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映画『越後奥三面―山に生かされた日々』を語る会・記録③ゲストと参加者による対話篇その1

2024-07-11 | 映画系

◆男性1 今日で2回目、「奥三面」の作品2回目みさせていただきました。いままでずっと3年ぐらい上映会を宮城県の方で、私たちさせていただいてるんですけども、そこでこちらの民映研の作品はすごくクローズ、今のお話からいわせていただきますと、クローズアップされるシーンが多くて、昔の技術がぐぐっと迫って、技術を残そうとしている感じにすら見える。なんか、宮本常一さんの作品は技術史だって言われると思うんですけど、それになんか近いなと思って、すごく勉強になってるんですけども、そういうなんか技術っていうの、すごく興味を持たれたんでしょうか?お父様の方。
◆姫田 まず、いろいろ自然科学とか動物とか、そういうのあるんですけど、とにかく人間なんですね。で人間が出てこない映画は一本もないんですけど、人間の行為を記録するっていうのが大前提で、その中ではいろいろジャンルがあるんですけど、生活と、あと生活文化。
僕は小さいころ、「お父さん、生活と生活文化ってなんで?生活文化でいいじゃない」(と言うと)「違う」と言うんです。色々作品にする、作品を今日は持ってきていないんですけれど、民映研のテーマにいろいろあって、その中で技術っていうものもあります。
それで細分化されてきて、作品として、例えば紙漉きであったりとか、塗師(?)であったりとか、まあそういうふうに作品があるんですけど、そのやられている人の、人間に興味を持つので入っていくというスタイルだと思います。
◆男性1 ありがとうございます。
◆阿部 さっきちらっと質問が出たんですけど、この作品を見た方は、「これは今の時代にみるべき映画だ」みたいなことをおっしゃった、と。「すごく言われた」とおっしゃってましたけれども、具体的に言うと、なぜ、みる方はそう思われるのでしょうか。
◆姫田 すみません。僕ばっかり喋って。あれなんですけど、まず驚かれるということ。それはご存じない方がまず驚かれるんだと思います。それで、この映画の裏側にはダムの問題がありますので、それを知ってからの観点で、なぜ村が消滅したのかと考えさせられるっていう問題もあると思います。
それであとは、もう人々の暮らしですね。一番大きく驚かれるのは、ぜんまい休みがある。休暇がある。それ、僕はこの映画が作られたとき、高校生だったので驚きました。「え、そんな休暇があるの」と。(※ぜんまい休みのような休暇の仕組みは)そこでしかないと思うんですけど、でも東北地方にはいろいろあったんだけど、残っていたのが、第6等級と言うんですかね、僻地学校の第6っていうエリアだったらしいんです。小学校が。
こういうのは奥三面分校ともう一つ、なんとか村という同じところが2つしかないという、新潟県内に。そういうところに驚かれる、初めて知る人があったんじゃないんですかね?
◆阿部 林さん、ここまでのことにからめて何か思うことありますか?
◆林 はい、そうですね、姫田さんの作品はすごく技術に焦点を当てるというのは私も感じました。それで宮本常一さん、20歳上の宮本常一さんと一緒に歩いて学んだことが、やはり影響しているのだろうと思います。
例えば、宮本常一さんが書かれた、未来社とかですね農文協から、膨大な著作物が―今読むことができますけれども―やはり農村とか離島とかですね、宮本さんが歩いてるとすぐ何かの技術に目を留めることがありますよね。漁師さんの仕草をみて「あ、これはこうだからこういうことをしてるんだ」と。山村、越後のような山村。山古志村なんかよく宮本さん行ってましたけど、「これはこういう理由があってこうやっているんだな」と。
福島県で言うとですね、いわきの、当時草野村というところに宮本さんは戦前、昭和10年代に行ってまして。有名な『忘れられた日本人』(※未来社1960年)の最終章、「文字をもった伝承者その2」というところで、高木誠一さんという人を取り上げているんですけど。
その高木さんが、草野村というちっちゃな村を成り立たせるためにどういう技術とかを導入してきたか。
たとえば島根県の方から黒毛和牛を取り寄せて馬耕じゃなくて牛耕を東日本で初めて取り入れた方なんですけど、宮本常一さんが見ると、戦争中、馬は軍馬徴用ということで陸軍に全部供出するわけなんですけれども、そうすると農村の中に動力がなくなってしまう。
だから西日本の方で絶対徴用されない牛が重宝される。で、黒牛というのはなかなかよく働くし、ススキとか稲藁もよく食べるということで、これを福島県で初めて導入した高木さんという人はすごく先見の明があった。
宮本さんの目を通すと、一つ一つの技術はその時の世界背景の中に位置づけられるっていうことがすごくあるんだと思います。
私も、宮本常一さんが例えば越後でいうと山古志村で古い技術を掘り出して、それを文字にしたかなど、いろいろ学びまして、あと100年早く生まれていたら一緒に歩きたかったなというふうなことを感じるわけなんですけれども、おそらく姫田さん20年違いですので一緒に西日本から北海道まで歩いて何か技術に目を留めながら、どうしてその土地の人はそういったことを発展させてきたのかということを注目するようになった……。(姫田 先生!姫田と宮本常一はたった2回しか旅したことがないんです)
◆姫田 旅といっても先生をお迎えして一緒に行ったってのは、広島県の豊松村という『豊松祭事記』(※6作目1977年)っていう作品、初期の6番だったかな、にあるんですけど、その撮影の時に先生が来てくれたので1回。あと山古志村。2回だけなんです。
で姫田がですね、先ほども申し上げましたが、昭和29年、1954年に宮本先生と出会ったので、多分そうだと思うんですけど、最初の弟子、一番弟子でした。一番弟子なんだけど、先生は先生でお元気で、学校の先生でもないし単なる研究家だったんで、旅をしてらっしゃいますけど、仕事は一緒にするんですけど、それは先生の話を聞いて「山古志村っていう村があってね。じゃあそこ行きなさい」で行くので、一緒には行かないんですね。
のち武蔵野美術大学のゼミ生とか持つようになってからは、学生連れて先生移動していますから、その若い世代、姫田からみて20ぐらい下の世代が一緒に歩いているんですよ、先生に連れられて。その方たちがいま名誉教授に、70くらいで。姫田がここに座ってたとしたら95歳で、生きてたら。宮本先生はもうすぐ120歳ぐらいなわけですね。20違い。
父がよく言っていたのは先生の話を聞いて「先生いいですね。良かったですね。今はカスしか残ってない」と言ってしまったらしいんです。で、自分でも言いながら、「カスって、失礼な」と。あまりにも先生が歩いた時代と、姫田が歩いた30年代、40年代の変容してしまっているので、全然先生の時代と違う。
姫田がこう歳をとりまして「姫田さんのいた時代はいいですね」って言われてるわけですよね。若い世代。そうすると世代的に言うと、まあ、宮本先生、4世代ぐらいの庶民のうち、常民って言い方もしてますけど、そういう暮らしをみて歩いて、本当にみて歩いて、それの影響を受けた第一世代が姫田で、第二世代っていうのは、いま民族学者として皆さんやられてる70、80歳のひとたち。
◆男性2 中島と言います。今度の映画の中身というよりも感想なんですけど、先ほど姫田さんは「いまみてほしい」という声があると言ったんですが、私もそういう感じを受けました。
というのは、映画の中身がかつて確実に日本のあちこち至るにところにあったものだと思うんですよね。だから、そういうことを僕らいまの人たちは、きちんと頭に入れて、これからの生き方とかを考えるべきだというふう思っております。
それで特にわたしが言いたかったのは、今日こちらに政治家の方々がいらっしゃっているかどうかなんだけど、まずあれをみて欲しいのは国会議員の方々。議員さん方、あと地方自治体の議員さん方、さらに言えば、政策とかなんかに携わる国家公務員特に省庁の職員も絶対にあれはみるべきだと私は思いましたし、さらにもっと言えば日本国民全部みたらいいと思うんですが、特に今日は大学の先生来てらっしゃるけど、大学の先生なんかもみたら非常に参考になるんじゃないかなというふうに思うんです。
ああいう生活が、文化生活があっていまがあるということだし、いまはまあ、ああいう生活がほとんどないんでしょうけど、けれども、グローバル化とよばれるような時代になって、SNSとか、そういうことで世界が一体化しようとしてるんだとは思う。
それと、過去の、映画の中の生活を踏まえていえば、いま地球温暖化とかギャーギャー騒がれているんだけど、ああいう生活を踏まえて考えると、やはり今の地球温暖化に対してもどうあるべきかっていうことを非常にいっぱいヒントが出てくるんじゃないかなというふうに思うんです。作品の中身についてはね。まあ、色々思うところもありますけど、とりあえずはそんな感想を持ちました。
◆阿部 ありがとうございます。今の発言を受けて、なにかひとことありますか?
◆姫田 ありがたいと思います。これ1時間の作品だったら、もっとみてもらえるかもしれないですけど、なかなかちょっと皆さんに2時間、147分座っていてくださいっていうのはすごく難しいなあと思っています。
ただ、僕らの世代の、今回デジタル化して、たくさん連れてくる方がすごくいるんですが、僕の友達とか。みんな「絶対みせる」って。「いや寝ちゃうから」とか思うんですけど、やっぱり連れてきてくれて、映画館に行く。「1/3寝ちゃってもポイント、ポイントはすごく残ると思う」って言うんです。その母親がね、友達に。だから若い人にみてもらえるんだと思います。
ただ、この映画、40年前にできた時、試写会に行った時に、ある高名な、ある大学の総長までやるような映画評論家の先生なんですね、みて、捨て台詞のように「長けりゃいいってもんじゃないよ。姫田くん」って言って帰った。それを姫田、生涯根に持っていて、まあ、その先生もご存命なのでいまみていただいたら、もしかしたら「今みるべき映画だ」と言ってくれるかもしれない。(林 蓮實さん?)いや名前出さないでください。そうなんですね。
◆林 あのもし蓮實重彦さんだとしたらですね。なんとしてでも改めてみて欲しいと思います。で、失われた山村の生活、特に山の恵みを大事にしながら助け合って親から子に継承してきているわけなんですけども、姫田さんの民映研の映像作品もそうですし、宮本常一さんの写真とか著作もそうですけれども、かつての日本人、どれだけいろんな知恵を持っていたのか、それを継承してきたのか、ということをありありと私たちに教えてくれますし、さらに今回の映画で言うとですね、それを、自然にそれが移り変わっていくならまだしもですね、ダムの底に沈めてしまったという、わざわざですね、終止符を打ってしまったわけですね。
そのように人間社会、文明から言えば、生活用水、工業用水を取ったり、山の治水をするためのダム、発電をするためのダムということかもしれませんけれども、その下に沈めてしまったものの重みというものはどこまで考えたことなのだろうかと思う。すごく批判精神があるメッセージになってるなというふうに思いますね。
きょう、はなみずき書店さんいらっしゃってますけれども、宮本常一著作集なども販売されて、一つは『民俗学の旅』(※1993年)という、有名な講談社学術文庫がありますけれども、その最後の方の宮本さんの記述はですね、「自分は山口県の周防に生まれて色々旅してきたけども、結局考えてしまうのは人間の進歩ってなんだろうかということを改めて考える」と。
その途中で戦争があって高度経済成長というものがあって、その中で農村漁村がどのようにして歩んできたかということを、宮本さんは書いてきたわけなんですけど、結局、進歩っていうのをしたんだろうか私たちは?と。『民俗学の旅』っていうあの本の閉じ方はそうなってるわけなんですけれども、今回の『奥三面』の映像をみるにつけ、山の恵みを生かしてきた伝統的な技術を水の底に沈めて得られたものがあったのか?何だったのか?ということは、映像のインパクトということがありますので、本当に強く訴えかけるものがあるなというふうに思います。
◆阿部 ありがとうございます。素晴らしいコメント。はいじゃあ。
◆男性3 うまく言えないので、感想だけど、先ほど技術論的な視点からっていうことで、わたしもそういうふうなことあるんだろうなと思っていますが、ただ、ひとつ言えるのは、思うのは、失われたものを懐かしいというふうな視点ではないのではないかという気がして、むしろ三面もそうですし、南会津まあ奥会津、南会津というのは行政圏の名前で、只見川沿線では、電源開発、一連のあれがあったもので、あそこは三島町が奥会津(音声不明瞭)ですから、ちょっと違った意味で使って、先ほど「奥」という意味で、奥会津とつけたんじゃないと私は思ってるんですけども。まあ、それはどうでもいい話ですが。
ええ、その技術論っていうのは、実はああいう三面も、奥会津も、檜枝岐もそうですけども、昔は生活するのが非常に厳しい。それこそ現金収入もない、食べ物もない。そうすると、あるものをいかに生かそうかということで、そこで生きてきたんですよね。ですから、そこでは当然高度な技術、技術をより高めるというものが必要だったから、そこでそういう技術が。
ですからいまでも只見もそうですし、奥会津も南会津もそうですけど、福島県内でもかなり山村地域、条件の厳しいところに行くと、一生懸命、面白いというか非常にいい作品っていうか、いい木工品とか、そういう作ってるとか、あと昭和村なんかはカラムシもある。
みんな、沖縄も、この前たまたま沖縄に行ってきたんですけど、沖縄に行っても芭蕉布っていうのは、昭和村と交流があるっていう話しをしていました。(会場 宮古ですか?)私は本島に行ってきたんですけど、そんなことで若い人たちがなにを惹かれるのかっていうような話が、実は言いたかったところなんですが。
むしろ今こういう世の中で、学歴がある、お金持ちだとかっていうことに目が行きがちだけれども、案外人間は、根源的に自分が生きるっていう楽しみとか、そういう風なものを求めて、ある程度私らみたいに終戦直後、貧乏な時代に育ったものは物質的なものを求めますけれども、若い人たちは比較的恵まれた時代を過ごしてきたので、むしろそれよりも精神的なもので、なんか求めてる。
それがまあスポーツとか色んなゲームもあるかも知れませんけど、意外とその昭和村に織姫がずっといたり、只見なんかでも先ほどありましたけれども、そういう人たちが移住して、自分の生き方とか、自分のなんかそれを見つけて生きていこうというのは、地域に、そういう文化的なものが、決して学問的に高い意味や、評価の高いものではなくても、個人個人にとっての非常に価値のあるというふうに思えるようなものが残ってるから、それに惹かれていくんじゃないかと、私はこのごろそういう気がしてるんです。
ですから、今日のあれも、技術的なものを残したいという思いもあったのかもしれませんけれども、みる側からすると、そうやって生きている人たちの素晴らしさ、まあ我々が失っているもの、なかなか見つけられなくているもの、それが実はそこに感じられるから惹かれていくんじゃないのかなっていうふうに、今日あの映画をみて感じました。その視点では非常に面白い、面白いというと失礼な言い方になりますが、非常にいい出会いだったと思っております。
◆姫田 ありがとうございます。嬉しいです。私から見るとですね、技術、技術って、まったく姫田は思ってないんですね。お話を聞いていたら、それをやってたよとか、今やってるんだよ、これからやるんだって話を聞くわけじゃないですか。じゃあ撮ります、撮りたくなるわけですよね。
だから何かの、民映研じゃない行政の仕事も色々やってるんですけど、頼まれることあります。まちの(音声不明瞭)記録してくださいってこともありますけど、結構、この奥三面もそうですが、椿山(椿山―焼畑に生きる1977年)も豊松(豊松祭事記1977年)も、その村を総合的にまるごと映像で撮りたいっていう欲がありました。
お話を聞き、奥三面はカメラが入るまで1年かかってるんですよ。で、自分がふらっといったんですね。ふらっといって話を聞いたら驚いちゃった。東京帰ってきて「全部撮る」。
みんな「え?そんな金ないでしょっ」ていう話になりますよね。それで、次行った時にもカメラ持ってないです。確かね、5回目に。
姫田はカメラというものは映像、暴力的だと思っていたんです。やっぱりカメラを持った人間は、初対面の人にボーンと入っていくことはしない。鉄則としてました。そこがまあニュースと違うところだと思います。
でも、お話を聞いてたら、こういうことやってる。例えばあの当時、今日も見ていただいた、やっぱり20年以上前にやめちゃったお話を、例えば「熊オソ」。1982年に撮影がはじまって2年目に、奥三面セミナーっていって、日本全国から、北海道から沖縄の人が集まってですね、セミナーやったんですが、あそこで。150人ぐらい集まって分宿してですね。その時に丸木舟、第2部をご覧になったらわかると思うんですけど、丸木舟の説明をおじいさんが皆さんにしてくれる時は、大根を使うんですよ。「こうやって切る」って持ってて、熊オソもミニチュアを作るんです。そうしたら「実物で作りたいですよね」って話になるじゃないですか。それでこう話が増えていってると思います。
あと、ちょっと脱線ですけど、『奥会津の木地師』是非みてください。田島で、それは昭和50年ぐらいですね、昭和48年ぐらいですから、50年前にやってたことを、もう木地師さんは定住されていて、要するに移動性の生活をしている人たちがかつて日本にはいたと。
まあ、これは木地師とか木地屋の話をご存知の方がいると思うんですけど、やまの七合目以上の木を切ってよいという、そういう免罪符をもって色々していたっていう伝説なんですけど。それはでももう定住されてるんですよね、田島に。
で、その方はですね、女性が出てくるんですけど。信州の上田からひとりでお嫁に来た。
僕はそれを小、中学生ぐらいに聞いた時に、上田からこう上信越線から東北線に乗ってこういうルートが来てますけど、といったら、「いやいや、只見抜ければ一発だよ」っていうことで、16歳で独りで歩いてきた。まあ、それは木地師のルートがあったと思うんですけど、お嫁に来て、「そっかじゃあ信州・上田と近いんだな会津は」と思ったので、まあそんな話がどんどん発展しているわけですよね。あの姫田が聞いていると。
◆林 今のご発言の件、蘭さんの話、そうだなと思いますね。この映画、おそらく二つの大きな投げかけになっていました。一つは、ダムの事業はこういうやり方でよかったのか、という、政策とかですね、国のあり方に対する警鐘を鳴らしている面は確かに強いなあという感じがまずあるわけです。
もう一つはですね。若い人なんかは確かにこういう山の恵みを生かしたようなライフスタイルとか、企業に勤めるだけではない、生活を立てていくやり方は、自分もやってみたいなと、汲み取る人が多いんじゃないかなと思いますね。阿部さんがこの間、フォーラムで上映した東出(※俳優の東出昌大)さんのその後っていう映画が、その後というか「Will」っていう映画があって、なんと猟師になっちゃったっていう映画なんですけど。
奥会津でいうとですね、金山町の猪俣昭夫さんという人がヒメマスを飼う名人であると同時にマタギであるんです。あと、日本ミツバチの飼育の上手なんですけれども、その猪俣昭夫さんのもとに猟師になりたいという若い人が弟子入りして、一人前の猟師になりつつあることとか、先ほどの昭和村のからむし織習いたいと言って、他県からすごくたくさん、織り姫制度という研修制度習いに来るなど、あと、先ほどの映画の中でも雑穀を使って餅を作ったり、いま身の回りにあふれているものだけではない、何とも言えない、とち餅とかですね。そういったものをやってみたいという人が、すごく今の世代には増えてきたような感じがします。
ですので、私たちの学生なんかと話していると、我々おじさん世代だとダムとか山を切り崩していいのかという視点ばっかり、ちょっと頭でっかち的に映画をみせちゃうところはあると思うんですが、若い人は若い人なりに、そこから自分の人生どうなんだろうっていうような見方をしてくれると、それも頼もしいことだなというふうに思います。
◆姫田 割と少ない、ダムに関することは。2時間、147分の中で少ないと思ってるんです。
っていうのは第2部になりますとより濃く出てきます。皮相的でもある姫田の叫びも出てくるんですけど、それがないんです。
というのは、この映画ができた時は皆さんお暮らしなんです。まだ三面の村はある。そこで昭和44年ぐらいから昭和60年まで本当に皆さん苦労されて、それで区長がおっしゃってましたけど、もう本当にテレビとか、いいこと悪いこと、新聞とか書くから、それで苦労されている方たちがいるということで、ダム問題というものを本当に触れない、触れたくないっていうのがあったと思います。
あのやはり今ねそう、ちょっと突撃で、こうクローズアップするジャンルがいろいろあると思うんですけど、民映研、姫田忠義が考えたのは、やはりまず撮ってみせるのは、土地の人にみてもらうのが一回目なので、その人たちのお暮らしになってるところでどうみるか?っていうのが入ってるから、とても柔らかく、今のドキュメンタリストだったらやらないような和める感じがするんじゃないのかなと思います。
ダム問題、本当に、きょうは関係者いらっしゃるかどうかわかりませんけど、辛いですね。羽越水害っていうのが昭和42年に起きて、44年にダムの問題が立ち上がる。それは下流域の、いま、安倍首相的に言うと、国民の生命と財産を守るため、というようなことでダム問題の建設が立ち上がったといっていますね。
でも水害があった水域は三面川流域じゃなくて北の流域なんです。それなのに、三面ダムっていうのは、まあ僕も高校時代に行きましたけど、すでにあるんですよ。昭和29年だけどできているんです。その上に奥三面ダム、第2ダムを作る意味っていうのはさっぱり僕にはわからない。
で、国策、まあ黒部ダムとかは知りませんけど、県営ダムですね。水利、何のためにつくったのか?たとえば水力発電のためにつくったとかっていう時代じゃ、もうないですね。
北海道に行って、二風谷というところで撮影しているのが多いんですけど、そこに二風谷ダムができました。
皆さん苦労して、妥結して結局はダムができてしまうんですけど、10年でもう上げ砂。あんなゆるい、ゆるい川でも10年でもう浚渫しないともう使い物にならない、ヘドロのかたまりですね。奥三面みたいに急流からくる渓谷のものを溜めてどれだけ土砂を流しているわからないです。年に何回か一斉放水するんですよ。
そうしないとダムが溜まっちゃう。どうしてんのか分かんないですけど、まあ、早晩使い物にならなくなるんじゃないですか。奥三面あさひ湖っていう。ひらがなで、あ・さ・ひ湖というふうになってますけど。僕もちょっと学校でこう喋ったりするところがあるんですけど、「やっぱりつくりたかったんだろう。つくりたかったからつくった」。誰がつくりたかったかって言うのは皆さんご存知だと思います。
決してその土地の人がつくりたかったんじゃない。県営ダム、水利目的などたくさんあるじゃないですか。今も妥結してないところがいっぱいありますよ。当時いろいろ、本当に個別の賠償というか、すごくあるわけですよね、多くもらう人、全然もらえない家、45軒のうち。そういうことも語れないわけですよね、当時は。非常にその、姫田忠義の言い方ですけど、「こんな村ばっかりだよ」と。(列車騒音により聴取不能)
◆阿部 『第2部―ふるさとは消えたか』(※1995年)という作品は、何かこう第1部の補足のような感じで、別にみなくてもいいんじゃないっていうふうに評価がされているらしいんですけど、僕は一度みて、やはりこれはいっぺんにみるべきかなと思います。第2部では姫田さんはもうとにかく前面にでています。
まず冒頭、これYouTubeに動画が上がってるんで、えっと13分ぐらいの、これ言っちゃっていいんですかね?蘭さん。勝手に誰かが(林 海賊版?)――。ダイジェストになって、まず最初の画面出てくるんですよ。姫田さんがこういうふうにフレームで、こう奥三面の集落をこうやってフレーミングしてるんですね。
それでだんだんパンしていって、姫田さんのバストショットになった時に、こう彼はまず第一声「俺はね、この村ごと持ってどっか空の向こうに飛んで逃げたいよ!」っていうふうにこう言って第2部が始まるんですよ。
村上ですとか、新潟とかにきれいな家をつくってもらって、お金もある程度補償してもらって、都市生活者になった人たちが、生きがいを見失っている状況っていうのが第2部では非常に描かれている。で、僕がすごく覚えているセリフが、「何かを忘れてきた気がして仕方がないよ。口では言えない」っていうこのセリフ、やはりここにすべてがこもってますね。
確かに暮らしは便利になったかもしれないし、経済的にも楽になったのかもしれないけど、こういうの極端すぎるんですよね。だからそこがこの時代、まあ、ロスト日本の時代に作られたこの映画の、ある意味すごい象徴的な場面だったなというふうに思ってるんで、今日の上映を契機に、いつか『第2部 ふるさとは消えたか』もみられる状況を作れたらいいなと、僕は個人的に実感としては思ってるんですね。
で、からむし等の話になると、いまから3年ほど前に信州大学の分藤大翼さんっていう映像人類学者がいるんですけど、彼が昭和村の『からむしのこえ』っていう映画(2019年)を作ったんですよ。で、これは佐倉にある、なんだっけ?歴博?そこのたしか経費で作った学術映像なんですけど、すごく面白い映画で、これはうちで1日だけ1回上映したんですね。分藤さんが来てもらって。この中でもみてらっしゃる方もいるかもしれないんですけれど。分藤さんとお会いした時に、姫田さんの「『からむしと麻』、僕何百回もみてました。それをみた上で、自分は『からむしのこえ』を作ったんです」っていうふうにおっしゃったんですね。
こうやって姫田忠義という偉大なシネアストの作品っていうのは、心ある研究者や若い人たちに受け継がれているんだなあって思って、すごく嬉しく思いました。
で『からむしと麻』は消えゆくロスト日本の一面、昭和村の当時の営みというものを映画化して、姫田さんの当時の、いわばあの時代の映画人ですから、哀惜の念で、民俗学映画ってものを作ったと思うんですけど、分藤さんの映画はこれからこのからむしでこの村はやっていくんだ。これで前を向いていくんだみたいなメッセージになっていて、そういう意味でも、そこら辺ちょっとメッセージ的に違ってきてるんじゃないかなと思ったわけです。
◆姫田 今日、昭和村の方いらっしゃいますか?来てないかな。あの『からむしと麻』は1988年かな。今でこそ、からむしは全国区ですよね。福島県の昭和村が誇る産業で。確かに当時もそうだったんですけど、この映画を、父からすると青年たち、いま70ぐらいの、青年たちが映画を撮った、集まって撮ったわけです。
だけど横槍が入りました。それは昭和村なんです。これは村の機密事項だ。機密産業、その技術を映像で撮って見てもらうのは、なんて言うんですか、機密漏えいであるからやめろって言われたんですね。でも反対した若者、当時、3、40代の人たちによってできたんです。いま織姫制度ができて一大産業じゃないでしょうか。
◆阿部 この間、福島県の自治体で将来、消滅可能性自治体が発表されたんですけど、昭和村とたしか柳津でしたか?そこだけはならないっていうふうに。昭和村は、舟木(※舟木幸一)さんという方が村長やってるんですけど、舟木さんから一度はがきをいただいて、自分の人生を変えたものは何ですか?といったら、この「越後三面」。自分は若い頃にこの映画をみて昭和村に戻ろうと思った、というふうにおっしゃってました。
で、その舟木さんが、その当時から、からむし織制度というものを立ち上げて、なんだかんだ言われつつも30年持続ってすごいなってつくづく思うんですけど、今やもうからむし織は本当に日本の冠たる一大ブランドになっていますし、カスミソウっていうものが、麻に取って代わって昭和村の出荷品として一流ブランドに育てあげてますね。
だから、そういう意味では非常にこの「越後奥三面」はこんなところでも生きてるんですね。
◆姫田 ここ福島県なので、もうちょっとからむしに触れさせていただくと、あの映画の面白いところは『からむしと麻』なんですね。大芦とそのもうひとつ、おおなんとかっていう、ちょっと名前が出てこない集落(※大岐)でからむし、植物を育てて、片方が一年草であり、片方が多年草である。で、繊維をとる。それを並行して紹介しているんです。
それで普通からむしというと、越後上布になるまでの布とか、そういうものを説明するかと思うんですけど、いっさいそれはないんです。糸が出来上がるところで終わりなんです。
だけど、それは時間がなかったと思いますけど、とにかく植物から繊維を作り出して、それを糸にする、その人たちの、まあ糸車もそうですけど、その手の先をよくぞ記録したなと思います。
『日本の姿』で検索していただくとDVDが4巻ありまして、1巻に3話ずつ民映研の作品を30分にしたものがあります。その中に『からむしと麻』(※第4集所収)がありますので、図書館にあると思いますし、Amazonで 3500円ぐらいと思いますので、ぜひみていただければ。『奥会津の木地師』(※第2集所収)もそこに入っております。
◆林 姫田さん、その麻、からむしと麻は同じ麻の仲間なんですけど、もしかしたらですね、麻を作っていい免許っていうのはですね。非常に国からみるとデリケートな問題で、麻薬の原料になってしまうということですね、
 もしかしたら昭和村、映像化のことで、ちょっとためらっていたのは、その免許問題は昔から麻を作っていたところに限り許可されるっていう。免許制度がですね……。
◆姫田 あの、そこを撮して、これはまあ、皆さんご存知だと思いますけど、免許制だということをちゃんと謳って映像にしたんですけど、やっぱりからむしなんですね。
で、信州の、ちょっと名前出てこないんですけど、あるところで麻の技術を村の方たちがやりたいんだけど、麻は許可制なので作れないから、からむしをやってるんですよ。
東京にもからむしがいっぱい、電車の線路の脇とかにも生えているんですよね。それぐらいまあ言葉悪く言うと雑草でもあるんだけど、ちゃんと栽培して商品化しているのが昭和村と宮古島、沖縄の宮古島っていうのが当時あったそうですけど、昭和村が抜群なんですけど、今、麻の再現教室ができないから、私たちはからむしでやってるんだっていうところがいくつかある。(林 代用用品になっちゃってる)なっちゃったんですね。逆に、逆転してるんですよね。
◆林 昭和村では、からむしは先ほどの三面のゼンマイと同じぐらい、短期間の出荷で現金収入としては半分ぐらい占めちゃうということで、糸まで昭和村の中でして、山を冬に越えて越後の方に入ったら、それで1年分の現金が得られるということで、ぎゅうぎゅうにつめて背負ってね。雪山の中を決死行で、そこに家族の1年分の現金収入がかかっているということで、昭和村で必死になってるわけなんですけれども。
からむし制度がここまで発展してきてる奥会津地域のすごい努力を感じて、またそういった映像文化なんかも合わせてみてもらえると織姫制度なんかもまた弾みがつくのかなというふうに思います。今の上皇后さん、美智子さんが皇太子妃だった時に昭和村に来てからむし製品を買って一気にブレイクしたということがありました。
◆姫田 あの、うちの父がですね、母に内緒で―からむしの映画を作った時に―頼んじゃったんですね、製品を。シャツじゃないんですよ、裃なんです。(会場 大変。無茶苦茶高い)
はい、35万とか。でも着る機会がない。水色なんですね。水色のからむしで裃を作っちゃったんですけど。
2回だけ着ました。1回目は1989年フランスの勲章もらったんですね。(阿部 レジオンンドヌール?)じゃなくて、オフィシェール(※将校)というフランス芸術文化勲章っていうのを。オフィシェールというのがあって、フランスで着て行ったんですよ。
その写真を見ると、いや~な感じがするんですよ。国粋主義者みたいな。
民映研創立25周年という時にあった時に、裃着て入っていったっていう、その2回だけのために、うちはすごくそんな裕福じゃないので、母に内緒で。取ってあります。着る機会がないじゃないですか。切腹みたいになるじゃないですか。
あの、いろいろあります。『奥会津の木地師』、からむし……。それと茂庭のシリーズがあって、茂庭がダムになる前に行って、まあその話がいろいろあるんですけど、ちょっと長くなります。
色々、織物であり、焼畑であり、それから一番ここから近い松川というところの、黒沼神社の『金沢の羽山ごもり』(※35作目1983年)というのも80、83年に撮っているんですね。
今日も先ほどホールの方で申しましたけど、とにかく1980年に奥三面と出会って84年にできたんですけど、その4年間に29本ぐらい同時に作ってるんです。その中には『アマルール』(※副題 大地の人バスク、26作目1981年)っていって、フランスのバスクで、スペインのバスク地方のバスクの村を全部丸ごと撮りたいという欲のある作品を撮ったりしてですね。行ったご縁で勲章もらったんですけど。
その関係ではとにかく元気な50代で。ただ、姫田68ぐらいの時に肺気腫と言われまして、後年、歩くと苦しくくてですね、2013年に亡くなりまして。慢性COPD(※閉塞性肺疾患)、慢性肺疾患?それ以外は本当元気でしたから、髪の毛は白髪になりましたけど、はげなかったですし、ケチだったから入れ歯もなかったですし。本当に元気な人間だったんですけど、肺だけはちょっと悪かったですね。
◆阿部 ちょっと話題を変えて、どなたかご質問を。
◆男性4 本当に素晴らしい映画をデジタルリマスター版としていただいてありがとうございます。去年山形(国際)ドキュメンタリー映画祭で野田真吉((1913-1993)特集があって、今、姫田さんのこの作品をみているとやっぱり祭りもたくさん撮っていると思うんですけども、例えば野田真吉さんとかとどういう関係があったのかな、とか日本のドキュメンタリーと記録映像の業界とかその辺はどうなんでしょうか?
◆姫田 色々申しましたが、とにかくほかの方のお仕事全然知らないんですね。だから野田真吉さんって僕も知りませんでしたけど、父は知らないお名前だと思います。
でも去年大ヒットして、山形でね、すごく皆さんみて良かったっていう評価で。ああ、そうですか?と。あの山形ドキュメンタリー映画祭から一度も呼ばれたことはないんです。
まあそれほどだから知られてないですね民映研は。(林 山形を対象にした作品はありますか?)ないです。(林 福島ばかり?新潟と福島)そうですね。
すみません、ぜひ「山形でやってよ」って、あの僕は言いませんよ。だけど、あの言われるんですよ。この前、七芸(※大阪第七藝術劇場)で、大阪の七芸でもなんで山形でやらないんですか?と言われ、「呼ばれないからやれないんです」、って。唯一呼ばれたのが湯布院っていうところで、映画祭に先々週行ってきました。亡くなった時にも姫田の作品を何度も上映してくださって。
◆男性5 田口洋美さんの『越後三面山人記』(※副題 またぎの自然観に習う、農山漁村文化協会2001年)という書籍からこの映画に入らせていただいたんですけども、さっきの熊撃ちの話にもあったんですけれども、当時渋沢敬三子爵が越後三面にきた時に熊撃ちが見たいということで、熊撃ちをして下さった小池善栄おじいさんですか?この人が言ってたんですけれども、三面に昔わざわざ奥会津から木地師が来て、いろいろと技術を教わったりして、場合によってはその木地師が娘さんと結婚した人もいたっていう記述があったんですけども、当時その人たちの記述とか、ああこの人、会津から来てるとか、そういう情報とかっていうのはありましたか?
◆姫田 僕は存じ上げないですね、「田口君」とうちでは言っちゃってるんですけど、田口さんは何度もあの映画の中で出てきました。一番の若手スタッフで住み込んで暮らしていて、で、今名誉教授になってますけど、東北芸工大の先生になったんですけど、田口洋美さんもその越後三面、「奥」は入ってないんですよ。ベストセラーの本がありますので、ぜひ読んでいただければと思います。(林 奥会津と交流があった?)あったと思います。ただ姫田はそこを取り立てて言っていないのは不思議ですね。
木地師の大拠点、東日本の大拠点が会津だったんですよね。近江八幡、近江国のところが木地師の総本山みたいになっていて。西日本、東日本。関東は会津と小田原になっていると聞いています。
ちょっとそれは存じ上げない。ただ本当にメイン通路は小国、山形県の小国側と三面が一番で。村上に出るのは渓谷なので、道ができて、映画の中でも言ってますけど、ようやく道ができて、これで村上まで車で通えるようになったと。今ある道はその道ですね。
で、メインだった小国ルートの道は封鎖されたままです。人間が住まないと道路って直さないですからね。(林 5年前の台風の時?)そう、そうです。だからたぶんダムにつながって、もしその道があればね、山形県側から三面通って日本海側に出られる。人が通らないと直さない。
◆荒川 冒頭、只見の話をさせていただいたんですけど、只見から田子倉にルーツがある方がいらっしゃているので感想聞かせてもらってもいいでか?鈴木サナエさんと言います。ちょっとサナエさんの感想を聞かせていただきたいなと思います。
◆鈴木サナエ 只見町からまいりました鈴木サナエといいます。私もずっとこの映画を恋焦がれていました。で、その中に大西監督の『水になった村』の3人組の、私はひとりです。  
なんでこの映画をみたかったかっていうと、やっぱり私の母親の実家が田子倉にあったんですね。で、小学校一年の時におばあちゃんのうちは只見に引っ越してきたんですけど、その時に、私の小学校の時代には、ものすごい只見はもう燃えてました。
戦後復興で人口もどんどん増えてましたし、クラスには東大卒の息子さんいたり、労務者の人がいたり、本当にいろんな人がいました。でも、戦後復興でダムができることはいいことだとしか思っていなかったんですね。
小学校の4年の時に第一次湛水ってあって田子倉ダムに水が入る、その直前の姿を地権者に見せたいっていうので、バスを仕立てて、私は地権者でもなかったんですが、おばあちゃんにくっついて、あの田子倉の集落が見える場所まで行きました。
そしたらみんな私らは喜んでたのに、ばあちゃんが泣いていたんです。その涙っていうのが、やっぱり今思い出しても泣けます。
だから最初のあのおばあちゃんの映像、あれと最後の雪の中を○○に、こう歩く姿、それは多分いまの私かなあと思いながらみせていただきました。本当にいい映画をみせていただいて、ありがとうございました。で、すみません、ちょっと隣の相棒から。

映画『越後奥三面―山に生かされた日々』を語る会・記録②如春荘ゲストトーク編

2024-07-11 | 映画系


2024年6月30日午後2時〜
カフェ・ド・ロゴス:映画『越後奥三面 山に生かされた日々』で語り合おう@如春荘
【話し手】
・フォーラム福島総支配人 阿部泰宏
・民族文化映像研究所理事 姫田蘭
・福島大学准教授 林薫平
【カフェマスター】荒川信一
(注:簡単な脚注を文中※印の後に適宜配し音声不明瞭のところは伏せ字○○とした)


◆荒川信一 お集まりの皆さんこんにちは、暑い中お集まりいただいて大変ありがとうございます。カフェ・ロゴ 映画『越後奥三面』をみて語り合おうということで、このような回を企画致しました。素人ばかりで語り合うのも――と思っておったところなんですが、このような素晴らしい豪華ゲストをお迎えして、この会を迎えることができました。まず最初にゲスト講師の方々のご紹介をしたいと思っております。
映画ご覧になってきた方、ご存知だと思いますけれども、今日きていただきました。民族文化映像研究所理事の姫田蘭さんです。後ほど自己紹介のような形でお話いただければと思いますけれども、姫田忠義監督のご次男ということで映画に携わって来られた方です。
続きまして、福島大学食農学類准教授林薫平さんです。今日は姫田忠義と宮本常一との関わりについてお話をいただけるとおうかがいしております。よろしくお願いします。
それから話を回していただき、映画の専門の見地から色々お話しいただきたいと思っています、フォーラム福島支配人のお阿部泰宏さんです。
今日ですね、後ろのほうにあると思いますが、ポストカードは、姫田さんからのみなさんにプレゼントだそうです。ありがとうございます。
ここからは主催者挨拶で、この紙使いましてほんの少し時間いただいて、私の方からご挨拶がてらこの会を企画した経緯というものを、本当に私ごとなんですけども語らせていただければと。ちょっとお時間ください。
2016年、仕事で3年間、只見町におりました。只見町はユネスコ・エコパークとして登録されている町で、今なおそこかしこに山に寄り添う暮らしが色濃く感じられる土地柄です。
また、只見は昭和30年代の高度成長期、国策によって田子倉ダムなどがつくられた歴史を持ちます。集落が水没し、まちは一時的な好景気に湧くといった時代の波に翻弄されたというような経験を持つ地域です。
そのまちで3年間過ごしたときにですね、只見生活の中で私はたくさんの人に出会うんですけれども、自然愛好家とか都会から移住して来られた方など多くの魅力的な方にお会いします。
その方々の中で女性3人組が只見で自主上映会を行った映画というのがありまして、それがですね、大西暢夫監督の『水になった村』(※2007年)というドキュメンタリー映画でした。
この映画は岐阜県の徳山ダム。徳山村というところで、同じようにやはりダムに沈む村に住み続けたご老人たちを撮り続けたドキュメント映画なんですけど、私深く感銘を受けまして、その映画を福島市でも上映したいと思いまして、阿部支配人にご相談して、福島でもそののちに実現化するんですけれども、コロナ禍だったからちょっと寂しい状況になってしまったんですけれども、そんな経緯があります。
で、その中でですね、只見の自然愛好家の御大、実は今日只見から来て、この映画をみていったんですけれども、只見に帰るということで、この会には参加できませんでしたけれど、その彼がですね「大西監督もいいんだけど、もっとすごいドキュメンタリーあんだぞ」。「もっと」というのは大西監督には失礼かもしれませんが。
というところで名前が出てきたのが、この姫田監督の『越後奥三面 山に生かされた日々』でした。そうなんだ……ということでみたい、みたいと思っていて、また後日ですね。まあ同時期なんですけど、阿部支配人とお話をする機会があったときに、この映画の名前が出てきて、「この映画をフォーラムで、かけないうちは。俺が仕事をやってるうちには絶対かけたいんだ」という熱い思いを聞きまして、2人の師匠といいますか、尊敬する人から同時期にこの映画の名前を私が耳にしまして、その時からですね、この映画をみずして死ねるかと言うような一本になりました。
今回上映ということで、私はこの映画を今日初めてみさせていただきましたけれども、せっかくですので、上映を記念してこのような会を開きたいということで企画を致しました。
このような講師の方々、それから皆様にお集まりいただきましたことを、本当に厚く御礼申し上げたいと思います。どうもありがとうございます。
さっそく、講師の方々のお話の時間としたいと思いますけれども、業務連絡といいますか、この様子を写真に撮ってホームページ等にあげたりすることもあるんですが、写真撮影はお断わりだという方がいれば手を挙げてもらってもいいですか?いらっしゃいますか?はい、わかりました。映らないようにしたいと思います。おひとり手があがりまして、ひとりということでよろしいですか?はい、ありがとうございます。
予定は4時半までということ、4時から4時間半という感じでお話を進めていただければと思います。腰が痛いとか、椅子が必要な方いらっしゃれば、椅子もありますので遠慮なく私の方にお申し出ください。
それでは阿部支配人にバトンタッチしたいと思います。よろしくお願いします。
◆阿部 ただいまご紹介いただきましたフォーラムの阿部です。今日はお暑い中こちらに来ていただきまして、ありがとうございます。早速、話に入っていきたいと思うんですけれども、林さんから今日ご覧になった感想など。
◆林 はい、ありがとうございます。私も初めて『越後奥三面』拝見しまして、また蘭さんのフォーラムでのお話をお聞きしまして、すごい歴史があるということをつくづく感じました。
特に印象に残ったシーンとしましては、熊の猟に出かけるシーンでありますとか、あと最後の方ですね、丸木舟を簡単な斧のような斧とノミで作ってしまう。また最後のですね。ポスターの写真にもありますけれども、伝統的な毛皮を身にまとって3人で、ダムに沈んでしまう前に、狩りをするという目的ではなく、もう一回雪山に行こうという、悪天候の中ですね、3人の雪山歩きがありましたけれど、なんとも言えないシーンでしたね。
この後、皆さんの感想もお聞きしたいと思うんですけども、まず印象に残ったシーンとしてはこのようなシーンでした。
なお、雪遊びをしていて、雪の玉が顔にぶつかっちゃった赤いジャージを着たヒロインの小学生のお嬢ちゃんがいましたけれど、多分映画が撮影された時期を考えてみますと、僕と同じぐらいな歳なんじゃないかなと思いますね。いまお会いできたらたぶん40代後半ぐらいなんじゃないかなと思いますね。会いたいなと言うふうなことも考えました。まず感想としては以上です。
◆阿部 ありがとうございます。質疑応答をしたいなと思いますが、まずは後ほどそれをやっていきたいなというふうに思います。今日は意外と、僕の予想した以上に、世代的に若い方も来てくれて、すごくうれしいです。
この映画をみたのは今から8年前。2016年、山形だったんですけれども、映画をみたときにすごく重なったのが、やっぱり震災後にこの映画をみてよかったなというふうにすごく思いました。故郷を失う、失郷するっていうメンタリティは、三面の人たちも、立場も状況も全然違うんですけどもすごく通い合うものがあったな、というか、もう今は存在しない人たちかもしれないけど、時空を超えて繋がったなという思いがあって、やはり映像の力ってすごいなって思ったんですね。
今日は若い方もいらっしゃるので、後ほど、どういう風に受け止められたのか、そういったところもお聞きしたいなと思っています。
姫田さんは、今までいろいろな場で姫田忠義さんの映像作品というのは、みていただく機会があったでしょうし、こういった語らいの場にも立ち会われたことがあるかと思うんですけれども、どうでしょうかね。今の時代の方々が民映研の作品をみて、なかなかこれ言い表すのは難しいかもしれないですけど、ザクっとした感じでいいですけれど、どういった感想をお持ちになるのか、どういった所感を皆さんお持ちになるかとちょっと聞かせていただければと思います。よろしくお願いします。
◆姫田 民映研の姫田蘭と申します。よろしくお願いします。この度、劇場でかかるように、DCP(※デジタル・シネマ・パッケージ)というフォーマットでデジタルリマスターをやったおかげでですね、今まで―明日で民映研創立記念日なんですね。7月1日。1976年ですから48年ぐらいです―長い歴史の中で大変革だと思っています。
それで東京で上映しまして、そこで一番最初にやっていただいたんですけど、7割がたの方が民族文化映像研究所も姫田の名前も知らずに予告編をみて来てくださった。(音声不明瞭)お客さんに初めて知っていただいているという、ものすごく驚かれる。「今、この時代にみるべき映画だ」と言ってくださって。
40年、50年、姫田を支えてくださった方が全国におられまして、今でも上映活動をやっているんですけれども、これは本当に地道な出来事になってしまいますが、今回のように1週間、僕らにとってはものすごいロードショーなんですけど、一日何度も上映されるのは、うちのスタッフにとっては本当に初めての経験。
本数はいっぱいあるんですけど、40年経ちまして、1984年に完成しましたけど、ちょっといろいろ復元している部分があるんです。例えば丸木舟の部分ですね。丸木舟は普段は作られてない。
それから、例えば「熊オソ」っていうのは昭和30年代には禁止されたし、ワナ猟は禁止されてますし、例えば最後の衣装、印象的に皆さんに言っていただいてますけど、昔の狩人の衣装を着て山にのぼることはしてないわけですね。猟銃で取りに行きます。
ちょっとよーく見ると、見ていただくとわかるんですけど、40年、たった40年前なのにものすごく昔の生活をしている人たちがいる、と思われていて、そこはちょっとやっぱり言わなきゃいけないなと思ってですね。あそこには自動車ありますし、テレビもありますし、ウォークマンもありますし、さすがにインターネットと携帯電話はございませんでしたけど、何ら変わらない生活で、これは姫田も映像で残していますけど、「どうしてあんな古く見えるんですか?」と言われて、「これはね、あえて排除している部分がある」と。
車があると、現場をよけて撮ってるし、話を聞いているときにテレビがあったらテレビをよけて撮ってるし、だから印象的になんかすごく昔の場面が……。
まあ、でもそれが狙いで、姫田としては狙いで、なくなってしまった生活行為を、完全な復元では、というよりは、若い時になさっていたことをやっていただくという復元を今撮らないともうそれは途絶えてしまうという思いがあったので、いろいろそういうシーンが核心。自給自足の生活、確かに自給自足ともいえますが、購買のマーケット、トラックに積んで野菜とか魚とかも来ますし、そういった意味では日本全国と変わらない生活をしているわけです。
あの大木はチェーンソーで倒しているんです。で、彫るのはよくやってるんですけど―姫田は丸木舟好きでして―ちょっと僕の話、いろいろあっちゃこっちゃ飛ぶんで、ぜひこの今日のパンフレット、最後から2番目のページに作品が出てるんで、それを見ていただくといいんですけど、『奥会津の木地師』(1976年5作目)という、福島県の田島、そこの記録がこの映画の1975年ですから、正確にいうと74年に撮られた民映研でのヒット作があるんですね。
実に貸し出しナンバー1の『奥会津の木地師』というふうに〝奥〟会津、とつけちゃったんですね。まずこれはあんまりいいとは思えなんですけど、姫田、奥をつけてしまうんですよ。で、その土地の方にとっては、なんで奥をつけるんですか?(林 田島は南会津ですから奥会津ではないです)
それでこの奥三面、この集落は奥三面とは言わないです。大字三面なんです。で、三面の衆も三面と言ってますけど。
自分たちが奥会津といっているのは、今だからいいと思います。三面っていう集落が村上にできたわけです。移住されて。今はないところを奥三面と呼ぶのは不都合がないと思うんですけど。当時はなんで奥をつけるの、と。
(阿部 それは差別的な意味合いを感じるから、なんで?ということでしょうか。福島にも町庭坂と在庭坂というのがあって、うちは在庭坂で小さい頃からコンプレックスがあって、なんでうちの住所は在なんだ?と)
◆林 本当に呼ばれていればまだしも、奥は、本当はつかないところわざわざつけちゃったっていう。地元の人は複雑ですよね。
◆姫田 でも最近は逆で、これ40年前の話ですね。今は行政の方が率先して奥飛騨とか率先して付ける時代になって、姫田が生きていたら、ほらみたことか、と思うかもしれない。(林 その第一号だと思います)
◆姫田 先ほど申しましたけれど、割と都会生活者だったので、偏見はないんですけど、皆さんお生まれになったところの因習だとか、そういうものがすごく、この村の中から出たいっていう生き方されている方もいらっしゃると思うんですけど、そういうところが姫田全然なかったものですから、村の生活をみると喜んで。知らないですから、自分が経験してない生活をみるんですから、喜んで入っていけた。
それがまるっきりね、すみません。『奥会津の木地師』というのは木をヨキ一一丁で倒し―それは機会があったらご覧いただきたいんですけど―本当に40分で一本倒すんですね。それで、やま型にとっていって、お椀の木地を作るんですけど、この奥三面の人たちはそれから10年後ですね。「丸木舟作ってたんですか?じゃあやりましょうよ」という。得意の説得があって。だからやってもらって。ただ切り倒すのはチェーンソーでやったんですけど。
それがどんどん発展して、アイヌの北海道二風谷というところでは、『シシリムカのほとりで』(副題 アイヌ文化伝承の記録1996年)っていう作品なんですけど、その中では切り倒した後に縄文土器、要するに石器で丸木舟を作るっていうシーンがあります。見事に石器で彫り上げるんですね。
◆阿部 ありがとうございます。『奥会津の木地師』に関してはこの岩波ブックレットで『忘れられた日本の文化』(副題 撮りつづけて三〇年1991年)という、姫田さんが書いた本があって、ここで姫田さんが、今、蘭さんがおっしゃったことを補足しますと、ちょっと読んでみると

木の内側を深ぶかと(これ、けずっていくというのかな)けずって(※本書には「刳って」とあり、それに従えばこの読みは「えぐって」と思われる)行くこの手引きのロクロが日本に登場したのは、奈良時代のなかごろだと聞いたことがある。もしそうだとしたら。この木地師、藤八(※小椋藤八)さん、平四郎(※星平四郎)さんらの青年期のころまでの千数百年間、それが絶えることなく伝えられてきていたのである。進歩がなかったと笑うことはたやすい。が、ヨキ一丁で巨木を倒す作業からはじまり、手引きのロクロにいたるこれら一連の作業を見つめながら、私はついに一度も笑うことができなかった。それどころか、私はただ感嘆し、いつしかそれが感謝の念に変わって行った。
なぜなら、五〇年も昔にすでに止まってしまったはずのこの一連の作業を、藤八さんたちは少しも忘れず見事に実現して見せてくれた。そしてそれを通じて私は、幼いときからおのれの体にたきこんだものは、老いても決して忘れないという人間のすごさ、素晴らしさを感じることができたからである。
しかも、この老いたる人たちの伝えてくれたものは、ただ単なる人間個人のすごさ、すばらしさのみではない。あえて言えば、千数百年の歴史を一身に体現したもののすごさ、素晴らしさである。(※「壮絶――体の中に伝えられたもの」p33〜34)

今日の丸木舟ですね、あのシーンなんか見てると、まさにこの『奥会津の木地師』のスピリットと一緒かなっていうか、まあ、それは再現してくれっていう姫田さんの思いっていうのは、それを是非映像に記録しておきたい、これはいずれ絶えてしまうものだから、というその哀惜の情から来てるんだろうなというふうに思われるわけですね。
この後、皆さんの方でなにかおっしゃりたいこととか、お聞きになりたいことあったら、双方向でやりたいなと思っているので、どなたか挙手を、ぜひ聞いておきたいということがあったらどうぞ。

映画『越後奥三面―山に生かされた日々』を語る会・記録①フォーラム福島アフタートーク編

2024-07-11 | 映画系


民族文化映像研究所『越後奥三面 山に生かされた日々』@フォーラム福島シアター5
2024年6月30日(日) 10時上映の部アフタートーク記録
【話し手】
・民俗文化映像研究所理事 姫田 蘭
・フォーラム福島総支配人 阿部 泰宏
・記録:小林 茂
(注:簡単な脚注を文中※印の後に適宜配し音声不明瞭のところは伏せ字○○とした)


◆姫田蘭 ご覧いただきまして本当にありがたく思っております。
◆阿部泰宏 僕もこの映画は本当に上映したくてしたくてしょうがなくて30年かかってるんです。
 そういう意味でちょっとこの30分の間、もうすごく、ちょっと感傷的になったりしてるもんですから、話がうまくまとめられなくて。ましてや、息子さんの蘭さんに来ていただけると思っていなかったので、本当に自分にとってもこれは忘れられないん日になったというふうに思っているんですが。姫田さんがこういう生き方をされるようになったきっかけですね。
姫田忠義という存在を、いかなる人物だったのかということを、すごく興味を抱かざるを得ない、この映画をみてしまってですね。
蘭さんからみて、お父さんというのはどういう存在だったのか、そして忠義さんがなぜこういう道を歩まれたのかというところを、なかなか短時間でご説明いただくのが難しいかもしれないんですけど、ご紹介いただければなと思っております。
◆姫田 ありがとうございます。姫田忠義は昭和で言いますと昭和3年に生まれました、1928年ですね。神戸で生まれました。
 姫田家は非常に貧乏なうちだったんですが、でも都会ですね。昭和の初期とはいえ、やはり神戸という、いろいろ文化が入るまちで育ってきたので、農村とか農山村・漁村で育った人間ではないので、逆にこういう世界に、自分の神戸の因習が嫌だとかっていうことは一度もなかったと思います。喜んでこういうふうに、こういうところに興味を持ったと思うんですが。
 姫田は16歳。旧制中学四年生で入隊しました。海軍の少年飛行兵いわゆる予科練ですね。予科練で入隊して高知の航空隊で終戦を迎えました。航空隊といっても一度も飛行機に乗れず、松の木から油を取り、穴を掘って上陸に備えていたという、そういうような少年時代で。
それからですね神戸高商、いま神戸大学っていう名前ですけど、旧神戸高商を卒業しまして、住友金属という割と大手の本社に勤めまして、そこで演劇に出会ってしまうんですね。
その昭和20年代というのは、職場で労働演劇っていうのはものすごく盛んだった時代で、そこで、なぜか無縁だった演劇に目覚めて、で仕事を辞めてですね。昭和29年、1954年に東京に出てくるんです。
 演劇の劇団に入るんですけど、演出部っていうところに入るんですが、ものすごい速さでまあ挫折するんです。演劇が嫌いになるんですね。
というのは、上京してきた29年に宮本常一さんという―うちでは宮本先生と呼んでいますが―のちには民俗学者として、あのご存知の方も今多いと思うんですけど、当時は民俗研究家。全国離島振興協議会の初代事務局長をなさってましたけど、それに出会うんです。
 で一日にして、「この人は僕の師匠だ」と思ってたらしいんですね。そこから昭和29年、宮本先生の話を聞くにつれ、興味がそっちに。
ただ生きていかなきゃいけないので、当時、始まりましたテレビ業界、「チロリン村とくるみの木」という、その人形劇が、まあ知ってる世代もいらっしゃるようですけど、その演出を3年やりまして。でももう毎日のことだったのであのやってられなかったらしいです。
それでやめて、いろいろ教育テレビのシナリオ放送作家ですね、今でいう。シナリオライターとして生活しています。だからまだここでも映画には無縁なんですね。
であの今、ドキュメンタリー映画監督って言う方いらっしゃると思うんですけど、実は民映研作品119本でいわゆる姫田忠義監督作品一作もない。で、監督とは名乗ってないんですね。
 今日ご覧頂きました、エンドロールずらっと名前が書いてある。スタッフでデスクも撮影も録音も一律に書くっていう、なんか妙な変な民主主義が姫田が考えちゃったので、姫田忠義監督作品って一つもないんです。
 で、自分は映画界とは無縁だと。まあ、ドキュメンタリー映画界とも無縁だ、アカデミズムとも無縁だっていうことをよく言ってまして。まあ、始まりはどっちかというとテレビ業界なんだと。
自分はテレビの人間から始まって、それで仲間を得まして、カメラマンに伊藤碩男(いとう・みつお)さんって、今でも、90を超えましてお元気なんですけど、出会ったことによって2人で映像を撮るようになっています。
 民族文化映像研究所の第一作目は、演出が姫田ではなく、伊藤さんなんです。で撮影しながら演出して、姫田が何やってたかというと、お膳立てと録音と。自分が見つけた九州の村を撮りに行ったわけですけど、まあそんなような始まりがあって。そうですね、ほかのドキュメンタリーの映画作家の方は見たことがないと思います。
あのお歴々。晩年、土本典昭(※土本典昭1928年12月11日〜2008年6月24日)さんと(阿部 あ、水俣のね)、土本さんと映画祭でお会いすることがあって、それで2人が登壇したらですね、「お互い見ないよね。人の作品は」「そうだよね」って言いあったらしいんですけど。確かによその方が何をやってるか全く知らないでまあ亡くなりました。
◆阿部 そうすると姫田さん、僕、姫田監督ってさっき言っちゃいましたけど、正確には監督と言うよりは制作者というか、そういった制作総指揮みたいな形で今の言葉で言うと、といった方が当てはまるでしょうか。
◆姫田 そうですね、自分で企画してっていうことが多いです。ただ、あのクレジットで名乗るとしたら演出なんです。
 今、演出っていうとなんか演劇とかなんか、もうちょっと違う感じに思うかもしれないんですけど、当時ドキュメンタリー界は監督っていうのは劇映画の人が名乗るものなので、ドキュメンタリーで監督ってなかったんですよ。
テレビもそうですね。テレビのあれも今なんか監督って、あまりみない、NHKは出さないようにしてますけど、演出っていうディレクターですよね。ディレクターなんで同じなんですけど。それがまあ名前ですよね。
◆阿部 『越後奥三面』は、ほかの姫田作品に比べると、姫田さんが自分でナレーションを入れて、映像の推移とともにこう解説を入れてくっていうスタイルはほかの作品でもあるんですけれども、この映画はどちらかというと姫田さんの作品にしては社会性と言いますか?それが強いかな?と印象をもったんですね。
やはりまず最初のうちに、この村はいずれ水没してなくなってしまう、反対運動もあったんだけれども、あえなく、まあ高度経済成長期の波に抗えずに、あえなく妥結されてしまって、村人の人たちのいく末も決まってしまっているっていうところをまず紹介して。で、いわゆるその村の生業ですとか、いろんな民俗学的な映像というのがずっと続くんですけど、ことあるごとに姫田さんはムラがなくなってしまうことについてどう思うか?と言うことをお聞きになってらっしゃるというのがすごいあるなというふうに思ったんですね。
 第二部に至っては、最初に姫田さんがもう自分は、俺はもうこの村ごと持ってどっかに飛んでしまいたい、みたいなところの、何か苛立ちの言葉をぶつけて、そこから始まるんですけどね。
 そういう意味では、非常に姫田作品の中では特殊だなという気がしたんですね。でやはり僕が興味を持っているのは戦中戦後派の、あの映像作家というのは、やはり価値観がひっくり返ってしまった、すごく挫折を経験している。
そこで、クリエイターになっていた人たちにある種、共通するものがあるなというふうに思っているんです。
 ところが、往々にして映画作家は、政治的な映画ですとかそういう人たちは社会派の監督になったりとか、あるいは市民活動家になっているだとかであるんですけど。姫田さんはその民俗っていうアプローチ、こういうジャンルに行ったっていうところが非常にユニークだなと思ってるんですけど、蘭さんからご覧になって、そういう生き方というのは?どんな風に捉えていらっしゃるんでしょうか?
◆姫田 映画を撮りたくて映画を作っているのではないっていうのがまあ大前提にありますよね。もともとはその宮本常一先生をですね、まあ、追っかける部分は本当に最初の最初でしたんですね。
 その映画を作るためにその村に行くわけではなく、たまたま行ったところで、これはなくなってしまう、特に自主制作の作品はそうなんですけど、この村はダム問題になりました。
 あとはもう、例えば『椿山』(※7作目、副題 焼畑に生きる1977年)っていう作品がありますけど、それは焼畑の村なんですね。当時でも焼畑をやってる、これは記録しなくてはいけないという使命感があって、それがまあ作品になっているわけですけど。
 社会派とかですね。そういうところは本当にある意味、避けてましたよね。その憤ってますよ。例えば何か事故があったとか、事件があったりとかすると出向いて行ったりするんですけど。
 それを作品にしようと、例えば水俣の仕事は、それは土本さんがやってるからとか。まあ、成田の問題は小川さん(※小川紳介1935年6月25日〜1992年2月7日。山形国際ドキュメンタリー映画祭創設の提唱者)がやってるからということはあったと思いますけど、それは自分でやるべきことじゃない。それはやっぱり宮本常一という存在が大きくてですね。何でしょう?生きてる間はとにかく宮本先生っていうことを、私はあの生まれた時から知っている先生だったんで、あのうちに来た人がですね。中学三年生の時に亡くなりましたけど。とても普通のおじさん、偉いまあ先生、先生と言っておりましたので、偉い方だとは思ってましたけど、おじいさんだと思ってました。
 その影響がやっぱり。ただ、80年に宮本先生が亡くなって、変わりました。あまり言わなくなったんですね。この作品のときには宮本常一先生が――という言葉はほとんどなかったと思います。
 ある意味、自分が出会った場所で作品を作っていくっていうことがごく自然な流れとして、出会いがあって、やっぱり趣味の映画を撮る前、日本全国こうテレビ番組作ったりしてたんですけど、それはやっぱり宮本先生が監修者だったりすることもあるんですけど、先生がここに行け、あそこに行ったら何かあるからそこに行ってみれば――っていうようなところから始まったんだと思うんですよ。亡くなったあと本当に自分の世界になったなと思います。
◆阿部 宮本常一さんとのエピソードというのは、この『ほんとうの自分を求めて』(ちくま少年図書館1977年)という姫田さんがお書きになった中にあるんですけど、これ非常に面白いですよね。出会いがね。
 たまたま宮本先生の本を読んだ姫田忠義さんが、アポなしで、たしか研究所に訪ねて行かれるわけですよね。
 どこの学生、どこの若者ともよくわからない、たったひとりたずねてきた若者に対して、朝の10時ぐらいから自分のオフィス、デスクの部屋に招じ入れてですね。いま何をやってるかっていうのを語り出したら、なんと夜中の10時までで、途中で店屋物を取ってくれたとかいうエピソードが書かれているんですけど。
◆姫田 はい、それが昭和29年。どこへ行ったかというとですね、東京の三田っていうところに渋沢邸というのがあって、渋沢栄一、今度1万円札になります。渋沢家のその当時の惣領である渋沢敬三先生の渋沢邸に「アチック・ミューゼアム」(※屋根裏博物館)という、戦中にちょっと名前を変えて、日本常民文化研究所。日本常民文化研究所をその豪邸の中に作ってたんですね。
で、姫田は「読書新聞」という新聞雑誌に、瀬戸内海の海賊の話を先生が書いて、それを読んで、まあ自分は瀬戸内海の生まれですっていうか、神戸なんですが、あの母親は岡山の北木島というところなので身近に感じて突然会いに行って、そしたら招じ入れてくれて、その一日中本当に――割とエリートサラリーマンだったわけですね、大阪本社それが東京出てきて極貧になったので玉ねぎをガリガリ生で食べて出かけたらしいです――だから宮本先生は玉ネギ臭かったんじゃないかなと言ってましたけど。
 そこでカツ丼をご馳走になり帰ってきたって言うんですが、それでいっきにもう信奉してしまいましてですね。それにまだ宮本先生は36年か、昭和36年に武蔵野美術大学の教授になりますけど、まだその頃は民俗研究者でしたし。
 うちの父母が昭和35年に結婚したんです。何月何日かっていうことは両親とも覚えてなかったんですけど、宮本先生の日記でちゃんと書いてありましてね。「今日は姫田君の結婚式だった。芸能人がいっぱいいて面白かった」って書いてるんですよ。
 まあテレビ業界の人たちはいたんでしょうけど、芸能人はいないはずなんですが、宮本先生からしたら芸能界の人たちがいて、自分の知らない世界の人たちが(音声不明瞭)が周りにいてびっくりしたと書いてるんですね。
 それぐらい大学の先生になるまでには、特にお世話になって、うちの家族も、兄が先生に抱っこされたり、写真撮ってもらったりとかして。ちょっとよけい脱線しましたけど。
◆阿部 渋沢敬三、宮本常一、姫田忠義という系譜、なんて言うか師弟関係ですかね?系譜を見ていると、非常に面白いなというふうに思いました。
時間もそろそろなくなってきたので、ここで僕もうかがいたいのは、今ロビーに張り出しているんですけれども、三面が今どうなっているか?っていうことです。ダムがあるわけですけど、今も姫田さんは三面ダムとかあちらの方に出かけられたりすることっていうのはありますか?
◆姫田 あの、ちょっとノスタルジックなので、うちの父は9月10日生まれなんで割と9月10日に行くことが多いんですよ、時間作って。でもあの当時は何時間もかけた三面ですけど、東京から車で日帰りしちゃうぐらいなんですね。
 あとダムです。寂しくありませんでした。人っ子一人いない時間がとても寂しいところなんですけど、春になりますとね山菜を取りにくる方が。危なくないのかなと思うんですけど、舟まで持ってきて、ダム湖を横断して山菜を取りに行ってるらしいんですね。そういうおじさんに話を聞いたりすると、三面の人じゃないんです。そこに来る人はもう三面の人じゃないんですね。
◆阿部 僕もこの映画をみて、行こうと思ったんですけど、途中までしか入れないんですよね。特に秋口。冬はとても行くのは難しい。四駆じゃないと落ち葉がすごい、滑っちゃうので。なかなかすごいところだなというふうに改めて思ったんで。この映画を見て感慨を受けられた方はですね、暖かい季節、今の時期なんか行けるかな?と思うので、ぜひ見ていただくと余計アクチュアリティが増すと思うんですよね。
◆姫田 そうですね。これから午後の会がありますので、その時にはいろいろ話したいと思いますけど、どうしてあんなものを作ってしまったのかなっていう疑問ありながら、私はいつもみていますので、これに関しては。あ、宣伝してもいいですか?
 今回、このプログラムを作りました。ぜひお買い求めいただけますと、ありがたいです。1000円です。そしてですね。この先ほどから紹介しています『民映研作品総覧』(※副題 日本の基層文化を撮る2021年)、これ、ちょっと高いんです。1980円なんですけど、残りが3冊となっております。
 それから『ほんとうの自分を求めて』。これは実はちくま少年文庫というところ、筑摩書房から出てたんですけど、姫田が亡くなった後に再版しまして、姫田が書き下ろした最初の本です。これもあと2冊。1500円。(阿部 でも書店に注文すればあるんですよね)はい。
◆阿部 民映研でも取り扱っていらっしゃいますよね。
◆姫田  はいそうです。「はる書房」というところで検索していただけます。まあ、これはアマゾンでも買えますけど。
◆阿部 パンフレットはすごく販売率が良くてですね、だいたい3割ぐらいのお客様が買って行かれます。だいたい映画のパンフレットって、1割弱なんですけど、でもこのパンフレットはすごくよくできていますし、やはり映画の中を深掘りしてますので、これで1000円だと非常に安いですので、お買い求めいただければなと思います。
 本当に僕自身ナビゲーターうまくいかなくて申し訳なかったんですけれども、時間になってしまったので、この辺でお開きにしたいなと思っています。この後はですね。カフェ・ド・ロゴスという市民対話サークルの方々の主催によるお話し会をやるんですけども。その件について主催者の荒川さんから。
◆荒川信一 皆さん、こんにちは今ご案内ありましたけれども、カフェ・ド・ロゴスということで、この映画で語り合おうというイベントを企画しておりました。場所は如春荘というところで、県立美術館の方へ歩いて10分かかんないくらいのところに、昭和チックな古民家なんですけれども、そこで語り合う会を企画しておりました。
 そこにですね当初、阿部支配人に来ていただくことを思っていたところに、今いらっしゃった姫田蘭さん、それからですね福島大学の准教授であります林薫平さんをお招きして、この話の続きを聞かせていただけるというふうになりました。林先生につきましては、宮本常一との関係を語っていただくというふうに聞いております。
 時間なんですけれども、SNS等では1時半と告知しておりましたが、時間が押してきましたので2時からということで、今までお知らせしていた時間30分遅らせて2時からの開始としたいと思います。入場無料・予約なしで結構ですので、ご都合が合えば来ていただければと思います。以上です。よろしくお願いします。




高校生×社会人哲学カフェ

2024-06-21 | 高校生哲学対話サークル


【テーマ】  教育は子どもにとってよいものなのか?
【開催日】  7月20日(土) 14:00~16:00 
【会 場】 文化堂ビル3階・セミナールーム(福島市上町2−2)
https://pentonotelife.com/
※ リニューアルオープンされた文化堂ビルには、素敵なカフェや文具店が並んでいます。
【問題提起者】 横山美優さん(福島東高校3年)

【問題提起の趣旨】
 現在、日本の児童虐待件数は増加していますが、国の調査では「教育虐待」という分類がないなど不十分な面があります。このテーマを設定した理由には、私自身、将来教育に携わる仕事に就くために大学進学を志望しており、教育とはどのようなものなのか関心があるからです。
私自身、幼稚園の頃から塾に行っていた環境で、周囲の子たちの勉強に対するネガティブな声を聴くことがしばしばありました。子どもが楽しんで勉強していない様子を目のあたりにしながら、果たして教育は子どもにとって良いことなのか。そんな疑問を抱いてきました。
すべての教育が子どもにとって良いものなのか。教育について、周りの人がどのような意見を持っているのかを知りながら、自分の考えを作り上げたいと思い、今回のテーマを設定しました。
【主催者より】
 今回の問題提起者である横山さんは、東高での「総合的な探究の時間」で自身が取り組むテーマをもとに、同世代の高校生や大人たちと対話を交わしながら、そこから知り得たさまざまな意見をもとに探究レポートをまとめる予定です。こちらも高校生の参加は可能です。ぜひ、老若男女の対話の声を響かせましょう。
(渡部 純)
【参加申込】 定員20名程度
 飲食物の注文は文化堂内のカフェよりご注文下さい。持ち込みは不可です。事前にメッセージで参加をお申し込み下さい。

映画「越後奥三面―山に生かされた日々」を語る会

2024-06-01 | 映画系


【鑑賞作品】「越後奥三面―山に生かされた日々」
上映時間・145 監督・姫田忠義 監修・デジタル版 小原信之/姫田蘭 進行・デジタル版・今井友樹/遠藤協
【上映期間・フォーラム福島】6/28(金)~7/4(木)予定
【語り合う会】6月30日(日)14:00~16:00【開始時間を変更しました】
【ゲストトーク】
姫田 蘭 氏(民映研理事)
阿部泰宏 氏(フォーラム福島支配人)
林 薫平 氏(福島大学食農学類准教授)

【会 場】如春荘
 ※あらかじめフォーラム福島で本作品をご覧になってから如春荘へお越しください。
【カフェマスター】荒川信一


 新潟県北部、朝日連峰に位置する奥三面。狩り、漁、採集、田畑・・・縄文の時代から連綿と続く、山とともに生き山に生かされてきた人々の暮らし。
 その奥三面がダムに沈むまで、映像作家・映像民俗作家の姫田忠義ひきいる民族文化映像研究所が執念もってフィルムに残した記録映画です。
 熱い思いで本作の上映を実現したフォーラム福島支配人:阿部泰宏氏をお迎えし、その思いやこの映像の価値をお聞きしながら、参加者みなさんでこの映画をテーマに語り合いましょう。

【作品紹介】
(C)民族文化映像研究所
新潟県の北部、朝日連峰の懐深くに位置する奥三面(おくみおもて)。人々は山にとりつき、山の恵みを受けて暮らし続けてきた。冬、深い雪におおわれた山では、ウサギなどの小動物や熊を狩る。春には山菜採りが始まる。特にゼンマイ採りは戦争とよばれるほど忙しい。そして慶長2年(1597年)の記録が残る古い田での田植え。夏は、かつて焼畑の季節だった。川では仕掛けやヤスでサケ・マス・イワナを捕らえる。秋には、木の実やキノコ採り。3万haに及ぶ広大な山地をくまなく利用して生きてきた奥三面がダムの底に沈む…。
40年前まで確かに存在した山の暮らし。その喪失と記録が現代に問いかける記録映画の金字塔がデジタルリマスター版で蘇る。(1984年9月21日、日本初公開)

【予告編・フォーラム福島URL】
https://www.forum-movie.net/fukushima/movie/5734

ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引書』読書会

2024-05-01 | 文学系

【日 時】2024年5月25日(土)14時〜16時
【会 場】如春荘(福島県立美術館前)
【課題図書】ルシア・ベルリン『掃除負のための手引書』
【カフェマスター】島貫 真
【定 員】15名
【参加申込】メッセージからお申し込みください。
【会場費・資料代】無料


【カフェマスターより】
前回は、サリンジャーの『フラニーとゾーイ』という作品をカフェロゴで読みましたが、これがとても愉しい会になりました。
そこで味をしめた、というわけではありませんが、上記の通りまた読書会をしたいと思います。作品はルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引き書』。サリンジャーの作品とは違って、おそらく初めて名前を聞く方も多いかと思います。
短編集で読みやすく、「ルシア・ベルリンの小説は読むことの快楽そのものだ」と訳者はあとがきで書いています。少々大げさな表現ですが、この小説を「発見した」訳者の気持ちは、分かるような気がします。
簡単に以下、簡単に作家と作品の紹介をします。
表紙より
「波瀾万丈の人生から紡いだ鮮やかな言葉で、本国アメリカで衝撃を与えた奇跡の作家。大反響を呼んだ初の邦訳短編集」
腰巻き惹句より
「1936年アラスカ生まれ。父の仕事の関係で、北米の鉱山町やチリで育つ。3度の結婚と離婚を経て、シングルマザーとして4人の息子を育てる。学校教師、掃除婦、電話交換sy、看護助手として働く一方、アルコール依存症に苦しむ。2004年逝去。生前は一部にその名を知られるのみであった」
次に訳者の対談から
岸本佐知子&山崎まどかが「とにかくすごい」と語彙を失うルシア・ベルリンとは何者か
https://mi-mollet.com/articles/-/18893?layout=b(mi-molle KODANSHA)
川上未映子×岸本佐知子『掃除婦のための手引き書』刊行記念対談(講談社Tree)
https://tree-novel.com/.../72b31906235dc3d6786242614cb8c4...
というわけで、よろしかったらぜひご参加ください。
(講談社には在庫があるそうです。書店にお問い合わせを。)
カフェマスターは、島貫が務めます

【参加される皆様へ】
福島市で個人で書店をはじめられたはなみずき書店さんがあります。
全国的に書店の衰退が著しい中で、書店ゼロの市町村数で福島県は、2017年に全国3位というデータがあります。
(出典:日本著者販促センター 書店が1軒もない自治体の数 日本書籍出版協会の資料より(2015年5月1日現在)
出典:朝日新聞「書店ゼロの自治体、2割強に」トーハンの資料より(2017年7月31日現在))
そのような状況で福島市で書店を開かれたはなみずき書店さんを応援する意味も込めて、よろしければ、ぜひ今回の課題図書は、はなみずき書店さんで注文して購入していただければ幸いです。
店主の荒木さんのご厚意で、福島市内にお住まいの方は注文本をお届けしていただけます。
郵送の場合には180円の送料が必要となりますが、いずれも読書会当日にお支払いいただければ大丈夫とのことです。
以下、はなみずき書店のX(旧Twitter)をご覧ください。
https://twitter.com/hanamizukibs
【はなみずき書店】@hanamizukibs
福島市内で活動を始めた書店です。人文系の新刊書中心です。本を通じて何かと何かがつながって生まれたり、育ったりしていくのを応援したり、見守ったりしていきたいです。まだ店舗はありませんが、そういう場を作りたいと準備中です。はなみずき書店とゆっくりと走りながら、まわりの景色を楽しみ、一緒に考えていきませんか。

サリンジャー『フラニーとズーイ』読書会・雑感

2024-04-07 | 文学系

久しぶりの文学、そして読書会でした。
課題書はサリンジャーの『フラニーとゾーイ(ズーイ:村上春樹訳)』。
今回のマスターはあをだまさん。
あをだまさんはこの日のためにしっかりとしたレジュメと資料を用意して下さいました。
その準備期間はおよそ一か月。
あをだまさんの並々ならぬ意欲が伝わります。
しかし、あをだまさんはこの本のエッセンスを参加者にどう伝えるべきか悩んだそうです。
悩んだ挙句に頼ったのが、なんとチャットGPT !
なるほど、そういう相談相手としての活用法があったのか!
レジュメはチャットGPTとのやりとりから作られたものだそうですが、そのやりとりは神にすると20頁ほどになるとか。
これまた驚きです。
17歳で『キャッチャー・イン・ザ・ライ』から入ったあをだまさんのサリンジャー経験を述べながら、本書初読時に抱いた3つの疑問を提示しながら、その解釈を述べるところから会は始まりました。
その疑問とは、
①なんで最後に眠りに落ちて終わりなんだ?
②「太っちょのオバサマ」がどうしてキリストだってことになるわけ?
③ゾーイのキャラは皮肉っぽくて反抗的で、あまり良い子に見えないのに、どうして妹には優しくできるのか?
あをだまさんは、サリンジャーの他の著書の読解や解説書を下調べしながらその疑問を読み解いていきます。
その際、サリンジャーの宗教観にもふれます。
たいへん興味深いあをだまさんの解釈については、写真にあるレジュメをご参照ください。




さて、参加者どうしの話し合いでは、まず主な登場人であるフラニーとゾーイ、母親のなかの誰の視点に立って読んだかが話題となりました。
青臭すぎるフラニーはスノッブな彼氏や大学の教授、院生などのファッション的な定型の言動に嫌悪感を催し、純粋な宗教性に魅かれていきます。
若さの純粋性といえば美しいですが、それは心身に危機を生じさせます。
はっきり言って、日々の仕事にウンザリさせられる日々を送っている参加者はフラニーの視点で読んでいたでしょう。。
一方、彼女の兄であるゾーイはフラニーの青臭い純粋さが誤っていることを言葉巧みに解きほぐそうとします。けれど、そうしながらも彼は彼でその自分の未熟さに自家中毒になるちょっと大人になりかけた青年です。
まぁまぁ、そんな若気の至りというか、そんな理想に周囲がなっていないことに失望して感情が揺さぶられていた時代もあったよね、とちょっと人生に達観した方は、このゾーイの視点で本書を読んだようです。
また、息子娘たちとかみ合わない、理解し合えない会話のやりとりをする母親という視点から読んだ参加者は、まさにご自身の母親としての経験が深く影響していたようです。
もうちょっと母親の身になって話し相手になってよ。
ゾーイは、それでも母親の要望にある程度こたえられる演じ方を身につけられているよね。
けれど、青臭いフラニーにはそれができない。
純粋さなんてありもしないけれど、その純粋さに苦しんでいることにゾーイは気づかせようとしている。
そういえば、ゾーイは俳優だし、演技というのも本書のキーワードの一つでした。

いずれにせよ、本書は言葉のやり取りは膨大にあるけれど、その核心が何なのかよくわからない。
そんな読後感をもったようです。
たとえば、フラニーとゾーイは7人兄弟。
幼い頃に兄妹全員で羅時を番組に出演していた、いわば子役たちという背景があります。
年長の兄弟には戦死したものもいれば、自死した者もいます。
とりわけシーモアという自死した亡兄の存在がこの小説の中で大きな意味をもつのですが、しかしなぜ彼は死ななければならなかったのかなどは説明がありません。
母親は、会話しなくなった兄弟たちにラジオ出演していた頃に戻ってもらいたいと思っていますが、本書では一人ひとりが深い問題を抱えていることをほのめかしながら、その原因が何なのかも説明されません。
ただ、幼いことに公衆の目に曝され続けたことがフラニーをして、画一的な大衆性に嫌悪感を催す感性=問題をもたらしたのではないかなと推測できるのみです。
目に見える会話のやりとりでは明らかにされない何かがある。
ということは、本書の会話や言葉のやりとりの意味だけを探っていてはなにがなんだかわからない。
これはサリンジャーの戦争体験、PTSDが大きく影響しているのではないか。
サリンジャーはベトナム帰還兵たちに「これはわれわれの話だ”!」と受け取られたという話も挙げられました。
だからといって、精神分析や精神医療の問題に回収されたくはない拒絶感も本書では語られています。
はっきり言って本書は読みにくい。
でも、その読みにくさとは、このサリンジャーの戦争体験に深く関係している。
新しい文学とは、それまでの文学や文体、形式では語りえない時代に入ったことを別の仕方で表現せざるを得ないものだとすれば、サリンジャーのおもしろさとはそこにあるのではないでしょうか。
それは、一見するとなにがなんだかわからない。
けれど、その時代のとば口でもがいている人間にとってはすぐさまに直感的に「これだ!」とわかるものでしょう。
それは、残念ながら訳者である村上春樹にはない。
村上春樹はドーナツの穴、空洞であると評した参加者もいました。
いかにも、それは中心に何もない。
ロラン・バルトもまた『表徴の帝国』で東京という都市を「いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である」と評しましたが、それは村上春樹の作品群にもあてはまるでしょう。
サリンジャーはそれとは違います。
何かがあるけれどそれが無数の言葉のやり取りの中から想像されるしかない。
それはけっしてフロイト的な無意識の構造というものでもないでしょう(なぜなら、精神分析を忌み嫌ったやりとりも描かれているので)。
それが何なのか。
「解説」を付さないことを出版条件にしたサリンジャーでしたが、それでも何かを言いたくなるということで村上春樹は付録でそれに近いものを書いています。
そこで村上は、サリンジャーの「表面的な『宗教臭さ』にまどわされれることなく」読むことを注意しています。
そうなのか?
ということが話題に上がりました。
キリスト、イエスの思想を誤解して苦しんでいるとフラニーを諭すゾーイですが、しかしそれは必ずしもキリスト教っぽくないよねという話になります。
「太っちょのオバサマ」やスノッブな教授たちもキリストだっていう仕方は、むしろ仏性が生きとし生けるものという東洋仏教を読んでいるかのようだったし、あるいはそれはスピノザの神、すなわち汎神論的な説明であって、ユダヤ性すらかぎ取れるんじゃないの?
それに抜きにしたら、やっぱり片手落ちの読解になっちゃんじゃないか。
そんな話にもなりました。
「太っちょのオバサマ」といえば、この話のデジャブ体験を語ってくれた参加者もいました。
本書の中で、ラジオ番組に出演する際に製作スタッフ・観客・スポンサーみんなが「うすらバカ」とつむじを曲げたゾーイに対して、兄シーモアが「それでもお前は太っちょのオバサマのために靴を磨くんだ」と諭します。
この「太っちょのオバサマ」は実在ではなく、いわば統制的理念のような存在なのでしょう。
フラニーとゾーイはそれぞれラジオの前で、それを楽しみに、あるいは習慣的に聞いている「太っちょのオバサマ」なる人物を想定して、けっして目にすることはない自分の「靴」を磨くことは、その存在のために万端準備することが仕事に対する構えそのものを成立させるということなのでしょう。
見えない細部にこそ神は宿れ。
あをだまさんはこれを「禅っぽい」と評しました。
さて、先の参加者のデジャブ体験とは、彼もまた子どもの頃の学芸会で準主役を務めた際、当日になっていきたくないと駄々をこねたそうです。
すると、お父上が「この学芸会をいつも楽しみにしているおばあちゃんがいるから、その人のために出なければいけないよ」と諭してくれたそうです。
さて、そのおばあちゃんが実在したかどうかは定かではない。にもかかわらず、その統制的理念のようなものが出演の行為を促したそうで、それが後年『フラニーとゾーイ』に書かれた「太っちょのオバサマ」の話を詠んだ際に、「これはあのときのことではないか!」と驚いたそうです。
ちなみに、お父上はそのエピソードを全く覚えていなかったようです。

本書ははっきり言えば、読みにくい本でした。
おもしろいかと聞かれれば、けっして面白いとは言い難いものです。
にもかかわらず、読書会という経験がなければ読むこともなかったでしょうし、何より複数で読むことのおもしろさがいかんなく発揮される時間となりました。
選者にしてカフェマスターを務めて下さったあをだまさんには心より御礼申し上げます。

【エチカ福島】13年目の『たゆたいながら』・記録

2024-03-12 | 〈3.11〉系


3月9日、福島市写真美術館で映画『たゆたいながら』の監督・阿部周一さんをゲストに招いた対話イベントが開催されました。
「13年目の『たゆたいながら』」と題した今回のエチカ福島は、8年前に一度本作品の上映会を開催したことがあります。
そこでの場面が今回の上映作品に盛り込まれていますが、あのときにこの映画が引き出した対話の力を再び〈3.11〉から13年目に見たとき、何が引き出されるのかを期して企画しました。
以下、雑駁な対話のやりとりを記録させていただきます。

阿部周一監督

2016年のエチカ上映会では15年バージョン。その上映会の場面を挿入したのが今回の作品。
久しぶりに自分でも見たけれど、時間の流れを感じた。
映画に出演してもらった幼稚園園長さんも昨年亡くなられた。父母も若くて元気だったなぁという感想をもった。
観ながら、編集のパッションを思い出した。
こんなに長かったかなという思いももった。
〈3.11〉から13年目を迎えるにあたって、この作品が参加された皆さんがどのような感想をもたれたか、ぜひ聞いてみたい。

・自分自身が映っていて、こんな顔していたんだ。浪江町出身で、震災当時から福島市渡利に住んでいて、自分たちは子どもも含めて避難しなかった。今日はその後の答え合わせができた。その後、自分の考え方はどんどん変わっていった。映像を見てながら、子どもたちに「フレコンバックって、オレの故郷にもっていったんだぜ」、「東日本壊滅寸前だったんだぜ」と伝えたい。自分の中で折り合いをつけていく。これからも新しいことが出てくるので、考え続けるべきだし、阿部監督には撮り続けて行ってもらいたい。自分の中では「復興」という言葉の呪いが解けた。一人称で語るっていう事をテーマに考えている。福島の怒りや喪失はたくさんの人の話がある。一人一人違う。私は被災地の出身者として、外から来た人に話すときに相手に一人称で語ることを意識している。

・「大学では、学生たちと復興のために聞き取りをしてアーカイブに残すことをしている。高校教員時代は外になかなか出られなかった。浜通りにも行けなかった。浜通りの先生の話を聴いて代表する形で、組合の大会で県外の人たちに報告していた。自分自身被災者なのか。中通りに住んでいて津波被害もない。線量計を見て感じることもあったが、自分が被災者なのかという疑問があった。組合活動で国や県と交渉する過程で空虚な感じがした。環境省は予算を使って汚染土について学生の話し合いをさせる予定である。大学もイノベに反対するとカネが来ない。映画の感想は自分の中でのわだかまり、自分もこういう思いがあったなぁと思った。一番素の福島の人の証言を生で聞くことができる映画だと思った。質的に他の映画異なる。映画の続編でこの続きを見ていきたい。

・私も映画の続編はどんなものができるのかを考えていた。毎年3.11が近づくと憂鬱になり、当時のことを思い出した。今の福島はこの映画の続編を生きている。同じテーマで続編をとることができるのか?変えなければならないのか?私は今でも十分たゆたっている気がします。たゆたい方が違っているのかなと分析できないんだけれど。

【阿部】ずっと続編を考えてはいるが、テーマが思い浮いては悩んでいる。当時、聴き取れなかったのは子どもたちのこと。「実はあの時、避難したくはなかった」ということを言語化したケースもある。あの時、子どもたちはどう思っていたのか?子どもたちの世代が、あらためてこの13年をどんな思いで過ごしていたのか?フレコンバックの意味もわからなかった子どもたちが、今どう思うのか。「子どもを守るために避難した/残った」親の選択を子どもがどう思っているのか。

・浪江で過ごした子ども時代に、「原発安全なの?」と父親に聞いたら「ば~か、原発爆発したら日本がなくなるから心配しなくていいんだ」と聞いてから考えなくなった。それが自分にとって一番の取り返しのつかない経験だった。「これからの福島の夢と希望、復興を語ります。福島を復興させるために〇〇になります」と語る高校生の言葉をしばしば耳にするが、それは大人が言わせたんじゃないか。大人が求めることを先回りして言える力が高校生にはある。子どもが子どもである所以は、自分が言った言葉に囚われる。自分で自分に呪いをかける。それはどうのかな?一生自分の言葉に縛られてしまう。あの震災を覚えている人たちが、そういう経験をした。あの経験を知らない今の子どもたちがどう思うか。阪神淡路大震災を経験した福大の先生が「被災から10年後が問われる」といった話を思い出す。

・小学校の教員をしています。震災の齢に生まれた子がこの三月で卒業します。立場上花むけの言葉を言うのだけれど、あなたたちが生まれるちょっと前に震災があった。新しい生命は希望だった。あなたちの親さんたちが苦労したことを覚えておいてほしいと伝えた。

・2014年に京都から東京、福島へUターン。県外避難者の支援・相談のお仕事をした。2016年に全国に窓口を作る。住宅支援の打ち切り話し合いの場づくりを思い出した。行政と避難者の間に入って支援団体の声を県に伝える役目で、ストレスが多すぎて限界がきて辞めたけれど、そのときにつながった団体とは今でもつながりある。母子避難者の子どもたちが大学に巣立ったタイミングで、お母さんたちがつながりやすい場づくりの相談をした。そのときにできたつながりが、今も関係する。その後の家族や住む土地の変容。それぞれの家族にとってはあの出来事は今でも続いているのではないか。

・以前に観たけれど、忘れているシーンがけっこうある。自分の立ち位置が変ってきていると感じている。どう変わったか。震災から二年後に始まったエチカ福島の立ち位置ががこの映画の上映会をしたときに変わった、と今思う。語りえないけれど発信しなければいけない、けれど何を言っていいかわからないから、まずはお勉強しようとエチカ福島は始まった。その時期は勉強しなきゃというカオスの状態。4回目以降、南会津など過疎地域や教育を考える時期がしばらくあったが、この映画を観た会が決定的な変化になった。生きている人の声。他人が語る解説ではなくて、内から出てくる言葉を紡ぎ出そうとする人の声を聴きたいという思いに変わった。それは簡単なことではない。でも100年経ったら「こんな茶番はありえない」と思うかもしれないけれど、でも、たぶんその茶番は続いていくだろう。エチカで漁師の現場の話を聴きに行ったとき、ご高説を賜る縦軸じゃなくて、仲間同士の横軸のつながりが大事だと思った。「あなたはどう考えているの?」と、同じ地べたで考えている人の言葉を聴くことにたどり着いたのかな。地べたで生きている自分の言葉を探したい。

・映画に出てきた「大きな物語」という発言が重要。故郷への帰還を物語化する「家路」という映画の危険性を思い出した。この「たゆたいながら」で一番大切なものは自主避難者たちや残った人たちの「小さな物語」。俵万智の「子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言えへ」という歌を思い出しながら、当初は一時避難だったはずが長期避難になってしまった故郷喪失を想う。なかなか戻れない問題。それぞれの声をもう少し見てみたい。言葉の方言の違いは避難と帰還に大きな影響をもつのでは。日系一世の定住/移住の判断は、実は言葉の問題が大きく影響していた。

・私自身、3.11が近づくからという理由だけではなく、あの日福島へ逃げまどっていた自分を思い出す。今現在も同じ思いでいるんだろうなと思っている。子どものためと思って逃がしたのに、避難先から子どもが壊れて帰ってきた。私の不勉強から子どもを壊してしまった。その子どもを「イイ子症候群だね」と尾木ママに言われる。イイ子でなければお母さんが泣いちゃう。だから、被災地の子たちはイイ子が多い。解放してあげて下さいと言われた。でもそう言われても、状況が変わっていない中でいったいどうすればいいっていうのか。小さな社会や家庭の中で、この思いを変えていかなければならないのだろうか。そこに復興という大きな物語が入ってくる。今、インバウンドで語り部の仕事を頼まれる。福島の夢と希望を語ることを要求される。子どもが小学校入学時に「お母さん、僕はどこの小学校に行くの?」と尋ねられたことでハッと気づき、それで南相馬に戻った。生活のために、子どものために働く、子育てする、そこに子どもは「イイ子症候群」だと言わる。自主避難/強制避難という言葉で括ってほしくない。どちらも「子どもをどうやって守るのか」の一点でやってきた13年だった。自分の中であまり区切りがなかったんだなぁと思う。Fレイの話が息子の通う高校で話題にされたとき、息子はぼそっとこう言った。「ここに人が戻ってくるのか?ここに来るのは移住者だ。3.4年経ったら皆いなくなるでしょう」と。

・前向きで被災のことを話さない被災地出身の同僚。その中で変化している人もいる。故郷を諦める人が増えている。全国に散らばった浪江の避難者たちが戻る場所はあるけれど、海に入っちゃいけないことになっている。賠償金の問題で「浪江」という言葉を口にできない。自分の故郷を誇れるものがない。口をつぐんでいる人たちが、口を開けるようになるには、一人称で語ること、自分で考えたことは語っていいのだというのが当たり前となればいい。広島の被爆者の中で本当に訴えたい人たちは喋られない死者であったり、胎児性水俣病患者の人々であったりすることを知り、そのことを思い出す。

【阿部】皆さんのお話を聴きながら、なおさら続編は取れないんじゃないかなと思った。ますますわからなくなってきた。今振り返ると、この映画では「自主避難者/残った人々」という対立構造を作っているので、結構危ないことをしていたなと思う。もっと両者の間にはグラデーションがあるはずなのに、カテゴライズを当てはめて編集しているなと思った。一人称の言葉を並べて編集することの怖さを感じる。当時の子どもの言葉を聞かなくてよかったんだなと思った。

・先日、小高と浪江の人たちの話を聴いて、ほんとうに震災の心の傷の酷さを実感できた。自分も南相馬市鹿島出身だけれど、そこは30km圏内。小高は20km圏内。そのあいだに温度差がある。息子が自死した親さんが「なぜ、息子を助けられなかったのか」と、ようやく人前で話せるようになったという話を聴いた。震災の被害は現在進行形。心の病はこれから出てくるのかな。福島にいると自分はそれほど原発に深刻さを覚えなかったが、これだけの被害の深刻な人の話を聴くにつけ、自分自身の無力さを感じる。

・今ドキドキしている。映画を観て当時のことを思い出した。3.11は気が重くなる。こんなに気持ちが辛い感じがしているのに、また政府は原発再稼働している。震災当時、実家の大津に息子を連れて避難した。そのときも周りの人たちは無関心。腫れ物に触りたくない気持ちもあったのかも。私たちが3.11が近づくと気が重くなっているのに、13年も経っているのに政府は何もやっていない、誰も学んでいないことに唖然とする。こういう映画を全国でいろんな人に見せた方がいいんじゃないか。今まで福島以外でどれくらい上映されてきたのか?

【阿部】関西の原告団や京都の原発反対のシンポジウムなどで上映させてもらった。けれど、残念なことに、そこでは原発になにがしか答えをもっている人しか来ない場所で、そういう答えをもっている人たちが集う場でしか上映していない。そこに来る人たちは、自分がもっている意見の答え合わせに来ている。自分の考えを補強するためにきている人が多い。若い人は来ない。そういう経験の中で徒労感のようなものを感じてきた。

・あらためて強度をもった映画だと感じた。自分の中での答え合わせをするわけだけれど、8年経ってみると、それだけじゃないな、それこそが地べただと感じている。

・今30歳。この映画ははじめて観た。はじめのスタートが分断の話で、分断の構図を示しながらも、その中に色々から見合ったものがあってそれが和解、赦しに至る。映画を観た後に、感想が思いつかない。分断すべきではなく和解の方向性に向かうべきなんだろうけれど、「うん、そうだよね」で終わってしまうところがあって、そこから自分が何かを語ろうとすると、こちらが止まってしまう。言葉を引き出せている一方で、自分自身が何を語ろうかとなると出てこない。自分には高校・大学など自分のルーツへのこだわりがないところがある。気になったのは分断を超えていく中で、赦しが結果として描かれていたと思うが、「おばあちゃんを家から追い出したのは僕だったかもしれない」という傷はこの映画を通じて報われたのか?

【阿部】急に東京に住むことになったストレスで、数日後に両親が一時避難してきたときに、一緒に帰られると思ったときに「残れ」と言われたのがすごくショックだった。祖母への八つ当たり。ちゃんと謝ることができなかった。祖母がわかる間に謝りたかった。心残り。

・こうやって3.11について話し合う場にいたくなる。違う温度差。私自身の一人称で語ることができない環境を作ってきてしまった気がする。2014年柏崎に入る。学生という立ち位置は色々な人と距離が旨く持てる、貴重な立ち位置なのではないか。

時間が足りず、もっともっと話し合いたいこと、語りたいことがあった様子が参加者の皆さんから感じられましたが、ここで対話は打ち切りとなりました。
しかし、〈3.11〉から13年目をむかえる時点で、ようやく一人一人の語りが少しずつ出されるような予感を覚える時間でもありました。これをきっかけに、あらたな語り合いの場づくりができる予感もあります。
阿部監督にはお忙しいところ福島にまでゲストに来ていただき、感謝申し上げます。
ここでの出会いが新たなつながりへ展開していくことを期待します。

【エチカ福島】13年目の『たゆたいながら』上映会&対話イベント

2024-02-26 | 〈3.11〉系

【日 時】2024年3月9日(土)13時~16時
【会 場】福島市写真美術館(福島市森合町11-36)
【ゲスト】阿部周一監督
【定 員】20名

【参加申込】メッセージからお申し込みください。


阿部周一監督のドキュメンタリー映画作品『たゆたいながら』の上映会&対話イベントを開催します。
この作品は、阿部監督が大阪芸術大学の卒業制作としてつくられた労作で、原発事故に被災した福島市の住民が自主避難するか、居住地に残るかの選択で引き裂かれた葛藤を描いたものです。
監督自身も、避難者としての自己を問う意味が込められていた作品であると述べていました。
エチカ福島では、2016年10月に同作品の2015年版の上映会と対話イベントを開催したことがありますが、あれから8年の時を経た今日、再び福島の人々の目にはどのような映像として捉えられるか。
そのような問いのもとに、原発事故から13年目をむかえる3月9日に上映会と対話イベントを開催します。
なお、阿部監督の交通費・謝礼として当日カンパをいただければ幸いです。


徐京植『フクシマを歩いて』・雑感

2024-02-25 | 〈3.11〉系


8名の方にご参加いただいた徐京植『フクシマを歩いて』から考える会。
いつになく、参加者の生きざまが開陳される対話となりました。
一人ひとりの人生のセンシティブな内容が話し合われたという点で、この空間が安心かつ信頼できる場として成立していたことに主催者として大変ありがたさを感じるものでした。
以下は、渡部がこの対話を通して考えた雑感です。
もちろん、参加者の個人的経験を具体的に記述するわけにはいきませんが、対話で投げかけられた言葉一つひとつに応答する思考の抽象化によって読み手の想像力に投げかけてみたいと思います。

徐京植の『フクシマを歩いて』を購入したのは、割と出版されて早い時期だったと記憶する。
昔から徐氏のファンでもあったこともあり、その書に何かを期待して手に取ってみたというところだったと思うが、しかし読み始めてすぐに本を閉じてしまった。
数ページ読んだところで、どこか徐氏の記述に訳知り顔のようなものを感じてしまった気がしたのである。
それから十数年が経ち、同書を開いたもののすぐに閉じるということが何度か続いたきり、読み進めることはできなかった。
今回、笠井さんの提案で開催されたことを機に意を決して読み進めてみた。
一読して、2012年3月10日出版されていた同書がこれほどリアリティをもって生彩を放っていることに、今さらながら驚いた。
ただし、ここでいうリアリティとは、現在に共鳴するという事態とは少し違う。
原発事故直後には定かではなかったことが、そういうことだったのかと得心できるまでに自分の中で12年という月日が必要だったという時間性と、そこに宛がう言葉を既に徐氏が見抜いていたという鮮烈さが重なり合うことにおいて、それが感得されたのである。

とりわけ「根」という言葉は今回の対話の中心を占めるキーワードであった。
徐氏は原発事故によって人々が奪われた事態を「根こぎ」と名指した。
人が生きていく上でいつのまにか張られた人間関係という根。家族、地域社会、商売……。
無数の根が、しかし避難するしないの判断にも影響を及ぼした。
徐氏は、海外から住む知人たちから「すぐ逃げてこい」といわれたが、ここを動かないことを決めたという。
それがなぜだったのか。
プリーモ・レーヴィの『溺れるものとすくわれるもの』から、ナチスの台頭とホロコーストの危機が迫ることが肌で感じらながら、それでも生活地にとどまり続けるユダヤ人たちの姿にそれを重ねて理解する。
避難したくても避難できなかったのは、そこにある具体的な人間関係と生活があるからだ。
避難するということは、それらすべてを捨て去る、壊すことであり、原発事故が犯したのはこの「根こぎ」なのである。
楽観視しているわけでも無知なわけでもない。
その点で、南相馬市の自宅に愛妻と共に「籠城」したスペイン思想家の佐々木孝夫妻は「自らの人生を自らが決定する」生きざまを貫いた人として、徐は会いに行く。
自分の判断で自分の人生を選び取ること。
これが「自由」を意味するのは、国家に避難しろと言われることにも抵抗を示すことに止まらず、被ばくは危険だから避難しろという言説にも抵抗するという点である。認知症の妻を「根」からひき離すことが、それこそ死を意味するのだとすれば、それら外的なものから自らの生と「根」を守るものとしての自己決定こそが自由なのである。
しかし、他方で自己決定こそ自由であるということには戸惑いも覚える。
なぜ、自分は残ったのか。
「根」があったからなのだろうか。
それ以上に、あの法外な出来事を目の当たりにして、呆然と立ち尽くしたまま何もできなかったというのが実のところなのではないだろうか。
自己決定さえも奪われていたのが、あの暴力的な状況だったのではないか。
そこに理由が求められることそのものが暴力ではないだろうか。
それを「思考停止」というならば、そこでいう思考とは何か。
たぶん、思考することと行為することは別の原理である。
思考したから行為するわけではない。思考しながら行為することはできない。
事後的に行為の理由をあれこれ考えられるだけで、なぜその選択をしたのかは確信をもって事後的に説明できるだけなのだ。
それがその人の物語を可能にする。
妻と共に「籠城」すると名指した佐々木孝の「生きざま」として、他者に理解可能になるのであり、それが他者の心を打つのである。
その物語ることが可能な生きざまこそが自由なのではないだろうか。
してみると、あの出来事での経験を語れずに沈黙することに不自由な様をみるのは、このことなのでかもしれない。
自分の行為選択を名指したり物語化できないことにおいて、われわれの言葉は奪われたままなのだということである。

そもそも「根」とは何か。
生活の根圏といわれるものには、それこそ牛馬を繋ぐ「絆」というしがらみだって含まれるだろう。
世間の目というものもあるかもしれない。
そんな自分をしばりつけるものも含めての「根」だというならば、原発事故を機にそんなものから解き放たれたい生だってありうるはずではないか。
そもそもこの世界に、この国に、この土地に、この家族に、この時代に訳も分からず突如誰かによって投げ込まれた理不尽なものなのだから、それによって生かされているなんて単純には言えない。
自分がなぜあのような行為をしたのか、しなかったのかという理由は事後的に付与されるが、そもそも人間の行為の原因はそれほど明確なのだろうか。明確にしなければいけないものなのだろうか。
そんな苛立ちに似た思いもあって、2012年の段階では本書を読み進められなかったのかもしれない。
しかし、逆説的かもしれないが、自分の人生を決める自由を奪われてはじめて、そのありがたさが目に見えたのではないか。
徐氏の「原発事故によって見えるようになったものがある」という指摘の一つには、この自己決定と自由の問題があるのだろう。

もう少し「根」とは何かについて丁寧に考えよう。
自分の「属性」と「根」は重なり合うのだろうか。
「属性」に縛られることの苦しさが話題に上がった。それはどうしても自分の人生からは引きはがせない以上、それとは一生向き合うしかない。
国籍、民族、宗教、家柄、ジェンダーなどなど。
そして、それが個人に対して抑圧的にはたらくのは、その「属性」におけるマイノリティ性や自己の個別性が認識されることにおいてのことである。
しかし、同時にその「属性」が社会全体の中でのマイノリティである場合、逆にそのアイデンティティは拡散されない努力が求められる。
「お前はもう福島出身だと言えないな」と他者から言われれば、それまで意識などしなかった「福島人」というアイデンティティが沸々と湧き上がる。
けれど、「福島の人間として福島のために頑張ります!」と健気な言葉を投げかけられれば、なぜそんな属性に自分の生き方が縛られなければならないのだという反発も覚える。
徐氏は「日本という社会にからめとられる現実」がある一方で、「人間は社会や組織とは無縁に生きていけるだろうか?」という問いを上げかける。

たぶん、「根」とはそういう「属性」とは別の人と人との関わり合いなのだ。
いっしょに生活し、語らい、利害関係も踏まえた上で人とつながっている場所が、たまたま「福島」という土地であるだけで、「属性」が初めからあるわけではない。
けれど、もう一つの「根」があるはずだという声が上がった。
それは「ルーツ」としての「根」である。
自分の親たち先行世代の来歴とつながる自己という歴史性と言い換えてもいいかえられる。
大いにして、それが国家や国民、国籍、民族というものに自己をつなげて考えてしまうことになりがちだけれど、そのような大きな「属性」とどれだけ「根」を相対化できるかが肝要ではないか。
自分の親や祖父母の歴史的経験は、国民国家の歴史物語と一致するどころか、むしろ犠牲を強いられる方が多いとさえいるかもしれない。
「復興」=「福島」を個人の「根」の問題とは関係ないところでスローガン化していることは、今や否定できない。
とはいえ、なぜ日韓戦になると日本の側を応援してしまうのか。
なぜワールドカップラグビーの日本戦をわざわざスポーツバーに行ってみてしまうのか。
なぜ他国の試合にそれほど関心をもてないのか。
そんなメンタリティがあることも否定できない。それはいったい何なのか。

いつにもまして、個々の深い思いを語らっていただく中で、これに組みつくせないものを感得する時間であった。