◆男性1 今日で2回目、「奥三面」の作品2回目みさせていただきました。いままでずっと3年ぐらい上映会を宮城県の方で、私たちさせていただいてるんですけども、そこでこちらの民映研の作品はすごくクローズ、今のお話からいわせていただきますと、クローズアップされるシーンが多くて、昔の技術がぐぐっと迫って、技術を残そうとしている感じにすら見える。なんか、宮本常一さんの作品は技術史だって言われると思うんですけど、それになんか近いなと思って、すごく勉強になってるんですけども、そういうなんか技術っていうの、すごく興味を持たれたんでしょうか?お父様の方。
◆姫田 まず、いろいろ自然科学とか動物とか、そういうのあるんですけど、とにかく人間なんですね。で人間が出てこない映画は一本もないんですけど、人間の行為を記録するっていうのが大前提で、その中ではいろいろジャンルがあるんですけど、生活と、あと生活文化。
僕は小さいころ、「お父さん、生活と生活文化ってなんで?生活文化でいいじゃない」(と言うと)「違う」と言うんです。色々作品にする、作品を今日は持ってきていないんですけれど、民映研のテーマにいろいろあって、その中で技術っていうものもあります。
それで細分化されてきて、作品として、例えば紙漉きであったりとか、塗師(?)であったりとか、まあそういうふうに作品があるんですけど、そのやられている人の、人間に興味を持つので入っていくというスタイルだと思います。
◆男性1 ありがとうございます。
◆阿部 さっきちらっと質問が出たんですけど、この作品を見た方は、「これは今の時代にみるべき映画だ」みたいなことをおっしゃった、と。「すごく言われた」とおっしゃってましたけれども、具体的に言うと、なぜ、みる方はそう思われるのでしょうか。
◆姫田 すみません。僕ばっかり喋って。あれなんですけど、まず驚かれるということ。それはご存じない方がまず驚かれるんだと思います。それで、この映画の裏側にはダムの問題がありますので、それを知ってからの観点で、なぜ村が消滅したのかと考えさせられるっていう問題もあると思います。
それであとは、もう人々の暮らしですね。一番大きく驚かれるのは、ぜんまい休みがある。休暇がある。それ、僕はこの映画が作られたとき、高校生だったので驚きました。「え、そんな休暇があるの」と。(※ぜんまい休みのような休暇の仕組みは)そこでしかないと思うんですけど、でも東北地方にはいろいろあったんだけど、残っていたのが、第6等級と言うんですかね、僻地学校の第6っていうエリアだったらしいんです。小学校が。
こういうのは奥三面分校ともう一つ、なんとか村という同じところが2つしかないという、新潟県内に。そういうところに驚かれる、初めて知る人があったんじゃないんですかね?
◆阿部 林さん、ここまでのことにからめて何か思うことありますか?
◆林 はい、そうですね、姫田さんの作品はすごく技術に焦点を当てるというのは私も感じました。それで宮本常一さん、20歳上の宮本常一さんと一緒に歩いて学んだことが、やはり影響しているのだろうと思います。
例えば、宮本常一さんが書かれた、未来社とかですね農文協から、膨大な著作物が―今読むことができますけれども―やはり農村とか離島とかですね、宮本さんが歩いてるとすぐ何かの技術に目を留めることがありますよね。漁師さんの仕草をみて「あ、これはこうだからこういうことをしてるんだ」と。山村、越後のような山村。山古志村なんかよく宮本さん行ってましたけど、「これはこういう理由があってこうやっているんだな」と。
福島県で言うとですね、いわきの、当時草野村というところに宮本さんは戦前、昭和10年代に行ってまして。有名な『忘れられた日本人』(※未来社1960年)の最終章、「文字をもった伝承者その2」というところで、高木誠一さんという人を取り上げているんですけど。
その高木さんが、草野村というちっちゃな村を成り立たせるためにどういう技術とかを導入してきたか。
たとえば島根県の方から黒毛和牛を取り寄せて馬耕じゃなくて牛耕を東日本で初めて取り入れた方なんですけど、宮本常一さんが見ると、戦争中、馬は軍馬徴用ということで陸軍に全部供出するわけなんですけれども、そうすると農村の中に動力がなくなってしまう。
だから西日本の方で絶対徴用されない牛が重宝される。で、黒牛というのはなかなかよく働くし、ススキとか稲藁もよく食べるということで、これを福島県で初めて導入した高木さんという人はすごく先見の明があった。
宮本さんの目を通すと、一つ一つの技術はその時の世界背景の中に位置づけられるっていうことがすごくあるんだと思います。
私も、宮本常一さんが例えば越後でいうと山古志村で古い技術を掘り出して、それを文字にしたかなど、いろいろ学びまして、あと100年早く生まれていたら一緒に歩きたかったなというふうなことを感じるわけなんですけれども、おそらく姫田さん20年違いですので一緒に西日本から北海道まで歩いて何か技術に目を留めながら、どうしてその土地の人はそういったことを発展させてきたのかということを注目するようになった……。(姫田 先生!姫田と宮本常一はたった2回しか旅したことがないんです)
◆姫田 旅といっても先生をお迎えして一緒に行ったってのは、広島県の豊松村という『豊松祭事記』(※6作目1977年)っていう作品、初期の6番だったかな、にあるんですけど、その撮影の時に先生が来てくれたので1回。あと山古志村。2回だけなんです。
で姫田がですね、先ほども申し上げましたが、昭和29年、1954年に宮本先生と出会ったので、多分そうだと思うんですけど、最初の弟子、一番弟子でした。一番弟子なんだけど、先生は先生でお元気で、学校の先生でもないし単なる研究家だったんで、旅をしてらっしゃいますけど、仕事は一緒にするんですけど、それは先生の話を聞いて「山古志村っていう村があってね。じゃあそこ行きなさい」で行くので、一緒には行かないんですね。
のち武蔵野美術大学のゼミ生とか持つようになってからは、学生連れて先生移動していますから、その若い世代、姫田からみて20ぐらい下の世代が一緒に歩いているんですよ、先生に連れられて。その方たちがいま名誉教授に、70くらいで。姫田がここに座ってたとしたら95歳で、生きてたら。宮本先生はもうすぐ120歳ぐらいなわけですね。20違い。
父がよく言っていたのは先生の話を聞いて「先生いいですね。良かったですね。今はカスしか残ってない」と言ってしまったらしいんです。で、自分でも言いながら、「カスって、失礼な」と。あまりにも先生が歩いた時代と、姫田が歩いた30年代、40年代の変容してしまっているので、全然先生の時代と違う。
姫田がこう歳をとりまして「姫田さんのいた時代はいいですね」って言われてるわけですよね。若い世代。そうすると世代的に言うと、まあ、宮本先生、4世代ぐらいの庶民のうち、常民って言い方もしてますけど、そういう暮らしをみて歩いて、本当にみて歩いて、それの影響を受けた第一世代が姫田で、第二世代っていうのは、いま民族学者として皆さんやられてる70、80歳のひとたち。
◆男性2 中島と言います。今度の映画の中身というよりも感想なんですけど、先ほど姫田さんは「いまみてほしい」という声があると言ったんですが、私もそういう感じを受けました。
というのは、映画の中身がかつて確実に日本のあちこち至るにところにあったものだと思うんですよね。だから、そういうことを僕らいまの人たちは、きちんと頭に入れて、これからの生き方とかを考えるべきだというふう思っております。
それで特にわたしが言いたかったのは、今日こちらに政治家の方々がいらっしゃっているかどうかなんだけど、まずあれをみて欲しいのは国会議員の方々。議員さん方、あと地方自治体の議員さん方、さらに言えば、政策とかなんかに携わる国家公務員特に省庁の職員も絶対にあれはみるべきだと私は思いましたし、さらにもっと言えば日本国民全部みたらいいと思うんですが、特に今日は大学の先生来てらっしゃるけど、大学の先生なんかもみたら非常に参考になるんじゃないかなというふうに思うんです。
ああいう生活が、文化生活があっていまがあるということだし、いまはまあ、ああいう生活がほとんどないんでしょうけど、けれども、グローバル化とよばれるような時代になって、SNSとか、そういうことで世界が一体化しようとしてるんだとは思う。
それと、過去の、映画の中の生活を踏まえていえば、いま地球温暖化とかギャーギャー騒がれているんだけど、ああいう生活を踏まえて考えると、やはり今の地球温暖化に対してもどうあるべきかっていうことを非常にいっぱいヒントが出てくるんじゃないかなというふうに思うんです。作品の中身についてはね。まあ、色々思うところもありますけど、とりあえずはそんな感想を持ちました。
◆阿部 ありがとうございます。今の発言を受けて、なにかひとことありますか?
◆姫田 ありがたいと思います。これ1時間の作品だったら、もっとみてもらえるかもしれないですけど、なかなかちょっと皆さんに2時間、147分座っていてくださいっていうのはすごく難しいなあと思っています。
ただ、僕らの世代の、今回デジタル化して、たくさん連れてくる方がすごくいるんですが、僕の友達とか。みんな「絶対みせる」って。「いや寝ちゃうから」とか思うんですけど、やっぱり連れてきてくれて、映画館に行く。「1/3寝ちゃってもポイント、ポイントはすごく残ると思う」って言うんです。その母親がね、友達に。だから若い人にみてもらえるんだと思います。
ただ、この映画、40年前にできた時、試写会に行った時に、ある高名な、ある大学の総長までやるような映画評論家の先生なんですね、みて、捨て台詞のように「長けりゃいいってもんじゃないよ。姫田くん」って言って帰った。それを姫田、生涯根に持っていて、まあ、その先生もご存命なのでいまみていただいたら、もしかしたら「今みるべき映画だ」と言ってくれるかもしれない。(林 蓮實さん?)いや名前出さないでください。そうなんですね。
◆林 あのもし蓮實重彦さんだとしたらですね。なんとしてでも改めてみて欲しいと思います。で、失われた山村の生活、特に山の恵みを大事にしながら助け合って親から子に継承してきているわけなんですけども、姫田さんの民映研の映像作品もそうですし、宮本常一さんの写真とか著作もそうですけれども、かつての日本人、どれだけいろんな知恵を持っていたのか、それを継承してきたのか、ということをありありと私たちに教えてくれますし、さらに今回の映画で言うとですね、それを、自然にそれが移り変わっていくならまだしもですね、ダムの底に沈めてしまったという、わざわざですね、終止符を打ってしまったわけですね。
そのように人間社会、文明から言えば、生活用水、工業用水を取ったり、山の治水をするためのダム、発電をするためのダムということかもしれませんけれども、その下に沈めてしまったものの重みというものはどこまで考えたことなのだろうかと思う。すごく批判精神があるメッセージになってるなというふうに思いますね。
きょう、はなみずき書店さんいらっしゃってますけれども、宮本常一著作集なども販売されて、一つは『民俗学の旅』(※1993年)という、有名な講談社学術文庫がありますけれども、その最後の方の宮本さんの記述はですね、「自分は山口県の周防に生まれて色々旅してきたけども、結局考えてしまうのは人間の進歩ってなんだろうかということを改めて考える」と。
その途中で戦争があって高度経済成長というものがあって、その中で農村漁村がどのようにして歩んできたかということを、宮本さんは書いてきたわけなんですけど、結局、進歩っていうのをしたんだろうか私たちは?と。『民俗学の旅』っていうあの本の閉じ方はそうなってるわけなんですけれども、今回の『奥三面』の映像をみるにつけ、山の恵みを生かしてきた伝統的な技術を水の底に沈めて得られたものがあったのか?何だったのか?ということは、映像のインパクトということがありますので、本当に強く訴えかけるものがあるなというふうに思います。
◆阿部 ありがとうございます。素晴らしいコメント。はいじゃあ。
◆男性3 うまく言えないので、感想だけど、先ほど技術論的な視点からっていうことで、わたしもそういうふうなことあるんだろうなと思っていますが、ただ、ひとつ言えるのは、思うのは、失われたものを懐かしいというふうな視点ではないのではないかという気がして、むしろ三面もそうですし、南会津まあ奥会津、南会津というのは行政圏の名前で、只見川沿線では、電源開発、一連のあれがあったもので、あそこは三島町が奥会津(音声不明瞭)ですから、ちょっと違った意味で使って、先ほど「奥」という意味で、奥会津とつけたんじゃないと私は思ってるんですけども。まあ、それはどうでもいい話ですが。
ええ、その技術論っていうのは、実はああいう三面も、奥会津も、檜枝岐もそうですけども、昔は生活するのが非常に厳しい。それこそ現金収入もない、食べ物もない。そうすると、あるものをいかに生かそうかということで、そこで生きてきたんですよね。ですから、そこでは当然高度な技術、技術をより高めるというものが必要だったから、そこでそういう技術が。
ですからいまでも只見もそうですし、奥会津も南会津もそうですけど、福島県内でもかなり山村地域、条件の厳しいところに行くと、一生懸命、面白いというか非常にいい作品っていうか、いい木工品とか、そういう作ってるとか、あと昭和村なんかはカラムシもある。
みんな、沖縄も、この前たまたま沖縄に行ってきたんですけど、沖縄に行っても芭蕉布っていうのは、昭和村と交流があるっていう話しをしていました。(会場 宮古ですか?)私は本島に行ってきたんですけど、そんなことで若い人たちがなにを惹かれるのかっていうような話が、実は言いたかったところなんですが。
むしろ今こういう世の中で、学歴がある、お金持ちだとかっていうことに目が行きがちだけれども、案外人間は、根源的に自分が生きるっていう楽しみとか、そういう風なものを求めて、ある程度私らみたいに終戦直後、貧乏な時代に育ったものは物質的なものを求めますけれども、若い人たちは比較的恵まれた時代を過ごしてきたので、むしろそれよりも精神的なもので、なんか求めてる。
それがまあスポーツとか色んなゲームもあるかも知れませんけど、意外とその昭和村に織姫がずっといたり、只見なんかでも先ほどありましたけれども、そういう人たちが移住して、自分の生き方とか、自分のなんかそれを見つけて生きていこうというのは、地域に、そういう文化的なものが、決して学問的に高い意味や、評価の高いものではなくても、個人個人にとっての非常に価値のあるというふうに思えるようなものが残ってるから、それに惹かれていくんじゃないかと、私はこのごろそういう気がしてるんです。
ですから、今日のあれも、技術的なものを残したいという思いもあったのかもしれませんけれども、みる側からすると、そうやって生きている人たちの素晴らしさ、まあ我々が失っているもの、なかなか見つけられなくているもの、それが実はそこに感じられるから惹かれていくんじゃないのかなっていうふうに、今日あの映画をみて感じました。その視点では非常に面白い、面白いというと失礼な言い方になりますが、非常にいい出会いだったと思っております。
◆姫田 ありがとうございます。嬉しいです。私から見るとですね、技術、技術って、まったく姫田は思ってないんですね。お話を聞いていたら、それをやってたよとか、今やってるんだよ、これからやるんだって話を聞くわけじゃないですか。じゃあ撮ります、撮りたくなるわけですよね。
だから何かの、民映研じゃない行政の仕事も色々やってるんですけど、頼まれることあります。まちの(音声不明瞭)記録してくださいってこともありますけど、結構、この奥三面もそうですが、椿山(椿山―焼畑に生きる1977年)も豊松(豊松祭事記1977年)も、その村を総合的にまるごと映像で撮りたいっていう欲がありました。
お話を聞き、奥三面はカメラが入るまで1年かかってるんですよ。で、自分がふらっといったんですね。ふらっといって話を聞いたら驚いちゃった。東京帰ってきて「全部撮る」。
みんな「え?そんな金ないでしょっ」ていう話になりますよね。それで、次行った時にもカメラ持ってないです。確かね、5回目に。
姫田はカメラというものは映像、暴力的だと思っていたんです。やっぱりカメラを持った人間は、初対面の人にボーンと入っていくことはしない。鉄則としてました。そこがまあニュースと違うところだと思います。
でも、お話を聞いてたら、こういうことやってる。例えばあの当時、今日も見ていただいた、やっぱり20年以上前にやめちゃったお話を、例えば「熊オソ」。1982年に撮影がはじまって2年目に、奥三面セミナーっていって、日本全国から、北海道から沖縄の人が集まってですね、セミナーやったんですが、あそこで。150人ぐらい集まって分宿してですね。その時に丸木舟、第2部をご覧になったらわかると思うんですけど、丸木舟の説明をおじいさんが皆さんにしてくれる時は、大根を使うんですよ。「こうやって切る」って持ってて、熊オソもミニチュアを作るんです。そうしたら「実物で作りたいですよね」って話になるじゃないですか。それでこう話が増えていってると思います。
あと、ちょっと脱線ですけど、『奥会津の木地師』是非みてください。田島で、それは昭和50年ぐらいですね、昭和48年ぐらいですから、50年前にやってたことを、もう木地師さんは定住されていて、要するに移動性の生活をしている人たちがかつて日本にはいたと。
まあ、これは木地師とか木地屋の話をご存知の方がいると思うんですけど、やまの七合目以上の木を切ってよいという、そういう免罪符をもって色々していたっていう伝説なんですけど。それはでももう定住されてるんですよね、田島に。
で、その方はですね、女性が出てくるんですけど。信州の上田からひとりでお嫁に来た。
僕はそれを小、中学生ぐらいに聞いた時に、上田からこう上信越線から東北線に乗ってこういうルートが来てますけど、といったら、「いやいや、只見抜ければ一発だよ」っていうことで、16歳で独りで歩いてきた。まあ、それは木地師のルートがあったと思うんですけど、お嫁に来て、「そっかじゃあ信州・上田と近いんだな会津は」と思ったので、まあそんな話がどんどん発展しているわけですよね。あの姫田が聞いていると。
◆林 今のご発言の件、蘭さんの話、そうだなと思いますね。この映画、おそらく二つの大きな投げかけになっていました。一つは、ダムの事業はこういうやり方でよかったのか、という、政策とかですね、国のあり方に対する警鐘を鳴らしている面は確かに強いなあという感じがまずあるわけです。
もう一つはですね。若い人なんかは確かにこういう山の恵みを生かしたようなライフスタイルとか、企業に勤めるだけではない、生活を立てていくやり方は、自分もやってみたいなと、汲み取る人が多いんじゃないかなと思いますね。阿部さんがこの間、フォーラムで上映した東出(※俳優の東出昌大)さんのその後っていう映画が、その後というか「Will」っていう映画があって、なんと猟師になっちゃったっていう映画なんですけど。
奥会津でいうとですね、金山町の猪俣昭夫さんという人がヒメマスを飼う名人であると同時にマタギであるんです。あと、日本ミツバチの飼育の上手なんですけれども、その猪俣昭夫さんのもとに猟師になりたいという若い人が弟子入りして、一人前の猟師になりつつあることとか、先ほどの昭和村のからむし織習いたいと言って、他県からすごくたくさん、織り姫制度という研修制度習いに来るなど、あと、先ほどの映画の中でも雑穀を使って餅を作ったり、いま身の回りにあふれているものだけではない、何とも言えない、とち餅とかですね。そういったものをやってみたいという人が、すごく今の世代には増えてきたような感じがします。
ですので、私たちの学生なんかと話していると、我々おじさん世代だとダムとか山を切り崩していいのかという視点ばっかり、ちょっと頭でっかち的に映画をみせちゃうところはあると思うんですが、若い人は若い人なりに、そこから自分の人生どうなんだろうっていうような見方をしてくれると、それも頼もしいことだなというふうに思います。
◆姫田 割と少ない、ダムに関することは。2時間、147分の中で少ないと思ってるんです。
っていうのは第2部になりますとより濃く出てきます。皮相的でもある姫田の叫びも出てくるんですけど、それがないんです。
というのは、この映画ができた時は皆さんお暮らしなんです。まだ三面の村はある。そこで昭和44年ぐらいから昭和60年まで本当に皆さん苦労されて、それで区長がおっしゃってましたけど、もう本当にテレビとか、いいこと悪いこと、新聞とか書くから、それで苦労されている方たちがいるということで、ダム問題というものを本当に触れない、触れたくないっていうのがあったと思います。
あのやはり今ねそう、ちょっと突撃で、こうクローズアップするジャンルがいろいろあると思うんですけど、民映研、姫田忠義が考えたのは、やはりまず撮ってみせるのは、土地の人にみてもらうのが一回目なので、その人たちのお暮らしになってるところでどうみるか?っていうのが入ってるから、とても柔らかく、今のドキュメンタリストだったらやらないような和める感じがするんじゃないのかなと思います。
ダム問題、本当に、きょうは関係者いらっしゃるかどうかわかりませんけど、辛いですね。羽越水害っていうのが昭和42年に起きて、44年にダムの問題が立ち上がる。それは下流域の、いま、安倍首相的に言うと、国民の生命と財産を守るため、というようなことでダム問題の建設が立ち上がったといっていますね。
でも水害があった水域は三面川流域じゃなくて北の流域なんです。それなのに、三面ダムっていうのは、まあ僕も高校時代に行きましたけど、すでにあるんですよ。昭和29年だけどできているんです。その上に奥三面ダム、第2ダムを作る意味っていうのはさっぱり僕にはわからない。
で、国策、まあ黒部ダムとかは知りませんけど、県営ダムですね。水利、何のためにつくったのか?たとえば水力発電のためにつくったとかっていう時代じゃ、もうないですね。
北海道に行って、二風谷というところで撮影しているのが多いんですけど、そこに二風谷ダムができました。
皆さん苦労して、妥結して結局はダムができてしまうんですけど、10年でもう上げ砂。あんなゆるい、ゆるい川でも10年でもう浚渫しないともう使い物にならない、ヘドロのかたまりですね。奥三面みたいに急流からくる渓谷のものを溜めてどれだけ土砂を流しているわからないです。年に何回か一斉放水するんですよ。
そうしないとダムが溜まっちゃう。どうしてんのか分かんないですけど、まあ、早晩使い物にならなくなるんじゃないですか。奥三面あさひ湖っていう。ひらがなで、あ・さ・ひ湖というふうになってますけど。僕もちょっと学校でこう喋ったりするところがあるんですけど、「やっぱりつくりたかったんだろう。つくりたかったからつくった」。誰がつくりたかったかって言うのは皆さんご存知だと思います。
決してその土地の人がつくりたかったんじゃない。県営ダム、水利目的などたくさんあるじゃないですか。今も妥結してないところがいっぱいありますよ。当時いろいろ、本当に個別の賠償というか、すごくあるわけですよね、多くもらう人、全然もらえない家、45軒のうち。そういうことも語れないわけですよね、当時は。非常にその、姫田忠義の言い方ですけど、「こんな村ばっかりだよ」と。(列車騒音により聴取不能)
◆阿部 『第2部―ふるさとは消えたか』(※1995年)という作品は、何かこう第1部の補足のような感じで、別にみなくてもいいんじゃないっていうふうに評価がされているらしいんですけど、僕は一度みて、やはりこれはいっぺんにみるべきかなと思います。第2部では姫田さんはもうとにかく前面にでています。
まず冒頭、これYouTubeに動画が上がってるんで、えっと13分ぐらいの、これ言っちゃっていいんですかね?蘭さん。勝手に誰かが(林 海賊版?)――。ダイジェストになって、まず最初の画面出てくるんですよ。姫田さんがこういうふうにフレームで、こう奥三面の集落をこうやってフレーミングしてるんですね。
それでだんだんパンしていって、姫田さんのバストショットになった時に、こう彼はまず第一声「俺はね、この村ごと持ってどっか空の向こうに飛んで逃げたいよ!」っていうふうにこう言って第2部が始まるんですよ。
村上ですとか、新潟とかにきれいな家をつくってもらって、お金もある程度補償してもらって、都市生活者になった人たちが、生きがいを見失っている状況っていうのが第2部では非常に描かれている。で、僕がすごく覚えているセリフが、「何かを忘れてきた気がして仕方がないよ。口では言えない」っていうこのセリフ、やはりここにすべてがこもってますね。
確かに暮らしは便利になったかもしれないし、経済的にも楽になったのかもしれないけど、こういうの極端すぎるんですよね。だからそこがこの時代、まあ、ロスト日本の時代に作られたこの映画の、ある意味すごい象徴的な場面だったなというふうに思ってるんで、今日の上映を契機に、いつか『第2部 ふるさとは消えたか』もみられる状況を作れたらいいなと、僕は個人的に実感としては思ってるんですね。
で、からむし等の話になると、いまから3年ほど前に信州大学の分藤大翼さんっていう映像人類学者がいるんですけど、彼が昭和村の『からむしのこえ』っていう映画(2019年)を作ったんですよ。で、これは佐倉にある、なんだっけ?歴博?そこのたしか経費で作った学術映像なんですけど、すごく面白い映画で、これはうちで1日だけ1回上映したんですね。分藤さんが来てもらって。この中でもみてらっしゃる方もいるかもしれないんですけれど。分藤さんとお会いした時に、姫田さんの「『からむしと麻』、僕何百回もみてました。それをみた上で、自分は『からむしのこえ』を作ったんです」っていうふうにおっしゃったんですね。
こうやって姫田忠義という偉大なシネアストの作品っていうのは、心ある研究者や若い人たちに受け継がれているんだなあって思って、すごく嬉しく思いました。
で『からむしと麻』は消えゆくロスト日本の一面、昭和村の当時の営みというものを映画化して、姫田さんの当時の、いわばあの時代の映画人ですから、哀惜の念で、民俗学映画ってものを作ったと思うんですけど、分藤さんの映画はこれからこのからむしでこの村はやっていくんだ。これで前を向いていくんだみたいなメッセージになっていて、そういう意味でも、そこら辺ちょっとメッセージ的に違ってきてるんじゃないかなと思ったわけです。
◆姫田 今日、昭和村の方いらっしゃいますか?来てないかな。あの『からむしと麻』は1988年かな。今でこそ、からむしは全国区ですよね。福島県の昭和村が誇る産業で。確かに当時もそうだったんですけど、この映画を、父からすると青年たち、いま70ぐらいの、青年たちが映画を撮った、集まって撮ったわけです。
だけど横槍が入りました。それは昭和村なんです。これは村の機密事項だ。機密産業、その技術を映像で撮って見てもらうのは、なんて言うんですか、機密漏えいであるからやめろって言われたんですね。でも反対した若者、当時、3、40代の人たちによってできたんです。いま織姫制度ができて一大産業じゃないでしょうか。
◆阿部 この間、福島県の自治体で将来、消滅可能性自治体が発表されたんですけど、昭和村とたしか柳津でしたか?そこだけはならないっていうふうに。昭和村は、舟木(※舟木幸一)さんという方が村長やってるんですけど、舟木さんから一度はがきをいただいて、自分の人生を変えたものは何ですか?といったら、この「越後三面」。自分は若い頃にこの映画をみて昭和村に戻ろうと思った、というふうにおっしゃってました。
で、その舟木さんが、その当時から、からむし織制度というものを立ち上げて、なんだかんだ言われつつも30年持続ってすごいなってつくづく思うんですけど、今やもうからむし織は本当に日本の冠たる一大ブランドになっていますし、カスミソウっていうものが、麻に取って代わって昭和村の出荷品として一流ブランドに育てあげてますね。
だから、そういう意味では非常にこの「越後奥三面」はこんなところでも生きてるんですね。
◆姫田 ここ福島県なので、もうちょっとからむしに触れさせていただくと、あの映画の面白いところは『からむしと麻』なんですね。大芦とそのもうひとつ、おおなんとかっていう、ちょっと名前が出てこない集落(※大岐)でからむし、植物を育てて、片方が一年草であり、片方が多年草である。で、繊維をとる。それを並行して紹介しているんです。
それで普通からむしというと、越後上布になるまでの布とか、そういうものを説明するかと思うんですけど、いっさいそれはないんです。糸が出来上がるところで終わりなんです。
だけど、それは時間がなかったと思いますけど、とにかく植物から繊維を作り出して、それを糸にする、その人たちの、まあ糸車もそうですけど、その手の先をよくぞ記録したなと思います。
『日本の姿』で検索していただくとDVDが4巻ありまして、1巻に3話ずつ民映研の作品を30分にしたものがあります。その中に『からむしと麻』(※第4集所収)がありますので、図書館にあると思いますし、Amazonで 3500円ぐらいと思いますので、ぜひみていただければ。『奥会津の木地師』(※第2集所収)もそこに入っております。
◆林 姫田さん、その麻、からむしと麻は同じ麻の仲間なんですけど、もしかしたらですね、麻を作っていい免許っていうのはですね。非常に国からみるとデリケートな問題で、麻薬の原料になってしまうということですね、
もしかしたら昭和村、映像化のことで、ちょっとためらっていたのは、その免許問題は昔から麻を作っていたところに限り許可されるっていう。免許制度がですね……。
◆姫田 あの、そこを撮して、これはまあ、皆さんご存知だと思いますけど、免許制だということをちゃんと謳って映像にしたんですけど、やっぱりからむしなんですね。
で、信州の、ちょっと名前出てこないんですけど、あるところで麻の技術を村の方たちがやりたいんだけど、麻は許可制なので作れないから、からむしをやってるんですよ。
東京にもからむしがいっぱい、電車の線路の脇とかにも生えているんですよね。それぐらいまあ言葉悪く言うと雑草でもあるんだけど、ちゃんと栽培して商品化しているのが昭和村と宮古島、沖縄の宮古島っていうのが当時あったそうですけど、昭和村が抜群なんですけど、今、麻の再現教室ができないから、私たちはからむしでやってるんだっていうところがいくつかある。(林 代用用品になっちゃってる)なっちゃったんですね。逆に、逆転してるんですよね。
◆林 昭和村では、からむしは先ほどの三面のゼンマイと同じぐらい、短期間の出荷で現金収入としては半分ぐらい占めちゃうということで、糸まで昭和村の中でして、山を冬に越えて越後の方に入ったら、それで1年分の現金が得られるということで、ぎゅうぎゅうにつめて背負ってね。雪山の中を決死行で、そこに家族の1年分の現金収入がかかっているということで、昭和村で必死になってるわけなんですけれども。
からむし制度がここまで発展してきてる奥会津地域のすごい努力を感じて、またそういった映像文化なんかも合わせてみてもらえると織姫制度なんかもまた弾みがつくのかなというふうに思います。今の上皇后さん、美智子さんが皇太子妃だった時に昭和村に来てからむし製品を買って一気にブレイクしたということがありました。
◆姫田 あの、うちの父がですね、母に内緒で―からむしの映画を作った時に―頼んじゃったんですね、製品を。シャツじゃないんですよ、裃なんです。(会場 大変。無茶苦茶高い)
はい、35万とか。でも着る機会がない。水色なんですね。水色のからむしで裃を作っちゃったんですけど。
2回だけ着ました。1回目は1989年フランスの勲章もらったんですね。(阿部 レジオンンドヌール?)じゃなくて、オフィシェール(※将校)というフランス芸術文化勲章っていうのを。オフィシェールというのがあって、フランスで着て行ったんですよ。
その写真を見ると、いや~な感じがするんですよ。国粋主義者みたいな。
民映研創立25周年という時にあった時に、裃着て入っていったっていう、その2回だけのために、うちはすごくそんな裕福じゃないので、母に内緒で。取ってあります。着る機会がないじゃないですか。切腹みたいになるじゃないですか。
あの、いろいろあります。『奥会津の木地師』、からむし……。それと茂庭のシリーズがあって、茂庭がダムになる前に行って、まあその話がいろいろあるんですけど、ちょっと長くなります。
色々、織物であり、焼畑であり、それから一番ここから近い松川というところの、黒沼神社の『金沢の羽山ごもり』(※35作目1983年)というのも80、83年に撮っているんですね。
今日も先ほどホールの方で申しましたけど、とにかく1980年に奥三面と出会って84年にできたんですけど、その4年間に29本ぐらい同時に作ってるんです。その中には『アマルール』(※副題 大地の人バスク、26作目1981年)っていって、フランスのバスクで、スペインのバスク地方のバスクの村を全部丸ごと撮りたいという欲のある作品を撮ったりしてですね。行ったご縁で勲章もらったんですけど。
その関係ではとにかく元気な50代で。ただ、姫田68ぐらいの時に肺気腫と言われまして、後年、歩くと苦しくくてですね、2013年に亡くなりまして。慢性COPD(※閉塞性肺疾患)、慢性肺疾患?それ以外は本当元気でしたから、髪の毛は白髪になりましたけど、はげなかったですし、ケチだったから入れ歯もなかったですし。本当に元気な人間だったんですけど、肺だけはちょっと悪かったですね。
◆阿部 ちょっと話題を変えて、どなたかご質問を。
◆男性4 本当に素晴らしい映画をデジタルリマスター版としていただいてありがとうございます。去年山形(国際)ドキュメンタリー映画祭で野田真吉((1913-1993)特集があって、今、姫田さんのこの作品をみているとやっぱり祭りもたくさん撮っていると思うんですけども、例えば野田真吉さんとかとどういう関係があったのかな、とか日本のドキュメンタリーと記録映像の業界とかその辺はどうなんでしょうか?
◆姫田 色々申しましたが、とにかくほかの方のお仕事全然知らないんですね。だから野田真吉さんって僕も知りませんでしたけど、父は知らないお名前だと思います。
でも去年大ヒットして、山形でね、すごく皆さんみて良かったっていう評価で。ああ、そうですか?と。あの山形ドキュメンタリー映画祭から一度も呼ばれたことはないんです。
まあそれほどだから知られてないですね民映研は。(林 山形を対象にした作品はありますか?)ないです。(林 福島ばかり?新潟と福島)そうですね。
すみません、ぜひ「山形でやってよ」って、あの僕は言いませんよ。だけど、あの言われるんですよ。この前、七芸(※大阪第七藝術劇場)で、大阪の七芸でもなんで山形でやらないんですか?と言われ、「呼ばれないからやれないんです」、って。唯一呼ばれたのが湯布院っていうところで、映画祭に先々週行ってきました。亡くなった時にも姫田の作品を何度も上映してくださって。
◆男性5 田口洋美さんの『越後三面山人記』(※副題 またぎの自然観に習う、農山漁村文化協会2001年)という書籍からこの映画に入らせていただいたんですけども、さっきの熊撃ちの話にもあったんですけれども、当時渋沢敬三子爵が越後三面にきた時に熊撃ちが見たいということで、熊撃ちをして下さった小池善栄おじいさんですか?この人が言ってたんですけれども、三面に昔わざわざ奥会津から木地師が来て、いろいろと技術を教わったりして、場合によってはその木地師が娘さんと結婚した人もいたっていう記述があったんですけども、当時その人たちの記述とか、ああこの人、会津から来てるとか、そういう情報とかっていうのはありましたか?
◆姫田 僕は存じ上げないですね、「田口君」とうちでは言っちゃってるんですけど、田口さんは何度もあの映画の中で出てきました。一番の若手スタッフで住み込んで暮らしていて、で、今名誉教授になってますけど、東北芸工大の先生になったんですけど、田口洋美さんもその越後三面、「奥」は入ってないんですよ。ベストセラーの本がありますので、ぜひ読んでいただければと思います。(林 奥会津と交流があった?)あったと思います。ただ姫田はそこを取り立てて言っていないのは不思議ですね。
木地師の大拠点、東日本の大拠点が会津だったんですよね。近江八幡、近江国のところが木地師の総本山みたいになっていて。西日本、東日本。関東は会津と小田原になっていると聞いています。
ちょっとそれは存じ上げない。ただ本当にメイン通路は小国、山形県の小国側と三面が一番で。村上に出るのは渓谷なので、道ができて、映画の中でも言ってますけど、ようやく道ができて、これで村上まで車で通えるようになったと。今ある道はその道ですね。
で、メインだった小国ルートの道は封鎖されたままです。人間が住まないと道路って直さないですからね。(林 5年前の台風の時?)そう、そうです。だからたぶんダムにつながって、もしその道があればね、山形県側から三面通って日本海側に出られる。人が通らないと直さない。
◆荒川 冒頭、只見の話をさせていただいたんですけど、只見から田子倉にルーツがある方がいらっしゃているので感想聞かせてもらってもいいでか?鈴木サナエさんと言います。ちょっとサナエさんの感想を聞かせていただきたいなと思います。
◆鈴木サナエ 只見町からまいりました鈴木サナエといいます。私もずっとこの映画を恋焦がれていました。で、その中に大西監督の『水になった村』の3人組の、私はひとりです。
なんでこの映画をみたかったかっていうと、やっぱり私の母親の実家が田子倉にあったんですね。で、小学校一年の時におばあちゃんのうちは只見に引っ越してきたんですけど、その時に、私の小学校の時代には、ものすごい只見はもう燃えてました。
戦後復興で人口もどんどん増えてましたし、クラスには東大卒の息子さんいたり、労務者の人がいたり、本当にいろんな人がいました。でも、戦後復興でダムができることはいいことだとしか思っていなかったんですね。
小学校の4年の時に第一次湛水ってあって田子倉ダムに水が入る、その直前の姿を地権者に見せたいっていうので、バスを仕立てて、私は地権者でもなかったんですが、おばあちゃんにくっついて、あの田子倉の集落が見える場所まで行きました。
そしたらみんな私らは喜んでたのに、ばあちゃんが泣いていたんです。その涙っていうのが、やっぱり今思い出しても泣けます。
だから最初のあのおばあちゃんの映像、あれと最後の雪の中を○○に、こう歩く姿、それは多分いまの私かなあと思いながらみせていただきました。本当にいい映画をみせていただいて、ありがとうございました。で、すみません、ちょっと隣の相棒から。