動だにしない集中した眼差しで授業を受ける授業って、ありうるんだろうかというのが正直な印象と驚きです。あのままの(林竹二の)授業をうちの生徒にやったら、たぶん生徒全員が寝るんじゃないかなと感じたのですけれど、小学校5年生6年生って、こういうことはありうるんですか?(小学校の先生へマイクを渡す)

参加者A:
 はい。同じ感想を持ってました。ちょうど映っていた子どもたちは、多分、私と同じぐらいの年代だと思います。今私は50代後半ですけれども、自分もあの小学5年生、6年生だったときはあんなんだったんだなと思います。
 林先生の授業は、いわゆる講義形式ですよね。子どもたちは他に書く作業もないし、ずっと聞いている。45分間聞いてるっていう授業。あれを今やったらすごい怒られると思います。子どもたちも残念ながらついてこれないんじゃないかなっていうふうには思います。だから今一番、授業のスタイルとしてはやってはならない、そういうスタイルだと思います。もちろん、授業内容はおもしろいと思いますけれども、今の子どもたちはおそらくついてこれないんだろうなっていうのが正直な感想です。
 学習内容的は、特に「開国」の授業は小学6年生にとっては相当高度ですよね。私は聞いておもしろかったですけれども、高校生でもいいぐらいのテーマと内容じゃないですかね。中学生や高校生にするくらいだと思います。だから、最後の感想で子どもたちが言ってました。別に嘘を言っていたとは思いませんけれども、どれだけの子がどれぐらい理解をしていたのか。でも、それは大人がいう理解で、彼らは彼らなりの理解とかおもしろさを感じ取っていたんだろうなというふうには思います。
 林先生がどれぐらいのことを子どもたちに狙っていたのか。自分の言ってることが全部そういうふうに理解してほしいということではなくて、何かその知識を獲得する上でその刺激だとか、学ぶことの楽しさとかそういうことを掴んでもらいたいという思いだったりするのかなと思いますけれども。あの授業スタイルっていうのは、本当に昭和の感じで、あの当時の子どもたちは、すごいわきまえてたなって思います。だから驚きました。

渡部:
 僕が林竹二に今年ずっとはまってる理由の一つに、彼の著作集に入っている授業論があるんですよね。そこで、授業は子どもたちの学びを組織化するとか、子どもの主体性を組織化するっていうことが強調されています。それは今でこそ当たり前のように言われてるけれど、やっぱりそれでも僕はやっぱりそういうことだよなって思っています。今回の竹二さんの授業を見たときに、ずっと子どもたちがすごい真剣な目で彼を見てるけども、あの反応をどう受け止めればいいのか自分の中でまだ咀嚼できてないですね。

参加者A:
 例えば、大村はまさんの授業なんかは、もっと子どもたちが動きますよね、ああいう授業だと。

参加者B:
 授業のことを言いますと、授業の形っていいますかね、たしかにあれは教師主導という形にしか見えないかもしれません。しかし、ここでやっぱり教育的な解釈をしてみる必要があるのかなっていうふうに思います。というのは、指導の中に水平的指導というのがあります。それはですね、子どもたちの意見をいっぱい引き出してそれを繋いでっていうことです。それからもう一つ、垂直的指導っていうのがありますが、それは教師が引き上げていくっていうことですね。そこを組み合わせていくっていうのが、私が教育に携わっている学生や生徒、子どもたちにとってすごく大事なことなのかなというふうに思っておりました。
 今日の表情を見てみますと、あの表情とそれから林先生の授業の投げかけが一緒に出てくるんですね。どういう投げかけをしたときにどんな表情をするのかっていうことを丁寧に拾っていると思います。今日のドキュメンタリーですね、私考えましたのは、先生は一方的に話してるようなんだけれども子どもたちはそれどういうふうに受け取ってるのかって考えたときに、私はですね、わからないところもあるけどわかるところもある。しかし、自分で深いところまでいってそれを繋いでいるのがあの子どもたちの真剣な表情なのかなと思う。表情が崩れないですよ。なんか深くなればなるほど、いい表情になっていくっていうのを林先生の授業の中の特色だと思いますね。
 難しい言葉がたくさん出てきます。阿部正弘(大老)のこととか、自分のところ(沖縄)にペリーが来たとか、そういうことを繋ぎながら、自分で納得をして、深いところに行こうとしている姿が、今日の授業の子どもたちの表情だったんではないのかなっていうふうに思いました。
 今、いろんな授業を見せていただきますと、どうしてもですね、形といいますか、子どもたちは授業でタブレットを見ていろんなことをやりながらっていうことになりますけど、それで本当に深いところに行けるのかって言ったときに、教員はやっぱりここで引き上げているのか。子どもたちに任せてはいないのかっていうところです。あえてここで教員が出て、引き上げてやる必要はないのか。そんなことで、みんなOK、OKって言ってですね、子どもたちが喜んで、今日はいい授業だって言って、みんな先生方は言うんだけれど、本当に深められたのかという納得は、授業者が負うべきなのかなっていうふうに思いました。林先生はそれを自分で課して、あえてあの難しいことを子どもたちに投げかけているのかなということもたちがそれを引き取っている表情がこの授業の中に出ているのかなというふうに、私は今思っておりました。
 さきほど「解釈」という言葉を使ってしまったんですが、それを取り消します。「解釈」なんていうことを、そんな軽々しいことではなくてですね、私がその授業を見たときの「思い」です。

阿部:
 今のお話を受けてですね、30年前には僕が見たときにはストレートに、そのまま子どもの表情いいなっていうふうに思ったんですけれど、改めて見直したときに若干違和感を持ったものがあります。それは何かというと、今ってアクティブ・ラーニングっていう言葉があって、何か一方通行じゃなくて双方向のやり取りっていうのがすごく大事だ、みたいなことを聞いたことあるんですよ。それに照らすと、あのスタイルというのは果たして今、Aさんが今言われたように、あの授業をやったら怒られちゃうじゃないですけど、そういうことでよかったんですか?そこら辺に関しては皆さんやっぱり違和感を持ったりされるんですけど、教員の方はどうですか?

渡部:
 僕は福島大学で教えることもあるのですが、アクティブ・ラーニングなんて内容がなかったら何も教えないのと同じだ、と学生に伝えます。教材がまずあって、それで生徒が動くのだという話をとにかくするんですね。教材を徹底して勉強しなきゃ駄目なんだってことは、まさに林竹二が言ってることなんだけど、それを学生に言ったら、「そんなこと言ったのは先生が初めてです」という感想をもらったことがあります。つまり、福大の教職科目担当の先生は、ほぼ全員が「とにかくアクティブ・ラーニングなんだ」と連呼し、子どもを動かすことだけを強調して要求する。教材研究のことなんて言われたことないですっていうんですね。今おっしゃった垂直的な授業も教材があって初めて可能になるものだと思うんです。その研究を授業者がどれだけ深めてるかが重要なのだと思うんです。そこがやっぱり徹底されてないと絶対にアクティブ・ラーニングなんてできないよなという思いはすごくあります。

参加者B:
 深いところにいってるかどうかっていうのは、林先生は多分ね、表情を見ながら、顔を見ながら進めてる。そこで自分の教材研究した教材をどう投入していったらいいのかっていうと、組み替えたり、ここでずっと教えた方がいいなとか、多分頭の中ではもうずっと葛藤しながら、しかしその表情に後押しされながら進めていったのかなっていう感じはしておりました。

参加者D:
 映画を拝見しました。子どもたちが全員寝てないのがすごいっていう話が出ましたが、私は定年退職後に福大で200人の履修者がいる日本国憲法を教えているんですが、日々悩んでおりまして、それもあってこういうものにも触れてみたいなと思ってきました。
それで、私なりのいろんなツッコミがありました。それは子どもたちが感想で言ってましたよね。「今日は偉い先生の授業を受けるんだ」というのと、あと「映画を撮ってるからすごく緊張したし、頑張った」という感想。あれは本当に正直な感想で、それが授業のすべてだったとは思わなかった。それから、ゴーという音が途中に聞こえたときは、あそこが那覇の久茂地であるっていうことで、もしかしてこれ戦闘機の音かななんて思いながら拝見していました。でも、子どもたちが中学年のときには誰も眼鏡かけてなかったのに、高学年に上がったら3人ほど眼鏡かけてたって、これもその当時の時代を反映してるのかななんて思いました。
 いろんなお話が出てましたけど、私も桜の聖母短期大学で教えてるときに、まさにキャリア教育の中に、アクティブ・ラーニングを入れなきゃいけないっていうことで、英語学科の責任者でもあったので、そうした領域について法学が専門なんですけど、短大は何でもやらされたのでいろいろな大学に行って研究してきたんです。そのときにしみじみ感じたのは、確かに喋れるようになったり、プレゼン能力が高まるんですよ。でも、知識が乏しい。そこがなければ、何の説得力を持たないっていうのをしみじみ感じて、学生たちへ伝えてきました。
 幸いなことに、みんな素直なのでよく勉強してくれて、編入も20人ぐらい国立大学に入っていったりして、そういう達成感はあったんですけれども、今、福大ではちょっと悩み多きところです。ネットの影響があまりにも強すぎて、今週の授業では象徴天皇制を取り上げて、自分の気づきとか、感想でもいいし、思うことを書きなさいっていうリアクションペーパー200人分を毎週見るのはつらいんですけど、頑張っております。私は授業で丁寧に資料も作って説明したはずなのに、「これは日本の伝統である文化である。崩しちゃいけない」っていう強硬な意見とか、それから私が「授業の中で慰霊の旅って言ってるけれども、むざむざと死ななければならなかった若者の家族がね、遺族がその慰霊の旅で本当に喜ぶのかどうかっていうような意見もあります」って意見があったんですよ。そういう意見も世の中にはありますと言ったことについて不届きだって。あの人たちの死があったから、平和な日本があるのに、ああいうことは口にするべきではないっていうのが何人か出てきて、すごくびっくりしました。
 こういう中で、私は常に伝えてるのは、私はもうそのうち死ぬけれども、皆さんがこの21世紀を生きていく上でいろんなこと考えなきゃならないことがたくさんあるんだよっていうスタンスで、日本国憲法の条文を一つ一つ丁寧に見ていってるんですけれども、なかなか難しい壁もあるっていうことで、改めて過去からのいろんな教育方法とかいろんな先生方のいろんな理論に学びつつ、丁寧にやっていきたいなと思ったので、今回の映画は、私なりの学びもあるところでした。今日はいろんな方々のお話が聞けたので楽しみにしてまいりました。以上です。

映画「林竹二の授業」を語る会・雑感

2024-12-07 | 教育


映画「林竹二の授業」を語る会から早、2週間が経ちました。
夢のような時間でした。
誰が差配するわけでもなく、継ぎ目なく次々と発言が出され、しかもその内容がおもしろい。
単に個人的な意見を言いっ放しにするわけではなく、誰かの発言にレスポンスする形で、時には緊張感を伴いながらも対話が展開する。
今回の主役「林竹二」を尊敬しつつ、しかし彼の授業実践を映した記録映画の撮影から50年を経た現在的な視点で、彼を神格化するわけでもなく、むしろソクラテスをこよなく愛した彼自身がそうしたであろう批判的吟味を、彼に対して差し向けた議論が展開しました。
こういう対話空間はなかなか成立するものではありません。
如春荘という物理的歴史的空間がそれを可能にしたのか、林竹二の授業がそれをもたらしたのか。
ともかく、こんなにアツい議論は滅多に出会えない、そんな時間を過ごさせていただきました。
いま、すべての対話記録を書き起こしました。
全部で約3万8000字。
この長大な記録は近日中にこのブログへアップしたいと思いますが、音声記録を書き起こしながらそれを読んでいくと書籍化してもいいんじゃないかと思うくらい深い。そんな感想をもちました。
その序論として、「雑感」を記したいと思います。

今回はフォーラム福島の阿部泰宏支配人と県立高校国語科教諭・中村晋さん、福島大学食農学類の林薫平さん、そして渡部の4名で実行委員会を立ち上げて、今回の開催に至りました。
阿部さんは数十年前に同作品をフォーラム福島で上映した際に、終了後におそらく教員たちであろう観客が、そこかしこで林竹二の授業について喧々諤々の議論をしている光景がとても印象に残っていたそうです。
中村さんは、主に教鞭をとられてきた定時制高校での苦労から林竹二の教育論に共鳴したことがあり、まずお二人の中でこの上映会がの企画が立ち上がります。
その頃、勤務する進学校の受験指導に心底嫌気がさして鬱気味になっていた渡部は、ふと学生時代に読んでいた林竹二の『教育の再生をもとめて』(筑摩書房,1977年初版)を手にして再読したところ、昨今の学校教育で忘れられている思想にふれて救われる思いがしていました。
そこに田中正造研究から林竹二に出会った薫平さんが加わり、実行委員会が立ち上がったというわけです。

さらに、薫平さんは林竹二がはじめて小学校での授業実践に取り組んだ郡山市の白石小学校で教えていた先生を探し始めます。
すると、竹二の教え子で同校の元担任教師だった宮前貢さんの存在を発見します。
宮前さんは齢83。
さっそく薫平さんと阿部さんが宮前さんへ会いに足を運んだところ、当時の児童の感想文をお持ちになられていることを知ります。
矢も楯もなく、語る会への参加を求めたところ快くお引受けくださり、今回のメインゲストとしてお招きすることができました。

(※左から3人目が宮崎貢さん)

さて、当日は喧々諤々の議論となりました。
著作の中で打ち震えた竹二の授業論、教育思想。
とりわけ、宮教大退官後に始めた小中高校での授業実践は伝説化されています。
では、実際の彼の授業はどうだったのか。
一見して、愕然としました(個人の感想です)。
一方的に児童へ喋り倒す講義形式の授業スタイルは、彼が著書で論じた「授業は子どもの主体的な学びを組織化すること」という思想とは程遠く見えました。
これには小学校の教員である参加者からも、今ではこのタイプの授業をしたら怒られるとの感想が出されました。
しかし、不思議なのは児童の真剣なまなざしや集中した空気に満ちた授業空間の光景が映し出されている点です。
あのような授業で、果たして児童の目が輝くのだろうか?
こうした疑問をもった参加者は少なくありませんでした。

しかし、宮前さんはじめ、竹二世代の方々はそこにこそ竹二の授業の妙があるといいます。
子どもを引きつける人柄、教材研究の深さ、不思議な人間的魅力、問いかけ。
それが児童の心を惹きつけるというわけです。
ある参加者はこういいます。

「先生は一方的に話してるようなんだけれども、子どもたちはそれどういうふうに受け取ってるのかって考えたときに、私はですね、わからないところもあるけどわかるところもある。しかし、自分で深いところまでいってそれを繋いでいるのが、あの子どもたちの真剣な表情なのかなと思う。表情が崩れないですよ。なんか深くなればなるほど、いい表情になっていくっていうのを林先生の授業の中の特色だと思いますね。」

さらに宮前さんは、このように述べられました。

「なぜそうなのか。それは、子どもたちに考えなくちゃとか、どうしてそうなんだろうとか、一人一人の子どもにね、まず疑問を持たせなくちゃっていうような授業作りに悪戦苦闘されたんですよ。だから、ものすごい資料を集めてやってるんですよ。つまり、一方的な問いかけのように見えるんですけれども、子どもたちが解決するための手がかりになるような問いかけをする。あるいは、子どもたちの今考えてることを聞き出しながら、周りの子どもたちにも問い返してみる。先ほど垂直的な学びと横に広がる水平的な学びを話されたんですけど、グループの中でやるものもあるんですよね。みんなで関わり合う学びの姿もどんな形でもやれると思うんですけど、林先生はそんな指導方法のノウハウなんかないんですよね。だからああいう形でやって、子どもたちに「考えなくちゃ、どうしてそうなんだろう」と考えさせて、それが全員ではないにしても、ああいう子どもたちの表情になってると思いますし、だから、あっという間の一時間だったとかね。先生の方を向ききりだったとか、あるいは宮前先生の授業のときよりも、すごく面白かったとか、楽しかったというようなことを書いてくれた。」


もちろん、これに対しては竹二さんが「えらい大学の先生だ」という前評判を児童に伝わっていたことや、「非日常的」な出来事、そもそもそのような授業が成立したのは、ふだんからの宮前さんの学級経営のおかげであるとの指摘も挙げられました。
むしろ、「今日の映画見てたら、いや俺だったらキャーとか言って立ち上がって騒ぐなって思いました。暴れて対決したいなって思いました」という反発も挙げられました。
70年代という時代背景もあるでしょう。
個人的にも、竹二さんの授業というよりも、あの一方的な授業に集中できる児童の立派さが際立ったという印象が強く残っています。
しかし、さはさりとて、「内容なき方法論」としてのアクティブ・ラーニングが流行している昨今の授業事情に鑑みれば、たしかに児童を惹きつける授業とは何かという問いの原点に引き戻されます。

そんな中、高校に勤める参加者から深刻な悩みが吐露されます。
曰く、授業を聞かない、ほとんどが寝る、おしゃべりをする、興味をもってもらいたい教材を用意しても誰も興味を示さない、人生を善くしたいという欲求がない生徒に対して、竹二さんに授業をやってもらいたい、というものです。
私自身、この苦労や悩みは大変よく理解できます。
これこそ、古今東西を問わない授業のリアリズムだと思います。
これに対しては、色々な参加者からご助言が挙げられました。
しかし、おそらく「これをすれば大丈夫」ということが通用しないのが学校であり、授業です。
とにかく現実にどう対処するか、日々格闘しなければならない。
そのなかで2,3でも成功すれば御の字。
ある参加者は、授業を受けている生徒の中に2,3人共鳴するものが生まれれば成功だといいます。
しかし、大多数の生徒につまらなさそうな顔をされる授業が耐え難いのも事実でしょう。
これは学力の高低は関係ないと思われます。
むしろ、進学校の生徒の方が深刻かもしれません。
日々疲れた顔の生徒、知的好奇心をすべて根絶やしにする詰め込み授業、問題演習。それでも進めなければならない受験指導。
生徒と教師が喜びを共有するのは偏差値アップと受験の成功。
まさに教育亡国の極北です。
この学校現場のリアリズムに竹二さんの教育思想や授業論は、なお生彩を放つのか?
しかし、それでもなお湊川高校の実践をはじめ、社会かたはじき出された高校生を惹きつけた伝説的な授業として語り継がれる彼の授業実践は、なお検討してみる可能性があるものとも思います。

このような喧々諤々の議論は間断なく繰り広げられました。
最後に個人的な感想、というよりも「林竹二の授業」の記録映像を見て、これが問題含みであると感じた二つの点について述べておきます。
問題含みであると感じた一つは、「アマラとカマラ」の授業実践です。
今日では狼に育てられた少女「アマラとカマラ」という事実は虚構であったことがほぼ通説となっています(※鈴木光太郎『オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険』,新曜社,2008年,参照)。
すると、誤っていた事実を前提に「人間とは何か」を問う授業をつくりあげた竹二さんが、もしそのことを知ったらどのように応えるのだろうか、という点です。
50年後の視点という後知恵で彼の授業実践を批判するのはフェアではないにせよ、しかしわれわれ教員にとって深刻なアポリアであることを認めざるを得ないでしょう。
教員はいつでもその時どきの研究・学説にもとづいて授業づくりをする以上、この過ちに陥る危険性が常にあります。
さらに言えば、竹二さんが授業で「アマラとカマラ」を人間になりえなかった「バケモノ」と名指したことについては、それ以上の問題を孕んでいます。
現在では、アマラとカマラは自閉症などをもつ障がい児であった可能性があることが指摘されていますが、もしこれを知らなかったとしても「バケモノ」と名指したことは看過できないのではないでしょうか。
というのも、竹二さんは、小中高校の授業実践を巡る最終地点で須賀川養護学校にたどり着きます。そして、そこにこそ教育の原点を見出したわけですが、アマラとカマラには理性をもてるように教育を受けられなかった「バケモノ」と論じた彼の理性中心主義との矛盾をどう考えるべきでしょうか。
これもまた後知恵の酷な批判と言えばそれまでですが、しかし、くり返すように我々にはこのような矛盾を冒す可能性から免れないのだと思います。
むしろ、元々哲学者であることを出発点とした竹二さんであればなお、後世代からの批判的吟味は喜んで受け入れたと想像するのですが、いかがでしょう?
竹二さんが生きていればどう応えたかだろうか、想像するしかありませんね。

もう一点は、「開国」の授業です。
「開国」の授業終盤で、竹二さんは島津斉彬を「名君」・「立派な政治家」と評し、「彼らのような政治家がいたから日本は欧米の植民地化から免れることができた」という歴史観を児童に示しました。
しかし、その授業を実践したのは沖縄の那覇市立久茂地小学校です。
実践した1977年は沖縄復帰から5年後ですが、その地で琉球王国を搾取した薩摩の君主を称え、琉球処分によって沖縄を植民地化した「日本」本土の人間がこのような歴史観を堂々と沖縄の子どもたちに行った歴史的センスは、疑念以上のものを抱かされます。
しかも、竹二さんは沖縄で授業実践した理由(これは会場から出た質問です)を、「日本という「国」は、太平洋戦争の「後始末」をつけるため、切り捨てた」、それに対する「私のささやかなつぐないであった」と『教育の再生をもとめて』の「はしがき」で書いています。
沖縄への共感をもつ竹二さんにして、このような植民地主義の意識が大きく授業実践に反映されていた事実は、何度でも批判的に検証されなければならないでしょう。

いずれにせよ、可能性も問題点も含めて林竹二の授業論・教育思想は今日、再読されるべきアクチュアリズムを含んでいます。
そのことは、今回の対話の会の議論の熱さが証明しています。
その詳細は記録として近いうちにアップしたいと思いますので、乞うご期待。
宮前さんをはじめ、このたびの「林竹二の授業」を語る会に参加して下さった20名を超える参加者の皆様には、この場を借りて御礼申し上げます。(渡部 純)

映画「林竹二の授業」を語る会

2024-11-06 | 教育

《 開催日時 》 11月24日(日)14:30~17:00 
※ 冒頭は共同企画者によるトークセッション有り
《会 場》 如春荘・福島市森合台13-9 (福島県立美術館前)
《 参 加 費 》 無料 ※ 飲み物は各自でご用意ください。
《共同企画者》阿部泰宏(フォーラム福島)・中村晋(県立高校)・林薫平(福島大学)・渡部純(県立高校)


 このたびフォーラム福島との共催で、林竹二の授業実践の記録映像を視聴した後、それについて語り合う会を開催させていただくことになりました。
 林 竹二(1906年-1985年)は、日本の教育哲学者であり、元宮城教育大学学長です。東北大学から教育学部と教職課程を分離し、宮城教育大学として独立させる計画が浮上したとき、林は最後までこれに反対します。反対派が押し切られて同教育大学が設立された後の1969年、林は同大学の第3代学長に就任しました。
 終始学生の側に立つ姿勢を貫き、同大学が大学紛争の渦中に陥り、学生たちが大学構内を封鎖したときには、構内に入り込んで学生と対話の労を惜しまなかったとされます。晩年は、足尾鉱山事件の田中正造に関心を寄せ、評伝を書くなどの研究に取り組む一方、斎藤喜博の影響を受け、全国各地の小学校を回って、自ら対話的な授業実践を試みるなど、教育の現実にかかわる姿勢が関係者の共感を呼びました。(ウィキペディア参照)
 今回、フォーラム福島では11月22日~28日の期間に「ビーバー」、「アマラとカマラ」、「開国」の3本が上映されます。その上映作品をご覧になられた皆さんとともに、場所を如春荘にかえて「林竹二の授業を語る会」を上記のとおり開催させていただきます。お気軽にご参加ください。




【エチカ福島】一人称で語る会

2024-10-05 | 〈3.11〉系


【語り手】髙橋洋充
【日時】2024年11月4日(月・祝)14:00~16:00
【会場】如春荘
【定員】10名程度 
    ※要参加申込(メッセージからお申し込み下さい)
【参加費】無料 


この度「一人称で語る会」を開催させていただきます。
「一人称」とは主語が「私」で語ることであり、つまり自分から見た経験を語っていただくことです。
一口に自分の経験といっても、実はふり返って熟考すればするほど、その意味は変容したり、わからなくなったりするものです。
しかも、それは他者の問いかけや言葉によって気づかされることもあります。
昨今、当事者研究という分野が広がりを見せてますが、その手法に近いものかもしれません。
その草分け的存在である向谷地生良さんは、その活動の始まりについて次のように述べています。
「当事者研究は、統合失調症や依存症などの精神障害を持ちながら暮らす中で見出した生きづらさや体験(いわゆる“問題”や苦労、成功体験)を持ち寄り、それを研究テーマとして再構成し、背景にある事がらや経験、意味等を見極め、自分らしいユニークな発想で、仲間や関係者と一緒になってその人に合った“自分の助け方”や理解を見出していこうとする研究活動としてはじまりました。」(当事者研究ネットワークhttps://toukennet.jp/?page_id=56)
私たちの活動は精神障害をテーマにするものではありませんが、「問題」を自分と共に、他者と共に理解を見出していこうというものです。
では、何の「問題」を語ってもらうのか?
エチカ福島は、いわゆる〈3.11〉をめぐって「簡単には答えの見つからない現実の中で、私たちは生きることになった。では、どんな風に生きていきたいのか?一人一人が自分自身に問いかけることから始めなければ、何もできない、そんな場所に立たされている」という思いから始まりました。
そして、言葉を失ったあの出来事について語れる言葉を、他者と共に見つけるために活動を続けてきました。
これまでは、その方法として専門家などのゲストを招いて参加者との対話を試みてきましたが、いよいよ当事者本人が自己を見つめながら、それを他者の言葉を手がかりに開いていく実践を試みます。
向谷地さんらが始めた当事者研究は、いわゆる精神医療分野で展開していますが、私たちの目的はもちろんそれとは異にしています。
むしろ、あの出来事をめぐって様々な逡巡や葛藤、言葉にならないものを何とか言葉にしてひねり出そうとするプロセスを「記録」として残したいというものです。
その意味で〈語り手〉には公開性を前提に語っていただくことになります。
ただし、これは災害の教訓を伝達するような場としてではなく、むしろ自己の経験を物語り得るその前段階、あるいは物語る中で生じている葛藤や逡巡、矛盾を他者とともに解きほぐすプロセスを創りだし、編み直していく場にしたいと考えています。
その意味で言えば、一般論からはズレが生じる経験の意味を大切にしていく場にしていきたいと思います。

その第1回目の「語り手」は県立高校教員の髙橋洋充さんです。
洋充さんは浪江町出身で、原発事故により生家を失いました。
その思いから、いま故郷に対する思いや原発立地をめぐる家族の思い、教員としての思いなど、さまざまな経験を言語化しようとされている方です。
とりわけ「一人称の語り」という言葉は彼から頂いたものです。
洋充さんは原発事故以来、色々な勉強をされてきた中で、結局色々説明されるけれど、その言葉をもって説明しても結局は借り物の言葉でしかない。どれもこれも、色々一般的な正解を示そうとするけれど、どれも腑に落ちない。でも、自分が経験したことは誰のものでもないし、その経験こそ自分にしか喋れないものだという確信に至ったと言います。
以来、自分の経験したことから語ることの重要性を意識されながら、あの出来事の意味を考え続けている方です。
洋充さんの言葉を皮切りに、多くの皆さんの「一人称の語り」が連鎖していくことを期してキックオフとさせていただきます。

ガルシア・マルケス著『百年の孤独』を読む会・雑感

2024-09-28 | 文学系


何ともつらい読書経験だった。
約30年前に一度読破したとはいえ、ストーリーなどまったく覚えていないまま臨んだ再挑戦は、しかしあのときに感じたことをたしかに思い出させてくれた。
そう、「ぜんっぜん読み進められない!!」という感想を。
ガルシア・マルケス著『百年の孤独』は、マコンドという想像上の共同体の開拓から消滅までの100年を描いたもの。
ただひたすらその村(町?)で起きたエピソードが書き連ねられていく。
一つひとつのエピソードは、なるほどハチャメチャなものもあれば、日常的なものもあるものの、それぞれを読んでいるだけで十分おもしろい。
ただ、物語の起伏はほぼない。
起承転結などない。
そのことが、ただただ文章を追うだけの作業に退屈さを催させる。
だからといって、読み飛ばしをすれば、途端に話が分からなくなるため、一行も読み飛ばせない。
ななめ読みなどももってのほか。
じっくり、鈍牛のように文章を丁寧にたどる。そして寝る。これのくり返しでなかなか進まない。
自分だけが読書の才能がないのだろうか。
しかし、読書会という場が素晴らしいのは、そんな卑屈な思いを共有し、払拭させてくれることだ。
まず競われたのは、何ページ読み進められたかの順位だった。
読破した参加者は3名。
私は100頁で第4位。
第5位は50頁。
第6位は15頁。
これで読書会が成立するのか。
しかし、今回わかったことは『百年の孤独』は読破できない困難にこそ、この作品の本質を理解する重要な要素があるということだ。
そもそも、なぜ『百年の孤独』なのか?
「孤独」は誰にとっての「孤独」なのか?
なぜ、こんなに読むのもつらい小説がノーベル文学賞作品なのか?
こんなことが今回の主題になった。

ある参加者が「これは婆ちゃんの話を作品化したもの」といった。
なんかわかる。
帰省するたびに齢75を過ぎた老母と叔母が最近、やたらと親戚のエピソードを語りたがる。
誰だれちゃんが何をやっただとか、その親の誰だれは何々で、〇〇のときに何々をしてたとか、とりとめもない親戚の、しかも聞いたことがあまりない名前を懐かしそうに語るのだが、もはやどういう人間関係かわからずに家系図を書いてもらう始末だ。
そう、マコンドに登場する無数のひとびとも、しかも似通った名前と長ったらしい名前に、読者がまず辟易するのは、何度も元のページに戻ってどういう人物だったか確かめる作業だろう。
いちいち登場人物を把握しなければ理解できない、というのは途中からばかげたことだと思い直す。
実は、この読書体験そのものが自分たちの家を語る際に生じる経験ではないか。
いちいち系統だって理解することなど、実家で飲みながら家族の話を聴いている時にはしないものだ。
ああ、そういう人もいたのか、という思いに浸る程度だろう。
この本を読み通しているとそんな思いばかりが去来する。
物語性など実は何もない。
ある意味淡々とした村の記録、家の記憶の羅列である。
作品の中にしばしば登場するキーワードは「忘却」である。
個々人のエピソードなど実は本人も覚えていない。
なんとかそれを繋ぎとめようと努力することもあるが、あまり意味がない。
さもない出来事が日々くり返され、人々は忙しく何かしらやっている。
歴史的な大事業ということではない。
マコンドという空間の中で、ただひたすら延々と人びとがドタバタ騒いでいるのを定点観測的に描かれる。
そんな作品に何意味あるのか?

それぞれのキャラはおもしろい。
だから、これって実存的な表現なのかといえば、むしろ逆。
近代史小説が個々の内面を描いてくることに四苦八苦してきたことを花であざ笑うかのように、そんなものに無関心であるのがこの作品。
むしろ、そんなドタバタを包み込んだ「世界」そのものを描くとこうなるのだ、というのが『百年の孤独』なのではないか。
一つの画面に多様な人間模様を描いたブリューゲルの作品を彷彿とさせる。
一つひとつの場面は確かに興味深いが、それをすべて包み込んでいる世界をブリューゲルは描いた。
描きたいのは「世界」なのだ。
しかも、グチャグチャのまま、100年という時間のなかで繰り広げられる、5世代にわたる人間模様。
殺しもあれば、亡霊も存在する。土を食べる少女もいれば、奇天烈な科学者みたいな変人がいる。
魑魅魍魎の世界といえばそうとも言える。
そんな世界が居心地がよいのかといえば、心はいつもかき乱され、平穏さとは無縁だ。
それでも、そんな感情とは別にここの住民たちは、意外とマコンドを根とし、安心感に包まれて存在しているのではないか。
それが世界のリアリティというものだ。
世界のリアリティ?
マコンドの世界を読んでいると、幼い頃に盆暮れ正月だけ過ごした祖母の住む奥会津の村の風景がよみがえる。
色々な村人がいた。
正月に泥酔してやってくる片目のおっちゃんは、人の家に来て暴れまくってとにかく恐ろしい存在だった。
戦争で打ち抜かれたという目に入る義眼は、子どもにとっては異様さそのもの。
せむしのように腰の曲がった婆ちゃんは村に何人もいた。
同い年の友だちのお父ちゃんは、ある日クマに襲われて顔の半分が削がれてしまった。
近所のっちゃんは雪下ろしの最中に雪に埋まって亡くなった。
食卓は薇、蕨、キノコの山で、動物性たんぱく質がほぼない。
海苔は湿気を通り越してかぴかぴになっているが、婆ちゃんはそれを何食わぬ顔でほおばる。
都会から来た少年にとって、その村は異様な世界そのものだった。
けれど、おそらく彼・彼女らにとっては「世界」とは「村」の生活とべったりくっついて引きはがせないほどのリアルさがあったんじゃないか。
そんな世界にとって、人間のグチャグチャした日々の所業など関係ない。
そして、開拓で始まったその世界は、突然に消滅する。
人間の思惑など関係ない。

それにしても読みにくい。
ということは、こちら側がなぜ読めないのか、それを照らし出してくれる作品だともいえる。
思うに、理解できる小説とは何において理解できるようになっているのか。
登場人物への感情移入、起承転結の物語性、因果論などなど。
それらを全部ひっくり返して描いているのが『百年の孤独』の世界。
そういえば、最近の日本の小説作品が「生きづらさ」を主題にしているのが多すぎることに辟易しているが、これだって世界は痛いもので、撤退したいもの、リアリティなどないという意識の反映ではないか。
世界そのものに存在感を得にく時代に、世界そのものを描かれると途端に捉えようがない、為すすべないという戸惑いこそ、『百年の孤独』がつきつけるものではないか。

さて、なぜ「百年の『孤独』」なのだろうか、という問いに戻る。
英語版のタイトル”はOne Hundred Years of Solitude”
これでみんなが閃いた。
” Lonliness is not Solitude "
日本語で「孤独」と記述されると、どうしてもLonlinessのニュアンスで捉えてしまうけれど、むしろこれは独立、自立のニュアンスがあるSolitudeであるとすれば、これは100年間の独立=自立した存在としてのマコンドの孤独という意味ではないか。
孤立と訳すこともまた、孤立無援のニュアンスが付きまとうが、しかしその独立=自立体としてのマコンドでは有象無象の人間模様が繰り広げられている。
つまり、この複数性を内包することにおいて100年もの孤立=独立=自立体が『百年の孤独』の意味なのだ。
それは近代的な読みである個々人の寂しさとか、そういうものとして読むものではない。
マコンドという世界の孤独、しかもそれは100年という時間が過ぎて突如、因果論的に説明できないものによって消滅に至る。
そんな世界が、おそらくこの地球上にごまんと存在したのだろうと思う。
こんな読みは的外れなのかもしれないけれど、たった一人で読んでいたんじゃ絶対に至れない境地だった。
読書会の妙にまたもややられてしまう一日であった。 (渡部 純)
















































映画「林竹二の授業」を語る会

2024-09-28 | 教育

《開催日時》11月24日(日)14:30~17:00
  ※ 冒頭30分に共同企画者のトークセッションがあります。
《会  場》如春荘・福島市森合台13-9 (福島県立美術館前)
《参 加 料》 無料 ※飲み物は各自でご準備ください。
《共同企画者》阿部泰宏・中村晋・林薫平・渡部 純



このたびフォーラム福島の共催で、林竹二の授業実践の記録映像を視聴した後、それについて語り合う会を開催させていただくことになりました。
林 竹二(1906年12月21日 - 1985年4月1日)は、日本の教育哲学者であり、元宮城教育大学学長です。
東北大学から教育学部と教職課程を分離し、宮城教育大学として独立させる計画が浮上したとき、林は最後までこれに反対します。反対派が押し切られて同教育大学が設立されたのちの1969年、林は同大学の第二代学長に就任しました。
終始学生の側に立つ姿勢を貫き、同大学が大学紛争の渦中に陥り、学生たちが大学構内を封鎖したときには、構内に入り込んで学生と対話の労を惜しまなかったとされます。
晩年は、足尾鉱山事件の田中正造に関心を寄せ、評伝を書くなどの研究に取り組む一方、斎藤喜博の影響を受け、全国各地の小学校を回って、自ら対話的な授業実践を試みるなど、教育の現実にかかわる姿勢が関係者の共感を呼びました。(ウィキペディア参照)
今回のフォーラム福島では、11月22日~28日の期間に「ビーバー」、「アマラとカマラ」、「開国」の3本が上映されます。

ガルシア・マルケス『百年の孤独』を読む会

2024-08-10 | 文学系

【日 時】2024年9月28日(土)14時~16時
【会 場】如春荘(福島市森合字台13-9)
【課題図書】ガルシア・マルケス著『百年の孤独』
【定 員】20名
【参加申込】メッセージからお申し込みください。
【カフェマスター】渡部 純

【その他】 書籍注文の際はハナミズキ書店さんをご利用ください

カフェロゴの話題には何度も上がりつつ、しかし果たしてこの本を読了して参加できる人がどれほどいるのかと疑問を抱いたまま開催に踏み切れずにいましたが、文庫化をきっかけにいよいよガルシア・マルケス著『百年の孤独』の読書会を開催することを決めました。
とにかく、一読してみましょう。
そして、語り合ってみましょう。
南米文学の眩暈のするジェットコースター文学にドはまりしてみましょう。
今回は早めに告知しますので、夏の課題図書としてじっくり腰を据えてお読みください。その手


映画『越後奥三面―山に生かされた日々』を語る会・記録④ゲストと参加者による対話篇その2

2024-07-31 | 映画系


◆男性6 どうも坂下と申しまして、先ほどから昭和村のお話がだいぶ出てましたけど、その隣の金山町っていうところからまいっております。
ええ、猪俣昭夫さんのこととかも話に出ましたけど、すぐ隣におられる方で、その弟子の方もまあ自分の友達なんで、よく知ってる方ばっかりなんですけれど。
まず第一に、昭和村のからむし商品に関して、僕はその織姫の第一期生とかなり近しく付き合ってた面とかがあって実態はよくわかってるんですけれど、冷や水をかけるようですけれど、正直言って、産業としてはまったく成り立ってません。
で、ええ、その前提で、どうしてその制度がこう続いているのかというと、昭和村のアイデンティティとして大切にしたい、その価値がある。それは間違いのないことです。
ただそれとともに、途中、阿部さんも消滅自治体に入ってない、その一つの要因として、からむしの方々、若い女性がたくさん入ってきたからということが非常に大きな要因なんです。
要は村の方も半分それが本意で、その制度を始めてっていうふうな面がありまして、それを私自身が責めるわけでは全くないんですけれど、皆さんに対して、まずからむし織自身がブランドとして成り立っていると誤解されるというふうなのはちょっと措いておいてほしいなあ、というふうなこと。それがまず第一です。
私自身、この映画みさしてもらって、いろんな意味で感銘を受けたんですけれど、やっぱり何がって言ったら、その土地においてどのように生きるのかっていう、それを文化と名づけようが、生活の知恵と名づけようが、いろいろあると思うんですけれど、そういったあり様が濃厚にやっぱり映し出されているからだと思うんですよね。
で、それがより便利化することによって、要は全世界、要はカスタマイズ化されて均一化されていくと。で、その影響で逆にNHKでは食の文化のことに関しても特集を組んでますけれど、要は食の内容が均一化されてしまって、それを補給するための、例えばとうもろこしとか、小麦であるとか、そういうふうなのは農地を大地を粉砕するようなやり方で潰すようなやり方で耕地を広げていく。
で、そういうことによって、その均一化された世界でさらに人口が増えていくわけなんですけれど、それが守られているという実態がある。要は非常に危険と隣り合わせだというふうなことをNHKは訴えているんですけれど、何を言いたいかというと、最近、朝日新聞のコメント欄で山極寿一さん。京大の前総長の方なんですけれど、そのかたがおっしゃってたのが、今からは適応と分散の時代に移っていく、と。
何が言いたいのかと言ったら、資本主義的な集約と、何って言ったらいいかな?それによってどんどん端が削がれていく、と。で、有利?な方に一極集中化していくかっていうふうなことになっていたわけなんですけれど、それがかえって危機を、生物史的な歴史を考えると非常に大きな危機をはらんでいる、と。
今まで適応と分散というふうな形で、その土地土地に応じた生活の有り様がそれぞれある社会が存在するというような形で、割合なんていうか、ネットがすごい敷かれていた面があるわけなんですけれど。
それがどんどん単一化することによって、逆にすごい権利になってるんで、それが次の時代としたらぜひそれは変わっていくだろうというふうなことをおっしゃってたんですね。
それは僕も非常に同意する言葉なんですけれど。にもかかわらず、それを残していこうというためには、やっぱり僕自身、民間のお金もなんですけれど、国策としてのそういう施策が、やっぱりどうしても関わらざるを得ないというふうな面もありまして。そこら辺、どういうふうな案が?っていうふうなこと、民間のお金をどう引き込むかっていうのが今、いろいろ頭の中では考えて、頭の中だけじゃなくて色々アクションをしてますけれど、まあそこら辺の、要は映画の価値として、先ほど言ったようなことを私自身、今回みさせてもらったものに対しては評価する反面、それを現代的な課題に対してどのように生かすのかっていうのを、そこが論ずべき点じゃないかなと思ってまして。もしよろしければ、各々三名の方からご意見を聞かせて頂ければと思います。
◆林 ありがとうございます。先ほどの3人衆のひとりの方ありがとうございます。また、今のご発言もありがとうございます。
ダムに沈むことを仮に納得一応した上のことであっても、どこまで切ないものだっていうのは、私も以前から高知県の早明浦ダムですね、沈むゆく大川村という調査をだいぶしていたことがあるので、渇水の度に昔の町が出てくるという早明浦ダムなんですけど、ダムというのは本当にどのような経緯を辿ってもいろんな矛盾とか、悩ましい気持ちをずっと持ったまま保たれる。
蘭さんが先ほど言ったとおり、それが本当に治水上合理的なのかという問題もいつまでもはらんでいると思いますので、常に私たちもダムカードでスタンプ集めて楽しくっていうことだけではいけないなと思います。
また、先ほどの昭和村のからむし制度。確かに女性が昭和村にIターンということですね、県外から移住してくることによって若い女性人口が増える、それで消滅可能性自治体にはならないっていう方程式になっていて、それが何か産業振興につながっているか、もしくは女性人口をなんとか維持というかですね、一定数は常に転居してくれるので小学校が維持できているということなのか。その両面が一応あるにしても難しいところだと思うんです。
昭和村は全村でいま、義務教育校一校でいろんな村を盛り立て、目の前には小中学校をなんとか維持しなきゃいけない課題がある。
私も生物多様性観察会などで福島大学・黒沢さんという生物の先生と一緒にお邪魔したりしたんですけども、なかなか根本的な産業そのもの―本来は奨励して―いまはカスミソウという花が発展してますけれども、それで若い人の仕事が生まれるっていうふうに、次にどう結びつけるかっていうのは、奥会津地域が悩んでいるところだと思います。
それで、話の後半のところで、京都大学の山極さんという霊長類の研究者の先生が言ったのは本当そうだなと思います。世界の増え続ける食料需要を満たすために、このNHKでもやってましたけども、アマゾンですら切り開いて大豆畑にしていっているっていうのが現状で、当面それで油とか食料需要をなんとかキャッチアップしようということなんですけれども、逆のベクトルも確かに生まれてきているということで、貴重な品種を守ろうとしたりですね、地域に固有の食べ物は維持していこうという動きも、それとはまた別の動きとして出てきているのも重要だと思っています。
それに関連する最新の動向として、山形県、山形で映画祭やる理由が一個これでできたわけですけど、山形大学の農学部が鶴岡にありまして、枝豆の品種でだだちゃ豆という歴史の長い品種を、ほかの一般に出回っているものから、ちゃんと区分して品種として評価していくというところから始まって、今や野菜のありとあらゆる品種を遺伝子的に解明して、それを国の農研機構というところのジーンバンク・遺伝子バンクに日本初登録したという。山形県がこれほど農業界で脚光を浴びた瞬間は過去百年間なかったぐらいの出来事が今年ありました。
それもお米とか大豆とか菜種とかすべて画一化して行くという抗いようのない大きな動きと、また別のちっちゃいかもしれないけども、地域に固有の取り組みは頑張っていこうというその両方やる必要があるんじゃないかという山形県政をあげての取り組みですので、東北地方の我々として注目したいことで、かつ福島県としてはちょっとそれが弱いところは頑張らなきゃいけないなというふうに思います。
◆阿部 そうですね。さっき昭和村の話になったんですけど、実際からむし織という『からむしのこえ』などをみてると確かにそこに夢があったりとか、何かそこに行けば新しい生き方ができるかもしれないっていうふうに、若者を呼び込む魅力の、ある意味、なんと言ったらいいかな、表象になっていて。
僕は映画をずっとやっていて思うのは、映画でサブカルチャー、いわゆる芸術以下でも娯楽以上、というところでサブカルチャーという言葉を使うのだけど、例えば『フラガール』という映画があった。これによってスパリゾート・ハワイアンズが全国に知られることになり、その大ヒットによって例えば東京女子大の―当時は就職氷河期でしたから、あの映画が公開された時は―就職ができない女の子が、一流の大学の女の子があそこに願書を送って来たっていうのが民報の記事になったくらい、サブカルチャーの影響ってすごく大きい。ある意味危険でもあるんですけど。
サブカルチャーがラジカルであると同時に、まず問題を共有する意味では最高の、ある意味文化なんですよね。
だからまずそこに、昭和村にからむしというのがあるよと。で、からむしをめぐって若い人たちが戻ってきたりとか、色々その何か地域振興にしたいなということで、どんどん外部から人が来ているよっていうことが一つサブカルチャーとしての位置付けというのはすごくあると思うんですよね。
で、例えば昭和村の今の舟木村長は若い頃に「奥三面」サブカルチャーをみて、自分は昭和村に戻りたいなと思って、村おこし町おこしの若者の集団のひとりとしてずっとやってきた意味を考えると、やはりされどサブカルチャー。たかがサブカルチャーされどサブカルチャーだなというふうに思います。
それと、この映画が今、なぜこの時代に必要なのかというところで言うと、やっぱり映画って僕は遅効性のサブカルチャーだと思って、即効じゃない。遅効です。遅く・ゆっくり・後からじわじわと効いてくる。
本当にすごい映画というのは、そのみた直後にはよくわからない。でも数ヶ月経って、あるいは数年経って、自分がその映画の何かの場面とスパークするような生き方を迫られた時に、すごくその、ある場面がこう自分の人生にリンクしてきた時に、それはものすごい大きな影響を及ぼしたりすることがある。それって即効性じゃなくて遅効なんですよ。本当にすごい映画は遅く・ゆっくり・効いていく。
そういうふうに考えると、この『奥三面』が作られてから40年経って、こうやって今、この映画をみたことによって問題が共有されていって、いろんな人がポジティブに、何がいまの問題なのか?何が自分の中で問題意識として生まれたんだ?みたいなことで、議論ができてるっていうのは、これこそまさに、遅効性の映画としての最高のあり方だなというふうに思うんですね。
で、ちょっと話し飛んじゃうんですけど、食べ物の話になっちゃうと、PRも半分兼ねるんですが、チャールトン・ヘストンという『ベン・ハー』の俳優さんがいて、彼が若いころに出た、ある意味B級作品なんですけど、『ソイレント・グリーン』(※米SFサスペンス、1973年公開))という映画が見直されて、いま東京で公開されています。
これも子どものころによくテレビの日曜洋画劇場の淀川長治さんが『ミクロの決死圏』とかなどの映画と一緒によく宣伝してたんですけどね。放映も当時よくされていて、僕、子どものころ何回もみてるんですよ。
このソイレントグリーンっていうのは、ソイレント社っていう、いまでいう多国籍企業が世界の食糧事情を牛耳ってて、ソイレント・イエローとかソイレント・オレンジとかっていう、クラッカーみたいな板みたいな食べ物を独占的に専売的に売ってですね、人類の食糧事情を賄っているというSFです。
いまから50年前に作られた『ソイレント・グリーン』は舞台が2022年なんですよ。だからいま公開してるんですけど。で、ソイレント社は新しい食べ物でソイレント・グリーンというのを作るんですけど、ソイレント・グリーンの製造過程をめぐってチャールトン・ヘストン扮する刑事みたいな人がその真実に迫っていくっていう話なんですけどね。
その2022年は、チャールトン・ヘストンみたいな30、40ぐらいの若者は牛肉を見たことがない、あるいは野菜を見たことがないんですよ。加工された食品しか知らないんですね。
50年前の『ソイレント・グリーン』を作ったときの、リチャード・フライシャー監督はちょうどジョージ・オーウェルの『1984年』を読んだのかもしれないけど、多分いまから50年後の2022年にはこんな世の中になってるかもしれないね――みたいなね。そういう意味ではサブカルチャーならではの飛躍ですけれども。でもいまこれを公開するっていう配給会社の狙いとしてあるのは非常にアクチュアルである、と。いま現在ソイレント・グリーンみたいな食べ物は、昆虫食とかコオロギ食みたいなものだったり、よくよく考えてみると、これだけの人口を賄うには野菜だって遺伝子組み換えだし、肉だって、もう本当にブロイラーですとか農場内での大量生産で牛なんかもほとんど飼料漬けにされて解体されていくみたいなね。そういう機械的な仕組みの中でしか、私たちの食糧を得ることが出来ていない。
でも、一方でこの『奥三面』をみていると、映画をみているだけの部分で、表層で判断するならば、すべてを自分たちで作っている。
でも、今の自分の生活を見なおすと、僕は土ひとついじれないっていうことに気づかされるんですね。で、僕はちょっとここで言いたいのは大好きな思想家でブラジルのイヴァン・イリイチという人がいて、この人は最初ラジカルで、そもそも原始社会に回帰しろっていうのか?みたいなことを言われたりもして、当時は非常に批判があったんですけど、いま読んでみると全くいまの現実に合致しているとしか思えない。彼がこう言っているんですよ。

経済成長の影に覆われたところでは、どこでも職に就くか、消費に携わらない限り、我々は役立たずなのです。
公認された専門家の手によらずに家を建てたり、死体を埋葬しようとすれば、無政府主義的な傲慢とみなされるのです。我々はもう既に自分の中にある力を失っています。そうした力を発揮させる環境条件をコントロールするすべを失っています。
外からの脅威と内からの不安に自信をもって対抗するという感覚を失っているのです。

というふうに言っているんですね。
だから僕なんか『ソイレント・グリーン』をみちゃうと、本当にもう与えられたものを買わされて生きるしかないな、っていうふうな、当時の行き過ぎた消費世界に対する批判がフライシャー監督にあったと思うんですけど、姫田さんの映画をいまみてるとまさにその40年前の作品もすごく現実感を持って迫ってくるのはこういうことなのかなあと思っています。
◆姫田 ご理解いただけると思うんですけど、『越後奥三面』という作品は代表作ではあるんですけど、119本の中の1本なんですね。このプログラムの下の作品リストをみていただくと、民族文化映像研究所の中の姫田忠義監督作品は一作もないんですね。民族文化映像研究所作品と称して、みんなスタッフが一列に並ぶというようなことをやっております。それは姫田の考え方があったわけですが、この119本をみていただくと、だいたい姫田の興味っていうのが分かると思います。
というのは、いわゆるPR映画はないんです。それからまあ産業映画とかですね、70年代、60年代ご存知の方はわかると思うんですけど、そういうことも映像業界というものがあったんですけど、それとは無縁なんですね。
いろんな、当時はですね、ご縁があったところで番号が増えて119にはなったんですけど、なんか雑多なような感じがするんですけど、ひとりの人間がこれやってるんですね。岩波映画というのは6000本ですよね。確か6000本映画作ってるんですよ。民映研119に比べたら全然量があるわけですけど、ひとりの人間がかかった119本というのは凄い数だと私は思っています。
この『奥三面』がって言われると、すごく、ちょっと戸惑っちゃうですね。ひどい言い方をすると『奥三面』だけじゃないんですって説明する立場だと私は思っていますので。私の課題は何かというと、この残されたものをどう守るかっていうこと、一語に尽きるんですねえ。いま一般社団法人民族文化映像研究所として―ずっと株式会社だったんです―それを姫田が亡くなる直前、一般社団にしたものです。ほとんど休眠状態でございました。
いま3人でやってます。小原信之というものが代表をやって、私ともう一人、ドキュメンタリー監督で今井友樹という姫田忠義最後の弟子なんですけど、3人で一応社員ということでやっているんですけど、無給でございます。事務所はやめました。ただ、私が引き継いでおります、姫田が住んでいました団地を倉庫にしています。
映画のフィルムは、フィルムというのはネガですね。それが大変なんですよ保存が。湿度管理のある倉庫を借りています。その倉庫ではある程度費用かかってますけど、昔に比べると1/30ぐらいに抑えました。で、うちの団地を使ってますので家賃は無いです。
いま、どうやって収入を得ているかというと、制作はしておりません。映像制作は。私は私で自分の映像制作をしてますけど、ちょっとジャンルが違う。今井友樹は今井友樹の会社でやっています。小原は小原でカメラマンとしての収入が。
みんな手弁当でやっているんですけど、最後のページに書いてありますDVDの貸し出しっていうのをやってるんですね。こちらにも借りてくださっている方が来ているんですけど、要するに民家であったりとか、公共センター、公共ホールとかですね、お借りいただいて、そこで上映会をやっています。昔からやってるんです、民映研。
それを16mmのプリントでやってたら、もうこっちは16mmで貸したいんだけど借りる方が困っちゃうっていう時代になったんで、DVDにして、で返していただくという、料金的には60分までの作品が、15分でも60分までだと8000円です。厳密に言うと一回なんですけど、まあそこは黙ってましょう。だからですね、10人いると1000円で上映会みてもらえる。それを結構、全国でやっていただいています。
ですから、このような、今日のような立派なホールでみていただく贅沢はあまりにも贅沢すぎるほどの特異なことなんですね、出来事として。
初めてでした。きょうポップコーンのある映画館で上映というのは。さすがにポップコーン食べてる人はいないだろうと思ったんですけど、感激しました。
早速メールしまして、代表の小原に「ポップコーンがある」。本当に5人とか10人とか20人とか、そういうところで全国で上映していただきたいので、口コミで広がっていくと思います。このリストを見ていただくと、「これみたいな」というと、番号にあっても貸せない作品はあるんです。ただ、極力ありますので、是非ともご連絡を。(林 これ=パンフレット=を購入しないと分かんないですね)でも、なんかみんなほとんど持ってるような。ね。
◆阿部 劇場で売ってますんで大丈夫ですけど、木曜日まで。手を挙げられた方どうぞ。
◆女性 ちょっと補足したいことがありました。第1期生の織姫。昭和村のからむし織を継承する女性たちのシンポジウムに、コーディネーターをしてくれということで行ったことがあります。
もう10年近く前、25年ぐらい経ってるでしょうかね。雪の中、雪の絶壁の中を行って、昭和村の宿泊施設で皆さんのお話を聞きました。その中でおひとりの方はいまは三島町の男性と結婚して、三島町や奥会津地方の伝統食を引き継ぐような本を出されたりしている方です。それを踏まえて私が実感したのは、もちろんからむし織の伝統を継承する人たちを育成するということなんですが、大きな狙いはご指摘があったようにお嫁さんをほしかった。
先日、福島県が少子化率がどんどん、子どもの出生数が減ってるという話の中で、北塩原村がゼロ、三島町もゼロで昭和村はそこそこ生まれているのはテレビでも放映されていたんですけれども、織姫のおひとりとして福島にいらした方で、今は五十嵐さんという女性が地元の男性と結婚して5人お子さんを産んでいるんですね、これが大きいと思います。こういう現実があるということは確かです。
でも私、きょう映画をみて涙がいっぱい出ました。というのは、私が東京の杉並に生まれてほとんど高度経済成長とともに成長したんです。で、杉並も雑木林と畑しかなかったところがどんどん舗装されて、東京オリンピックになり、あ、前の東京オリンピックですよ、いろいろ変わっていった。
その私の生育歴からして、三島町にしばらく住んだことがあるんですけれども、とてもショックでした。色んな事がショックでした。
そこに住んでいた家のおじいちゃんは、熊の胆をちょっと食べれば、全ての万病は治るとおっしゃったんですけど、私は熊の胆を口にすることはできませんでしたし山鳥汁は東京の高級料亭でしか出てこないから高級な料理だと言われたんですけれども、一口食べただけで1週間寝込みました。そのぐらい何て言うんですかね、地元の新鮮なものは、高度経済成長の中で成長したやわな私の体に合わなくて。
その生活の中でいろんな学習をしました。まず雪がものすごく降るっていうことに対して、屋根から雪がドサッと夜中に落ちるんです。で、その落ち方がすごいんです。
で、この屋根から雪がドサッと落ちることによって、そこで生き埋めになる人いないんですか?ってお聞きしたら「いる」と。どうするんですかって言ったら「運命だ」っておっしゃったんです。「それが人のさだめ」だとおっしゃった。
それから、こんな雪が深くて夜は真っ暗だし、こういうところに住まないでもっと暖かいところに住みたいと思う人って多いんですか?って聞いてみたら、「ここを守っていかなければ日本の水資源は守れないんだ。だから山を守り続けなきゃならないんだ」っていうこともお聞きしました。
いろんなことをお聞きして、そして今日の映画に出てきた歳徳様、虫送りさまざまな行事が会津の三島町でもだいたい同じようなことが行われています。で、ゼンマイも本当に美味しいものでした。
でも、それらはことごとく失われているんですね。だって担い手いないんですから。このことを政治家に任せるとか、何とかじゃなくて、私たちは自分ごととして捉えてどうしたら若い人たちが故郷に戻ってきて生きていけるのか、教育していけるのか、この日本の経済格差の問題とか、いろんな問題を自分事として踏まえて何ができるかを考えなきゃいけないので、薫平先生がおっしゃったみたいに、学生たちがそういう田舎に住んでみたいと思っても、本当に生活が成り立つのか?子供達を教育できるのか?そういうことを私たち先に生きた世代は真剣に考えて、自分でできることをしなきゃいけないんだなということを考えました。
私は映画が楽しみたいので、そこから何か教訓を得ようとか思ってるわけではありません。ただ、自分が経験したことを、私より年上の人たちから聞いたこと、漆塗りの扉の前で語っていたおばあちゃんのような人たちが、女性としてどんな人生を生きたのか?そういうことに思いをはせながら、自分にできることを福島でやっていきたいなと思ったので、本当にお父様が残してくださった映像、心に沁みましたので、それを大切にして、残された日々を生きて行きたいと思いました。以上です。
◆阿部 ありがとうございました。もうそろそろ4時になります。4時半ぐらいに終わるということで、最後に一言ずつ。
じゃあ私の方からまず。今おっしゃられたように、本当に失われてしまったものを、映像に残すっていう簡単に言ってしまえばそれだけのことなんですけど、でもこの『越後奥三面』をみて、まだ三面は幸せだと思いました。たぶんこの時代、こんなことはあちこちにあったんだろうなって言うか、日本中できっと起こっていた。
まだ映像に残してもらえた、まだ声をとどめてもらえただけでも幸せだったなというふうに僕は思います。
今、私たちが共通認識とか、同時代意識としてすごく問題意識として持っているのは、たぶん震災を経験した僕らはいかにして、この思いというものを忘れないで継承していけるかっていうことだと思うんですけど、なかなかそれはとても難しい。
あと、いかに他者の苦しみに共感して寄り添えるかということ。この大切さを知っているんだけど、自分が逆の立場になって、それは本当に難しい。
その中で映画が果たす役割っていうのは、やはりそこに記憶の痕跡をとどめて―まずは残りますから―そこから発するっていうか、そういうことがすごく大切だなと思います。
映画って本当にすごいなあって思う瞬間が、僕たまにあるんですけど、この『越後奥三面』って、そういう意味では本当に僕にとっては大切な映画です。
あともう一つ。奥三面は消えてしまって、忘れ去られ埋もれようとしてますけど、姫田さんの仕事そのものが、蘭さんがおっしゃったように、いまだに正当な評価を得られていないのではないかなというふうに思います。
戦後の独立映画史、特に日本の映画作家、戦中戦後を経験した人たちっていうのは、すごく問題意識が高かった。皆さんが誰でも知っている大島渚のような人もいるかもしれないけど、大島さんよりももっと独立系の分野でやっていた作家がたくさんいます。
先ほど蘭さんもおっしゃったように水俣に寄り添った土本典昭ですとか、あと福祉映画をずっと続けた柳澤壽男さん(※1916年2月24日〜1999年6月16日)の映画なんかも、やはりすごいと思ってますし、今、みるべき映画ってのはたくさんあるんだけれども、忘れ去られ、埋もれようとしている。
日本の戦中戦後を経験した戦後独立系の映画というものを、この作品を通してもう一度再認識してもらって、皆さんにも興味を持ってもらえたら本当に嬉しいなあと思っています。今日はありがとうございました。
◆林 だんだん阿部さんが淀川(※映画評論家の淀川長治)さんに見えてきましたけど、最後、あの決め台詞言うのかな、「映画って本当に……」ってやるのかなと思いましたが。(注*淀川長治氏ではなく、正しくは水野晴郎氏」)
今日は貴重な機会をいただきまして、ありがとうございました。さっきの二瓶さんの話をお聞きしても、やっぱりつくづくですね、伝統文化であれ、山村の生活の知恵であれ、それを自分でやっていこうっていう人がいるということ自体が、いま相当かけがえのないことだな、と思います。
さっきのマタギの猪俣さんの話でも、僕もたまに金山町とか行っていると、「いおりカフェ」(※三島町早戸・つるのIORIカフェ)っていう金山と三島の境界線上にあるところ、冬なんか行くと、以前だと猪俣さんが鹿が取れたって、鹿をさばいたりしてるんですね。「え?ここに吊るしておくんですか?」と聞くと、「いや、冬は一階は使わないからいいんだ」と。周りが雪なので雪室になって、今でいうスノーエイジングという、高い湿度の中で肉を熟成させるということをずっとやってるんだということだったんですけども。
一緒に行ってた学生なんかはですね、すごいことやってるんじゃないかっていうことをそこで感じ取って、自分たち、もうお肉というものについて全く考えてなかったなということを口々に言います。
そういうことで地域おこし協力隊とか、いろいろな研修制度を使って農村とか山深いところに飛び込んでいく人がどんどん出てきてるっていうのは、私たちとしてはどのようにこれを、そういった人たちをちゃんと評価して、その感性を伸ばしていってあげられるか?
この映画をみて、また考えたくなりました。
最近の三島町の町議会議員選挙で、まさに協力隊で来た人が、女性なんですけども、トップ当選して、これから外から来た人の立場・経験を活かしながら町おこし頑張りたいという公約を掲げて、圧倒的トップ当選したっていうのが何か新しい息吹を感じます。
また、ジャーナリストの小林さん、今日いらっしゃってますけれども、映画の前後でフォーラムで話したんですけども、福島県の伝統、先ほどの会津の木地師のこととかですね、宮本常一さんがいわきの方を調査したり、飯坂温泉にもよく泊まりに来てたんですけど、あと姫田監督は『樹木風土記』(※副題 木と日本人、未来社1980年)という本の中では、川内村を調査した記録なんかも克明に書いています。1970年代ですけれども、当時、河原村長(※河原武 在任期間1959年5月〜1972年3月)さんという人は山をなんとか活かして村の振興につなげたいということでいろんな努力をされている。この右下の写真が河原村長なんですけれども、私たち意外と宮本常一さんとか姫田忠義さんたちがこれまで考えてきたことから、まだまだ学べそうだなということを改めて感じます。
それで福島県もダム開発もありましたし、只見だけではなく三春ダムもありましたし、なにより原発を立地して誘致してきた浜通り地域の歴史もあって、一部は計画を東北電力が断念した場所もあります。
ですのでこれから農村のいろんな活かせる活かして行きたいという若い人たちの発想を伸ばしていきたいと同時に、電源開発とか原子力発電を誘致してきたこと自身がですね、私たちの大人の世代の責任としてはどういう課題があったのかということは、そのままほっぽらかしてはいけないというふうにその二つのことをつくづく考えました。
また、姫田さんの会社の貴重な映像資料がまだまだあるそうなので福島大学とかこの如春荘などをお借りして、また上映会やってみたいなぁと、カフェロゴさんにもお世話になりたいと思っていますので、またこのような機会、何回も出来ればありがたいと思っています。今日はありがとうございました。
◆姫田 今日はご覧いただきましてありがとうございます。本当に今日みていただいて100%みていただいた方になるわけですよね。私はフェイスブックでこの今日のイベントを知って、「ちょっと興味あり」として参加ありってしたんです。
まだ今日3日目ですよね、上映は。3日目で、映画をみた人限定で別の場所で――って、すごく興味湧いて、うちの代表の小原(信之)と「これは面白いね」。遠藤(※遠藤協)くんも「え!このイベント面白いね」。だから、この形式は、要するにここで上映しなくてもいいんだ、ということなんですけど、いつも上映後にお話をしましょうっていうのが姫田のスタイルだったのですけど、場所を変えてというのができるっていうのがすごい。
普通できないですよ。皆さん三々五々散ってしまったり、あと1回だけだったら、例えば一昨日みたよ、昨日みたよって人がいらっしゃるかもしれないですよね。それがすごいなと思いました。
すみません、あんまりうまくしゃべれないんですけど、姫田が生きてたら本当に驚くようなことが福島でみていただいたと思います。これ東京でやったんです。大阪でもやって、先週は1回だけですね、1日だけでしたけれど高知でやりました。その高知は40年間上映会をやってくださっているところがあるので行きました。先々週は湯布院でやりまして、これも1回だけですね。
みていただいて驚いていると思います。ただこれ40年間誰もみてないわけではなくて、ものすごく貸し出し率は高い作品です。出荷(?)の多い作品なんですけど、新しくしたということを売りにして、「前みたのと全然変わらないじゃんか」っていう人もいらっしゃるかもしれないですよね。まあ当たり前なんです。何も変えてないんです。ただ、音がちょっと変わってるんですよね。
映画っていうのは引かれている磁気。このフィルムの中にこういう波形で音が入っているのでレンジが狭くなるんですね。今回はそれをマスターの6ミリテープから立ち上げたので、すごく低域が。今日驚いたのは、ちょっと音が大きすぎましたね。僕にはちょっと大きすぎるなと思う。
皆さん前の方の人、ちょっと重低音で困ったんじゃないかなと思う。細かいことですが6デシベル下げてもいいぐらいな感じ。6デシベルていうと50%なんですけどね。エネルギー。それぐらい。明るくなったら、スピーカーがあんなに並んでるのを知らなくて、あ、これか?これはちょっと低域をカットしないといけないぐらい、前の人はつらかったんじゃないかなと思いました。そう大きかったなあと思って。そんなちょっと余計な話をしています。
ぜひ、広めていただきたいと思います。「よかったよ」とか「いや、案外よかったよ」とか「とんでもなくよかったよ」とか言っていただいて、若い方はSNSで宣伝してください。
私はフェイスブックしかやらないんですが、代表の小原はツイッター・エックスでやっていますので、「奥三面」って検索で引っ掛かるとシェアとかしますので、ぜひ今日の感想など、ここでは言えなかったけれど、ネットだったら吐いて(?)やるっていう人もいるかもしれない。悪いことも含めてですね、みていただいて、書いていただければそれで広がると思います。
幸いにして東京は3週間やったんですけど、好評につき7月13日からアンコール上映が――。ぜひここでもアンコールがかかる、そんなような成功をさせたいなと思っていますので。(阿部 うちの仙台、他の地区でもやってほしいな、と)(会場 山形もやりまーす。山形も)
◆阿部 あ、言っちゃっていい?(会場 OK)山形もやるそうです。
◆姫田 ものすごく早く福島さん手を挙げたのは何故だろうと思ってたら、阿部さんという方がいらっしゃるから早々にできたんだ、と今日わかりました。初めてお会いしたので。
「なんで新潟でやらないの?」とかいろいろ文句が来るんですね。ただ、作戦司令部が遠藤くんというのと今井くんの2人でやってますので、次どこでかけてもらおうかという作戦をして、僕は年は取ってますけど若者の言いなりで。「30日やるんだったら行ってくるよ」という感じで動いてます。
本当に今日はありがとうございます。長時間10時から『越後奥三面』のことばっかり、絶対忘れませんよね。これね、ありがとうございました。
◆荒川 ええ朝からですね。2時間以上ドキュメンタリーみて、お昼もそこそこに集まって、また2時間以上熱いトークということで、非常に私としては、非常に幸せな時間でした。
たくさんの方に集まっていただいて主催した甲斐があったなと思っております。お集まりいただいた皆さんに御礼申し上げます。本当にどうもありがとうございました。
いろいろお話をしていただいた3人の講師陣にもう一度拍手をお願いしたいと思います。
林先生からも宿題をいただいて、また姫田作品をみる機会、話す機会があればいいなと思いますし、あとぜひとも第2部の方も何とかして、みたいなと思いますので力をお借りできることがあれば少しでもと思いますので、何とか第2部の方もみせていただきたいなと思います。以上でございます。これで解散といたしまして、皆さんどうぞ今日はお気をつけてお帰りください。どうもありがとうございました。