カフェロゴ Café de Logos

カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

エクリチュール・オンライン読書会-プラトン『パイドロス』

2021-01-06 | 哲学系

あけましておめでとうございます。
まだまだコロナ過が収まりませんが、本年もオンラインなどを活用して言論カフェを継続していきます。
いつもの対面方式が復活する日を楽しみに。
今回はチャット形式の読書会です。どなたでも参加できます。書き込まなくても読んでいるだけでも大丈夫です。下記のFacebookグループから入れます。

【日時】2021年1月10日(日)19:00~

【課題図書】プラトン『パイドロス』(岩波文庫など)
 

真実そのものの把握なしには真実らしく語ることさえ本来的に不可能であることを立証し,「哲学」の立場から鋭く当時の弁論術を批判したのがこの対話編である。
本書はプラトンの代表作の一つであって,特に『ソクラテスの弁明』をはじめとする前期著作群を『テアイテトス』以降の著作に結びつけてゆく重要な役割を担っている。(岩波書店)

【方法】Facebook上の公開グループ内で行います
今のところFacebookの使用が前提になっています。ご関心のある方は「カフェロゴ・エクリチュール・オンライン読書会-プラトンを読む」グループ内をのぞいてみて下さい。
    
【カフェマスター】深瀬幸一

【エクリチュール読書会とは】

 ここ、福島市もいよいよ「緊急警報」が発令されるなどコロナ禍が深刻さを増しています。
 そのような中でどうしたら言論カフェができるだろうか。
 個人的なことになりますが、ワタクシは他者とのやりとりに介在する対話独特の「息づかい」や「間」が感じられないオンライン読書会や飲み会におもしろみを感じません。画面上に固定化された参加者の「表情」にも違和感がある。少なくとも、それは対話のツールではあっても「場」ではありません。
 しかし逆説的ですが、「パロール(音声)」を前提にするオンライン読書会が、その「場」における他者の「息づかい」や「表情」、「間」を排除せざるを得ないのならば、むしろそれらを前提としないからこそ可能になる言論カフェというものもあるのではないか。それが今回企画した「エクリチュール(書かれたもの)」によるオンライン対話です。
 要はチャット形式の読書会なのですが、そこに期待するものは空間を共有した他者の身体性を抜きに、テキストを媒介とした自分の「読み」と他者の「読み」が織りなすエクリチュールによる「対話」の実現です。テキスト本文と他者の「読み」にじっと目を凝らして読みながら、そこに自分の「読み」を挿入する。
 つけ加えれば、そこには「場」の現在性を共有するリアリティを条件としません。したがって、後からの書き込みが可能であり、しかも究極的には現時点での参加者がこの世から去った後にも、誰かが書き込み続けることは可能です。
 この空間的時間的な条件からも解放されたエクリチュールによる対話は、「音声」によるものとは別の姿を実現するのではないか。
 そんな思いつきから実験的に試みることにしました。
 コロナですることもなくなった年末をお過ごしの皆様、ぜひこの実験に乗っかってみて下さい。

エクリチュール・オンライン読書会-プラトン『メノン』

2020-12-22 | 哲学系

【日時】2020年12月28日(月)19:00~

【開催趣旨】

 ここ、福島市もいよいよ「緊急警報」が発令されるなどコロナ禍が深刻さを増しています。
 そのような中でどうしたら言論カフェができるだろうか。
 個人的なことになりますが、ワタクシは他者とのやりとりに介在する対話独特の「息づかい」や「間」が感じられないオンライン読書会や飲み会におもしろみを感じません。画面上に固定化された参加者の「表情」にも違和感がある。少なくとも、それは対話のツールではあっても「場」ではありません。
 しかし逆説的ですが、「パロール(音声)」を前提にするオンライン読書会が、その「場」における他者の「息づかい」や「表情」、「間」を排除せざるを得ないのならば、むしろそれらを前提としないからこそ可能になる言論カフェというものもあるのではないか。それが今回企画した「エクリチュール(書かれたもの)」によるオンライン対話です。
 要はチャット形式の読書会なのですが、そこに期待するものは空間を共有した他者の身体性を抜きに、テキストを媒介とした自分の「読み」と他者の「読み」が織りなすエクリチュールによる「対話」の実現です。テキスト本文と他者の「読み」にじっと目を凝らして読みながら、そこに自分の「読み」を挿入する。
 つけ加えれば、そこには「場」の現在性を共有するリアリティを条件としません。したがって、後からの書き込みが可能であり、しかも究極的には現時点での参加者がこの世から去った後にも、誰かが書き込み続けることは可能です。
 この空間的時間的な条件からも解放されたエクリチュールによる対話は、「音声」によるものとは別の姿を実現するのではないか。
 そんな思いつきから実験的に試みることにしました。
 コロナですることもなくなった年末をお過ごしの皆様、ぜひこの実験に乗っかってみて下さい。

【課題図書】プラトン『メノン』(岩波文庫、光文社文庫など) 「徳」は人に教えられるのか?
 そもそも、「徳」を自分は知らないし、知っている人に出会ったこともない。
 そんなものを果たして人に教えることなどできるのか?
 ソクラテスはこのような問いをもってメノンと問答を交わします。
 人が徳を知ることは可能か?はたまたそれを他者に教えることは可能なのか?
 ページ数も少なく、プラトン(ソクラテス)入門としてうってつけです。
【方法】Facebook上の公開グループ内で行います      今のところFacebookの使用が前提になっています。ご関心のある方はグループ内をのぞいてみて下さい。                   
【カフェマスター】渡部 純

過労死と労働の意味を考える会―牧内昇平『過労死』を読む・まとめ

2020-12-13 | 労働問題

昨日、ペンとノートを会場にゲストに牧内昇平さんを招き、12名の参加者に恵まれて『過労死』を読み、考える会が開催されました。
今回ゲストの牧内昇平さんは朝日新聞記社に記者として15年間勤め、労働問題を中心にパワハラ問題や過労死問題を取材されてきました。本書はそれをまとめたものです。今回、牧内さんの筆致に惹かれた荒川さんのファシリテートで話し合いが進められました。
牧内さんはバリバリの朝日新聞の記者として働いている中で出会った、まーくんの「ぼくの夢」(この会のブログ案内を参照してください)によって過労死が自分ごとになったといいます。過労死の問題を統計的にではない。本書はこのような思いから、被害者・遺族ひとりひとりに向かいながら書かれている本です。それについての感想を述べるところから始められました。

「コラムに「死ぬくらいなら会社を辞めればいい」とあるが、客観的に見ればなぜ辞めることができなかったのかと考えがちだけれど、過労状態になると自分のことがわからなくなる。だから周囲がわかってあげなければいけない」

「過労について自分はそうとうやってきたという自信がある。その経験を踏まえると過労死は時間の問題ではない」

「過労死とは何か。本書の章の並びから受けた印象はあらゆる職業年齢であり、家族構成で過労死が起きていることがわかる。過労は時間ではない複合的な要因で生じている」

「自分は過労というほどではないけれど、いま、職場でストレスを受けている。時間ではなく働く環境の問題。過労という言葉に惑わされすぎではないか」

長時間労働=過労死という固定観念から、必ずしもそうではないという意見は、参加者の体験から語られました。それについて、牧内さんから次のような話がありました。

「1970年後半に医師たちが過労死という言葉を使いはじめ、80年代初めに社会的に使用され始めた。その頃は日本の経済成長が前提とされており、その当時は長時間労働が問題とされ、過労死の被害者は正社員男性30代、40代というパターンだった。けれど、だんだん複合的要因で亡くなる人が増えてきた。それを本書の出版過程で「職場死」という言葉を当てはめるか、ずいぶん迷った。結果、最終的に「過労死」に戻ってしまったのだけれど」

 出版の都合上、最終的に「過労死」というタイトルになったというお話でしたが、「職場死」というアイディアには、その現場を取材する過程で従来の「過労死」概念では説明できない実態があったのでしょう。そこには人間関係やその職業、職場独特の文化や価値観が根深く関係しています。それについて学校関係者は次のように語ります。

「学校教員には忙しくする人を是とする文化がある。運動部顧問には土日の休みはほぼない。私的な時間を仕事にもっていかれたくない自分はマイノリティだった。職場では仕事の時間にどれだけ自分の時間を割けるかが問われる。勤め始めの頃は、休日の部活動指導は4時間以上で460円の手当だった。ありえない、と思ったけれど、それに多くの教員たちは「何のために教員になったのか」と口にする。つまり、自分の時間を仕事にどれだけ捧げられるかで一人前の教師になれるという変な文化が学校教員の世界にはある」

「僕の先輩は約10年前、学校現場でくも膜下出血により過労死した。少なくとも僕はそう思っている。過労死が複合的だというのはそのとおりで、当時の彼は教員としての異常な労働時間を呪っていたけれど、同時に自宅では自分の研究にも勤しんでいたし、友人たちと酒を交わす機会も少なくなかった。そうであるがゆえに、ご遺族は「過労死」と訴えることが難しかったのではないか」

「でも、本当は自分の研究時間は確保されてしかるべきだよね。それが過労で削除される国なんて文化社会とは言えない」

「過労死の定義の難しさには本意/不本意という問題があるのではないか。つまり、長時間労働していても楽しくやっている人はいる。本書を読んでいると、不本意ながら労働を強制されている実態が見えるが、仕事をバリバリやりたい結果、長時間労働になっている存在をどう考えるべきだろうか」

「不本意かどうかといわれると、自分は案外楽しんでやっていた。働かされたことはない。自分で働くことを作っていく立場で、自分しかやる人はいないだという思いで働いていた。その意味でいうと、自営業の人たちの過労死にはスポットライトは当てられていない」

「自営業には労災はない。あくまで労使関係において過労死の認定はなされるもの」

「芸術家とか研究職とかがそれに当たるんだろうけれど、それは過労死ではない気がする。自分も過労になって身体を壊したことがある。徹夜は当たり前の仕事だったが、ある朝、社長がやってきて「あんた、仕事が趣味なの?」といわれてハッとし、その会社を辞めた。何とか新しい会社を軌道に乗せようと頑張っていたのに、そんな言葉はないよね」

「自営者の過労死は統計上ない。患者統計と労働者が亡くなった場合の調査のエアポケットになっている」

「組織を活性化させるためには、ある程度時間なんか気にしないで働くことが必要だという面があることも事実」

「本書を読んで3つ思ったことがある。①ケン・ローチの映画に自営業は好きで働いている商売とされ、過労は自己責任に押し付けて利用されていること思い出した。②スーパーで働く自分の息子を見ていると、残業規制は厳しいくせに仕事量が減らない問題がある。③今年から月10万円で午前中だけ働くスタイルになったけれど、最高。ものすごく楽しい」

「波止場の哲学者といわれる港湾労働者エリック・ホッファーは、労働時間を一日6時間と決めていて、それ以上は働く意味はないと決めている。食べるためにはその時間を労働に咲くことは仕方がないとし、それ以外に思考の時間を確保していた。自分もそうしたいが…」

「非常勤講師は時給2,000円でそれはムリ。そんなに安い賃金なのに生徒から求められれば、時間外の放課後まで残って教える先生が一生懸命でいいよねと言われる。管理職に年休を取れと言われるけれど、取ったら取ったで授業交換してから休めと言われる。それってどうなの?」

「嫌われればいい。けれど、来年度も雇われる程度のスキルは必要。そこがジレンマ」

「牧内さんも言うように過労死から逃れるためには顰蹙を買え、ということかな」

「息子が職場で鬱になって長期休暇になったとき、「辞めなさい」と何度も言ったが、彼は「期待されているんだ」と言い続けた。「この仕事楽しいし、自分のためになっているんだ」と言い続けながら、ある朝会社に来ないとの電話があり、布団から出られなくなっている彼がいた。なぜ、自分でそれがわからないのか」

「上司が仕事が楽しく働きまくっている。夜中の二時か三時に出勤して、ふつうに働いている。家のことはよくわからないと豪語する。40,50くらいになって仕事が面白くなって裁量が出てくると、そうなるのかもしれないけれど、一方で家庭のことがわからないってどういうことかと思う」

「仕事が楽しいからと長時間労働する人と、家庭に帰りたくない、あるいは家庭がないという人が残業し続けるという実態はあるよね。とても迷惑な存在だと思うけれど、仕事をバリバリする人を責めることはできない」

「身近なところにこの本の例がいっぱいあることが、みんなの話からわかった」

「最低限のことをできないのは自分のせいとする文化がある」

「なぜ、みんなでカヴァーしないのか。仕事がギューッとなっている。自分が働いていた時期は、社会全体が明るい未来に向かっていた。80年卒業の頃はバリバリ働くことが当たり前。「24時間戦えますか」というCMがあっても、明るい未来が見えた時代だったから、それほど気にならなかったのも事実」

「過労死シンポジウムで労働局の人が言ったことで印象的だったのは、働く側もコンプライアンスが必要になっているという問題。消費者側が厳しいサービスを要求することが、社会の苦しさにつながっている。クレーマーやモンスターペアレンツの問題などはそうだろう」

「システムエンジニアとして働いているけれど、協力(下請け)会社という立場には拒否権がほとんどない。顧客に言われているから仕方がないよね、とみんな受け入れてしまう。それにノーというと鬱陶しがられる。90時間の残業に会社からは残業するなと言われても、顧客からどんどん要求が入る」

「コンプライアンスという言葉が出始めたころからおかしくなっている」

「日本の労働生産性が下がっているといわれるけれど、それは失敗じゃないか」

「昔はストがあったけれど、いまはない。皆どこかおかしいと思っているんだけれど、引っ込めちゃう。なぜ、組合が衰退したのか?」

ここで、牧内さんに過労死遺族への取材に関して聞いてみました。
というのも、いくつかの過労死本を読んできたけれど、そのどれもが尖った社会批判の論調であったのに対し、本書から受ける印象はそれとは異なっていたのが自分の中で引っかかっていたからです。いうなれば、牧内さんの人柄が筆致ににじみ出ていることの本質をつかみたいと思ったからです。それについて次のように答えていただきました。

「はじめて過労死遺族に会いに行くときはもちろん緊張する。ノウハウなどない中で本書に乗っている方々は基本的に社会に発信したいという人たちなので、その意味では取材に応じてもらえるケースだった。自分の中では亡くなられた方々を弔うという気持ちがある。取材対象でも、特に労災を認定されていない人については訴訟リスクが高くなる。けれど、そこをやらないと本当の意味でご遺族も亡くなった方々も救われない」

「弔う」という姿勢がこの本の全体に貫いていることが、他の過労死本から受ける印象と異なるということは、ハッとさせられました。被害者に「寄り添う」という印象がそこにあったと、腑に落ちたものです。
さて、議論は続きます。

「自分の周囲に危機的な人がいるけれど、そういう人に限って自分の仕事を手放そうとはしない。それを奪われると、本当に存在価値を失ってしまうという危機意識からなのか。とにかく周囲が無理だといっても聞く耳をもたない。その仕事を続ければ続けるほど、業務上滞ることが増えるばかりなのに。すると、その仕事だけに自分のアイデンティティを置いてしまうことの危険性がないだろうか」

このことは牧内さんからご自身の経験から次のように語られました。
「承認欲求に囚われるのは危険です。自分も新聞社の初任者研修を受ける前までは、仕事に情熱を持つ方ではなかった。けれど、同期社員がそろって研修を受ける中で少しずつ負けられないという意識が芽生えた。それが夜中の2時、3時まで取材に回るような異常な働きぶりにつながった。それで取材の成果が出たことはあまりなかったけれど、同僚はその姿を見て評価してくれる。そういう中で無茶な働きぶりにつながっていた」

「生きがい、承認欲求で自分のエンジンが回るとやばいところまで行く。ほかの視点を持つのが健全なのかもしれないが、仕事に夢中になっていると俯瞰的になれない。それをどこで踏ん切りをつければいいのか」

「自分の場合、労働基準法の知識がリミッターを切らせなかった。8時間労働でできない仕事内容はそもそもおかしいものだという判断が働いた」

「経済的にカネを稼ぐだけのはずの労働が、なぜかそこにアイデンティティを求めてしまう。働かずに食っていけるのがベストだけれど、そういうわけにはいかないから働く。けれど、そこにプラスαを求めてしまう」

「働き方改革をいうならば、労働時間の短縮という視点だけではなく、労働以外の領域を評価する議論がないといけない。労働時間の短縮だけでは、せっかく短縮されてもすることが何もないという空白が生じるだけ。そうなると結局、休日も職場に来て時間を潰すしかないという悪循環が生まれる。日本は決定的に自分の時間を大切にする文化がない。だから結局、余暇も消費文化にならざるを得ない。労働は所詮生活の必要性のためにするためだけなのに、そこに存在の意味を求めすぎているのではないか」

「それは、まさに近代の労働観念だよね。労働そのものに価値があるという「プロテスタンティズムの倫理」そのものが近代に貫かれている」

「でも、たしかに仕事は100%カネを稼ぐための手段だと思って、自分も仕事を好きにならないようにしてきた。けれど、そうすると、朝職場に来て夜帰るまでのあいだの1日8~10時間も私は何やっているんだと思うことがある。残りの人生どれほどあるかわからないのに、意味を見出せない仕事にこの時間を費やしていいのかと思う自分がいる。すると、完全に仕事は生活のためとは言い切れなくなってくる。このバランスを探している」

「生きがいをもったら搾取される構造の中で、仕事に対する主体性を取り戻すこと」

若い世代からはこんな話も挙げられました。
「失敗することが許されないことばかり。間違えたくない、人からこいつは違うとは思われたくないという意識が強い気がする。一人で抱え込むことが多い。承認欲求はたくさんあって、休みたいとは言えない。」

加害者の側が非を認め、変わるということはあるのだろうか?
牧内さんにこう聞いたところ、
「過労死事件では加害者側が形式的な謝罪はしているケースばかりで、本質的に変わることが見られない中で、長崎のメディカルセンターは変わろうとしている。理事長が変わり謝罪もしているケースがあった」
とのことです。
なかなか加害の側は変われない。この問題をどう考えるべきか、と考えていたところ牧内さんから「皆さんはパワハラをしているという自覚はありますか ?」という問いが投げかけられました。
パワハラの定義については、「職務上優越な立場にあり、職務を超える命令を発し、人格を傷つける」という法律上の定義があります。
これについて参加者はしばし黙考。
考えられるケースとしては、被害を訴えている側が「過剰反応」とか「自意識過剰」という処理の仕方が思い浮かびます。これについては学校現場の「いじめ」の定義を重ねる意見も挙げられました。つまり、いかなる事情があるとはいえ、被害者本人が「いじめられた」と思えば「いじめ」は成立するというものです。しかし、そこには常に主観と客観のズレを問題視する議論があります。しかし、そこにパワハラの自覚を不問にする構造があるとすれば…。冷や水を浴びせられた瞬間でした。

さらに、「コロナ問題」が過労死問題ンどのような影響をもたらすかという問いに対して牧内さんは、「少なくとも大学生の求人が減っていることを考えれば、ここから「働かせてもらえるだけでありがたいと思え」というブラック企業の増加は想像に難くないし、いずれにせよ悪影響が増えることは予想される」というものでした。 

非常に重い問いを投げかける本書を議論する展開にハッピーエンドを期待することはムリな話ですが、それでも参加者それぞれの経験から話が止まらない時間でした。コロナが収まるどころか、深刻さを増すさなかにもこうした話し合いの場を持てたことは、闇の中にわずかな光明が差すような時間でした。このような中に牧内さんにゲストにお越しいただけたことはとてもありがたいことです。何より、私自身は過労職場に合って抵抗の意思を示すことに萎えていた自分に活を入れられた思いがしました。牧内さん、ありがとうございました。牧内さんは「過労死」問題のみならず、いま福島の原発事故や双葉町の「伝承館」についても発信し続けています。
詳しくは「ウネリウネラ」のブログをご覧ください。
こうした問題についても皆さんで議論を続けていきたいと考えていますので、ご参加いただいた皆様も含めて引き続きよろしくお願いいたします。(文:渡部純)

過労死と労働の意味を考える会―牧内昇平『過労死』を読む

2020-11-03 | 労働問題


【テーマ】牧内昇平『過労死』から考える労働の意味
【ゲスト】牧内昇平さん
【日 時】2020年12月12日(土)15:30〜17:30
【会 場】ペントノート(福島市上町2-20 福島中央ビル2階)
【参加条件】定員15名・参加希望者は必ずメッセージをください
【テキスト】牧内昇平『過労死〜その仕事、命より大切ですか?』(ポプラ社)
   ※当日販売になってしまいますが、著者から直接購入の場合には2割割引になります。
    こちらも事前申し込み制にしますのでメッセージをください。
【参加費】 400円(会場使用料等に充てさせていただきます)
【カフェマスター】あらかわさん
【新型コロナウィルス対策】
●参加者はマスク着用と体温計測をした上での参加をお願いします。
●体温が37.5度以上あった場合には、参加しないようにお願いします。
【開催趣旨】

個人的なことから書かせていただきます。
いまから13年前、僕の尊敬する先輩が職場で働いている最中に突然死しました。
当時、それを「病死」だと思っている同業者が少なくないようでしたが、僕をはじめ、当時の彼の労働環境を知る親しい友人たちは「過労死」であると認識しています。
それが厳密な意味での「過労死」ではなくとも、当時の彼の職場に対する愚痴の一つひとつを想い起してみても、少なくとも僕自身はその職場に彼は殺されたと考えています。
あれからずいぶん時が流れました。
いま、僕はその彼が倒れた職場に勤めています。
少しは彼の死が職場環境を改善させたのかと思いながら異動した先の現実は、彼から聞いていた当時の労働環境とほとんど変わらなものでした。
以前よりはマシになったという声は聞きますが、それでも同僚たちは日々疲弊しています。
その原因は明々白々ですが、そうであるにもかかわらず、そこには誰も触れない。
いったい、何がそのようにして労働を暴走させるのか?
労働とはいったい何なのか?

今回は元朝日新聞記者で福島市在住のジャーナリスト・牧内昇平さんをゲストに招き、そのご著書『過労死~その仕事、命より大切ですか?』を手掛かりに「労働とは何か?」という問題を皆さんで語り合おうと考えて企画しました。
本書の冒頭にある「マー君の夢」は涙なしには読めません。
ぜひ、みんなで語らいましょう!(渡部 純)

事前に牧内さんについてお知りになりたい方は、ぜひ「ウネリウネラ」のブログをお読みになることをお勧めします。
さらに、11月10日(火)14:00から福島テルサで開催される「過労死を防ぐシンポジウム」でお話しされるとのことです。こちらは事前予約が必要ですが、お勧めします。

牧内昇平『過労死~その仕事、命より大事ですか?』の紹介≫(ポプラ社HPからの引用)
「ぼくの夢」
大きくなったら ぼくは博士になりたい 
そしてドラえもんに出てくるような タイムマシーンをつくる
ぼくは タイムマシーンにのって お父さんの死んでしまう 前の日に行く
そして 「仕事に行ったらあかん」 ていうんや

これは、お父さんが「過労自死」してしまった6歳の男の子、マー君の言葉です。
マー君のお父さんが亡くなって20年近く経ちますが、今もなお、過労死遺族の思いを象徴する詩として、大切に読み継がれています。
本書は、そんな遺族たちの「今」を7年間にわたり追ったノンフィクションです。
朝日新聞で掲載された過労死特集「追いつめられて」をもとに追加取材を重ねて一冊にまとめました。
*********
『過労死を「他人ごと」から「自分ごと」にするために』……牧内昇平
「過労死」という言葉を聞いてどんな印象をもちますか?
“亡くなった人はかわいそうだけど、自分は今のところ健康だから大丈夫”
そんな風に思っていないでしょうか。
実はわたしも、数年前に過労死遺族と出会うまではそう考えていました。
新聞社に勤めているわたしは駆け出しの頃、毎日早朝から深夜まで働いていました。
体力には自信があったので、自分とは無縁の話だと思っていました。
わたしにとって過労死は、「他人ごと」だったのです。
考え方が変わったのは、過労自死で父を亡くした小学1年生のマー君の詩、「ぼくの夢」と出会ったおかげです。
生まれたばかりの息子の顔が、頭をよぎりました。
わたしがいま死んだら、息子は、妻はどうなる?
命より大切な仕事なんてあるのか?
そのとき、わたしの中で過労死は「他人ごと」から「自分ごと」に変わったのだと思います。
積極的に休み、自分の残業時間やメンタルヘルス(心の健康)に気をつかうようになりました。
なにより、妻や子どもと過ごす時間を大切にするようになりました。
過労死を「自分ごと」として考え、日々の働き方、暮らし方をみつめ直してもらう。
それが本書のねらいです。

長時間労働だけでなく、パワハラ、サービス残業、営業ノルマの重圧など、働く人を「過労死」へと追いつめる多くの問題に触れています。
読み進めてもらえば、自分の状況に近い人が見つかることと思います。
家族の働きすぎが心配な人も、ぜひ手に取ってみてください。

【満員御礼締め切りました】原発事故と学校教育を考える討議

2020-10-31 | 〈3.11〉系
【以下の内容は定員を満たしましたので募集を締め切らせていただきます】

カフェロゴとしての企画ではありませんが、11月7日(土)の渡部の福島大学公民科教育法にて、茗溪学園の前嶋匠先生をゲストに招き、原発事故と教育について学生との討議を企画しました。
前嶋さんは現職教員として原発事故と学校現場の教員の葛藤などを調査され、筑波大学大学院博士課程で研究されています。
朝日新聞茨城県版の記事にも「原発授業の風化に抗う授業」として前嶋さんが紹介されています。
せっかくの機会なので、10名の人数制限の上で一般の方にもご参加いただけるようにご案内します。
もちろん、学生との討議にはいっしょに参加できます。
ご関心のある方で聴講されたい方はメッセージをください。会場講義室を直接メッセージでお伝えします。

13:15〜14:35 渡部の原発事故をめぐる授業実践についての講義
14:50〜16:10前嶋氏による原発事故と学校教育についての講義
16:25〜17:45 前嶋✖️渡部の討議 学生との討議

※コロナ対策のため以下の注意事項は守ってください。
①マスクを必ず着用する。
②事前に体温を測り、37度以上ある場合には参加しないこと
③アルコール除菌などを徹底してください

「原子力災害伝承館で考える」・まとめ

2020-10-25 | 〈3.11〉系

(請戸の海岸から臨む東電福島第一原子力発電所)

昨日、去る9月に双葉町にオープンした東日本大震災・原発災害のアーカイヴ施設・伝承館を、参加者各自で見学した後に、その存在の意味についていこいの村なみえにて話し合いました。
交通の利便性も悪いなか、23名の参加者に恵まれ、次の3つの観点で話し合いが進められました。

1. 伝承館にどのようなメッセージを期待したか
2.伝承館にからどんなメッセージを受け取ったか
3.伝承館に示されていない情報は何か

話し合いは、はじめから厳しい意見が噴出しました。以下、渡部の編集(解釈)によるまとめを記録します(もし、発言された方の意図とは異なるものがあればお教えください)。


●中身がない。伝承館は何を伝える館か?何も伝わらない。津波の思い出くらいか。
●原発の危険性や事故の原因、そしてそれらを踏まえた教訓をどう考えるべきかという視点が何もない。
●実際の災害現場で、どういうやり取りをしていたのかという視点がもう少し欲しかった。全体としてダイジェスト版の展示という印象である。
●原発が来る前の相双地域をどう描いているのかを期待したが、「事故前の暮らし」が「だるま」と「野馬追」で終わっていることに失望した。大熊・楢葉・富岡・双葉がどういう地勢・地政であり、そこに原発が来たのか、その背景の説明が薄い。伝承館で立ち話をしながら聞いた職員も、それについては同じ意見だと述べていた。
●展示のストーリー展開に違和感をもった。復興を強調するばかりで、「ピンチをチャンスに変える」という文言がやたらと目立つ。
●5分の映像を見て、なんでみんな字幕が英語なのか違和感をもった(これに対しては、当初、オリンピック開催に合わせたオープンを予定していたため、外国人観光客への対応を想定してのことではないかとの意見が出された)。

「違和感ばかり」という意見が大勢を占めましたが、そこには原発事故の教訓がはっきりと示されないこと、津波による事故という「自然災害」と「復興」の強調といった点に集約されます。
一方、「語り部があるのはいいなと思う。展示だけではリアリティがない」という意見も出されましたが、それに対して実際に語り部をされている参加者から次のようなお話を聞きました。

●語り部として入る前に伝承館に期待はしていなかった。現在、語り部29名。語り部どうしがお互いに話し合う機会はほとんどない。「余計な話はするな」という伝承館の指導については、メディアで伝えられている報道はほとんど真実です。余計な話をするなという指示は、はっきり説明会で指導されます。特定の企業団体については、はっきりものを申すなと上からストップがかかる。これについては語り部の中には反論する人もいる。当初の語り部スペースには、つきっきりで職員がつき、場合によっては質問内容を静止したりしてチェックしていた。でも、伝承館と語り部は切り離して考えてもらいたい。半分以上は初めて話す人ばかりで、しかも高齢者が多い。話すことに慣れていないし、震災と原発事故の経験を思い出して話すだけで苦しくなる。それでも、遠方は会津からわざわざ語り部に来る。

この語り部の話す内容に規制をかける「上とはだれか?」
この質問に対しては「県の生涯学習課ではない。さらに上の存在がある」とのことだけれど、それが誰かということは尋ねても示されないとのことです。
これに関しては、別の参加者からは次のような感想が出されました。

●良くも悪くも福島県庁の施設だと感じた。復興記念構想に比べて、伝承館資料選定の議事録は公開されていない。有識者検討委員会の議事録を読んでも、明らかに復興記念構想より手を抜いている。明らかに県が自分なりの考え方で描いたものが、いまの伝承館の姿なのだなと思う。そして、福島県はこういうのが苦手な役所だということがわかった。そこには国から細かい指示はなく、知事への忖度などが働いているのではないか。

「こういうのが苦手」というのは、福島県が独自のメッセージを出そうという能力のことでしょう。しかし、国の指示にはいくらでも従う福島県は、独自のメッセージを考えることが苦手である。それは、その過程を議事録として詳らかにできないことにも示されているというわけです。
では、福島県が伝承館に独自のメッセージを込めるにはどうすればよいのか?
これに関して今回の話し合いでは、「アンケートへの記入」というのがキーワードとして挙げられました。

●まだ未完成という印象がある。初めから期待していなかったので、案外いろいろあったなという感想だ。かいつまんであれもこれも並べている。かかわっている人は何とか伝えなきゃという思いは持っているのだろう。これから整理していくうちに、今の方がよかったともなりかねないかもしれない。もっともっとよくなるように、来館者の意見を取り入れるくらいの形になってほしい。

館内には「皆さんの声が伝承館を育てます」というメッセージがあったという声もありました。
多くの参加者の意見からは、当初から期待していなかったという意識が確認されましたが、それに対して次の発言は重要です。

●アンケートの声が欲しいと職員さんが言っていた。それが自分たちには言えないことの代弁になるのだと。


今回の参加者の中には、伝承館を見学した際に職員の方々に質問を投げかけて話を聞いたという方が、少なからずいらっしゃいましたが、そこから確認されたことは、実は伝承館の現場で働かれている方の多くが館の方針ややり方に違和感を持っているという事実です。
しかし、職員である以上、「上」からも規制されるため物言えぬ状況にある。
それゆえに、見学者のアンケートが力を持つのだという話を、多くの方が聞いたというのです。
けれど、参加者のほとんどが、そのアンケートがどこに置かれていたのかまったくわからなかったようです。
しかも、

●展示物の撮影禁止について職員に話を聞いたときに、その方自身もおかしいと思うといっていた。学生がレポートに写真を使いたいという要望があっても撮影させてくれない。その理由を職員自身がわかっていない実態がある。

これに対しては別の参加者から、「映像展示物については著作権の問題だったので撮影禁止されたわけで、映像以外の資料の撮影は当初OKだった」という内実があったという話を聞いたという発言がありました。
しかし、だからといって「初めから一括して禁止にするのは、そもそも来館者への信頼していない姿勢が見える」という意見はもっともです。
それゆえ、展示物の撮影に関しては、次の意見のとおりでしょう。

●国の施設でも著作権のあるものはダメだけれど、当館で作成した資料は大丈夫ですというケースが増えているなかで、今どきは「できること」と法的に「できないこと」を区別していくべきだ。

参加者の中には他県の災害伝承館との比較から、次のような興味深い意見をもたれた方もいました。

●陸前高田の復興伝承館に見て感動して、双葉の伝承館に行きたいないと思っていた。どういう視点の違いがあるのかという観点で見学した。陸前高田ではデータ重視で写真などもクールに表現しているけれど、それに対して双葉の伝承館は、入場してすぐに見せられるオープニング映像がまず初めに泣かせに来ている感じがした。写真撮影の禁止についても違和感があったけれど、それは著作権の話を聞いて納得した。けれど、今どきの美術館は来館者のSNSを利用して情報を広めていくのが当たり前なのに、福島県はそういうことを利用することに関しては後進県だなと感じた。

県外からわざわざ参加された方は次のような感想を述べました。

●熊本からきて、伝承館にはすごいものは期待しないできた。放射能の問題やそのリスクの問題、市民の混乱について書かれていなかった。また、事故の始まりが3.11から始まっており、それ以前になぜ原発が来たのかという考察もない。原発に関する教育を「しています」(2009年)という形で示しており、はっきり反省が示されていない。職員の方からじっくり話を聞いたけれど、「東電がどうだ」とかだという話はしないけど、やっぱり話を聞いていると矛盾、矛盾、矛盾のなかでそれでも生きてきたという、痛みであり、言葉にならない生きてきた息がかんっじとれた。ざっくりいうと伝承館は、今の福島県だなと感じた。放射能の被害はわからないとしているし、東電と原発事故の関係は批判してはいけないというもやもや感が伝わってくる。「はっきり言えないけれど伝えたい」というのが福島県のがんばっている姿だと思う、足りないことだらけだけど、伝承館ができてよかったと思っている。それをどうやって育てていけるかが、私たちの社会の原発事故をどう見ているのかに関係している。なかったことにしてしまいたい、けれど自分たちが向き合っていかなければいけない。

災害資料館の比較といえば、三春町にあるコミュタン福島との比較を述べた意見も出されました。

●コミュタン福島が子ども向けに楽しく学習できる施設、楽しく写真も撮影できた。伝承館の方がチャラい感じがした。
●コミュタンは放射線教育の施設。伝承館との見方がそもそも違う。
●コミュタン福島は放射線を楽しくゲーム感覚で学ぶ。危ないものではなく、楽しく学ぶというスタンスに腹立たしさを覚える。震災から10年なので、いまの高校1年生は当時就学前の年齢であり、自分の言葉で経験を語れない。伝承館はそのような世代が出来事を学んでいくための施設になると思うが、上っ面だけで学んだ気になることが懸念される。さらに震災がわからない全国の子どもたち、福島で生まれた子どもたちが「東電」という言葉を知らなければ、意味がない。


震災から10年が経とうとしているなかで、そもそも「震災・原発事故」を伝えていくのかという課題を伝承館が本当にこたえようとしているのか。

●伝承館に見学に来た福島市内の高校生からは、「震災は終わっていたと思っていた」という声があった。「ここに来て初めて、まだ苦しんでいる人がいることを知りました」と、原発事故の被害がなかったことになっている高校生がいる。その子たちにわかってもらう場にもなりうる。

そして、その伝承の場は館に限られるものではないという意見も挙げられます。

●そもそもなぜここに伝承館を作るのか。周囲の風景と合わせて批判的な思考を生み出せるのではないか。村全体で資料館になるという発想が水俣にはある。
●伝承館の周囲にも津波被災の家や人の住んでいない家など、伝承館だけだはわからない風景を伝承館に取り入れるのはあってしかるべき。そうすれば浪江、津島などを含めた地域の伝承の中心地になるのが伝承館となればいい。
●できれば、その範囲を防波堤のあたりまで広げてもいい。高校時代まで双葉に住んでいたけれど、津波が来るという話を聞いたことがなかった。そういうものを伝承館で伝えてほしい。原発が来ることに大人たちは喜んだが、結果的に豊かになるどころかこうなった。失敗学でもいいから、そこまで伝承館はつっこんでほしい。改善の余地がある。双葉町民としては、こういう伝承があったから救われたよねとなってほしい。



(請戸小学校)
一方、伝承館のメッセージについては次のような批判も出されました。

●議事録が残されていないと、伝承館が成長する余地はないのでは。アンケートの活かし方もわからないし、そもそもそれが活用されるのかどうかも公開されないのはおかしい。事実の羅列はなにがしかのメッセージを伝えている。入場して冒頭の映像にある西田敏行のメッセージには、「莫大な雇用を生んだ」という文句だけだった。そのとき、原発の安全性について国はどう説明したのかなど、あえてメッセージ性をなくしているのではないか。

予定時間の半分が過ぎたところで、「伝承館に書かれていないもの」について論点を移しました。

●避難者の数について「当初16万人から7万人」になったとおいう記述があったが、その減った9万にはどこへ行ったかが書かれていない。これだけの説明では、「避難者が減ったなら大丈夫だ」という印象を与えるだけではないか。
●避難所の様子は写真などあったが、中通りの人たちの不安がどこにも書かれていない。飯舘村など、甲状腺件にしても今後の不安が何も書かれていない。若いお母さん方にはいろいろあるにもかかわらず。
●責任が全く書かれていない。国も、東電も、福島県の責任が一切書かれていない。
●伝承館に行く途中にフレコンバックがたくさんある。汚染水もたくさん目にしながら、そういうものがあることの不安をみんな抱えているのに、それが実際これからどうなっていくのか書かれていない。除染した土は今後どうなるのかとか。
●ライブラリースペースがない。ふつう、博物館美術館には関連施設情報・資料があるはずだけれど。
●原発事故発生から全国的な放射線量の推移についての記述がない。
●裁判に関する事例、結果がない。

施設や展示の構造そのものに対する次の批判は、いったい53億円もかけて何を作ったのかという当然の怒りを覚えます。

●片目弱視であり、展示物が見にくく、障がい者や高齢者を当事者としてみていない。聞いたところ、伝承館の職員もそう思っているとのこと。キャプションが小さい。音もあちこちで出ているので、どこの音を拾っていいのか困る。西田敏行のナレーションで流される斜め立体スクリーンをどれだけの人が見られるのか。高齢者、小学生にはムリ。入場した瞬間にユニヴァーサルデザインでなく、当事者性もないことがわかる。当事者がいなくなっても記録できるアーカイブ施設であってほしい。また、被災者にとって津波の映像はつらい。白黒写真なのはなぜ?昔のことのように表現したのか、PTSD対応なのか?語り部の抑制や展示物から葛藤が見えてこない。
●もう復興していますという感が強い。風評被害も以前ほどではないというメッセージばかり。被災地の近くにいればいるほど復興などしていないことがわかるのに。
●アーカイブという点でいえば、当時の県がどういう対応をしなくてはいけなかったかという資料が市町村に莫大にあるはず。が、それを記録保存しようという意志が感じられない。10年前に人々がどういう不安を持っていたのか。その当時の人々が抱えていた苦しみを見た人に感じられる施設でなくてはならないのではないか。
●放射線の被害、不安については一切書いていないことがなぜできたのか。水俣の人々は苦しみを見たくなかった。けれど、その苦しみを描いてどう見に来てもらうのか工夫した。
●当時被ばくの健康不安は24%、現在は8%というデータが示されていた。そこに違和感があった。


ついでに言えば、「自主避難者」という存在は伝承館のどこにも見当たりませんでした。
その存在はなかったことにされているのでしょうか。
それとは対照的に、福島に残った、あるいは戻ってきた在福外国人の方々への称賛が強烈に印象付けられる動画が展示されています。
ここには避難した人々への「排除」が暗に示されいることは否定できないでしょう。
それはさらに、「トモダチ作戦」で被ばくした米兵たちが訴訟を起こしている事実とも対照をなします。
では、伝承館はけっきょく福島県の広報機関に過ぎないということでしょうか。

それに対して、語り部をされている参加者からの言葉は非常に考えさせられるものでした。

●伝承館には、いまだ避難している人たちも来館します。その人たちは泣きながら展示を見ている、けれど自分たちのことを知ってほしいという思いで、耐えて来館している人たちがいるのも事実です。3km圏内に居住していた住民は、原発爆発以前に強制避難させられており、その意味で被ばくはしていないのですが、そうであるにもかかわらず、避難先では被ばくしたものとして言われない差別を受けた人もいます。それらを含めて、ここに来るのは被災経験を共感してくれる人がいるかもしれないと思って来館している。そういう話を聞いて伝承館は、そういう場でもあると考えました。自分たちがここ(双葉)から離れられないこともわかってほしい。しかし、ここに住めない現実の中で避難先に生きざるを得ない現実もある。その思いを踏みにじられたくないという象徴、同じような思いをもつ人と出会える場。そういうものとしての伝承館の意味があるのではないかと考えます。

これは避難という現実を経験した人、そして故郷を奪われたことの現実を知る人の言葉です。この会の前半に語られた「中身のない広報としての伝承館」から、一気に別の様相があらわになった瞬間でした。福島県の大きな「復興」物語をそのままに受容するほどナイーブな見学者ばかりではないことは、今回の話し合いのなかで核にされたことです。しかし、その大きな物語とは別の可能性が、被災当事者の葛藤から絞り出されたことは大きな発見だったのではないでしょうか。
もちろん、その場に集う人々が饒舌に自分の被災経験を語ることは難しいことであることは言うまでもありません。
それでも、なぜ語り部になるのか?
その問いに対しては「いままで語れなかったことへの思い」、「語る場所、語る機会がないことへの思い」、「残したい、れてほしくないという思い」、このような個々の小さな物語が位置づけられる場としての伝承館とは、おそらく語りそのものを規制する公的機関としての福島県が想定できるものではないでしょう。
しかし、そのような場としての伝承館に「育てていく」ことは、来館者の責任ですらあるのではないか。
これが、今回の話し合いが到達した一つの結論であったように思われます。
今回の企画では、当初相双地区以外の参加者が多くを占めていましたが、思いがけず語り部当事者の参加にも恵まれ、そしてその経験と思いが、話し合いに全く予想もつかない伝承館の意味をもたらしていただけたことに、つくづく出会いの偶然と有難さを感じさせられたものです。
今回の話し合いのまとめを公開させていただくことで、原発事故の教訓を示す機関として伝承館がさらによりよいものになることを期したいと思います。(文・渡部 純)

原子力災害伝承館で考える【満員御礼・募集を締め切ります】

2020-10-23 | 〈3.11〉系


【テーマ】原子力災害伝承館で考える
【日 時】2020年10月24日(土)13:00〜15:00(ダイアローグ)
     ※事前に各自で館内を見学してください。
【会 場】いこいの村なみえ
【集合場所・時間】いこいの村なみえコテージ会議 13:00
各自での現地集合になります。各自で伝承館見学と昼食を済ませてご参加下さい。
13:00より館内でのダイアローグを予定しています。
【定員】20名・満員御礼ににつき、募集を締め切らせていただきますm(__)m
【参加申込】 参加希望者はメッセージをください。定員になり次第応募を締め切ります。
【参加費】 〇展示入館料 大人600円 小中高:300円 ※各自でお支払いください。
【共催】エチカ福島
【開催趣旨】

去る9月20日に双葉町にオープンした原子力災害伝承館を見学し、みんなでその意味について考えましょう。
この災害資料館をめぐっては、県が学校へ助成金を出して交通費がほとんどタダ同然で訪問できるなど、かなりの公的資金が導入されています。
しかし、「タダ」ほど怖いものはないと考えるのは勘繰りすぎでしょうか。
まずは見学してみて、参加者同士の意見を交換しながら伝承館の意味について考えてみましょう。
果たして、この災害資料館が目指す「伝承」とは何か

【コロナ対策】
なお、コロナ対策のため各自で当日のマスク着用はもちろん、検温をして下さい。
その際に、37.5°以上の熱がある場合には参加をご辞退いただきます。

政治と嘘を考えるーアーレント『真理と政治』を読む・まとめ

2020-10-11 | 哲学系


富良謝と渡部の共同企画「政治と嘘を考える」は、同僚二人の間で交わされた会話がきっかけでした。
去る9月に実施された高校3年生の進研模試・現代文の問題文に用いられたのは宇野邦一『政治的省察 政治の根底にあるもの』でした。
テキストの冒頭はこう書き始められている。
「どうやら政治に嘘はつきものである」。
この文章から察しがつくように、この論考の趣旨は嘘が政治にもたらすものの問題性であり、それが前政権への批判が込められていることは容易にくみ取れる。
そして、この時期に高校生へ向けて発した問題作成者の意気込みにいてもたってもいられなくなったのか、富良謝が鼻息荒くこの問題文を5mほど離れた席から飛んで持ってきてくれた。
一読して、嘘と隠ぺいにまみれた安倍政権への痛烈な批判が込められていること、それを問題文とはいえ高校生に差し向けられたことに素直に感動した。
が、しかし、いくら何でもこの文章は難解すぎる。いや、難解というより意味不明の部分が多すぎる。悪文である。
通常の意味での語彙とアーレントが用いる言葉の意味は、かなり隔たりがあり、率直に言って、アーレントの思想に多少なじみがなければ、ほとんど意味はくみ取れないのではないか。
言い過ぎかもしれないが、宇野氏の文章自体アーレントの文の切り貼りで構成されているだけの印象があり、全体的には”So what ?”である。
管見では、解釈そのものに疑義が差しはさまれる部分もある。
これを高校生に読ませるのは酷だし、むしろ、問題作成者の意気込みは評価できるとしても、これでは入試特有のテクニカルな解き方に終始してしまい、せっかくの高校生に政治と嘘の問題を考えさせようという意図(模試ごときにそんな意図はないのだろうか?)も台無しにならないだろうか。
それはともかく、今回の企画は「コレ、高校生と一緒に読めないか」という富良謝さんの問いかけから始まったものだ。
残念ながら「高校生と」という企画ではないけれど、とりあえず大人たちの間でこの議論をしてみようというのが今回のチャレンジだったのでした。


会の冒頭、富良謝から宇野氏のテキストをめぐって富良謝から問題提起が行われる。
大きく分ければ、「「嘘が積み重なるとは?」、「嘘を積み重ねることで現実の方向感覚が失われるとはどういうことか?」という点についての問題提起がなされた。
後半の議論を先取りして言えば、この方向感覚の喪失は、元大手メディアに勤めていいた経験を持つ参加者から、もはや報道の内実そのものに信頼がおけないような事態にあり、政治の基盤である「事実」そのものが崩壊しているとの意見が出された。
ウソ、という以前に事実そのものが確定できない現実に、我々が生きているとすれば、もはやアーレントの問題提起そのものを超越してしまっているのではないか。
発表者二人で打ち合わせをしていた時に議論になったことの一つは、モリカケ問題をはじめ安倍政権がぶち壊したものとは、実はこの「事実そのもの」への信頼感であり、もし誰もこれが「嘘」だと思っていなければずっと「事実」になるのではないか、というものだった。
「嘘もつきとおせば真実になる」という陳腐なもの云いもにわかにリアルになる。


では、実際にアーレントは「政治と嘘」をめぐってどのような論を展開していたのか。
以下、渡部がアーレントのエッセイ「真理と政治」(『過去と未来の間』所収)をまとめたものを中心に記録する。
冒頭、政治と嘘をめぐる昨今の問題を挙げた。
挙げたけれど、記事を選定するのに時間がかかった。
だって、嘘と隠ぺいの政治ばっかりなんだもの。
とりあえず、陸自南スーダン日報隠蔽、森友学園問題文書改ざん、佐川宣寿国会証言拒否、近畿財務局職員自死、杉田水脈「女は嘘をつく」発言を挙げてみた。
しかし、これらの嘘と隠ぺいの政治と、アーレントが論じる「政治と嘘」の問題は同じ水準か、否か。

まずアーレントは「政治と真理」の冒頭で、「嘘は…政治家の取引にとっても必要かつ正当な道具とつねに見なされてきた」ことを認める。
そこから、「欺瞞は権力の本質なのか」、「真理が無力ならば、いったい真理はどのようなリアリティを持つのか」という問題を提起する。

【ポイント1】
「事実の真理が権力の攻撃から生き残るチャンスは、実に微々たるものである」
「事実や出来事はいったん失われれば、理性がいかに努力しても、永遠にそれらを取り戻せないであろう」
アーレントは、「理性の真理」に比べて「事実の真理」の脆弱さを指摘する。すなわち、理性による科学的真理はニュートンやアインシュタインの発見がなかったとしても、人間が理性を用いる限りにおいて、いずれ誰かが発見する可能性が消える心配はない。
これに比べると、事実はいったん廃棄されれば、二度と取り戻すことはできないというのである。
このぞっとするような指摘で思い出すのは、NHKスペシャル「沈黙の村~ユダヤ人虐殺・60年目の真相~」(2002年9月14日)である。このドキュメンタリーは、1941年、ポーランド・イエドバブネ村で起きたユダヤ人集団虐殺。長らくナチスの仕業とされてきた事件が、実は同じ村の住民によるものだという疑惑が浮上、国を挙げての調査が始まり、半世紀も前の重い過去に向き合う村人達の苦悩を描いたものである。
その疑惑のきっかけは、奇跡的に虐殺を生き延びたユダヤ人が残した「殺害は村人がやった」というメモ書きだった。
村内の学校では、ナチスが起こした悲劇として歴史教育もなされていたわけだから、この疑惑は村をひっくり返すほどの衝撃を与える。
政府による調査の結果、村内で起きたユダヤ人虐殺は同じ村に住むポーランド人が起こしたことが判明する。
これは権力によって事実が抹消されたケースではないが、しかし、もしその「メモ」が残されていなければ、その事実の真理はどうなっていただろうか、という恐ろしさを感じずにはいられない。
これほどまでに、事実の真理が生き残るのは微々たるものなのである。

【ポイント2】
「私が考えている事実とは、公に知られているにもかかわらず、それを知っている公衆自身が公然と口にすることを巧みに、またしばしば自発的にタブー視し、実際とは別様に、すなわち秘密であるかのように扱いうる事実である」[p320]
しかし、アーレントが問題化する「事実」とは、単に隠蔽されるような事実ではない。
むしろ、公然の事実であるにもかかわらず、誰もがタブー視し、それがあたかも存在しないかのように扱われる事実である。
それが絶滅収容所の存在であった。
「ヒトラーのドイツやスターリンのロシアにおいてさえも…『異端的な』見解を支持したり口に出すよりも、その存在が決して秘密ではなかった強制収容所や死の収容所について語ることの方が危険であった」[p320]

【ポイント3】
「さらに厄介に思えるのは、歓迎されざる事実の真理が…意見へと姿を変えられてしまうことである」
「意見」とは、「私にはそう思われる」ものであり、これは説得によって変えられるものである。
事実の本性とは「説得」ではなく、「証拠」にもとづくものであろう。
ましてや、個人的見解のように「思われる」ものではありえない。
しかし、この事実はいったん政治の領域に投げ込まれたとたん、「意見」に変質させられてしまう危険性がある。
たとえば、デンマークの放送局DRドキュメンタリー「ユダヤ人虐殺を否定する人々」では、イギリスの歴史家でありホロコースト否定論者のアーヴィングが、「ドイツ人は真理も公正さも剥奪された。…私はこう予言します。ドイツ人は歴史の虚偽に気づき、根拠のない罪悪感から解放されるでしょう」と語る場面がある。
そして、そのアーヴィングの演説を聞いた若者が「彼は正しいかも…ガス室ですか?存在したかどうか怪しい気がします。…彼の話が本当だとしたら、ドイツ人は今までより自信を持つことができます」という感想をもらす。(高橋哲哉『歴史・修正主義』参照)
ホロコーストという事実が否定されることにおいて、存在が「怪しい気がする」という若者の揺らぎは事実への不信がもたらすものであろう。
しかし、ここで注意しなければならないのは、「罪悪感から解放される」や「自信を持つことができる」という価値の問題に重点が置かれていないかということだ。

【ポイント4】
「事実の真理は政治的思考の糧である」[p323]
「事実は意見の糧であり…事実の真理を尊重する限り正当でありうる。事実に関する情報が保証されず事実そのものが争われるようになるならば、意見の自由など茶番である」
ミック・ジャクソン監督の作品映画「否定と肯定」は、この事実をめぐって裁判闘争に展開したアーヴィングとリップシュタットの闘いを描いたものであるが、そのなかにリップシュタットがアーヴィングと議論しないことを挑発されるシーンがある。
アーヴィングは「意見と違うものと戦わないのは真実を知るのが怖いのだ」と、リップシュタットを挑発する。
映画のワンシーンではあるが、ここで事実認定に関する問題に「意見」という言葉が刷り込まれていることは無視できない。
リップシュタットはホロコーストについて「なぜ起きたか」、「どうやって起きたか」については議論するけれど、「なかった」とする相手とは「議論」する気はないという。
議論は意見を戦わせることだ。
しかし、その前提条件となる事実が共有できなければ議論はそもそも成立しない。
このように、アーレントは「事実」が政治という複数の人間領域に投げ込まれるや否や「意見」に変質する危険性を、プラトンがすでに「洞窟の比喩」で指摘していたことを見抜く。真理を語る者は孤独なのである。

【ポイント5】
「嘘を語る者は…真理を語る者よりもはるかに説得力に富む」[p342]
「出来事の顕著な性格の一つ、つまり予期せぬことという要素が丁寧にも消し去られているため、彼(嘘つき)の説明の方が論理的に聞こえるのである」
事実とは何か。
「事実は小説よりも奇なり」という諺が示すように、アーレントは事実が偶然性を本質としているとみる。
それゆえに、事実は人々の理解を得難い面をもつ。
むしろ、嘘を語る者の方が論理的に説明できるというのである。しかも、「(事実の)リアリティも、利益や快楽だけでなく、常識の推論の健全さに事あるごとに逆らう」。
事実は常識に反する一面をもつ。
少なくとも、アーレントが扱おうとする事実の水準はそこにある。
アーレントは『全体主義の起源』第3巻で「忘却の穴」という概念を提示する。
それは、アウシュヴィッツのような絶滅収容所におけるユダヤ人殲滅について、全体主義的な権力者たちは「全体主義の大量犯罪が暴露されること」を「それほど気にしなかった」という。
それは「犯した犯罪の途方もなさそのもののために、犠牲者…よりも、むしろ殺人者…の言葉の方が信じられてしまう、という結果が目に見えているから」である。
常識では理解しえない途方もない巨悪が出来したとき、生存者の証言が「真実であればあるほどますます伝達力を失う」のである。

【ポイント6】
「現代の嘘は、秘密でないどころか実際には誰の目にも明らかな事柄を効果的に取り扱う」[p345]
「イメージはリアリティの完全な代用品を提供すると考えられている。この代用品は現代技術とマスメディアによって、オリジナルが以前そうであった以上に公衆の眼にふれる」
絶滅収容所の存在を、あたかも健全なイメージで写真化したのはナチスの側である。
そして、福島第1原発事故の廃炉や汚染水問題、帰還問題が全く解決のめどがつかない時期に「アンダーコントロール」を主張し、オリンピックを誘致した安倍晋三前首相の行為は、まごうことなくこの事例の一つである。
そして、その問題群を聖火リレースタート地点というイメージで糊塗して「福島の復興」を喧伝する猥褻さは、この指摘のとおりのことである。

【ポイント7】
「伝統的な嘘と現代の嘘との違いは、隠蔽することと破壊することの違いにほぼ等しいであろう」[p343]
伝統的な嘘は敵を欺こうとしただけで、全員を欺こうという意図は持っていなかった。そして、自分自身が虚偽の犠牲になることはなく、自分自身を欺かずに他人を欺くことができた。
それに対して現代的な嘘とは、自らをも欺くような嘘である。
自らも欺かれている場合のみ、真実に似たものがつくり出される。
嘘をつくものが自分自身にも嘘をつくことは可能だろうか?
これはデリダが『嘘の歴史』で議論している問題であるが、ここではそれに触れる余裕はない。
しかし、アーレントはこうもいう。
「嘘を語る者が成功すればするほど、それだけ彼は自分自身の作り話の犠牲者になる」。
そして、嘘を語る者が他人を欺くよりも、自分自身の嘘によって自ら欺かれる場合の方が、なぜ当人にとってばかりか世界にとって都合が悪いのかと問う。
伝統的で冷血な嘘つきはまだ真偽の区別を知っており、他人の目から隠している真理は世界から完全に抹消されずに、真理は彼の内に最後の隠れ家となっているが、この場合、リアリティに加えられた傷は取り返しのつかないものではない。
しかし、自分自身にも嘘をつくものは、その秘密にする事実すらも抹消してしまう。

【ポイント8】
「すべてのものが取り返しのつかなくなる可能性こそ、現代の事実操作から生じてくる危険である。事実の真理を徹底的にかつ全面的に嘘と置き換えることから帰結するのは…、我々が現実の世界において方位を定める感覚…が破壊される事態である」[p350]
我々の現実の方向感覚の破壊。これこそが事実を破壊することで生じる問題である。
そのことによって政治的判断は困難になろう。このことが、今まさに私たちの社会で現実に起きている問題ではないだろうか。

【ポイント9】
「堅固たる点で、事実は権力に優る」[p353]

【ポイント10】
「既成の権力と真正面から対立する場合、無力であり、つねに挫折するにもかかわらず、真理はそれ自身の力を持っている」[p353」
「説得や暴力は真理を破壊しうるが、真理にとって代わることはできない」
 しかし、ここまで事実の真理の脆弱さ、破壊されることで回復不能となる希少性について触れてきたアーレントだが、一転して「事実や出来事が持ち事実性の最も確実なしるしは、堅固たるものとして現れるが、事実のもろさは奇妙にも大いなる復元力に結びついている」と論じる。
楽観的ともいえる、このアーレントの根拠は何だろうか?
確かに冒頭に紹介した「沈黙の村」では、奇跡的に逃れたユダヤ人のメモが見つかった。
アーレントはこのように、事実の真理を完全には殲滅できないある種の堅固さが備わるという。
「イメージは事実の真理に対して、一時的に優位に立つが、しかし、イメージは安定性の点で…端的に存在するものには到底及ばない」[p351]
プロパガンダによる政治的イメージは長持ちしない。
なるほど、そのように私たちは信じたい。真理は最後に勝つ。
映画「A few good men」は、まさにそのカタルシスを解放する。
浦沢直樹の『20世紀少年』もしかり。
しかし、果たしてそのように楽観視できるのはなぜか?
独裁のプロパガンダが70年も継続している国家があることをどのように考えるべきか。
ましてや、そこにおいて現実の方向感覚を失っているとすれば。
それについて、アーレントはこう説明する。
「記録を修正しようとする人は、本当の物語の代用品として自分たちが提供した虚偽を絶えず変更を加えなければならない」
「人間の事柄の領域の内で実際に起きたことはすべて別様でもありえた以上、嘘を語る可能性には際限がない。そしてこの際限のなさが自滅を招く」[p352]
嘘は最後に破綻する。
いかにも日常の道徳的な教えとしても通用しそうな言葉である。
アーレントが事実に見出す堅固への信頼とは何か。

【ポイント11】
「政治の領域はその権力の及ばない人々や制度にかかっている」[p356]
アーレントは、事実の真理は政治の領域、すなわち複数の人々の言論空間に投げ込まれる瞬間、意見に変質するといった。
そうであれば、その事実を担保するためには政治の領域から独立した存在や機関が必須となる。
「真理を語る存在様式に顕著なのは哲学者の孤独、科学者や芸術家の孤立、歴史家や裁判官の公平、現地調査したものや目撃者、報告者の独立である」
「哲学や・芸術家・裁判官などの独りでいる在り方のいずれかが生の様式として選ばれる場合にのみ…それは政治的なものの要求と衝突するのである」
昨今、日本学術会議の推薦を菅首相が拒否したニュースがにぎわっている。
学問の自由への侵害ではない、と嘯く首相をはじめとする政府だが、しかしその内実はこの学問の独立と無関係ではない。
司法権の独立が保証されるゆえんも、ここにある。
それが侵害されれば、くりかえすように我々の現実の方向感覚は喪失する。
もっとも、独裁や全体主義を望む権力者にとってそれは望ましいことなのかもしれないが。

【ポイント12】
「政治の領域は、人間が意のままに変えることのできない事柄によって制限されている」
「我々が自由に行為し、変えうるこの政治の領域が損なわれずに、その自立性を保持し約束を果たすことができるのは、もっぱら政治自身の境界を尊重することによる。概念的には、我々が変えることのできぬものを真理と呼ぶことができる。比喩的には、真理は我々の立つ大地であり、我々の上に広がる天空である」[p360]

【ポイント13】
「リアリティは事実の総体以上のものである」[p357」
事実は、その数を積み上げればリアリティが増すというものではない。
「リアリティはいかにしても確定できるものではない。存在するものを語る人が語るのは常に物語である。この物語の内で個々の事実はその偶然性を失い、人間にとって理解可能な何らかの意味を獲得する」。
そこに物語が付与されることが、リアリティの源泉となる。
「事実の真理を語る者が同時に物語作家である限り、事実の真理を語る者はリアリティとの和解を生じさせる」。
では、物語ることが不可能なものにとっては、そのリアリティは手に入れられないものなのだろうか。
事実の希少性、物語ることの不可能性。
そのことはホロコーストという法外な出来事を後にして、なお楽観的に過ぎないだろうか。

「問われているのは存続、存続の持続である」[p310]
「存在するものを進んで証言する人々(真理を語るもの)がいなければ、永続性や存在の持続は考えることさえできないのである」
「真実さとも呼びうるこのあるがままの事物の内容から、判断の能力が生じてくる」[p358]
アーレントがこだわるのは、現実の方向感覚を失うこと以上に、世界の存続である。
事実が失われることは、世界の存続の問題と密接である。
3.11を後にして、なお何もなかったかのようにふるまう日常において、世界の持続とはいかなる意味を持つのか。

政治と嘘を考えるーアーレント『真理と政治』を読む

2020-09-21 | 政治系


【テーマ】政治と嘘を考えるーアーレント『真理と政治』を読む
【日 時】2020年10月10日(土)15:30〜17:30
【会 場】ペンとノート
【参加申込】 席に限りがあります。参加希望者は必ずメッセージをください
【参加費】 セミナールーム使用料を参加者で割り勘にします。
【カフェマスター】富良謝と純
【新型コロナウィルス対策】
  席数に限りがあります。
  参加者はマスク着用と体温計測をした上での参加をお願いします。
  体温が37.5度以上あった場合には、参加しないようにお願いします。
【開催趣旨】

嘘と改竄、隠蔽をくり返した政権が突然交代しました。そして、その政権の路線を引き継ぐという主張をした候補者が、圧倒的多数の支持を得て新政権を発足させました。嘘の政治はまた繰り返されるのでしょうか。
ところで、政治にとって「嘘」はどのような意味を持つのでしょう。
歴史上、政治が事実を改ざんした例は枚挙にいとまありませんが、「政治の目的を達するために政治に嘘は必要だ」という言説はこの事実を肯定しているかのようです。
今回は、この問題をハンナ・アーレントの「真理と政治」というエッセイに学んでみたいと思います。
このエッセイは『過去と未来の間』(みすず書房)に収録されています。
当日は主催者の渡部と富良謝がコーディネーターになり、レジュメ資料に沿って進行する予定なので、事前に読まなくても参加可能です。
参加ご希望の方は必ず「参加希望」をクリックしてください。

ゴールデンウィーク連夜・哲学ゼミ「パンデミックを哲学する」

2020-05-02 | 哲学系


【テーマ】ゴールデンウィーク連夜・哲学ゼミ「パンデミックを哲学する」
【日 時】2020年5月2日(土)〜5月6日(祝・水)
    20:00~21:30 
  第一夜 アガンベン「感染」

  第二夜 森千香子×小島祥美「感染症と排外主義」

  第三夜 辻元「デジタル教科書は万能か?」
  
【テキスト】雑誌「現代思想」2020年5月号「感染/パンデミック」
【会 場】オンラインzoom
※ 参加ご希望の方はID・パスワードをお知らせしますので、メッセージをお送りください。


外出自粛が要請される鬱々としたGW連夜、コロナウィルスをめぐる「パンデミック」を哲学しませんか?
ゼミなのでテキストを用います。
今回のテキストは雑誌「現代思想」の2020年5月号「感染/パンデミック」や雑誌「世界」の論考(4〜6ページ程度)を読みます。皆さんの経験や考え方を底に重ねて議論しましょう。
参加ご希望の方はzoomのID・パスワードおよびテキストもPDFで送りますので、必ずメッセージを送ってください。
なお、zoomは40分ごとにアクセスが切断されますので、そのたびごとに各自で接続してください。
いちおうGW中の連夜実施する予定ですが、毎日かどうかは不明です。
どのタイミングで参加するのもご自由です。どなたでもご参加いただけます。


ゼミマスター:渡部純