宮前:
私は何度も林先生の授業も見てきました。そうですね、例えば、ある偉い先生は、これは大学の授業じゃないとかいう先生もいましたし、それから学校現場の先生はやっぱり教師主導の授業だねっていう話もされました。だから、確かにそういうふうに見えるんですけど。
実は私のときの6年生の授業「人間について」というのは、まさに今日の4年生の「ビーバー」の授業と同じように、人間と動物はどういうところが違うんだろうねということを、先生は子どもたちに問いかけたんです。写真も1枚も持ってこないし、何の資料もなかった。今日の映画の授業を見たときにですね、林先生が何を一番大事にして、子どもたちに考えなくちゃいけないこととかね、あるいはどうしてそうなんだろうとか、その子どもたちの学びの根源にあるものを育てることをものすごく大事にされていることがわかった。だから、例えば湊川とか淀川とかいろいろなところで授業をやっているんですけど、普通の学校では学べないような子どもたちが、本気になって学べる。
なぜそうなのか。それは、子どもたちに考えなくちゃとか、どうしてそうなんだろうとか、一人一人の子どもにね、まず疑問を持たせなくちゃっていうような授業作りに悪戦苦闘されたんですよ。だから、ものすごい資料を集めてやってるんですよ。つまり、一方的な問いかけのように見えるんですけれども、子どもたちが解決するための手がかりになるような問いかけをする。あるいは、子どもたちの今考えてることを聞き出しながら、周りの子どもたちにも問い返してみる。先ほど垂直的な学びと横に広がる水平的な学びを話されたんですけど、グループの中でやるものもあるんですよね。みんなで関わり合う学びの姿もどんな形でもやれると思うんですけど、林先生はそんな指導方法のノウハウなんかないんですよね。だからああいう形でやって、子どもたちに「考えなくちゃ、どうしてそうなんだろう」と考えさせて、それが全員ではないにしても、ああいう子どもたちの表情になってると思いますし、だから、あっという間の一時間だったとかね。先生の方を向ききりだったとか、あるいは宮前先生の授業のときよりも、すごくおもしろかったとか、楽しかったというようなことを書いてくれた。
そういう意味ではね、私の学校でやったスタートのときの6年生の授業から比べると、今日の映画で見た林先生の授業っていうのは、雲泥の差があるんですよ。それは何かっていうと、まさにその子どもたちに活動するアクティブじゃなくて、心の中で解決するアクティブな学びをするための授業の組み立てに、ものすごく頑張ってこられたんだなということを改めて思いました。
参加者E:
宮前先生の後にお話をするのはちょっと緊張するんですが、いろんなお話が出てきました。私の中でもまとまってるわけではないのですが、あの授業の映画を観て一つ思うのは、林先生の、特に「ビーバー」とそれから「カマラとアマラ」との授業は、子どもたちの心に刺さっていたなっていう気がします。結局、その「人間とは何か」っていう問いはすごく難しいんですけれども、子どもたち自身が聞かれて、子どもたちのレベルで答えられる授業だったと思うんですね。
それと比べて、「開国」については、ちょっとやっぱり難しさが出てきたのは、特にあの授業の感想で、実は多かったのが「那覇にペリーが寄ったことが印象に残った」と答えていた子どもたちが非常に多かったんですが、実は林先生が「開国」についての二時間目で伝えたかったこと、鎖国じゃなくて、開国というのも実は大変なことだったんだと、それを次にあまり取り上げられていない阿部正弘と島津斉彬らっていう人がお膳立てをしたんだぞ、そこに素晴らしさっていうのはあったんだよねって、それがとても大変だったんです。素晴らしいことだったんだっていうことについて、感想を述べた中で、そこに言及した2人の女の子で、よく発言していた子と、ちょっと眠そうにしてんのかなと思ってたあのイガグリ頭の子が、実はすごく中身を捉えて、あの反応してたと思うんです。そういった意味で言うと、「開国」の授業はちょっと難しかったなという気がします。
ただ、改めて林先生の授業の素晴らしさをどう考えるかというと、林先生はスタートで「ビーバー」を通して、今日は人間について考えるよ、「カマラとアマラ」を通して人間について考えるよという。「ビーバー」と、それから「カマラとアマラ」についての話は、一見関係なさそうにな話なんですが、子どもたちにとっては「ビーバー」の話はすごくわかりやすいわけですよね。そうすると、授業作りでいうところの教材っていう言葉になると思うんですよ。狙いに迫るための一つの素材として一つそれが提示されると、その教材についての林先生のその深さがとてつもないので、それを子ども向けにどう展開するかということにおいて、林先生の授業素晴らしいなと思っています。
それから、主体的対話的深い学びっていう話なんですけど、実は県の学力対策会議の中でも発話をどういうふうに減らすかというのが課題であると、本庁の会議で出てきています。今日の林先生の授業は発話だらけなんで、そういう意味で考えると、まさに発話をどう減らすかということからすると、もうお話尽くめのことだったんですけれども、そのときの主体的っていう言葉がとても引っかかる。それをどう考えるかということになると思うんですけど、私も最初に林先生のあの本(『教育の再生をもとめて』)を読ませていただいたときにですね、主体的対話的じゃなくても、もっと問題解決学習だとか、子どもが予想立ててそれをどういうふうに追求していくっていうのが授業のスタイルだよってなっていた。
この本をどう考えればいいのかというのはとても難しい話になるんですけどただ、主体的っていうのは、自分自身がどういうふうに学習をコントロールして、自分の学びを作っていくことを主体的と言うんですけど、あの子どもたちは主体的ではなかったのか。宮前先生の方からは問いをどう育てるかということがその核心なんだというお話あったんですけど、主体的っていうのはやっぱ強烈な自分から、これは何だろうっていう思いだと思うんですよね。それが「学習課題を作りましょう」と子どもたちで作った課題だから勉強しましょうというのは、形式的なものとしてそうなってしまう。でも、子ども自身が本当に追求したいっていうものとして、それが成立しているとするならば、多分目をそらさず黙って聞いていても、それは主体的な学びになるんじゃないかなという気がししました。
今日の映画の中で、2回目だけ子どもたちのインタビューがあったんですけど、私はあの時、あのフィルムだけを見て子どもたちが主体的であったかどうかっていうのを判断するのは正直難しい部分もあるなと思うんです。でも、子どもの終わった後の感想にこそフィルムに表れてない子どもの、何て言うんですかね、思いというか、そういうものが多分表れているんじゃないかなと思います。
阿部:ちょっと今一つ思ったのは、その感想すらもやはり書かされると、もしかするとペルソナを被るじゃないですけど、演技をするじゃないですけど、そういうこともありうるのかなって思ったんですね。
やっぱり、今回のなぜこれが映画になったのかっていうのは1977年、78年の世相もあると思うんですね。やっぱり林竹二が沖縄で授業をしたっていうことは、グループ現代の小泉修吉さんという戦後を代表する、ある意味でその社会性のすごい強い映像素材を作ってる会社の人ですから、久茂地で授業することに対しては、林竹二先生が相当準備をしたっていうふうに聞いてますし、他の小学校での授業実践を読む限りは、「開国」の授業の中でペリーが沖縄に寄ったっていう話をあまり入れてなかったなと思うんです。
なので、とりわけそこは映画として非常に映画的な場であるということでああいう風になったんだと思うし、当然カメラ4台が普段入らない教室に置かれたら、子どもたちもやっぱり演技をして一生懸命聞くっていうのがあったんで、この映画だけを見て林竹二の全部を知るってことはできないと、僕も最初からわきまえて入りました。ただ、あの映画を見てすごくやっぱ彼に興味を持ったのは、自分も授業や人前でその何か映画の話をするときに、必ずそのパワポってものを使って対応してしまうんですね。あれは非常に便利な電動紙芝居でして、あれを駆使すると、すごくなんかな付加価値が増すというか、見た目がいいんですけど、聞き終わってみると、なんか意外と残らないっていうか。
むしろ何もなく、その先生が我々に向かってばあっと話をしてくれて、先生の表情を一心不乱に見ながら聞き終えた後の印象の方が、パワポを何百何十万も見せられて60分過ごすよりも、ある意味脳裏に残るなっていうふうに、やっぱり今回映画を見て改めてやっぱ思い起こしたんですね。
そういう意味では、やっぱり論理を生徒に伝える上でパトスっていう情熱が必要なんだけど、でもそれだけじゃやっぱり駄目です。いわゆるその人間が持っている伝える教師の資質っていうか、オーラですね。そういう伝える力っていうか、それを誤解を恐れずに言えばカリスマ性というか、そういうものを持ってる先生が、もしその場に自分が立ち会ったんであれば、同じ話を別の教師に聞かされるより、林竹二に聞かされたときのインパクトの方が大きいってことはありうる。
だから例えばアジテーターってのは怖いとやっぱり思っていて、これを一つ間違えると自分のメンターとか教師、師匠がとてつもない悲劇になっちゃう。例えばケネディの演説なんか聞いてると引き込まれるけど、ヒトラーやトランプの演説聞いても引き込まれるわけで、そういう意味で師を選ぶって本当にすごく大切だなっていうのはやっぱり今回思いました。はい。
参加者F:
50年間、教育の世界に身を置いて、一月末に辞めて、やっと今はもう自治会で若い人たちとか、じいちゃんばあちゃんとこれまでと全く違う生活をして、それはそれなりに楽しい状況になってます。
40年前ぐらいですかね、最初にこの映画を見せていただいて、あのときと今日見たので、同じだなっていうのと違うなって思うものがあるし、あと経験によっても違う。やっぱり、皆さんに「何、そんなことなの」って言われそうなことの一つが、今日の映画制作した委員会の人たちって、男性ばっかりだったんだ。女性一人も入ってないんだなっていうのを感じるような時代なんだなって私は思う。皆さんはどうですかね。ですから、もう時代が変わってきてるので見方考え方もすごく変わってきてるのかな。
でも、私が見て、40年前に見たのと、今日見たので、全く同じものが一つだけ間違いなくあるなって思ったものがあった。それは、さっき阿部さんがおっしゃってる話を聞いていて、そろそろお話しなくちゃって思ったんです。例えばですよ、とても貴重で高価な食材を準備していれば、本当に誰からも素晴らしい料理だねって思われる料理ってできるのかな。あるいは、新鮮な食材を使ったからって、マニュアルもちゃんとレシピもあって、だったら作れるのかな。これを学校に置き換えれば、先ほどお話あったように教材はしっかりしたものがある。それに対して、いわゆる学びの過程と言われる学習過程もしっかりと佐藤学先生に作ってもらったとか、これでやれば誰だっていい授業になるよねって、思ってる人なんて教師の中に一人もいないじゃないですか。誰もいないんですよ。私はでも、今言ったことが、林竹二先生の授業は私から見ると、すごいことだなと思ってるんですね。ちょっと私事で恐縮ですけれども、二本松には23の小・中学校あるんですけれども、ちょっと前まで時間があるとしょっちゅう学校に行っていた。子どもと先生の姿を見に来てるんだといっていた。だから、授業も30分、あるいは5分でも十分。
そこで何を見てるのかなというのと、今日の林先生の私の見方は同じなんですよね。林竹二先生の子どもたちに対する真摯なあの接し方という話題がここで出てこないと、本当の林先生のことは理解できないのかな。私はそのことがあるから余計自分がへこむんですよね。いつも彼を見ると、立派なことを人前で話してる割には大した人間じゃねよな俺はな、と思っちゃうんですよ。林先生のああいう姿があるからこそというか、詳しくは皆さんの方が知ってるのかもしれないけど、林先生がなんであの学校を選んでるのか。高等学校についても、(林先生が選んだのは)ちょっと言葉悪く言えば、学力がない、勉強できない子の高校だよね。確かに福島県だって今、私も高校に勤めいてましたけど、7割近くが生徒指導困難校じゃないですか。進学校なんて3割ぐらいじゃないですか。どこも厳しいですよ。私も厳しい学校にいました。でも、そういう厳しい子どもは、もしかするとある意味、概念的なものがすり込まれてない。だから、本当にこの人って信用できるなっていう人の話をしっかりと受け止めて考えることができる学校を林先生は選んでたのかなって、私は思ってしまうんですね。小学生はもとよりそういうところは素直だから、林先生の、あの、何て言うんですかね接し方を見てたら、子どもたちって本当に違和感がないんじゃないですかね。
怖い人だなとか、上からばっかり見てる人だなとか、嫌だなと思わない。だから、23の学校回ったときも、それパッと見るとわかっちゃうんですよね。その先生と子どもとの関係っていうか、先生の凄さっていうか。それをやっぱり今ここできちんとみんなで話し合っていくってことが大事だと思う。だから、さっきの阿部さんの最後の言葉と私聞いて、そうなんだよな、学校の先生ってそれを除いて喋るんだよな、スキルの部分だけで喋るからいつまで経っても何にも変わらないと思ったんです。 やっぱり、先生って憧れられなくちゃなんないよね。そういう先生が今いなくなってきている中で、実は各学校にいるんですよね、そういう先生。そういう先生を見られないわけ。そこら辺に私は問題があるのかなと思いながら話聞いてました。
阿部:
すみません、自分ばっかり喋って申し訳ないんすけど、本当に僕、生徒の側から発言できると思うんで、市民の方が思い出したら発言してほしいんですけど、僕はその林竹二のような「この先生は一生忘れないぞ」っていう先生に一人も出会ってないんですよ。福島を出るまで本当に先生なんてつまらない人たちばっかりだなって思ってたし、全く影響を受けたことないんですよ。
それが初めて影響を受けたのは、やっぱり大学に行ってから大学の先生だったんですね。やっぱり進学校じゃないとそういう先生に巡り合いなのかな、ぐらいにずっと思い込んでたんですけど。でもね、やっぱり何かそういう先生に、小中高の段階でもし巡り会えてたら、自分の人生もちょっと変わってたんじゃないかなとかって思うし、そういう意味ではこの子どもたちがどういうふうに受け止めたかわからないんですけど、林竹二のあの表情ややり取りのコミュニケーションを見ていると、ああいう瞬間って自分にはほとんどなかったな。非常にそういう意味でも羨ましく思って、だから渡部さんとか中村さんとかと出会えたら、自分が生徒だったら、多分もっと自分ももっと違うましな人生を歩んでいたんじゃないかななんて思ってます。
中村:
さきほど宮前さんが、生徒に問いを与えて、そしてそれを育てることでそれを自分で解決したり、答え求めていくってことを林健さんは求めてたんじゃないか、っていうことをおっしゃって、僕もやっぱりそこの問いを問題意識って僕なんかよく言ってたんです。高校生なんで、そういう問題意識をどういうふうに育てていくかそのためにどう学んでいくかっていうそこがやっぱ一番の課題だなというふうに考えて授業を展開しているつもりです。その話を聞いたときに、今はもうやらなくなっちゃったんですけども、高校3年生の最後に森鴎外の舞姫っていう小説を読んで、大体いつも定期テストっていうのは、ここでこれはどうだったかあったかあなたはどう考えましたかっていうふうに聞くんですけれども、僕は意地悪で、最初にこれ全部一緒に読むから、その中で自分でこれが一番大事だなと思ったところに線を引いて、自分でそこに問題を立てて、そして自分で答えを書いてきなさいという問題を出すんです。問題を作れ、そして答えを自分なりに書きなさい。そうするとね、やっぱりそうやってそういうふうに声かけてテキストを読むと、やっぱりすごく読みますね。
だから、なんていうのかな、そのテキストを一緒にやっぱり読んでいくっていうことを映画の中で、特に「開国」の中で、大名が相談して云々っていうところにこだわった授業に一時間かけてましたよね。あれができるっていうのはすごいと思いますし、見た目は動いてないように見えても、すごく頭の中で、身体全体で動いてたっていうのが、表情になって表れてたということが、やっぱりアクティブ・ラーニングの本質なんじゃないかなと思います。
僕はアクティブ・ラーニングの「アクティブ」というところが好きじゃなくて、本当は欧米ではオートノマス・ラナーっていうらしいですね。オートノマスというのは自治であって、自分で自主的にその根をどう育てるのかというのが本当の教育なんだと言われてるっていう。僕はアクティブっていってる限り、多分本当の意味でのアクティブにならないんじゃないかなっていうことを林竹二さんに改めて今日教わったなっていうことを感じます。すごく大きな絵を描いた授業。大きなピクチャーが「開国」っていう、あの一行の中に一行の中にいろんな人たちが動いているってことを、それを提示してるっていうのはやっぱりすごいスケールが大きいなっていうことをやっぱ感じますね。
ですので、ちょっとこれは勘ぐり過ぎなのかもしれないんですけども、「カマラとアマラ」の方でも、最後に理性っていうことで、これもすごくやっぱりすごいスケールの大きなあの言葉が出てきましたし、そこには何かやっぱり沖縄でやってる授業だということもあるのは、やっぱり戦前の日本が過ちを冒してきた反省というのがすごくあったのではないかなと、勝手に想像しながら、やっぱりそういう点では今にも通じる作品というか、問いかけというのがあの映画の中にはあったなということを感じています。当たってるかわかんないんですが、はい、そんな印象を持ちました。
参加者G:
いろんなことを言いたいことがたくさんあるので、うまく話せるかどうかわからないですけど、私は50代後半になってから大学に入り直して、まだ教員免許を取って10年にしかならなくて、今は高校の英語の非常勤講師をしています。高校は7年目で、その前も私立高校や、あと京都の小学校でちょっと教えてくださいと言われてやったことがあります。なので、教員の経験はすごく浅いんです。今日、私がここに来た目的は主に皆さんにどうすればいいのか相談に乗ってほしい、っていうか解決策を聞きたいなと思ってきたんです。けれども、林竹二先生のことは「は」の字も知らなかったです。
私は関西出身なので、育ちもアメリカなので、先生のことはほとんど知らなくて、今日昨日、開国を初めて見た最初の映画を見て、真っ先に思ったのはこんなクラスだったら楽だろうなって思いました。もうお行儀がいいですし、目が輝いてるし、ちゃんと礼儀作法できいて、きっちり座り寝てる子は一人もいませんよね。あくびしてる子は今日の映画ではいましたけど、もう本当にもうキラキラして、じっと先生の目を見て、話をじっと聞いてるっていうのが本当に羨ましくて。私が今教えてる高校1年生のクラスは男子36人で、全員バスケットボール部です。けども、もうね、寝てる。最初っから最後までね。いくら起こしても起きません。あと、お喋り。私が文法を教えていても、お喋りをずっと続けて、いくら注意しても、何回注意してもやめません。もう、注意して、その瞬間は収まるんですけど、その次の瞬間また喋り始めてるんですね。あと2年生3年生も持ってるんですが、そこまでひどくはないんですが、反応がないんですよ。何を問いかけても反応がないです。こういう生徒に、今のその今日見た映画「開国」を、林竹二先生のあの授業をしたらどうなるのかなって、もうぜひやっていただきたいと思います。
だから、何て言うんでしょう。もちろん林先生のね、今までの先生方が素晴らしい教授法についていろいろ分析し、お話しされてましたけども、あの授業を今の子たちの前でしたらどうなるのかなって、私も林先生のように一つの題材を詳しく話したり、英語の授業でも私は今のイスラエルとガザの戦争の話とか、ちょうど教科書の単元が『アンネの日記』なんですけど、『アンネの日記』なので、イスラエルとガザの戦争に繋げて、こうなんだよって歴史を話したり、ドキュメンタリーを見せたりしました。中には寝ずにちゃんと聞いてる子も二、三人はいましたけれども、ほとんどの子は興味持たないんです。だから、どうすればこういう子たちに、林先生のような語り口のペースで、もうパワポも何もないからいいのかもしれないんですけども、どうすればいい?今の子たちにあの授業をすればいいのか。その、主体的に考える、主体的に考えさせる授業ができるのかっていうのは、ぜひもうベテランの先生方に教えていただきたいですね。
阿部:僕もすごくそこを聞きたいところです。
参加者A:
皆さんのお話を非常に興味深く聞いております。私もですね、アクティブ・ラーニングが絶対これしかないなというふうには全然思っておりませんし、主体的で対話的な深い学びっていうのは、本質はどこなんだろうっていうのは非常に大事な問いだと思っています。今日の映画の中にそのヒントっていいますか、本質がたくさん現れていたというのは感じています。
先ほどそちらの大学の先生がおっしゃった中で、実は、林先生みたいなレベルにはいかないにしても、ああいう授業ができる力のある教員っていうのは、結構いると思うんですね。今の現代の小学校の中にも中学校の中にもいると思うんですけれども、先生方のその力を発揮できないような、現場の空気感っていうんですかね、やっぱり今日のような授業も、今の先生がやったらば、いや「今の授業最高だったよ」って褒めてくれるのは難しいと思うんですね。
文科省から降りてきてる指導法っていうのは、あの教師主導の形ではないので、難しいと思います。なので、やはり必ずしもアクティブ・ラーニングだったり、対話だったりっていうことが正解ではないと思いながらも、それをやらないと怒られるというか、認められないというような画一的な指導法の推進というあたり、体制批判するわけではないんですが、そういうのはやっぱりよくないのかな。それぞれ先生方のスタイルがあって、その先生方の味があって、それを自信を持って発揮できるような現場にもっとしていかないといけないのかなっていうふうには思います。もちろん、リスクもありますし、どんなスタイルだってそのスタイルの中のピンと切りはあると思いますから、全てがいいと思いませんけれども、やっぱり先生方は自信なくしている感じがあるんだよね。もっと思い切って、自分を活かせる指導法を現場で発揮できる、そういう現場を追求していく必要があるのかなっていうふうには感じました。
阿部:
生徒が話を聞き、授業に突入してくれないっていう、そんな事例を皆さん抱えてらっしゃると思うんで、そこ戦って、教員をされてるんですか?聞きたいんですけど。
参加者I:
教員してなくていつもサッカーの応援ばっかりしてて、ワイワイ騒いでる感じだけなので今日の映画見てたら、いや、俺だったらキャーとか言って立ち上がって騒ぐなって思いました。暴れて対決したいなって思いました。そんな理性とかバカ言ってんなよ、みたいなね。僕は、だから個人的には、全然どっちにも当てはまらないっていうか、ふざけんなって思いました。ただ、極めて時代的で、もちろん、アクティブ・ラーニングは糞ですよ。あんな(林竹二の)講義も糞ですよ。そんなのね、だって、出会って深まっていくわけじゃないですか。出会うのは水平で、深まるのは垂直でしょって分けて考えるのは沙汰の限りですよ。
だから、そういうものがカリスマ性になるっていうんならしょうがないけど、カリスマって大したもんでもない。教員がカリスマって、過ちを犯すに決まってるじゃないすか。林竹二も過ちを犯し切ってると思います。ただ、瞬間瞬間に、やっぱり僕はそこで沖縄だよねっつったのは、20年30年経ってから、子どもたちの中で時限爆弾として、もう発火するっていう可能性があると思って聞いてました。でも、それは発火しないかもしれない。だから、そういうところが随所にあるわけですよね。僕、寝てたので、あんまり何かわかってなかったかもしれないけど、様々にいろいろな、つまり文明装置っていうのと文化装置っていうのと、その軍事的な問題とか、あの授業を聞いて大人になってから、めっちゃいろいろなフックがかかってるって思うんですよね。あのキラキラした目で見てるのも無理ですよ。そんなね、そんなものはなくていいと思うけれども、あのフックを命がけでかけてるっていうのは、授業としては沙汰の限りだと僕は思いますし、授業者としてもあんな授業やったらそわそわして、もう耐えられない。
僕だったらあの3倍発話をして、生徒に嫌がられるような授業をしちゃいますけど、でもそれは俺のスタイルだからしょうがないので、その中で2人ぐらい釣りあげたら勝ちって、僕はいつもそういう授業しかしてないこなかったので、もう批判非難ごうごうだ ったですけど、でも、その2人が俺の授業守ってくれたっていうか、そういう経験はしてきました。弟子はいます。だから少数の弟子はいます。それができない奴はやめた方がいいですよ。でも40人相手にやったらカリスマでやばいですよ。だから、その割合だし、今日はみんなのためにやろうとか、今日は一人のためにやろうとか、そういうふうに動くもんだと思いますけどね。全然、何か感想でした。はい、半分寝てたので、ずっとその程度に、だからふざけんなと思って聞いていただければ結構です、はい。
参加者J:
今の2人でもいいから釣り上げられたらいいっていう話、僕もそれでいいと思います。Gさんへの答えになるかどうかわかんないんだけどバスケットの生徒が多そうだから、全然教材をね、伏せてバスケの別の教材っていうか、何か持っていって。うん。食いついてきそうなものをやったらどうなのかなと思いながら聞いてました。
あのやれるかやれるかどうかっていうかね、そういうのできないって言ってるけど、僕は全く教師のなり外れっていうか、もう棒にも箸にも引っかからないうちに大学出ちゃった組なんですが、ちょうどその頃、林竹二さんの授業ってこれじゃなかったら授業じゃないよなっていうのを、この本から学んだ。要するに授業が成立するかしないかっていう問題で、成立さえすれば、小学生であろうが大学生であろうが、あの子どもからでも、主体性っていうのは目覚めて、そこからどんどん自分で広げていくことができるようになるだろう。今日の林さんがカリスマがどうっていうよりも、子どもたちにとって何であったかっていうと、非日常経験であったと思うんですよ。だから、普段はもうみんな、またその話かとか聞き飽きたような題材しか出てこないっていうような中で、何か刺激を得られないでいるわけだから、月に一遍ぐらい皆さんの現役の方たちが、非日常的な爆弾を落とすのはちょっとどうかなと思うけども、何か仕掛けてね、何年後かに、それが「あのときおもしろいこと言ったな」って思い出すような、そんな風にしてもらえたらいいのかなって。
僕はもう、これだけの人たちが、今、授業っていうものについて話し合うっていうことに可能性があるわけですから、何もしなかったものが頑張ってほしいなんて言えた口じゃないんですけれども、本当に教育については、今でも考え続ける。子どもたちについては、折に触れて、伝えていきたいものは自分なりに小さいようなと思ってところです。
参加者K:
皆さんのお話を受けて深めて、私、話すってできないので、浅いところ戻っちゃうかもしれないんですけれども、本当に50年前ぐらいの今日、今日の映画は授業だったかなと思うんですけど、教員にとっては本当に天国のような子どもたちの態度だと思うんですね。私が50数年前の今日の子どもたちの年齢だったので、話を聞けっていう指導がすごい時代だったんですね。朝の会でも、教室では先生方全員が、とにかく授業者の話を聞けって、集中して純粋な気持ちで新しい目で聞けみたいなのがすごかったので、うん。それはそれでやっぱり素晴らしいことだったんじゃないかなって思います。
今、学校でパートタイムジョブで教えているんですけど、毎日本当に話聞けっていうことで戦ってるし、毎回あのがっかりするなっていう感じです。ていうのは、学校の中でそういう文化がもうなくなっているので、私だけが「話を聞きなさいよ」みたいな強い指導をするんで、子どもたちもちょっと反発するし、何か他の先生方に言ってもあんまり通じないっていう古いタイプなんですね。でも、たまにすごく関心を持って触れて目がキラキラってする瞬間があるので、それを糧にやってるかなっていう感じです。多分ちょっと希望的観測ですけれども、何かそのときの授業が将来的にその子どもに残ってくれるかなって思えるようなときがあるかなと思います。
話が別なんですけれども、単純なお話になっちゃうんですけど、先ほど阿部さんがおっしゃった、宮前先生のところに林先生が来たときの授業で、何も写真も何もなかったとおっしゃってましたよね。阿部さんが、何でしたっけ、パソコンを使っての資料を見せないでやった方がいいんじゃないかっていうことをおっしゃったときに、その林先生も、もしかしたら本当に紙・写真も何もなく、子どもたちにストレートに語りかけて、そこで人間とは何かっていうのを一人一人の子どもが語りかけて、もっと子どもたちに発言させてほしかったなって思いました。そういうふうな授業をやってみた方がストレートに今の子どもたちにも届いて、いろんな考えが出てきて、深まっていくのか、将来的に何かの種として残るのかなって思いました。
林先生は、やっぱり自分の意図した答えの返ってくるものを受け取って進めてるかなっていう感じがしたので、その高みまで目指さなくても、そうやってストレートに問題をぶつけて子どもたちのレベルがいろいろであっても、もっと表に出してくれたら、もうちょっと良かったかなっていうふうな感想を正直に持ちました。
参加者B:
私、福島大学で大学院生を指導したときの話をしたいと思うんですが、教職大学院で先生やってて、そして大学に来て大学院の授業を受けてる学生なんですよね。悩みはですね、子どもが話聞いてくれない。子どもの授業が成り立たないっていうところから始まってですね、修士論文のテーマは何かご紹介したいと思うんですけど、今日は林先生の話がずっと流れていて、子どもの表情ということで、今はですねソフトがありまして、先生の表情と投げかけと子どもたち子どもの表情と、一つの画面にドッキングできるんですね。うん。
ですから、今、先生はどういう表情で何を語って、何を訴えてるのかっていうリアルなタイムと子どもたちがそれを答えるっていうところは、いったどういうきっかけでどうなってるのかっていうところですね。結論を言いますと、修士論文は不備だったということでした。私と大学院生のやり取りの中で。というのは、今日(の映画)はですね、カメラアングルが緊張してる子供たちの表情ばっかり撮ってましたよね。その大学院生は表情とその意図した質問に答えている、うなずいたり答えている子どもたちのことだけは撮るんですけど、他の子どもたちの様子はとってないんですよね。ですから、3画面でやったらどうか。教師とそれから受け答えしている子と、あと全体を俯瞰したものと組み合わせて、もっとおもしろいものができるんじゃないかというような話が一つの結論でありました。自信を持ったのですね。先生、熱量ですよ。訴えかける。必ず聞いてる子がいるんですよ。こうやって俯瞰して見るとうなずいたり、そうだなと思ってる子がいるんですよ。脚光を浴びないけど、教室の隅にいるはずですよ。先生(Gさん)、諦めないでください。必ず聞いてる子がいます。
そしてもう一つ、笑い話のような結論はちびまる子ちゃんの先生の言葉でやると授業をやると、子どもはすごく嬉しくて、聞いてくれる。あの人はこちらに出てくる先生、すごく丁寧なんですよね。どんな子にも言葉は、親しくてもそうですね。ちびまる子ちゃん、いい言葉でしたね、こんな感じですよね。真摯な熱情を持って子どもたちにかけると必ず1人か2人お話が出ましたけど、必ずいるんですね。その後にいるだけで、また頑張る力が出ると思います。
渡部:
今のお話なんですけど、僕は、やっぱりそこはブラックボックスでないと駄目じゃないかなって思ってるんですね。つまりその表情がどう反応したとか、それを評価はしないまでも、それは内的な活動とその表情的なものを結びつけることは、たとえ授業観察でも、それは僕はなんか違和感以上のものを覚えます。アクティブ・ラーニングっていうのは本来、見えないところにアクティブさがあるし、それが基本だと思うんですよね。それを何でもかんでも見える化しようにすると、それはどこか監視とか管理とか、そういうことに繋がらないだろうかって、僕は今のお話で伺って聞いた感じたんですけどもいかがですかね。
参加者B:
その話の中で出てきたのは、結局そういう表情が明るかったり、受け答えのある子にどうしてもカメラがいってしまう。ここがやっぱ問題だというのが一つの問題点でした。つまり、教師の答えにうまく乗ってくれる行為だけを取り上げる。そうでなくて、教室って40人なら40人の子どもがいて成立してるんだというところに目を向けないと、深みのある授業を目指すときにはうまくいかないんじゃないかなっていうのが一つの話でしたですね。
参加者I:
頷いてるやつは「赤べこ」って言って、話はわかってないっていうのが教員の常識です。すげえ熱心にこっち見て「赤べこ」してくれたのに、全然文脈取れないか、何聞いてるのかって思いますよ。だから、その内面と外面のそこが大事なんですよ。僕だから食ってやってるような奴、そんな客かもしれない。本当に嫌かもしれないんですよ。こんなわからんブラックボックスっていうのも、ちょっとやだなって思うね。嫌だなと思うんですけど、そこに踏み込んじゃったら、内面を見るっていう可視化してるってこと。もちろん、そりゃそうですよね。それはだからわからないし、ずれたりいろいろあるよねっていう話ですよ。感想を書かしたら、無表情のように見えた子が、そうそうそうこんなこと考えてたのかってそうなんだからあれが僕の経験そうすると、ちょっと寝てるやつの方がちゃんと食べないかんそうめんとか考えたこと、赤べこは意外と感想ありきたりだそうそれなんですよ。なんじゃこりゃっていうその辺は非常に難しいというか、簡単には言えない。生徒の感想はありましたよね。
参加者:
素晴らしい生徒たちが聞いてるなと思いながらずっと見てたんだけれど、でも、感想を聞いたら、中には、いや、緊張して何の話だったか覚えていないって言ってる子も一人いたし。なんだか質問してもちゃんと答えられないし、マイク向けたら逃げる子もいたし、けっこうちゃんと聞いてなかったのかなとか思って、ちょっと安心したんですよ。なんでこんな怖い顔して私の方見てるんだろうって、すごい緊張してる学生が一番感謝の言葉を述べてくれたとか。なんか、そういう経験はたくさんあるので表情だけではわからないんですね。あと、私、子どもたちの感想ですごく感心したのは、あの小柄な男の子が、小さなことをいくつも結びつけて大きなことがわかったっていうようなことを言っていて、なんて優秀な感性の豊かな子どもだろうと思って。ああいう子が1人でもいたら、なんか本当に教師冥利に尽きるなっていうのがすごい印象に残りました。
参加者D:
全体的に女の子が元気なのも印象に残って、さっきのお話に出た、撮影したりとかスタッフは男の人ばっかりだったけど、ちょうど70年ぐらいだと女の子たちが元気になり始めて、あの人たちが今社会でいろんなことをしてるんだろうななんていうのも想像しながら映画を思い出しました。あと、皆さんのお話を聞いて、元気が出ました。というのは、200人のアンケートに8人変なのが入ってた私から見れば変なのがあったとしても、その他はちゃんとわかっていてくれたりとか、問題意識を持ってこういうことを調べてみようと思うとか決意表明はあんまり書くなとか言ってるんですけれども、こういうことに興味を持ったっていうようなのがあるのでそっちだけ見てようかなって思って乗り切ろうと思いました。