カフェロゴ Café de Logos

カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

サリンジャー『フラニーとゾーイ』読書会

2024-02-24 | 文学系

【会 場】如春荘(福島県立美術館前)
【日 時】2024年4月6日(土)13時30分〜16時
【カフェマスター】あをだま
【定 員】20名
【参加申込】メッセージからお申し込みください。
【会場費・資料代】300円


◯今回は、サリンジャー文学の一編である『フラニーとゾーイ』(野崎孝訳)に焦点を当てます。
◯「アメリカ東部の小さな大学町、エゴとスノッブのはびこる周囲の状況に耐えきれず、病的なまでに鋭敏になっているフラニー。傷心の彼女に理解を示しつつも、生きる喜びと人間的なつながりを回復させようと、さまざまな説得を試みる兄ゾーイー。しゃれた会話の中に心の微妙なふるえを的確に写しとって、青春の懊悩と焦燥をあざやかにえぐり出し、若者の感受性を代弁する連作二編。」(新潮文庫版紹介文より)
◯サリンジャーの文学は、一般的に若者のものとされがちですが、彼の作品には、おとなになっても感じる孤独や寂しさ、寄る辺のなさ……共感を呼ぶ要素がたくさん詰まっています。今回は、若者だけでなく、かつての若者(自称含む!)も一緒になって、この作品を読み解き味わいたいと思います。これまでに歩んできた人生が長い人もそれほど長くはない人も、それぞれの視点から感じたことや考えたことを共有し、本作品についてお互いに考えを深めていける時間にしたいと思います。

徐京植『フクシマを歩いて』から考える

2024-01-28 | 〈3.11〉系



【会 場】福島市写真美術館(福島市森合町11-36)
【日 時】2024年2月24日(土)13時〜16時
【カフェマスター】笠井哲也
【定 員】20名
【参加申込】メッセージからお申し込みください。
【会場費・資料代】300円


昨年末、徐京植さんが逝去されました。
在日コリアンの視線からディアスポラの思想を紡ぎ出してきた思想家である徐さんは、福島から離散した人々と残った人々へ思いをはせて書かれたのが『フクシマを歩いて』(毎日新聞社)です。
その他にも徐さんは、『フクシマ以後の思想をもとめて 日韓の原発・基地・歴史を歩く』において高橋哲哉さんと韓洪九さんとの対談で朝鮮半島との結びつきに視線を広げています。
今年の元日に起きた能登震災の被害は今もなお深刻な状況が続いていますが、そこに避難と生活の根の問題や志賀原発と計画中止された珠洲原発の問題が問われれています。
徐さんであれば、今の事態をどのように論じただろうか?
日本社会を他者の視線から厳しく論じてきた徐さんがいなくなった今、そして13年目の〈3.11〉を迎えるにあたって、私たちが彼の思考から何か手がかりをつかめる会にしたいと思います。
今回は、主に書籍である『フクシマを歩いて』をもとに語り合いますが、冒頭で60分程度徐さんに関する映像を視聴してから始めますので、必ずしも同書を読まずとも参加できます。
また、カフェマスターである笠井哲也さんに同書の解説と問題提起をしていただくことで進める予定です。
参加費は会場費と資料代で300円です。

著者がかたる『なぜ日本は原発を止められないのか?』

2024-01-18 | 〈3.11〉系


【テーマ】「著者がかたる『なぜ日本は原発を止められないのか?』」
【ゲスト】 青木美希さん
【カフェマスター】竹田洋二 

【日 時】2024年2月10日(土)13:30~16:00
【会 場】福島市写真美術館(福島市森合町11-36)
【会場費】300円 
 ※なお、これとは別にゲスト旅費などにカンパ1,000円程度ご協力いただければ助かります。
【定 員】20名
【参加申込】メッセージからお申し込みください。

 2023年は福島原発事故を過去のものとして忘れさせようとする空気が強まった年でした。すなわち、福島原発事故現場の汚染水の海洋放出、岸田内閣の突然の原発回帰宣言、COP28での原発発電容量3倍宣言など、原発稼働再開に向けての動きが目立ってきました。
 そのような流れに抗って青木さんが出版された「なぜ日本は原発を止められないのか?」は我々にもう一度腰を据えて原発問題と向き合うべきだ、という思いを新たにさせてくれる書籍だと感じます。
 2024年1月1日に発生した能登半島の地震で、志賀原発は相当大きなダメージを受けたにも関わらず、被害の全体像はいまだに明らかにされているわけではありません。と同時に、日本の原発がいかに脆弱な地盤の上に建てられているのかをまざまざと見せてくれました。能登半島地震は自然災害に対する日本社会の対応力のなさを明らかにすると同時に、原発を今すぐやめるべきだ、という自然が与えてくれた最後の警告なのかもしれません。
 原発事故からはや13年がたち、「復興」というスローガンに押し流され、日常から原発事故の記憶が薄れつつある中、青木さんから、お話を伺いながら、いまいちど、原発廃絶に向けて頑張ろうではありませんか。

【エチカ福島】水俣の漁師たちに出会う夜—水俣・福島対話篇、再び!

2023-10-25 | 〈3.11〉系


【テーマ】水俣の漁師たちに出会う夜——水俣ー福島対話篇、再び!
【開催日時】2023年11月27日(月) 18:30~21:00
【会 場】如春荘 住所:福島市森合字台13-9
     最寄り駅:飯坂線・美術館図書館前駅[出口]徒歩1分
【参加費】無料 
【定 員】40名 ※先着順 満員御礼!申し込みを締め切らせていただきます
 石原研究室 aishi@kumamoto-u.ac.jp
 エチカ福島(渡部 純)wajun1973@yahoo.co.jp
【共 催】熊本大学石原明子研究室+エチカ福島


「水俣ー福島対話篇」が再び如春荘で開催されます!
今回のゲストは、水俣の漁師にして水俣病事件の語り部を続けてきた杉本肇さんです。
杉本さんの経験談を聞きながら、原発事故後の福島に生きる自分たちの思いを語らいましょう。
対話の後は、肇さん率いるヤウチブラザーズの余興のお楽しみも!

【語り部講師:杉本 肇さん】
1961年水俣市袋茂道(漁村)で産まれ育つ。祖父母や両親はいわし網漁の網元で、水俣病患者。
現在、弟実と漁業(ちりめん漁)・みかんの栽培などを生業としている。2008年から水俣病資料館の語り部として現在にいたる。併せて「やうちブラザース」バンドのリーダーもつとめる。

【やうちブラザーズ】
 杉本さんをリーダーとし、水俣で2000年より活動を始めた、海
の男たちのコミックバンド。リーダーのはぁちゃん、はぁちゃ
んの弟みぃちゃん、親戚のひぃちゃんの3人トリオ。
 北は北海道から南は鹿児島まで幅広い活動を続ける。2014年に
はNHKの「ふるさとグングン」の番組にやうちブラザーズの
「みぃちゃんの歌」がエンディング曲として採用。オリジナル
ソングや身体を張ったお笑いネタでお客様を笑顔の渦に巻き込
む。「笑顔と心の復興」を願い、活動を精力的に続けている

☆本事業は、科学研究費補助金基盤B「分断された地域コミュニティの「対立・葛藤変容」に向けた分
析とプログラムの提示」(研究代表者:石原明子、課題番号19H04356)の一環で行っています。無料
ですが、対話プロセスの記録と参加アンケートの記入にご協力をお願いいたします。

【報告】第17回エチカ福島「海を生きるものの生と理——「ALPS処理水」海洋放出開始をめぐって」

2023-10-09 | 〈3.11〉系


昨日、新地町公民館にて、民俗学者であり新地町の漁業者である川島秀一さんをゲストに、第17回エチカ福島「海を生きるものの生と理——「ALPS処理水」海洋放出開始をめぐって」が開催されました。
エチカ福島としても、はじめての浜通り開催にどれだけの人数が集まるか少々不安がありましたが、21名の方々のご参加に恵まれた盛会となりました。以下、雑感を含めた簡単な渡部の報告です。

まず、川島さんよりいただいた70分間の基調報告から印象深かったことを書き記します。
川島さんから、これまでの漁村をめぐる民俗学的な調査から大変興味深い数多くの事例を挙げながら、「漁師さんは自然科学者のように自然だけを見ているのではなく、自然と自分たちとのかかわりを対象化できる人たちである」との考えが示されました。
たとえば、オニヒトデのようなサンゴ礁を荒らしてしまうものに対して、「ダイバーはきれいな珊瑚を見たいからオニヒトデを一掃することを志向するけれど、漁師たちは別の意見をもっている。実は、珊瑚が覆いつくした後にタコはいなくなってしまう。むしろ珊瑚が死に絶えたところにタコが住み着くのであって、オニヒトデが珊瑚を食べるからタコがいるんだ」という事例を示しながら、川島さんは「楽園というけれど、本当はそこにオニヒトデも含まれているはず」と語った波照間島の漁師さんの言葉を伝えます。
珊瑚だけが生きる風景は美しいかもしれないけれど、それは一定の人間の観点でしかありません。あらゆる生物が環境圏をなしているということをわれわれはどこまで考慮しているだろうか。
こうした話を漁師たちから知るにつけ、川島さんは「いつも私は漁師さんの言葉に「人間」という言葉が出てくることに驚く」と言います。



新地町で漁業に取り組む川島さんは、数々の興味深い自らの漁師経験からもいろいろな考えを示して下さりました。
たとえば、市場の売りものにならない「シタモノ」を網から外すことが川島さんの漁師としての仕事がメインだそうです。
しかし、この「シタモノ」を外すことがいかに大変かということをわれわれ「陸(オカ)のもの」たちは想像できないどころか、それがどのくらい存在し、どのように扱われているかも知りませんでした。
それゆえに民俗学者としての川島さんは「シタモノは一度も数量化されたことはない。漁業の統計資料だけでわからないそれ以外の世界があるんだろうなということは、実は民俗学の方法でしかわからない」といいます。
これは実際に漁業者であると同時に民俗学研究者としての目をもつ川島さんならでは見方です。
それはつまりこういう事です。
「シタモノの数量化はできなかったけれど、どんな生物がかかっているのか、利用法は何があるかを調べた」ところ、この市場価値のない魚介類が、一つには自分たちで食べる食材になる「食い魚」になること、二つ目はユイコ用集落内とのつながりをもつための「分け魚」、三つめは知人らに配る「配り魚」として利用されており、シタモノが実は集落のつながりを下支えしていることがわかるというのです。
「市場に出さないものだけれど、自分たちの食文化として成立させている。浜でメジャーに取れているものが食文化になるわけではない。売らないものでそこの家の食文化が生まれるわけです。」



われわれが日常に接する漁業の報道やデータからでは見えない世界があり、それが実は生活世界の共同性や文化を支えている。
さらに、「シタモノはがし」と呼ばれるユイコの慣習を通じて、市場に出さない魚を介した人との関わりにある老人のエピソードが語られたことも印象的でした。
その老人は毎朝、「シタモノはがし」の手伝いに来る。
彼は「自分はこういう事しかできないから毎日来ているんだ」と言っていたそうです。
けれど、それは必ずしもユイコの慣習だからという理由だけではなく、「ただ毎日海を見ていたい」という事なんだと思うと川島さんは見ます。
それだけ漁場に生きるものにとって「海」とは生活世界そのものだということなのでしょう。


しかし、そうした海をめぐる生活世界を原発事故は一変させます。
福島県の漁業が原発事故による補償を得るためには一定の漁獲量が必要であり、それを維持することが非常に難しい。
すると、その補償を得るために漁師は安定して獲れる刺し網漁に落ち着いてしまい、「流し網」のようなある種の投機的な漁法は敬遠する漁師が多くなったそうです。そのような事情を知らない政策が10年も同じことを継続し続けている。
経済的計算と科学的合理性。
これだけをもとにして、どれだけの漁師の知恵と漁業文化の衰退を考慮に入れてこなかったのか。
川島さんの漁業民俗学の研究と漁師生活から得た知見はそこにぶつけられます。
近代に入ってからの汚染された魚の歴史にふれ、たとえば第五福竜丸事件で大石又七さんが「マグロ寿司にして30万人分」を破棄するに際して、「ああ、息子を捨てるようなものだ」と悲嘆したことを、川島さんは「財布やカネを捨てるようなものだ」とは言わない漁師の矜持と悲哀を紹介しました。



川島さんは「漁師とは魚の命を人間の口に引き渡す職能者である」と規定されます。
しかし、近代はこの文化を何度も破壊してきました。
とりわけ水俣病事件が発生した際、水銀に汚染された魚介類を詰めたドラム缶は2500万本にもなりました。
これは、一度も人の口に入らない魚をそのまま廃棄したということです。
これが漁師たちには耐えがたい。
そもそも、全国各地の漁場には「ネセヨウ」魚の再生儀礼)や「ネガト」、「ネウオ」という文化があります。
これは、船上で人目のつかないところで魚を腐らせてしまうことを意味し、これがあると不漁になると言い伝えがあるそうです。
それゆえに、「ネセウオ」が発見された場合には、塩をかけたり包丁を入れたりして、人の口に入ったことを儀礼的にでも行うと言います。これは、高知でネセウオを「捨てる」ではなく「あます」という言い方にもあらわされているそうです。
つまり、漁師は海からのいただきものを、人の口を通さずにただ海に捨てることはしない神聖さを大切にする文化があるということです。
だからこそ、東電がすぐに賠償計算をし、「売れなくなったら買い上げて冷凍保存をする」などとしてすぐに賠償金の経済的計算をすることは、このこのとまったく考慮に入れていない尊厳を損なう対応がくり返されてきたということになります。

民俗学者と漁師としての川島さんのこの怒りは、1973年勝本小学校校舎新築に際し、水洗便所の設備をした際に漁師たちが、「たとえ汚水処理したとしても、糞尿の混じった水を海に流されたのでは海水が汚れて船霊(ふなだま)さまのお清めができない」と反対した運動において最もよく理解できます。
それゆえ、トリチウム水の海洋放出という問題は「単純に科学的であるとか非科学的であるという低レベルな話ではない」と、川島さんは言います。
これは漁民の、そして彼・彼女らからいただいたものを口にするわれわれ生活者の尊厳が壊されていく問題なのです。
このことを川島さんは、コリン・ターブルの『豚と聖霊』(どうぶつ社、1993年)からの引用を、福島の問題に変換した次の文章をもって締め括られました。

「しかしながらこの異文化の衝突のプロセスは農耕民(国と東電)にとって経済的な価値に限られていたのに対して、ムブティ(福島の漁民)にとって精神性にも関わるものだった」
(※「ムブティ」は、アフリカのザイール北東部のイトゥリの森に住む狩猟採集民のことです。)
目から鱗が落ちる見事な表現に一同腑に落ちたものです。


川島さんの基調報告を終えたのち、約1時間半にわたって会場との対話が行われました。

まず、漁師さんはどのくらいのスパンで海を見ているのかという問いに対して川島さんは次のように堪えられました。
「長い期間で60年周期というのが多い。災害もそう。三陸の場合は一生二度あると言われる。昔は一生というと60年くらいだった。トビウオが寄らなくなった種子島では、60年周期にトビウオが来るという話もある。この震災によって、増えた魚種はシラウオと北寄貝だけれど、これは浜が流されたからではないかという話がある。ヘドロが流れたため、浜がきれいになったからではないか、と。ただ、漁師さんにとって何かの魚種がなくなったときは何か別の魚種が補ってくれるものであり、漁法を変えることで臨機応変に対応するものじゃないか」


また、「漁師の作法」という言葉をめぐっては、
「「海に戻す」といっても「投げる」とは言わない。海からもらったものだから「戻す」。食べた海のものを戻らない放出ではなく、漁師さんは戻ってくるものと考えている。だから、思わず獲れた魚のことを「まわりもの」という。「まわりがいい」ともいう。グルグル回っているという考え方があるのではないか。一方的な流しっぱなしやもらいっぱなしというのではない循環の考え方があるのではないか。」

この論理は非常に興味深いものでした。
たとえば、対話の中で川島さんが漁村の共同体に入り込んで驚かされたことの一つに、冠婚葬祭費のやりとりが挙げられました。これも巡り巡ればおのずと自分のところに返ってくるものという発想が、どこか漁との関係における循環の思想と関連するのかもしれません。
漁民の理解を得ることなくトリチウム処理水を海洋放出した背景には、受け取るだけや捨てるだけという原発事故補償や海洋放出の論理があり、この漁民たちがもつ循環の論理に対する理解不足と無視が根底にあるようにも思われました。

そして、今回の対話の場面で最も重要なキーワードとなったのが「尊厳」です。
科学的な理解が不足しているからその無知を改善すれば風評はなくなる、といった議論が的外れであるのは、原発事故がそもそも漁師をはじめとする被災地の生活者の尊厳を壊したということだという問題です。
この「尊厳」とは、既に川島さんのお話しに出てきたように、宗教性であったり共同体の規範であったり、はたまた自然と人間が取り結んできた倫理といったものではないでしょうか。
そして、昨今の「汚染水」海洋放出の問題の本質は、これら人間の根底を形づくる「尊厳」を「科学」の問題に矮小化しながら無視し続けたことにつきるように思われます。
この議論に、「ある新聞広告のなかで、浜通りの高校生が漁師の尊厳について訴えていたことに感動した」という発言がありました。
今日、福島県の高校現場には経済産業省が中心となって「安全安心」をアピールする出前講座授業が盛んにおこなわれています。
そこに理科教員が加わることで、あたかも科学的に理解できないものが「非合理」であるとする雰囲気が形づくられています。


こうした「科学的無知」を「非合理」であり、「感情」的だと切り捨てる論理に対して川島さんは、「感情の裏には今日話した事情がたくさんある。これは生活感情なんだ」と訴えます。
ある参加者からは「今日、NHKの『ディアにっぽん』での放送を見た際、漁師さんたちの連帯感と尊厳は侵害されたと思うけれど、その根底にある確固たる尊厳や魂までは奪われていないという取材だったと受け取った」との発言がありました。
この放送について川島さんは、「『ディアにっぽん』では、息子と対立する小野春雄さんの葛藤がよく描かれていた」と紹介しました。
そして、すぐにこれを観た他県の漁師さんから次のような感想が送られてきたと言います。
「まず涙が出た。小野さんの気持ちもよくわかるし、息子の気持ちもよくわかる。だけれど、福島の漁業は大丈夫ですね。ああいう風にぶつかり合いながらやっている福島の漁業は大丈夫だと思った。こういう災難が降りかかっても漁師という職にはあるから、これからも福島の漁業は大丈夫ですね」
このメッセージを伝えながら川島さんは、「漁師という仕事には原発事故というものでは潰されない強さがあると信じている」という言葉で締め括られました。

今回、エチカ福島発の浜通りでの開催ということもあり、どのくらいの人が集まるのか不安なところもありましたが、多くの方々に関心をもっていただき、遠路ご参加いただけたことは望外の喜びでした。
今回のエチカ福島では、多くの示唆を川島さんをはじめ参加者の皆様からいただきましたが、とりわけ科学とは別の生活の論理があることを川島さんが、最後までいい続けるという言葉の強さに一同、深く共鳴したものです。こうした現場という地に足をつけて思索を続ける姿を、我々一人ひとりが試み続けていかなければならないという思いを強くする会となりました。
なお、今回の会を企画開催するにあたっては、笠井哲也さんに大きなご尽力をいただきました。
この場を借りて深く感謝申し上げます。


第17回エチカ福島「海を生きるものの生と理——「ALPS処理水」海洋放出開始をめぐって」

2023-09-10 | 〈3.11〉系

第17回エチカ福島
テーマ:「海を生きるものの生と理——「ALPS処理水」海洋放出開始をめぐって」
ゲスト:川島秀一さん
開催日時:2023年10月8日(日) 14:00~17:00
会場:新地町公民館(新地町谷地小屋字樋掛田40-1, TEL 0244-62-2085)


 去る8月24日、「ALPS処理水」の海洋放出が実施されました。海を生活世界としてきた人々の尊厳と、話し合いでものごとを進める民主主義を根底から破壊したこの政治決定には、やり場のない怒りと無力感を覚えずにはいられません。
 しかし、こうした思いの表明に対しては、即座に「科学的な理解が不十分だ」、「風評被害を煽る」という非難を向ける風潮が社会に蔓延しています。その背景には「計画通りの放出であれば、人や環境に与える影響は無視できるほどごくわずか」としたIAEA報告の権威を盾に、それに疑問を投げかける言説を一顧だにしない行政や大手メディアの姿勢があることは言うまでもありません。こうした「科学」の名のもとに、「ALPS処理水」海洋放出に対する「反対」や「不安」の表明を抑圧する空気に息苦しさを覚える人も少なくはないでしょう。
 そもそも、私たちは生活を営む上で、どれだけ「科学」的な要素を判断材料に取り入れているでしょうか。むしろ、人間の生において「科学」的なるものは、ごく一部の領野を占めるにすぎません。われわれの生活知は「科学」的な知識に覆いつくされているわけではありません。むしろ、「科学」という制度を前提に生かされるとき、私たちは躍動的な生を萎縮させる全体主義的な圧制を感じ取ります。そうだとすれば、いま必要なことは、「ALPS処理水」の海洋放出問題を科学論争に収斂させることではなく、それとは別に私たちの生活知や生の尊厳を形づくっているものを一つひとつ吟味することではないでしょうか。
 水俣病患者であり裁判闘争の闘士であった漁師の緒方正人さんは、水俣病事件の問いの核心は「命の尊さ、命のつらなる世界に一緒に生きていこうという呼びかけ」にあると言います。では、その「命」とは何か。緒方さんは「命」を考える上で、3つの重要な事実を挙げます。一つ目は水俣事件が始まって四十数年来、漁師たちの家では毒が少しは残っているかもしれない魚を毎日食べるのをやめなかったこと、二つ目は母親たちが胎児性水俣病の子どもが生まれても、その子と向き合いながら、次々と子どもを産み続けてきたこと、三つ目は水俣病被害者たちからはだれ一人殺していないということ、です。なぜこういうことができたのか。その理由について緒方さんは次のように述べています。

 魚を毎日たくさん獲って、それで自分たちが生き長らえる。魚によって養われ、海によって養われている。一年に二、三遍は鶏も絞めて食って、あるいは何年かに一遍は山兎でも捕まえて食っている。そういう、生き物を殺して食べて生きている。生かされているという暮らしの中で、殺生の罪深さを知っていたんじゃないかと思います。このことがなによりも加害者たちと違うところです。(『チッソは私であった』,葦書房,2001年)

 水銀が入っているかもしれない魚を食べ続ける。胎児性水俣病の可能性がある子を生み続ける。一見すると、「科学」的には非合理的な選択に見えるかもしれません。しかし、そこには、「命」のやり取りを生業とせざるを得ない「殺生の罪深さ」を知る漁民たちの一貫した生活知の論理と倫理が備わっていることが確認されます。そこには、けっして「科学」の議論に収斂されない生の奥深さが備わっています。そして、この議論こそは福島の「ALPS処理水」の海洋放出の問題にも当てはまることではないでしょうか。
 第17回となるエチカ福島では、新地町の漁師にして民俗学研究者である川島秀一さんをお招きし、海に生きるものにとっての生についてお話を伺いながら、「ALPS処理水」の海洋放出が始まったこの現実をどのように考えるべきか、その手がかりを参加者の皆さんで話し合います。ふるってご参加ください。



【高校生哲学対話サークル・キックオフイベント】映画「ぼくたちの哲学教室」から考える哲学対話

2023-07-20 | 哲学系

《日時》2023年7月29日(土)13:00~16:30
《場所》フォーラム福島(福島市曽根田町6-4) 
《哲学対話イベントへの参加について》
申し込み不要です。高校生に限らずどなたでも参加できます。
ただし、前半は高校生主体の対話とさせていただきます。 参加費:映画観賞券 高校生¥1,000 
《タイムテーブル》
映画上映 13:00~14:50  
高校生哲学対話 15:00~16:30
大人の哲学対話 17:00~19:00
《発起人》佐藤伸郎  髙橋洋充  渡部 純(福島東高校教員) 林 裕文(ふたば未来学園高校教員)
《お問い合わせ先》  渡部 純 wajun1973@yahoo.co.jp


《開催にあたって》
 わたしの身体はわたしのものなの?
 わたしが見ているものとあなたが見ているものは同じものなの?
 夢と現実は区別できるの?
 わたしたちは子どもの頃に「不思議だなぁ」と思う数々の疑問を抱いていましたが、いつの間にか目の前の仕事や勉強に忙殺されて、それらをなかったことにして生活しています。まるで、それが「大人」になることであるかのように。けれど、人間は一度心に芽生えた答えのなかなか見つからない問いを忘れることはできません。哲学対話はそんな根本的な問いを誰かと一緒に語り合おうという活動です。
 今回のイベントのきっかけは桜の聖母学院高校インターアクト部の投げかけから始まりました。ふだん、接することの少ない他校の高校生たちと哲学対話をしてみよう。さらに、その言葉をフォーラム福島支配人・阿部泰宏さんに投げかけたところ、「うってつけの映画作品がある!それを観た後に映画館で哲学対話をしよう!」とのお返事をいただき、企画がトントン拍子で進みました。
 その映画作品がナーサ・ニ・キアナンとデクラン・マッグラ監督作「ぼくたちの哲学教室」です。本作品は北アイルランド、ベルファストの男子小学校で実施されている哲学の授業を2年間にわたって記録したドキュメンタリーです。その授業実践の背景には北アイルランドの宗教紛争が影を落としていますが、まさに社会的な問題を哲学的に考えることを通じて未来を築こうとするマカリービー校長の挑戦は、原発事故を経験した私たち福島に住むものにとっても希望を感じさせられる作品です。
 さらに、この時間だけでは物足りないという方のために、17:00~19:00に会場を移して「大人の哲学対話」を開催します。会場は決まり次第お知らせします。
 この映画作品を通じて福島の高校生たちの間に哲学対話の文化が広まることを期して「高校生哲学対話サークル」のキックオフとさせていただきます。なお、北アイルランドの領有を巡るイギリスとアイルランドの領土問題について予習しておくと、映画の内容を深く理解することができます。
《ルール》
 〇 他者の意見を否定しない限り、何でも自由に話そう。
 〇 他の人が話している間はその人を見て最後まで聴こう。
 〇 他の人が話してくれたことに反応してあげよう。

沈黙がつながる 東北、福島、西成、北海道

2023-07-15 | 哲学系


日時 7月22日(土) 14:00〜16:30
場所 福島市写真美術館 多目的ホール 
福島市森合町11-36
電話:024-563-4990


緊急告知!
あの、サイレントアイヌ研究の石原真衣さん(北海道大学)と現象学研究の哲学者・村上靖彦さん(大阪大学)をお招きし、フォーラム福島の阿部泰宏支配人と渡部純との座談会を開催いたします。
これまで、この4名は東北・福島・北海道・西成を拠点として、主題である「沈黙」をキーワードに「語りのインターセクショナリティ」研究会でつながりをもってきました。
福島開催はこれで二回目です。
座談会は4名が最近考えていることを雑談風に語ることをしながら、参加者の皆さんのお話を交えていく形を取りたいと思います。
急なイベント告知になりましたが、ご関心のある方はぜひご参加ください。途中参加もありです。
14:00~15:00 座談会
●阿部泰宏 (フォーラム福島支配人)
●石原真衣 (北海道大学教員)
●村上靖彦 (大阪大学教員)
●渡部純 (福島東高校教員)
15:00~16:30
参加者との意見交換会

原爆倫理学者・宮本ゆきさんと語る会

2023-06-11 | メディア


【日時】2023年6月26日(月) 16:00~18:00
【会場】如春荘(福島市森合台13−9)
【入場料】 無料
【参加申込】定員枠があるので申し込みは必須です。メッセージへご連絡下さい。
【飲食物】各自でご用意ください。


アメリカはデュポール大学で原爆倫理学を研究されている宮本ゆきさんが来福されるにあたり、ゆきさんとお話をする座談会を開催させていただきます。
宮本さんは『なぜ原爆は悪ではないのか』という刺激的な問いを、原爆投下を下等のアメリカ国内で問いかける倫理学者です。
最近では『黙殺された被爆者の声 アメリカ・ハンフォード正義を求めて闘った原告たち』(明石書店)を翻訳出版された、気鋭の研究者です。
福島の「復興」がアメリカのハンフォードをモデルにされていることの意味を問わずに、粛々と国策がまかり通る昨今、ゆきさんと一緒にアメリカと福島の核政策の問題点をみんなでは語り合いましょう!
定員がありますので、参加申し込みは必須とさせていただきます。

映画『差別』を福島で見る会

2023-04-29 | 映画系


日時】2023年6月24日(土) 16:30~18:00
【会場】如春荘(福島市森合台13−9)
【入場料】 無料
【参加申込】当日参加もOKですが、可能な限り参加希望のメッセージをお送りください。
【飲食物】各自でご用意ください。

【予告編】『差別』

高校無償化の適用を国に求めた朝鮮学校の裁判を記録したドキュメンタリー映画『差別』が、6月23日より1週間、フォーラム福島で上映されます。
6月24日(土)13時の上映後は福永玄弥さん(東京大学准教授、フェミニズム、クィア研究)のゲスト・トークがありますが、その場だけでは話たりないという方々のために、如春荘にて16:30~18:00に対話の場を設けます。
この映画が扱う裁判運動の中で多くの在日コリアンの若者たちが悔しい思いをしたことを、私たちはどれだけ知っていたでしょうか。
政治の事情で多くの子どもたちの教育の機会や民族の多様性を奪う社会であってはならないでしょう。
世界中で「寛容」という考え方が見直されている今日、私たちの社会を見つめ直す上で大切な作品です。
ぜひ多くの皆様にご覧になっていただいた上で、この問題にどうこたえるか一緒に語り合いましょう。
当日参加も自由ですが、できる限り参加を希望される方は「参加希望」をお申し出ください。