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カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

ゴールデンウィーク連夜・哲学ゼミ「パンデミックを哲学する」

2020-05-02 | 哲学系


【テーマ】ゴールデンウィーク連夜・哲学ゼミ「パンデミックを哲学する」
【日 時】2020年5月2日(土)〜5月6日(祝・水)
    20:00~21:30 
  第一夜 アガンベン「感染」

  第二夜 森千香子×小島祥美「感染症と排外主義」

  第三夜 辻元「デジタル教科書は万能か?」
  
【テキスト】雑誌「現代思想」2020年5月号「感染/パンデミック」
【会 場】オンラインzoom
※ 参加ご希望の方はID・パスワードをお知らせしますので、メッセージをお送りください。


外出自粛が要請される鬱々としたGW連夜、コロナウィルスをめぐる「パンデミック」を哲学しませんか?
ゼミなのでテキストを用います。
今回のテキストは雑誌「現代思想」の2020年5月号「感染/パンデミック」や雑誌「世界」の論考(4〜6ページ程度)を読みます。皆さんの経験や考え方を底に重ねて議論しましょう。
参加ご希望の方はzoomのID・パスワードおよびテキストもPDFで送りますので、必ずメッセージを送ってください。
なお、zoomは40分ごとにアクセスが切断されますので、そのたびごとに各自で接続してください。
いちおうGW中の連夜実施する予定ですが、毎日かどうかは不明です。
どのタイミングで参加するのもご自由です。どなたでもご参加いただけます。


ゼミマスター:渡部純

【第12回エチカ福島報告①】公害事件と世代間伝達―水俣事件を第二世代はどのように考えてきたのか

2020-04-12 | 〈3.11〉系

昨夏、8月17日、エチカ福島では水俣より高倉草児・鼓子兄妹を招いてシンポジウムを開催しました。
テーマは「公害事件と世代間伝達-水俣事件を第二世代はどのように考えてきたのか」です。
このテーマには、「2011年の東電福島第一原発事故の被害を受けた我々が次世代に何をどのように継承すればよいのか」という問題意識が込められていました。
半年以上も前の記録になりましたが、その内容は全く色褪せないどころか、ますますリアリティを帯びています。
ぜひご一読ください。
前半の記事は高倉兄妹による講演内容になっています。



【ガイア水俣の歴史と高倉兄妹】
草児
まず僕らの話をさせていただきます。ガイアみなまたで働いていると言いましたが、も ともと僕の親父は千葉県茂原市出身で、若い頃に社会運動というか旅をして九州に来まし た。そのとき熊本で本田啓吉さんという水俣闘争の思想的リーダーにたまたま出会った 際、「今水俣が熱いからそこへ行ってみなさい」と言われた。そのまま水俣に居ついたの が親父でした。おふくろはまた別の理由で水俣に来たと思うのですが、詳しく聞いていま せん。とにかく流れ流れて水俣に残りました。親父は水俣に移り住んでから、水俣病患者 の川本輝夫さんと、水俣病の見えない患者さんたちをどんどん発見していって明るみにさ らしていこうという未認定患者掘り起し運動をしていました。

鼓子
未認定患者というのは、水俣病に認定されていない人々を指します。水俣病は県知事の 判断でもって認定か棄却かが決まるので、医師の診断ではありません。そもそも認定申請 制度を知らなかったり、申請すること自体に差別的な視線が注がれていた背景もあって、 側から見れば水俣病の症状があるように見えるのに、申請されていない方々が多数いまし た。父はその掘り起し運動に取り組んでいたんです。


草児
本来は国や県が未認定患者の掘り起こしをしなければいけないのですが、そのような 方々がたくさんいたというので父はその運動に取り組んでいました。さきほど主催者から 「相思社」というワードが出ましたが、正式名称は水俣病センター相思社といって 1970 年 半ばに構想されて建てられた施設です。目的の一つが、患者さんとその家族の拠りどころ にしようというものでした。

鼓子
時代的に 1970 年半ばは、水俣病第一次訴訟という大きな裁判で勝訴した患者たちがその 後どう生きていくかという問題がありました。勝訴はしたけれど、患者さんの人生はそこ で終わりではないので、地域で孤立している患者さんがどう生きていくのか。その生業や 運動の拠点としようとしたのが相思社でした。

草児
運動も続いていたので、相思社の中でも裁判を支援したり、患者さんとの共同作業とい う意味ももちろんありますがもう一つには相思社自体の運営のためにもキノコ工場をつく ったり、堆肥をつくって売ったり、長野県までリンゴを仕入れに行ってそれを配達して売 ったりだとか役割を分担していました。いろいろやっていく中で、今も残っているのが甘 夏づくりです。当時、不知火海沿岸を中心に漁師として生業を立てていた人たちが水俣病 を発症して生活できなくなっていたという経緯があるので、甘夏が熊本県下で栽培を奨励 されていたこともあり、甘夏づくりに向かう患者さんたちが出てきます。
第一次訴訟勝訴の後に、その人たちが生きがいとして何をしようかということになりま した。ランクが決められ、1600~1800 万円の補償がもらえることなったのですが、そのお 金は医療費の借金のカタなどに消えて何になるのかということになります。そのとき、運 よく甘夏があり、じゃあ陸に上がろうということになりました。出稼ぎなどで稼いだお金 で根気よく苗木を買って一本一本植えていきました。そのとき植えた苗木が今でも現役で す。その患者さんたちの甘夏づくりに対して、主に販売事務局としてかかわったのが相思 社だったのです。親父たちは相思社で仕事をし、甘夏については特に生活クラブという生 協とおつきあいが始まって販売量も増え、何とか生活ができるようになりました。甘夏をつくっている主体は患者さんたちだったので、その団体名を「水俣病患者家庭果樹同志 会」(以下「同志会」)としました。それが、いま「きばる」という名前に変わっていま す。
そのときにはまだガイアみなまたはありません。ガイアは 1990 年に出てくるのですが、 1989 年に起こった「甘夏事件」というのがきっかけになります。
当初、「同志会」をつく った際に、水俣病の被害にあった人間ができるだけ加害者にならないようなものづくりを しようというスローガンを掲げました。農薬や化成肥料が改善要素の最たるものでしたか ら、農薬はできるだけ使わないようにしよう、肥料も有機質のものを施肥しようと決め て、つくっていました。だから、農協さんとは違う流通網を立ち上げる必要があった。そ こに協力してもらったのが生活クラブ生協さんや、日本各地で甘夏を買ってくれる人々だ ったんですね。やるからには独自の基準をつくらなければいけない。たとえば酢とか焼酎 を代替資材として使って甘夏をつくるであるとか、農薬を減らしているので外観は市場の ものと異なるよ、という基準を外部に示していました。ところが1989 年にカイヨウ病がか なり流行ります。カイヨウ病とはコルク状の斑点がミカンの皮につく病気なんですけれ ど、これに加えて裏年というか生産量の少ない年だったんです。欠品がかなり見込まれた ので、相思社の甘夏部門が同志会の基準に合致しない、会員外の甘夏を手配して補填した んです。それを消費者にあらかじめ伝えておかなければいけなかったんですけれども、で きなかった。それは不義理じゃないか、水俣病の裁判支援や患者さんとものづくりをする 人間たちがいかがなものかと、ある新聞の一面に載ってしまった。その片を付けなければ いけないということで、父や母たちを含む相思社の一部メンバーが引責辞任しました。
もともと、よそから水俣に入ってきた人間ですから地元に帰る術もあったのですが、せ っかく植えてつくった甘夏があって、その甘夏をつくり続けたいという患者さんたちも数 人おられた。だからもう一度、不義理してしまったことを反省して、再スタートしたのが ガイアみなまただったんです。とはいってもその経緯については本で読むだけの知識しか ないので、本当のところを僕らが理解できているわけではありません。 はじめ 9 人のメンバーがいて、引き続き甘夏の販売を担うことになりました。ただ、「水 俣病患者家庭同志会」という名前は使えないので、「きばる」という名前に変えたわけで す。それで、資料にあるのはガイアみなまたの通信です。ガイアみなまたを立ち上げた頃 から出しているのでもう 59 号になります。そこに親父たちの思いをコラムとして載せてい ます。我々兄妹は相思社の時代に生まれ、そういった親父たちの背中を見ながら育ちまし た。

鼓子
大きくなってから気づいたんですけれど、ガイアみなまたが他の会社と異なるのは、共 同生活の場でもあるという点です。当時 5 つの家族が集まって有限会社を立ち上げたんで すけれど、貧乏なのでお昼と夕飯はみんなで食べる。子どもたちもまだ小さく、総勢 20 人 くらいで食卓を囲んでご飯を食べる日々で、車もシェアし、保育園のお迎えも親たちが交 代でしていました。

【親の水俣闘争に無関心な子どもたち】
草児
堆肥もつくっていたからか、蠅なんかが飛び回ってすごい環境だったね(笑)。 今日話すことはある意味特殊なことかもしれません。親父たちは水俣病に深くコミット してきた、そして甘夏づくりの背景にあるのは水俣病患者さんたちとの共同作業です。そ こで育ってきた我々なんですけれども、それだけのバックボーンがありながら、全然水俣 病のことを知らなかったというか、知る気がなかったというのが高校生までの生活でし た。目の前には水俣の海が広がっていましたし、僕なんかは小学生の頃からずっとその海 で泳いだりして遊んでいました。けれど、全然水俣病に興味関心がなかった。

鼓子
私も、小中高を通して水俣病に興味がなかったし、父親にそういう話を聞くこともなか った。学校の授業で、水俣病について教科書の勉強だけでなく語り部さんの苦しみや思い を聞く時間はあったのですが、チッソについてみんなで話そうとか水俣病事件について深 く考える場というのは授業の中にはなかった。当時そういう教育は受けていないと思って います。

草児
高校卒業するときも、僕は大学に行くんですけれど、大学に入りたい理由というのが水 俣を出たいからというものでした。何もない水俣から出て、早く都会へ行きたい。結局神 戸の大学に通ったんですが、僕の話をすると学部の同級生たちから「お前、水俣出身なん だぁ。水俣出身なら水俣病のことを教えてくれよ」と聞かれます。でも、全然知らないか ら、「本でも読んでおけよ」と言いながら、僕は隠れて図書館でこそっと本を読むんです よ。色川大吉さんの『水俣の啓示』という本とか。無茶苦茶おもしろいなと思いました。 だから、僕は大学の図書館で初めて水俣病と出会ったわけです。風景としては、さきほど 言ったように、水俣の海は目の前にあったし、親父たちが甘夏を売っていたし、水俣病の 患者さん、特に胎児性の患者さんたちがガイアの事務所に遊びにきてくれていたので、一 緒にご飯を食べたりなんかしていたんですけれども、それはよくも悪くも日常風景の一部 だったので、彼らが水俣病患者だということをまったく意識しないんですよ。○○さんっ ていう個別の名前でしか認識していなくって、胎児性の患者さんとしては認識していな い。今考えると、そこは不思議なところなんですけれど。

鼓子
私の場合は、ちょうど私が大学に入学した 2006 年以降、明治大学や和光大学で水俣展が 開かれていたので、水俣を外に行ってようやく知りました。水俣ってこんなに注目されて いて、こんな立派な展示があって、土本さんのドキュメンタリー映画もそこで初めて見る という。外に出てようやく注目されていることを知って、勉強しなければいけないなって いう気持ちになりました。2006 年は水俣病公式確認から 50 年でもあったので大々的に水 俣が報じられているのを見て、水俣出身なのに知らないのはまずいなと思いレポートを書 いたりしましたが、そこで止まっています。それ以上発展させようという気持ちはなかっ たです。

草児
僕も図書館で本を読んだといいましたが、詳しい学術書をたくさん読んだわけではな く、ミーハーなんです。緒方正人さんの「チッソは私であった」なんて、カッケーなぁっ て思ったりして。今思えば恥ずかしい限りですが、そういう表面的なところでしか触れて いなかった。

鼓子
展示を見に行くと、知っている人がいっぱい写っているんです。ふだん自分の周りにい る人たちがメディアに写って、写真に切り取られているときのカッコよさ。こういう人と 知り合いなんだなぁと思いましたが、それ以上深くは考えませんでした。

草児
大学卒業後、僕はとある生協に入りまして、一年間コールセンターに配属されたのです が、その窓口業務に耐えられるほどできた人間ではなかった。次の年には、仙台で冷凍食 品の営業を 10 か月したんですけれど、そこでぐうの音をあげてリタイアをし、そのまま水俣に帰って来たんです。まったく胸の張れる帰り方ではなかったんです。ほうほうの体で 逃げ帰って、たまたま親父たちがまだ甘夏をやっていたから、働かせてくださいというこ とでギリギリ働かせてもらえたんです。他にどこに再就職するとか考えなくて。そのとき 自分はどこにも適応できない弱い人間だと、すごい思いながら逃げ帰ったので、何も考え ず実家に戻ったというのが正直なところです。

鼓子
私の場合は大学卒業して東京で就職したんですけれど、じつは就職活動をする前にガイ アみなまたに入ろうとしました。農業に興味があったので、農地もあって甘夏も植えてあ るガイアは魅力的でした。水俣病のことを何かということは一切頭にはないんですけれ ど、親がやってきた甘夏の仕事を継ぎたいという単純な気持ちで、就職活動する前にガイ アで働きたいんだと父に相談したところ、「やめてくれ。お前が帰ってくる場所はない」 と言われました。父は私が外で働くことを望んでいたし、大学も必ず卒業して、それから 広い世界を見て来いと。もしガイアに戻って来たいと思っても、一回違うところに就職し てからにしろと言われていたので、一度農業法人に就職しました。が、兄と同じで、私も 東京での暮らしが合わなかったので水俣に帰りました。でも、私が水俣に帰って水俣病を 伝えるんだとか、そういうキラキラしたことはまったくなくて、居心地のいいホームに帰 りたいという気持ちが強かったんです。

草児
ここが重要だと思うのですが、親父は帰ってくるなと言うんですよ。一回飲んでいると きに、「ここはちょっときついぞ」と言われたことがありました。

鼓子
水俣病のことも、何で私たちに伝えてくれなかったのかなと、大人になってから思って いて。

草児
僕らは知ろうともしなかったんですけれど、親父は逆に自分がやっていることを伝える 気があまりなかった。

鼓子
なぜだったのかと聞いたら、自分が話すと偏るからと言われました。被害者の立場に立 って、裁判も一緒に闘っている人間の言葉を子どもに聞かせると間違いなく自分の方に寄 ってしまうから、そうではなくて自分で学んで判断してほしかったと。「君たちが聞かな い限りは、何かを伝えようとは思わなかったし、興味があるならば答えようと思っていた けど、聞かれることもなかったから」と言われました。

草児
でも、「闘う人」というのは滲み出てましたけどね。親父に電話がかかってきたときの ことです。最初親父も礼儀正しいのですが、いきなり「もう知らん!」と言ってガンと電 話を切って、「塩まいとけ!」と言うんです。激しいんです。だから、この人は闘ってい るんだというのは、言わなくてもわかる。小学校の頃ですけど、何かの会議から帰って来 るなり、「うわー!!!」と叫んで畳をドンドン叩き出すんです。すごく鬱憤がたまって いるんだ、というのは傍目に見てわかるんです。

鼓子
裁判や交渉などで父がメディアに取り上げられ、テレビに出てくるんですけど、何で父が出てるのかわからないのと、水俣病にかかわっていることをあまり友達に知られたくな いので、次の日に学校で友達から「お父さん出てたね」と言われても、「へぇ~」と流し ていました。あまり自分も深く知ろうと思わなかったですし、恥ずかしいと思っていまし た。父が水俣病にかかわっている人として出ることが嫌でした。

草児
結局、今ガイアみなまたで働いているんですけれども、帰って来た当初は特にそれぞれ 何も考えていなかったのが正直なところです。ところが、年を経ていっぱしの大人として 扱われるようになると、水俣の見え方というか、かかわり方が少しずつ変わってきます。 一つは地域にかかわる共同作業とか、町おこしの中で地域にかかわるようになると、ガイ アみなまたという評価がもろに出てくるんですよ。ガイアみなまたというと、くり返しま すが、元々は相思社で働いていた人間がやっている会社です。じゃあ、相思社で何をやっ ていたんだというと、患者さんの支援をしています。語り継ぐという作業をやっています と。
 そこで、ちょっとうがった見方をすると、色がついてしまう。「あぁ、高倉さんの息 子さんね」というのはある種のレッテルなのかなと思って、最初は変に反発もしていまし た。そういう風に見られると嫌でも意識せざるを得なくなる。親父がやってきたことは何 なんだろう、ガイアみなまたが今やっていることって何なんだろう。ガイアみなまたで働 くことで私たちができることって何なんだろう、と次は自分のレベルで考えるようにな る。 水俣って今、「再生」、「環境創造」とか明るい方へ明るい方へ向かっている。それはと ても大切なことなんですけれど、それと「水俣病事件が解決した」ということとは、ちょ っと違う。何でもそうだと思いますが、過去の事実、失敗や衝突や努力の積み重ねが土壌 として重なり合って、その上に未来が花咲く。
 だから過去と現在、そして未来は簡単に切 り離すことができないんですよね。そんなきれいに花は咲かないよ、と。そこに違和感が あって、だからせめて「いや、今もむっちゃ大変なんですけど何とか前に歩いていこうと みんなギリギリ頑張ってるんですよ」みたいな、地に足がついたところのもどかしさを伝 えたいという思いもあります。一度、環境省主催の講演会が東京であって、僕らパネリス トで招かれたんですけど、「あばぁこんね」という団体による町おこしのような事例を報 告した時に、最後のまとめで「若い人がこんな風に未来に向かっていろんなことをしよう としている。水俣ってすばらしいですね」みたいなまとめを、当時の環境省の事務次官が まとめようとしたので、僕が思わず「まだそんなんじゃないと思います」と言ってお茶を 濁してしまったことがありました。全然、すばらしいことができているとも思っていなか ったので。とにかく自発的ではないんです。周りから、外的要素から自分を考えるように なったんですよ。

鼓子
私は 2016 年にガイアで働きはじめ、「きばる」をやっているけれど、そもそも「きば る」の生産者 27 軒の人たちがどういう人たちかなのか知らなかったんですよ。ずっと父た ちの代からお世話になっていて、その甘夏の売り上げのおかげで私たちは生きてこられた のに、どういう人たちがつくっていて、どういう気持ちでやってきたのかまったくわから なかった。
 だから、兄と一緒に話を聞かせてくださいと聞き取りにまわったんです。その ときに、女島という地区に住んでいる緒方幸子さんから「あんたたちのお父さんたちが運 動してくれたおかげで今があるとよ」って言われて、凄くびっくりしました。「高倉さん の名前聞いて、ここで感謝せんもんはおらんよ」って。お世辞もあるんだろうけど、それ でも本当にうれしかったです。やっぱりどこかで私は父たちがやっていることを恥ずかし いと思っていて、やってきたことはあまり地域で受け入れられていないし、相思社やガイ アみなまたという存在がよそ者の集まりで、水俣を混乱させているという見方をされてい るんじゃないかと、ずっと思ってきたので。
 60 代以上の方々からは直接そのようなニュアンスで言われることもあって、相思社とい うだけで「ああ、あの相思社ね…」みたいな。そういう気持ちもあって、自分も父母がや っていることを評価できていなかったので、あらためて「来てくれてよかった」と言って もらえたことがうれしくて、そのときからようやく私は父たちがやってきたことを知らな いといけないなと思って、私の場合はそこからぐっと水俣病事件とは何だったんだろう と、勉強し始めました。

【沖縄・高江の座り込みから学ぶ】
鼓子 
  同じ時期に私は沖縄の高江に行ってきました。Facebook や Twitter でちょうどそのと き、沖縄の高江にヘリパッドがつくられていることを知りました。政府が工事を強行する 中で住民が反対しているんだけれど、140 人しかいない小さな集落に機動隊が 500 人以上 投入されていました。高江に行って自分もびっくりしたんですけれど、肌で感じることが 多かった。
父母たちがやってきたことは、私とか次の世代が苦しい思いをしないようにとか、もっ とみんなが住みよい水俣にしたいという気持ちからなるものなのかなということを、高江 に住む人の話を聞きながら思いました。運動とか闘争と呼ばれているけれども、人間が幸 せに生きるためにはどうすればいいのか、尊厳を守るってどういうことなのかといった根 源的な問いを、一生懸命考えた上での行動が座り込みなどの住民運動なんだと。父の場 合、裁判闘争が主だったのですが、裁判というシステム上で闘わざるを得なかった苦労に 思いを馳せることが、ようやくできるようになりました。だから、兄と違うなと思うの は、兄は一歩引いて水俣病事件を見ていて、私は一歩前に出てるんだよね。

【水俣の記憶と世代間伝達】
草児
兄妹でバランスを取っているのかもしれない。やっぱり伝えるということは大事だと思 っていて、この 10 年が何もしなければ水俣という言葉が少しずつ消えていくだろうなとい うことをひりひりと感じています。記憶としても事実としても消えていくというか。水俣 病事件というのはいろんな記憶の集合体なんですよね。甘夏ミカンを通して水俣を生きて きた人もいれば、かわらず漁をしてきた人もいるし、裁判をしてきた人もいるし、チッソ という側から見てきた人たちもいる。いろんな糸が寄せ合って一つのものを織りなしてい ると考えると、我々はその一つの記憶でしかないんですけれど、格好つけていえば、小さ な物語を伝えることの意義というものを今すごく考えています。
 じゃあ、それを伝えたと ころで実際に何の効果があるかはわからないんですが、2,3 人ふり返ってもらえればいい かな、と。その伝えるということをどうすればいいか。 生まれ故郷で暮らしていると、いわゆる親父サイドではないその他大勢の方々とふれあ う機会がたくさんあります。その中で、「お前の親父が水俣に入ってきたことで大変だっ た」と、実際に面と向かって言われたこともあります。でも、今考えてみると、その人に もそういう発言をするだけの理由があるんですよ。悲しいつらい過去を経験していて。だ から、親父たちを責めることが第一義にあるのではなく、「この思いをどうしたらいいの か」みたいなのがあって、どこにも言うところがないから、とりあえず目の前の人に言う みたいなところがあるんじゃないかと思います。
 だから、それは甘んじて受け入れたい。 もともとケンカすることができない性質なのですが、ガイアの兄妹間の役割で言えば、妹 がすごい突き進んでやってくれているところがあるので、僕は逆にあまり突っ込まない。 この間も市議会の傍聴とかに行ってたよね。今度どうなんだっけ?公害が消えるんだっ け?

鼓子
水俣市議会の特別委員会に公害環境対策特別員会というのがあるんですけれど、そこに 「公害」という名前がついていると、未だに公害が発生していると思われたり、水俣に企 業を誘致する際にマイナスイメージになる可能性があるから外しましょうという議案が出 されて、可決されてしまったんです。環境問題として取り扱えばいいじゃないかとなった んですね。

草児
じゃあ僕も妹とこういう活動を一緒にやるかとなると、ヘタすればガイア自体が全部そ れになってしまう。そうなると、その他大勢の人の理解を得られないなと思って。これは 戦略的に卑怯だと思われるかもしれないけれど、僕はその他大勢の人たちと関係を保つ役 になろうと何年か前から意識しています。とにかく、ガイアみなまたというのは、めちゃ くちゃうまい甘夏を売る団体であります。そして、その甘夏からめちゃくちゃうまいマー マレードをつくる団体であります、というところを目指したい。このあいだ、愛媛県八幡 浜市でマーマレードアワードという審査会があり、日本中のマーマレードを集めて品評会 をしようじゃないかということになりました。もともとイギリスでやっているんですが、 その日本版です。そこに出品したら、ハイ!銀賞いただきました(拍手)。ある種の正当 な評価を得るということを僕はすごく意識しています。評価を得たからと言って、何か役 に立つわけでもなく、売り上げにつながるかどうかはまた別の話ですが、そのことによっ て一部の人たちが僕らの存在を知ってくれるというのは、僕らにとってかなりのメリット だと思っています。その銀賞を取ったガイアみなまたが、こんな変なことをしているとい う文脈の方がわかりやすいと思っているのです。

鼓子
兄はこう言っていますが、私は違います。私は変なことをしていると思っていないんで すよ。たしかに、父たちがやってきたことは左翼運動、言ってしまえば過激派と見られて いたので、私の中にもそれに対する偏見があったんですよ。運動やっている人というのを どこかで切り離したい気持ちがあったから、ちょっとかかわりたくないというか、あまり 評価ができていなかったんです。 でも、やっぱり高江に行ってみてわかったのですが、座り込みをやっている人たちって 本当に普通の人たちです。そこで暮らしている住民が別に運動をやりたくて住んでいたわ けではないのに、いきなり自分たちの住んでいる環境にヘリパッドができてどうしようと なった。でも、運動とかやったことないから、とりあえず座り込むことで抵抗の意思を示 そうという方法をとるわけですよ。
 父たちも運動がやりたくて水俣に来たわけでもない し、たまたま水俣に来て、水俣が気に入って、患者さんと出会ってしまったから、この人 たちを置いてどこかに行く気持ちにはなれなかったという、人間のつきあいで住んでい る。運動がすべてではないということがわかったんです。 だから私は変なことをやっているわけではないんだということを、高江に行ってわかった んです。 高江や、沖縄の基地反対運動している方々に向けられるネット上の批判は、かつて父た ちが言われていたことに似ています。だからこそ、権力に立ち向かっている人たちに対す る偏見を自分が持つのはおかしいなと思いました。私が高江に行くと水俣の知り合いのお じさんに話したときも、「日当 2 万円、出っとやろ」と言われました。おじさんはネットや っているように見えないのに、なぜ日当の話をするんだろうと頭を抱えました。アカが集 まっているとかものすごい偏見を持っている。沖縄の宿に泊まったときも日当が出るって 話は言われて、そういう偏見、わかってもらえなさ、お金のためにやっていると思われる くやしさを感じた。
 でも、高江で学んだのは、住民の人たちは伝え方をものすごく研究しているということ でした。偏見の目で見られること、SNS で発信すると炎上してしまうようなことをどう工 夫して伝えるか、共感を持って注目してもらうためにどうすればよいかを考えて実践して いる石原さんというご夫婦に会うことができて。二人は座り込みの現場で、夫婦で笑顔で 写真を撮って、それを SNS で「僕たちの笑顔は権力に奪わせません」と発信して、「いつで も愛とユーモアを」とずっと言っているんですよ。傍から見ると、緊迫した状況でそんな こと言っていて大丈夫?って思われるかもしれないけれど、でも否定されることではない じゃないですか。愛とユーモアなんてみんなに必要なことだから。だから、水俣に関して 伝えるときも、正しさとか信念を伝えるだけよりも、そこに愛とユーモアを添えることで 伝わりやすさが増すのではないかと。父母の運動に偏見を持っていた人たちにも理解して もらえる言葉がつくれるんじゃないかなと、今私は意識しています。
  本当に一番知ってもらいたいのは、水俣で一緒に生きている人たちです。水俣外の人た ちの方がフラットに見てくれるので、市議会が「公害」という名称を外す決定をするなん てあり得ないと言ってくれるんですけど、水俣のほとんどの人は「別にどうでもいいんじ ゃない」と言うでしょう。他にも水俣病の名称変更についての議論がまた復活したりして いて、水俣病という名前のせいで差別を受けている、その言葉を子どもたちの世代に残し ていいのかどうか議論したいと言っている方もいる。それはもっともなんだけれど、その 言い方では水俣病患者が悪いようにも聞こえてしまう。一方的ではない対話ができないか なと考えています。福島は対話の機会を多く設けられていると思うんですけど、水俣でも 同じようにできないかなということを考えています。兄は優しい人なので、センシティブ な議論はしたくないタイプなんですが、私は議論はしたいのです。

草児
親父たちが話す言葉と僕らが話す言葉の使い方は、全然違います。前提として、親父た ちが経験してきたことを僕たちは自分のことのように話してはならないと思っているんで す。たとえば、ガイアみなまたのテーマには「母なる大地にありがとう」というのがある んですよ。これはおそらく母の実感から出てきた言葉であると思うのですが、僕らは僕ら 自身の言葉を発しなければいけない。いろいろなところで何回かお話をさせていただく機 会がありましたが、完全に借り物の言葉なんですよ。僕の口から出てくる言葉は。そのと きに感じる無力感。この言葉は絶対 10 年もたない。僕自身がこんなことをしゃべっていた ら空虚なんですよ。僕のリアリティというのは、今は甘夏ミカンなんです。甘夏ミカンが 目の前にあってそれを箱に詰めて人に売るっていう。その甘夏ミカンが実は甘夏を通して 水俣を生きてきた人たちの軌跡につながっているので、それを自分の中でどう咀嚼して、 自分の生活実感を伴った言葉に変えていくかというのが課題なんです。だから、今日も話 しながら「あぁこれ、あの人の言葉だ」というのが出てくる。いろんな本をつまみ食いし ているから、いろんな人の言葉が出てくるんですけれど、そこから 8 割くらいの言葉を差 っ引いて残ったのが僕の言葉という感じなんですね。そこが忸怩たる思いなのですが。

鼓子
私は今回のテーマになっている、次の世代に伝えることは意識しています。それは自分 が小中高校を通して、まともな水俣病教育を受けた記憶がないからというか、水俣病につ いて全然話せなかったんですよね。知識として社会科の教科書で学び、目の前で患者さん が語りその話を聞くんだけれども、何がどうして水俣病事件がこうなってしまったのかを 考えるとか、みんながどう思っているのか話す場が一切なかった。(その授業を実践する ことは)すごく難しかったと、かつて小学校の先生をやっていた方に聞いたことがありま す。それは、私の生まれ育った地区が水俣病患者の多発地域だったことが関係していま す。患者家族が同じ教室の中にいたのと同時に、親御さんがチッソで働いている子どもも いるので、とてもデリケートな話題になります。そこで先生がチッソの加害性について話すと、子どもがどう思うか。親御さんがどう思うか。そのことを考えると話せることがも のすごく限られたと言っていました。水俣病教育に関しては一律にこういう話をしましょ うというものがなく、各教員に任されていたようです。その先生のアプローチは水俣病に 関する詩とか歌といった表現を通して子どもたちに伝える、それを構成詩という形で発表 させる。そういう形での伝え方はあったけれど、事件性を問うとか、みんなでディスカッ ションをしようということもなかったので、友達がどう考えているのかとか、まったく知 らない。そういう環境が水俣病に興味を持てない私をつくったと思うので、じゃあ今、自 分が次世代の子どもたちに残せるものは何なのかを考えています。何か指針じゃないけれ ど、「お守り」のようなものがあったらいいと思っていて、そのきっかけになるような一 冊の本をチッソの人たちも一緒に、みんなで話し合ってつくれないかなと考えています。 それはやっぱり自分が知らなかったということがあまりにも悔しかったというのが、大 人になって気づいたことなので、大人になった自分がやれること、責任を果たすことがで きるとすれば、子どもたちが水俣で生きていく上で知っておいてほしいことを一つ提示で きればいいのかなと思います。 水俣病のことを大人になってから勉強し始めたときに衝撃を受けたことがあります。
 昔 の資料って名前とか住所がそのままに載っているんですよ。そこに友達のおじいちゃんと かおばあちゃんとか、おじさん、おばさんの名前が出てきて、患者のいる家も地図で黒丸 の印がついていて、それ見ると友達の家だとわかるんです。そういう資料を通して、で も、私たち、そういう話を一度もしたことがなかったから、知らなかったなぁというのが すごく悔しかったし、友達に対して無神経なことを言ったかもしれないと、そのとき思っ たんですね。私は親族が水俣にはいないので、一歩引いて見れるんだけれど、自分の家族 が水俣病だったりとか、おじいちゃんおばあちゃんが水俣病で苦しんでいる友達がどうい う気持ちでいたのかなぁと知らなかったのは申し訳なかったなぁと思って、それはどうし ようもないんですけれど、知ったからにはできることをやりたいなというのは…やっぱり 知っておいた方がよかったんじゃないかなぁって。
 タブーだったからできなかったんだと 思うけれども、大人がタブーにしてしまったことが、子どもたちが何も知らずに育つ土壌 をつくったし、それによって偏見とかも生まれてしまう。大人たちがですね、患者派チッ ソ派っていう風に分かれて交わることがなかった時代があったので、それによって私自身 チッソ派に対して偏見もあったし、チッソ側にとっては私たちの父たちは本当に余計なこ とをする敵だったと思うし、そこを大人が頑張って交われることをつくっていけば、家庭 の中でももっと水俣病の話ができたのかもしれないけれど。でもそれができなかったこと は仕方がなかったというのも、事件史を読み返すとわかるんですよね。 1995 年に政治解決という区切りがつきますけど、そこまでは常に裁判で争っているの で、損害賠償の問題ですから下手なことは言えないし、ひざをつき合わせて話すなんての は無理だったと思います。政治解決がよかったとは思いませんが、それでも、それ以降よ うやく話せるという土壌ができてきたということは、改めて次の世代に…ア、何言いたい んだろう。

草児
つまり、鼓子が言いたいことは 1995 年以降、補助線がたくさん引けるようになったとい うことだと思うんです。水俣病って裁判闘争の物語を中心に、たとえば第一次訴訟から関 西訴訟が終わるまでという一本の流れがあったりするんですが、その中で 95 年以降、堰を 切ったように私はこうだった、私もこうだった、私の親父はこうでね、こういうことがあ ってねという物語が出てきた。ポール・オースターという作家が、アメリカに暮らすいわ ゆる一般市民に何でもないような個々人の物語を募ったら、それが「ナショナルストーリ ープロジェクト」という一冊の本になったという話があるんです。それと同じで、どこぞ の誰々が話をするようになったんですね。今度はそれを誰が聞いてくれるのかという問題 なんです。補助線が次々できてきた、物語が一つではなくなった。これはものすごいことなんですよ。
 理解が深まるとかそういうことではなしに、物事がそんなに単純じゃないん だよということが明らかになるんです。水俣病事件もいい人/悪い人、敵/味方と分けら れがちです。でも、それは補助線によって解消されることもあるんじゃないかと思うんで すが、それは水俣では、今はまだできない。 僕は長丁場で考えていて、それは鼓子と意見が違うんですけど、僕があと 30 年生きられ たら 65 歳です。そうしたらですね、地域内でも発言できる機会が少し増えてくる。それで 情勢が少し変わるんじゃないか。
 そのときまで、これが一番大変ですけれど、65 歳になる まで今の志を持ち続けられれば、水俣に新しい補助線を引ける可能性も出てくるんじゃな いか。ただ、今はもう本当にたくさん出てきているので、この話を誰かが聞かなければ… どんどん消えていく泡のようなもので、誰かが掬い取らないと話は潰えていきます。僕ら が聞き取れるのは、甘夏生産者の話だけです。25 人の話で精一杯です。でも、あと何人か いれば 100 人、200 人の話が聞ける。それは別に本にしなくてもいいんです。それを自分 の血肉にして、自分の言葉で語りなおせばいいんですよ。 それをこの 5 年、10 年でやっていかないといけない。死というものは意外と身近にある というか、話を聞く前に亡くなられてしまってものすごく後悔したという経験もあるんで す。いつ聞くのって、今なんですよね。そのチャンスが今、水俣はめぐってきています。 これはかなり希望であると思います。
 一方でまだ混とんとしているのは変わらないのです が、その中で僕らにとっては、ガイアみなまたというところにマーマレードという商品が あることがほんとうに幸いです。マーマレードを軸にして商売をしていくことができる。 商売は余剰を生み出していくものですが、その余剰というのは金に変えたり時間に変えた り、いろいろな方法があります。たとえば、妹のように活動する時間に充てたらどうか。 資本は、本来は蓄積したり設備投資に充てたりするものですが、あえて別の使い方にして しまう。そうすると変に滞らないというか、滞る前に使ってしまえというのを、妹がやっ てくれていると思っています。 そういう意味もあって、僕としては商売というものに乗せて、商売ベースの話し方にな っていないといけない。それでマーマレードがある。マーマレードというのは、水俣病患 者さんとのおつきあいであるとか、ずっと甘夏を買ってくれていた尾崎英里さんという人 がつくり方をわざわざ教えに来てくれたことから始まっています。では、このマーマレー ドを地域の人がどう見てくれているのか、気になります。だから、銀賞を取ったことはよ かったと思うし、あるとき水俣に住む友人が「いい商品つくってるじゃん」とふだん言わ ないことを言ってくれたことがあって、「あっ、見てくれているんだ」と思ったんです。 そういう話ができたことが最近一番うれしかったことです。あと、ガイアみなまたは農薬 散布を減らした作物なんかを売っている、だからここで扱ってほしいと、ある農家さんか らからこっちにコミットしてくれたということも最近あって、これもうれしいことです。 とにかくこういうことを軸にしていくと、現地でぶれずにやっていけるかなと思います。

鼓子
福島で話すことを考えたとき、私は何かの役に立ちたいけれど、何の役に立てるのだろ うかと考えました。福島の方も水俣にたくさん来られて、水俣に学ぶということをずっと 8 年間やっておられるんだろうなと思うんですけれど、私たちは第二世代と言われますけ ど、その自覚もなかったし、特に何ができるかわかっていないし、伝えるって何だろうっ て、伝えたいけど自分の言葉が何なのかもわかっていない。たとえば、自分が水俣病の話 をしたり顔でしたところで、あの時代を経験してきた先輩方がどう見ているかなと思う と、怖すぎる。だけど話したい、だけど伝えたいという思いがある。 その中で、水俣病事件というと悲惨なんだけれども、そこでも人は生きていて、水俣を 離れずに暮らしていて、魚をずっと食べているんですよね。魚が大好きで、今でもおいし く食べています。そういう自分の生まれ育った土地への愛とか、海への信頼とか、そうい ったことを自分の体験とともに話すことしかできないなと思います。
 それは福島の方々も、似たところがあるのではないでしょうか。 水俣病事件といえば劇症型の患者さんがブルブル手を震わせて狂ったように死んでいく 姿とか、黒い御旗が上がって裁判でチッソの社長にみんなで詰め寄る姿とか、そういった 映像が思い浮かびますし、実際にあったことです。でも、それだけが水俣ではない。水俣 病公式確認当時から 63 年経った今も私たちがもがいて何とか生きていますということを、 どうやったら伝えられるかなということを考えながら生きています。 最後に、私たちが一緒に働いている生産者グループ「きばる」の会長さんで緒方茂実さ んという方の言葉を紹介させてください。茂実さんは妹さんが胎児性の患者さんで、弟さ んも患者さん、おじいさんも劇症型で亡くなられてますし、お父さんも原因不明で亡くな っています。お母さんも水俣病。親族のほとんどが水俣病の被害を受けてます。もともと 漁師だったのに、小学校 6 年生のときにお父さんを亡くされて、生業が成り立たなくなっ て甘夏生産へ転換した人なんです。 ちょうど 3 年前に、福島の原発事故を受けて水俣病事件を経験した人がどう考えるかと いうインタビューを「きばる」で受けたことがあるんですが、私も同席させてもらって、 茂実さんは何を語るのかなと思って聞いていたんです。そのとき、インタビュアーの方が 「水俣病事件によって茂実さんが奪われたものは何でしょうか?」と聞いたんですね。そ の瞬間、茂実さんが固まって、言葉を失われてから、「奪われたものはたくさんあるな ぁ」と言って、「数えきれない。けれど、生まれたものもあって、それがきばるです」と おっしゃってくれて…。 自分のおじいちゃんが狂って亡くなって、お父さんもある日突然、漁から帰って来たそ の日に亡くなって、そういう大切な人の死、しかも彼らには何の落ち度もない。そのとき は原因がわからずに…苦しかったと思うんです。そこから見出した希望と言っていいと思 うんですが、絶望の中にも希望はあるということを茂実さんは教えてくださった。しか も、それが彼にとっては「きばる」だとはっきり言ってくださったことが、私はとてもう れしくて、茂実さんの思いを継いでいきたい。
 だから、「きばる」は 40 年は続けると思っ ています(いや 100 年でしょ〔草児のつっこみ〕) 。今、皆さんは福島で暮らしていて、エ チカ福島も 7 年続けてこられて、言葉にする、考える作業をずっと続けられていることは すごいことだと思っています。復興という旗印のもとに無理やり言葉を引き出されたりと か、ポジティブな言葉を求められたりとか、本当につらいことだと思うんですね。事故が 収束もしていないし総括もできるような年月ではないのに、それを求められるのは本当に 大変だなと思って、その中で考えるということをやっておられるエチカ福島というのが、 私は希望だろうなと思うし、逆に水俣にも輸入できないかなというか、水俣でも立場が異 なっても相手を非難するのではなく話を聞く、対話をする場というものがつくれたら最高 で、水俣では今はないので…以前はあったんですけれど。

草児
ですから、対話の場というのはクローズさせるというよりは、結果を出せないままでも 100 年続けた方がいいんじゃないか。それが水俣ではできていないのかもしれないです。 どこかで結果を求めて、終わらせている節がある。

鼓子
あるいはリーダーが変わってしまって終わらざるを得なかったということもあると思う んだけれど、そこを継続してやっていくということだし、必ずしも正解は一つじゃないん だなということをみんなが言い続けることはとても大事なことだと思いました。

『82年生まれ、キム・ジヨン』を語る会

2020-03-21 | 文学系


【テーマ】チョ・ナムジュ著『82年生まれ、キム・ジヨン』を語る
【日 時】2020年4月11日(土) 
    17:00〜19:00 読書会
 ※事前に各自で本書を読んでくることを前提に話し合いをします。
【参加方法の変更について】
コロナウィルス問題の深刻化に伴い、オンラインzoomでの実施に変更します。どなたでも参加できます。参加ご希望の方はメッセージをください。参加方法をお伝えします。

【参加費】 なし
【開催趣旨】

 韓国で社会現象を巻き起こしたミリオンセラー小説『82年生まれ、キム・ジヨン』。
33歳の主婦の半生を通じ、韓国の女性なら誰もが経験するような男女の不平等や苦悩を描いたこの作品は、日本語版も発売1カ月で5万部を突破し、韓国文学としては異例の売れ行きをみせている。儒教文化の強い彼の国の男性優位を描いた本書が、日本社会でも大きな反響を巻き起こしている背景には何があるのか?
 2019年日本のジェンダーギャップ(男女平等)指数は、過去最低の国際ランキング121位を記録しましたが、女性がこの国で生きることの難しさは、この数値で示される以上の現実があります。
 今回は本書を読みながら、私たちの日常に見られる女性の生き難さを語り合える機会にしたいと思います。

【あらすじ】(好書好日参照)
 主人公のキム・ジヨンは33歳の主婦。3歳年上の夫と1歳になる娘とソウル郊外で暮らしている。1982年生まれの韓国の女性で最も多い名前はジヨンとされ、主人公もどこにでもいそうな女性だ。ジヨンは誕生から学生時代、就職、結婚、出産に至るまで様々な女性差別に苦しみながらも必死に生きてきた。しかし、ある日、通りすがりの男性から侮辱されたことで精神に異変をきたし、精神科病院に通い始める。物語は、彼女が病院で話した半生を聞き取って記したカルテという形式で進んでいく。

【新型コロナウィルス感染症の対応について】
オンラインでの実施方法に変更しました。


第14回エチカ福島開催中止のお知らせ

2020-02-29 | 映画系

大変残念ながら、この度のコロナウィルス問題の影響を鑑みまして、3月14日にフォーラム福島にて開催予定でしたエチカ福島開催中止をお知らせ致します。
長時間にわたる映画上映とトークイベントは、健康面で配慮せざるを得ないと判断いたしました。
ゲストにお招きする予定だった映画『水になった村』の大西暢夫監督をはじめ、上映にご協力いただいたフォーラム福島様には多大なるご尽力をいただきましたが、このような結果となってしまいましたこと、誠に残念というほかありません


なお、映画自体は予定通りフォーラム福島にて上映されます。
故郷を失う意味を考える上で、たいへん貴重で興味深い映画です。
是非ご覧にただければ幸いです。
いずれ、エチカ福島ではこのテーマを追求するとともに、何かの形でで再度大西監督を招くチャンスを考えたいと思います。
引き続きよろしくお願い申し上げます

第14回エチカ福島開催趣意書

2020-02-17 | 〈3.11〉系


来たる3月14日(土)にフォーラム福島にて開催される第14回エチカ福島を企画した荒川さんからの趣意書です。
多くのみなさまのご参加をお待ちしています。


私がこの映画に出会ったのは、2年前。南会津の只見町です。
その頃、仕事の都合で只見町で生活しておりました。
その只見の有志の方々が、大西監督を招いてこの映画の自主上映会を開催したのです。
人口わずか4500人、超高齢化率46%の町で80人ほどの人が集まりました。
驚くべき人数です。
ご承知の通り、只見町には昭和30年代に国策として造られた田子倉ダムという巨大なダムがあります。ダムの下には田子倉集落が沈みました。
私は、この映画を観て、“村がダムに沈む”とはどういうことなのかストンと腑に落ちたように思いました。
その只見町の方々がどのような思いで自主上映を企画したのか改めて聞いてみたいところですが、 とにかく、この映画を見た私は、福島でも上映したいと強く思いました。
この映画は、私たちが考えていかなければならない問題と深く関わっていると感じたからです。
「エチカ福島」は、これまで震災・原発事故以降の私たちの倫理(エチカ)を考えてきました。
今回で14回目を数えます。
これでには、フクシマに生活するものとして原発事故をどう捉えどう生きていけば良いのかを考えていくと同時に、エネルギーの問題や地方の在り方などもテーマとしてきました。
「水になった村」は、これまで私たちが考えてきたことを更に深いところから見つめ直し、これから考えていかなければいけないことを示唆してくれているように思います。
上映後、大西監督のお話を伺いながら、それぞれが思いや考えを巡らせ、紡ぎ合うことができたらと思います。
当初は自主上映会を考えていたところ、支配人のご快諾を頂きましてフォーラム福島での上映となりました。フォーラム福島に改めて感謝申し上げます。

第14回エチカ福島開催のご案内

2020-02-05 | 〈3.11〉系


【テーマ】映画「水になった村」
【ゲスト】大西暢夫 監督
【日 時】2020年3月14日(土)
     上映 13:30~15:45
     大西監督とのダイアローグ 16:00~    
【会 場】フォーラム福島
【チケット】前売り券1,100円・当日券1,800円 販売はフォーラム福島にて
【開催趣旨】

貯水量が国内最大の岐阜県揖斐川の徳山壇で、水をためる試験湛水が始まって一年。
旧徳山村の廃村後いったん離れた故郷に戻り、湛水直前まで元の生活をつづけたお年寄りたちの姿を追った写真家大西暢夫さんのドキュメンタリー映画「水になった村」がフォーラム福島にて上映されます。
今回のエチカ福島では、本作品の上映後に大西監督と会場とのダイアローグを行います。
これまでエチカ福島では〈3.11〉後の福島の〈倫理〉を問い続けてきてきましたが、そのなかで奥会津の「過疎」問題や国策としての〈電力〉政策に翻弄された「福島」の問題を扱ってきました。
国策によって〈故郷〉を奪われる/手放すことの意味は、原発事故によって土地を奪われた住民のみならず、その政策を受け入れてきた「福島」の人間にとって避けては通れない問題です。
この問題を考える上で大西監督の「水になった村」は大きな手がかりを与えてくれるはずです。
ぜひ、映画鑑賞後に大西監督といっしょにこの問題を語り考え合いましょう。


中村晋『むずかしい平凡』を読む会・まとめ

2020-02-02 | 文学系


今回はブック&カフェ・コトウさんのご協力を得て、中村晋さんの第一句集『むずかしい平凡』の読書会を開催しました。
参加者は13名。
前半は中村さんによる詩と俳句の特徴・関連性、そして俳諧から現代俳句への歴史的展開の解説をいただきました。
その俳句の歴史的源流がどのように中村さんの俳句に結びついているのか、とても腑に落ちる内容に感銘を受けました。
これはこれでものすごくおもしろい講義内容だったのですが、以下では、後半部分で参加者による『むずかしい平凡』をめぐる議論を再録しました。
とても充実した、内容の濃い時間だったことを合わせて報告しておきます。


【会場】自由律俳句が何を目指しているのかがよくわからないのですが。中学校の頃から国語の教科書を読んでいてよくわからなかったからよくとまどっていました。こういう視点で見るといいんじゃないかなどアドバイスありますか?

【中村】たぶん、前衛にしても自由律俳句にしても、捉えがたい人間の内面にこだわっているんだと思います。自分のこのモヤモヤしたものにこだわっているんじゃないかな。自由律俳句は他の人と共有しようというよりも、わからなくてもいいから自分を出したいというところがあるんじゃないか。自分に正直に書いているということですかね。でも、本当に一番奥底にあるものを出そうと思うと形を破ってしまうものだし、今までの形にはまらないものが出てきてしまう。そういう内的な欲求に忠実なのが自由律俳句なんだと思う。

【会場】俳句は外国人にとって楽しもうとすると難しいし、翻訳不可能なものだと思っていたら、ジョン・レノンやスクルノベリというノーベル賞をとった文学者は俳句を好んでいたと聞きます。先ほどのお話でもフランス人が小林一茶を好むというように、外国人にも俳句がわかるんだなと思ったのですが、外国の俳壇と日本の俳壇の交流はあるのでしょうか?

【中村】多少はあるみたいですけどね。例えばビート派の詩人は結構俳句に影響を受けています。アレン・ギンズバーグは句集をつくっているし、ゲイリー・スナイダーもアメリカで英語俳句を広げています。

【会場】日本の俳壇はその外国の動きをどうみているのか?

【中村】伝統的な俳句は外国人にはわからないかもしれないけれど、一茶の句は季語とか関係なく生き物そのものを描いているから外国人でも受ける。だから、金子兜太は外国でも受けるらしいんですね。被爆後の長崎を描いている「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」という句は、ドイツ人がものすごく感動するらしいですね。文化の依存性に関わりない場合には外国でも受けるみたいですね。

【会場】外国での翻訳の段階で韻律はどうなりますか?

【中村】韻律は消えちゃうでしょうね。多少は向こうのことばの韻律を意識して翻訳するみたいだけれど、やっぱりどうしても韻律は消えちゃうよね。だから、俳句でノーベル文学賞は難しいといわれているのはそういうことですよね。金子兜太もちょっとは候補に名前が挙がっていたらしいんだけれど、いかんせん翻訳が少ないからね。

【会場】「アウシュヴィッツは人フクシマはりんご」という句はどういう思いで書かれたのですか?

【中村】直接的な背景は、クリーンセンターにごみを捨てに行ったときに、その周りがリンゴ畑だったんです。リンゴがその時はたくさんできすぎたみたいで、売りようもないし誰も食べないし、ということでものすごい山になっていた。一月の末ってアウシュヴィッツの解放記念日ですが、たまたまその時期だったのかな。自分もごみを捨てている。なんというか、福島ではリンゴを埋め、アウシュヴィッツでは人を埋めているし、理屈では説明できないけれど、ふとつながったのかな。いのちを殺戮しているという切ないなという思いがあったんじゃないかな。
【会場】タイトルにひかれて参加しました。「蠅」という言葉が何かの象徴なのかなと思いつつ、どういう意味があったのですか?

【中村】どんな印象を受けました?

【会場】蠅はいてほしくない存在ですが、でもしょうがない。だから赦してしまうような存在なのかな。

【中村】「蠅」というのが身近になったのは震災の一年目。「被曝者であること蠅を逃がすこと」。この句が僕を蠅に惹きつけた句なんですよ。あの年の夏って暑いんだけど、もう窓を開けるのもすごくこわいというか、躊躇するような感じでした。そんな部屋に蠅が来て、叩いて殺してしまえばいいんだけど、なんか切ないなぁと思ったんです。なんか被曝した自分たちと蠅が同じ存在に見えたんですよ。とりあえず逃がしてやるよって国から言われ、外に行けばつまはじきにされる。今もコロナウィルスで武漢から来た人に対する偏見があるけれど、あれと同じような存在の自分たちがいて、その自分たちが蠅を嫌っている。生き物の哀れさに対する思いや感じたことが蠅に対する思いを深めたというところです。

【会場】平仮名の「ふくしま」とカタカナの「フクシマ」がありますが、音にすると同じになります。俳句は目で見るものを意識するのでしょうか?音なのでしょうか?

【中村】視覚はけっこう大事かなと思いますね。漢字をどう使うかとか。自分でいいなと思っても文字に縦書きにして書くといまいち立ち姿が悪いなぁというのはありますよね。パッと書いた時のイメージがあるし、俳人それぞれそういう美意識ってあるんじゃないかな。これが外国語に訳されるといいなと思いますけど。ただ、それは外国語になると全然別のものになりますね。あまり日本の文化にとらわれた句ではなく、生き物そのものをちゃんと引き出したような句であれば伝わるなじゃないかなとは思いますけどね。

【会場】字面という点で言うと「滝仰ぐ日本語の死は縦に縦に」という句がありますが、これは風景ではなく完全に文字の世界のことを書いてますよね。そういう見方をするんだ、写真といっしょでビジュアルなんだとものすごく納得しました。

【中村】日本語は縦に縦に、滝も上から下に流れる。自分の内面の動きと実際に目に見える光景が重なり合っているという読み方ですね。

【会場】ビジュアル的にすごくわかりやすかったのは39頁の「船の上に船を重ねてひばりかな」、61頁の「除染土の山も山なり眠りおり」。僕は仕事で南相馬鹿島まで働いていたものですからこれはわかりやすかったのですが、「滝」の句はこれもビジュアルなのか!ととても新鮮でした。

【会場】84頁の「揃いも揃って上向く蛇口夏休み」を読むと夏休みの子どもたちの様子がいいなぁと、今だからこそとても印象的だなと思いました。

【中村】これはそうですよね。震災前の割と素朴な明るい光景を詠めていた時期ですよね。

【会場】「夜学」というのが実は秋の季語だということを初めて知りました。

【中村】そうですよね。でもあまり「夜学」を季語として意識はしていないんですよ。だって、夜学は四六時中あるしね。秋だと捉えなくても通じるじゃないですか。あくまで便宜的なものです。「トマトだから夏です」という思考停止的に季語を使うんじゃなくて、句をつくるときにはトマトのつやつやした感じとか生き生きした、これをどうやって書くかと煮詰めるところが大事になってきます。

【会場】この本の最初の第一句が地球とか割と広い印象を受けるんですけれど、第二句目が自分にとって大事なことを詠まれていて、この並びがものすごくおもしろいなと思いました。句の並べ方も考えられていると思うので、この句を最初にもってこられたのは何かあるんですか?

【中村】気持ちよくスタートしたいというのはありますよね。第二章の「春の牛」でかなり重いのが来るので、最初の第一章は気持ちよくスタートして、気持ちよく読んでもらって、第二章でガクーンと重いものを出して騙し討ちをする(笑)。最初から重いと絶対手に取ってくれないんじゃないかなと思って。

【会場】実は僕は詩が好きで、いわゆる現代詩をちょこちょこ書いているのですが、3.11の経験だとか被曝だとか原発のことだとかを書き始めると、自分でも読みたくなくなるような散文になってしまい、読みたくも読ませたくもなくなっちゃう。その視点から読むと、俳句ってふっと感じていることを出して、あとは他の人に預けるっていうのがイイなと思いました。現代詩としてなかなか表現しきれないものを、制約の中で言い切るのもいいなぁ。何か書きたいとか表現したいという瞬間を書き留める。さきほどのアウシュヴィッツの詩で「リンゴ」を「牛」とはしようとは思わなかったですか?牛だと暗くなっちゃうけど、リンゴだとそこまで重くならずしみじみと考える表現の工夫になっていると思いますが。

【中村】やっぱり物ですよね。まず牛だと季語にならないというのもあるし。やっぱり、リンゴというところに福島の象徴があると思うし、リンゴということで野原とかリンゴ畑とか空間も見えてくるし。偶然だとは思うけれど、実際に見たのがリンゴだったということもあります。

【会場】「春の牛」は震災に関わる句とは言っていましたが、それ以降のものなので知らず知らず震災ことがふっと出てしまいますよね。味わいがあの震災を経験したことで。蠅を慈しむような感情などが続いていますし。

【中村】ちょっとした動作とか動きのなかにそれなりに自分の心の動きもあるのですが、それを深めてあーだこーだ書くと散文になってしまう。でも、俳句はその動作そのものを「もの」として映像としてポンと差し出す。で、差し出された方はそれをそのまま読み取ることになる。だから、差出し方そのものに工夫は要るし、どういう視点で差し出せばいいかなということに関しては、言葉がなかなか出てこなかったこともあるんですが、きっかけになったのは「春の牛空気を食べて被曝した」という句です。それが出たときに、あ、これだったらいけるかなと思ったんですね。この句が出たときにノートに書き留めたんだけれど、その晩、夢に金子兜太が出てきて「こんなの俳句じゃねぇんだ」って怒られて僕があやまっているんですよ。で、目覚めてやっぱりだめかなと思ったんだけれど、朝日新聞に投稿してみたら採用されたんですね。これでいけるかなという自信になりました。理屈ではなく感性に届くように、軽く柔らかく言葉を使っていくことが大事になってくるなと思います。

【会場】僕がこの句集のなかで、特に印象に残った句を眺めてみると「時間」というものに関わっています。たとえば、「末枯れや未来とは今のことでした」という句は、まさに原発事故はいつか起きるのかもしれないけれど、自分が生きているうちには起こらないだろうという迂闊な自分が、その出来事をまのあたりにしたときに経験した直感と重なりました。つまり、未来が現在に出来(しゅったい)してしまったという不思議な感覚です。それから、これは3.11前の句なのでしょうが、「母の無知を許し敗戦日を憎む」という句が、「第二の敗戦」といわれた原発事故と重なって、僕らの世代がここでいう「母」になるのだろうかと想像しました。つまり、ここでは過去に見た母の姿が現在の自分たちに重なるし、母を「許し」敗戦日を「憎む」主体が子どもたちの世代、未来の世代だとしたら、僕らの世代はそのように詠われるのかな、と。そして、「ひとりひとりフクシマを負い卒業す」という句には、「フクシマ」という重荷を教え子に背負わせて未来へ送り出してしまう、なすすべのなさと負い目を感じました。そして、これらはどれも僕自身が経験したからこそ、深く印象に残った言葉だったのです。つまり、現在という地点に過去や未来が交差しつつ、入り乱れる感じがして、中村さんの時間的な位置っていうのがどこにあるのかなという思いをしました。

【中村】自分の句をそういう捉えかたしたことなかったから、凄く新鮮ですね(笑)やっぱり、震災前のその頃から日本社会のあり方っていうのはおかしいなと思っていたんですよね。母親は政治のこと関心ないんですよ。それなりに戦後を体験してきたんだけれど、苦労してきたはずなのに、戦後の歩みに問題があったという意識はないんだよね。まじめにやっていればいいんだよ、と。僕自身が戦後の歩みはおかしいよな、それを体現していない社会はおかしいよなと思っていたんだけれど、ま、母親は無知だからしょうがねえよなって。でも、そうさせてしまったのはこの「敗戦日」。「終戦」ではなく「敗戦」という言葉にこだわっているんだけれど、この日があったっていうことが我々にとってはすごい負の遺産を背負っていかなければならないんだというのが震災前からずっとあった。それに関連すると、定時制の生徒を見ても、「夜学子離郷す日本語拙き母は喚き」(130頁)の句。お母さんがフィリピンの方で息子は日本語が堪能なんだけれど、自分の話す日本語の言葉では気持ちが母に伝わらないんですよ。お母さんは日本語わからないし、子どもはタガログ語を話せないし、微妙な感情の襞が伝わらない。そのうち家を出てしまう。話を聞くとバブル期に日本に来たお母さんは好景気の犠牲者だった。それが息子の犠牲にもつながっていく。そういうのを目の当たりにすると、日本の発展というのはいったい何なんだろうなと思うことが多かった。だから、「敗戦日」という言葉は、日本の民主主義国家としての歩みをどこか踏み間違えてきたその象徴なんじゃないかという思いがずっとあったんだと思う。

【会場】罪を憎んで人を憎まずというのかなぁ。「一人の仮設に百も柿を干す祖母を許す」という句にもそれが現れていて、原発事故を引き起こした社会にばかやろうと叫びつつ、でもそこに生きる人々の生を肯定している中村さんの愛を感じる。

【中村】矛盾を抱えているじゃないですか。矛盾そのものを短いけれどそこにボンと出しちゃう。そういう方法もある。

【会場】時間感覚で言うと、「東北は青い胸板更衣」という句ではぱっと縄文人が思い浮かんだんですね。縄文人がぐっと胸を張っているイメージ。ものすごい悠久の時間の流れを感じました。

【中村】それはすごいうれしい感想ですね。この句はいろんな人から代表句なんじゃないと言われます。

【会場】何か日本列島っぽいイメージもしたんですけれど。

【中村】そうそう。日本列島の三陸のイメージも併せている。東北の緑は深いですよね。その深さが胸板の厚さと重なっている。

【会場】東北の誇りというかアイデンティティがここにあって、そこに縄文人のイメージとつながったんです。

【中村】うれしいですね。縄文人のアニミズムとか僕は大好きなんですよ。そう受け取ってもらえると嬉しいですね。

【会場】これが代表句だとしたら、この句集のタイトルは「青い胸板」になるんじゃない?なぜ「むずかしい平凡」だったのかな?

【中村】「青い胸板」は震災前の句なんですよ。やっぱり震災の後との対比ということを、俳句を長くやってきたなかで出したかった。

【会場】「むずかしい平凡」っていうのは、あの直後子どもたちがよく言っていた「当たり前のことが当たり前じゃなかった」ことが思い出された。それでいて、日常生活に安らかなありがたみがあるんだけれど、それが案外難しいみたいな。

【中村】いつも厳しい妻も「タイトルはよかったんじゃない」といってくれました(笑)。

【会場】私がこの本を最初に手にとったきっかけは表紙のアリンコの絵だったんです。なぜアリだったのでしょうか?

【中村】この句集をつくるときに完全な自費出版で、全部自費出版にしたんですけれど、そのときにシンプルながら統一感のあるもので印象をつけるものがあった方がいいなと思ったときに、この「蟻と蟻ごっつんこする光かな」という句が思いついて、それで蟻がページを一枚めくると近づいてごっつんこする漫画みたいなものを自分でデザインした。そうすると見た目でだませるんじゃないかなと(笑)。これもお金かけないで百円ショップで消しゴムハンコを大きく掘ってそれをパソコンでスキャナで取り込んで、位置を微妙に変えながら印刷していく。カネがない故の工夫です(笑)。

【会場】大好きな句がいっぱいありました。皆さんは理性の方で読んでいるんだなと驚いた。私は90%感性で俳句や短歌を詠むので、あまり躓かずに読み進められるんです。「春の牛」のところでは一瞬で涙が出る体験をさせてくれるのが俳句なんですよね。一瞬で感情が出てくる。

【中村】それはやっぱり韻律の力だと思いますね。五七五というリズムがなにか身体に訴えかける。どこか日本人の、日本語を使う人たちのどこかにすごく響いているんじゃないかなぁ。

【会場】短歌を書いていた時期がありました。解説のどこかに俳句をつくるのは修行であると書かれていましたが、表現したいことはいっぱいあるんだけれど、自分の表現を韻律のなかで削らなければいけませんよね。本当は散文のように言いたいこともあえて形にはめて言う。苦行を経るとそういう力は出るのでしょうか?

【中村】俳句って大したことのない思いや発見はこの短い形式が弾き飛ばすんですよ。形にならないんじゃなくて、俳句がかたちにしてくれない。俳句が拒んでいるんだなって思ってる。だから、新しい言葉なんかも俳句の作品になってはじめてものになるという感じかな。レジュメにあった「万緑のなかや吾子の歯もはえそむる」という句はは、あの句ができてはじめて「万緑」が季語になったんです。結局、自分が思ったことを俳句の形になったら俳句が認めてくれたと思っています。

【会場】最後に「フリージアのけっこうむずかしい平凡」を書いた背景を教えて下さい。

【中村】フリージアはすごく香りもいいし、楚々とした目立たない花ですが、ちゃんとその存在感がある。フリージアをじっと見ていると、こういう平凡さで花がたたずんでいるのっていいなぁって思う。でもこういう風なたたずまいで存在するって結構難しいなぁっていう、そんな感覚。フリージア感覚。でも、別にそんな大した句ではない(笑)。タイトルにするにはよかったよね(笑)。

実に面白い充実した内容の議論でした。
中村さんの句はまだまだこうした議論を継続できるような気がしました。
今回、このような会が実現できたのはコトウさんのご理解とご協力があってこそです。
中村さん、コトウさんにはあらためて御礼申し上げます。また引き続きよろしくお願いいたしますm(__)m(文:渡部純)


中村晋『むずかしい平凡』を読む会

2020-01-22 | 文学系
          
【テーマ】中村晋『むずかしい平凡』を読む会
【ゲスト】中村晋さん
【日 時】2020年2月1日(土)17:00~19:00    
【会 場】Book&cafeコトウ(福島市宮下町18-30)
【定員・申込】 定員10名・要申込(参加希望者はメッセージをください)満員御礼につき募集を締め切らせていただきます。
【参加費】700円(ドリンク代込)
【書籍販売】1,400円(Book&cafeコトウ、西沢書店うさぎ屋にて販売しています。各自ご購入の上でご参加ください)
【共催】Book&cafeコトウ
【開催趣旨】

 中村晋さんは高校教師をされながら1995年より俳句を作り始め、2005年福島県文学賞俳句部門正賞受賞後、俳誌『海程』(金子兜太主宰)に入会、2009年海程新人賞、2013年海程会賞、2017年海程賞を受賞された俳人です。
 『むずかしい平凡』は中村さんの第一句集であり 、身のまわりの日常を詠んだ句を中心に、教え子たちを詠んだ句や3.11に翻弄された日々を詠んだ句などが詠まれています。
 今回、カフェロゴはBook&cafeコトウさんとの共催により、中村さんをゲストにお招きして、現代俳句の読み方をお話いただきながら、参加者の皆さんと『むずかしい平凡』について読み、語り合いたいと思います。
 募集定員がわずかですので、参加申し込みはお早めにお願いします。

なお、以下は中村さんを紹介した河北新報の記事です。ご参照ください。

「原発事故で翻弄された日常表現 保原高の教員中村さんが句集出版」(河北新報2019年12月15日)
 福島市在住の俳人中村晋さん(52)が、初めての句集「むずかしい平凡」を自費出版した。東京電力福島第1原発事故で翻弄(ほんろう)され続ける福島の日常を、生活者の視点に立って17文字で表現した。「原発事故とは何だったのかを振り返るきっかけにしたい」と話す。

 中村さんは保原高(伊達市)定時制課程の教員。俳句を始めた1995年ごろは自分の身の回りを詠んだ句が多かったが、福島市内の高校の定時制教員になった2004年ごろから作風が変化。さまざまな事情を抱える夜学生の境遇といった社会に目を向けた作品が増えた。
 東日本大震災後は、原発事故によって甚大な被害を受けた福島県の被災状況を詠んでいる。「むずかしい平凡」に収めた259句の中には、原発事故後の思いをつづった58句が含まれる。

 春の牛空気を食べて被曝(ひばく)した

 福島第1原発20キロ圏内で飼われていた家畜の牛は圏外へ運び出されずに被ばくし、多くが餓死したか殺処分された。中村さんは「残された牛の切なさ、酪農家のやるせなさをストレートに表現した」と言う。
 作った11年5月は事故後の混乱で創作意欲を失っていた。ある朝、目が覚めて思いついたという句は、師匠の金子兜太(とうた)の作品<猪(しし)がきて空気を食べる春の峠>がモチーフになった。「この句がポンと浮かんで、これからも俳句ができると思った」

 蟻(あり)光るよ被曝の土を埋めし土も

 除染土を埋めた自宅の敷地で、アリが動いているのを見て詠んだ。中村さんの句には「蟻」「蠅(はえ)」といった小さな生き物が多く登場する。「多くの命が失われた震災を経て小さな命を慈しむ思いが強くなった。原発事故に翻弄される人間がハエのような小さな存在に思えるようにもなった」と語る。
 句集のタイトル「むずかしい平凡」は、震災で当たり前の暮らしを続けることがいかに難しいかを実感して付けた。同時に感じるのは、行政による復興が効率優先で進められているのではないかという疑問。経済的な豊かさを最優先に復興を加速させた戦後日本の復興とも重なるという。
 中村さんは「戦後の日本は復興を進めるあまり人間性が置き去りになった」と強調。「句集を通して一度立ち止まり、本当の震災復興とは何かを問い直してほしい」と話す。
 四六判161ページ、1540円。出版元は「BONEKO BOOKS」。連絡先はメールでbonekobooks@gmail.com




哲学カフェ・〈生まれない権利〉を考える・まとめ

2020-01-14 | 哲学系


ペンとノートを会場に哲学カフェ: <生まれない権利を考える>が開催されました。
17名の参加者に恵まれ、活発な議論が展開されました。

まず、ファシリテーターの方から「生まれない権利」についての説明と、欧米の訴訟事例、そして<生まれない権利>の争点について、
①存在自体が損害になっている(当人にとって)
②苦痛を負って出生させられたこと自体についての損害
③十分な情報を原告の親にあたえていなかったことをもって医師の加害行為とみなす
の3点を挙げた上で、「生まれない権利を認めるべきか?認めないべきか?」
という議論点が提示されました。
以下は、参加者による議論の箇条書きを参考にまとめたものです。


Aさん:ファシリテーターがこの問題を取り上げた動機を教えてほしい。

ファシリテーター:出生前診断における「優生思想」に関心があったが、〈生まれない権利〉は本人自体が訴訟を起こしていることに衝撃を受けた。しかし、この権利は不可能ではないか?いっぽうで、司法で認められ始めている現実と、ベネターの『生まれない方が良かった』を読んで、問題関心が再燃した。

Bさん:当人が訴えているが、これは死ぬことができる権利でもあるのか?

Cさん:イコールではないと思う。死ぬ権利は安楽死、自殺の権利であって〈生まれない権利〉とは異なる。

Dさん:「生まれる/生まれない」は本人が選択できない点において、自殺の権利とは異なる。生まれたしまった後で、生まれない権利を主張するのは矛盾している。

Cさん:「生まれてしまった」という権利のこと。

Eさん:遡れないことに対して保障できるのか?「権利」と呼んでいいのか。仏教によればこの世は苦しみに満ちている。かといって、急いで死ぬことではないという思想。良くない状態で生まれる、というのはありがちなことではないか。

Fさん:「権利」にひっかかる。自分の生を否定する=つらい、痛いことをネガティブに捉えられてしまうことの問題では。「権利」という言葉を使わざるを得ないことの社会的な問題であり、そう思う必要のない社会であればよい。

ファシリテーター:「障害を苦として言われないような社会を作りましょう」というのはよく言われまていますね。

Gさん:訴訟して、何をほしかった??お金で解決なんですかね?

Cさん:損害を償って欲しい。責任をとって欲しい。「請求できる権利」がある。「中絶」もできるはずなのに!なんで僕は生まれてしまったんだ・・・という訴え。

Gさん:医療費に関わる訴訟?惨めな生に対する訴訟?

Dさん:そもそも「訴える権利」ということは、「苦しみ」を周りの人に認めて欲しいのか?

ファシリテーター:生まれる・生まれないは自己決定できることではないのに、権利を主張できるのか?

Hさん:自己決定はできないけど、親がやるべき「中絶」をさせなかった。親の責任が問われる??

ファシリテーター:確かに親を訴えるケースも可能性としては生じてくる。インドでは「生まれたことに同意していない」訴訟が起きている。・・・訴えられたらどうしますか??

Eさん:めんどくせえ…って感じ。

Fさん:スピリチュアルでは、子供は完璧な計画のもとに、完璧な親を選ぶ。

ファシリテーター:その仮説によれば 「自己責任」という話になりますね(笑)

Iさん:生まれる前には当人には分からないはず。そう考えるに至った流れも問題では?ー環境、親、教育…どこまで、本人は本気なのかが、読み切れない。お金のため?

Jさん:生まれた時点では、そのような思考になっていないはず。「生まれる・生まれない」ではなく、ちゃんとした教育を受けられなかった問題

ファシリテーター:結果的に自分が問題ということになりますね

Kさん:生の価値、生きていることの価値・無価値をどう捉えるのか?現代社会の歪み。生に対して上下をつける考え方が出てきているのでは?

ファシリテーター:本人は「生きるに値しない」と言っている。であれば、この権利を主張していい?

Fさん:裁判をおこした、という意味では周囲にとって価値ある命なのではないか。

Dさん:ちょっと間違えると相模原事件につながる。

ファシリテーター:たしかに相模原事件は優生思想の投影だったけれど、あれは植松被告という他者が障害者に対して『生きるに値しない生』と価値づけた事件。しかし、〈生まれない権利〉は当人が自らの生を「生きるに値しない生」と価値づけてしまっている点が大きな違い。これを当人が認めてしまうと、相模原事件を批判する境界が崩れていってしまう恐れはないか。障害者本人が自らを生きるに値しないというなら、権利として認めるべきか?

Gさん:なぜ主張したいんだろう?承認?福利、福祉は得なければいけないけど。

ファシリテーター:「生まれない権利=死ぬ権利」ではない。そもそも、溯って「生まれたこと」をなかったことにするわけにはいかないけれど、「生まれてしまったこと」への苦痛を訴えている。これは持続する生きるに値しない生への苦痛を訴えるものであって、だからといって「死ぬこと」を求めているわけではない。

Eさん:関係者に謝って欲しいだけ?

ファシリテーター:何に対して謝って欲しいのか?

Gさん:謝って欲しいのは傲慢ではないか?生きたくないけど、死にたくない。金を得て何がしたいの?ひっかかるのは、「生」を生きたくない、ということなのか?

ファシリテーター:生きたくないけど、死にたいというわけではない。

Gさん:お金って現世のものじゃないですか。どう使いたいのか。     

Cさん:あくまでも、生きている現実の訴え。自分は「不幸」である、と言いたい。

Aさん:<生まれない権利>の裁判の妥当性は?訴えられるのは親?医者?行政?どういう点が「不幸」だから訴えたいのか。国によって、権利の捉え方が違う。
   
ファシリテーター:もともとは<生まれない権利>という裁判ではなかった。医師の判断ミスに対する医療過誤事件の訴訟。。

Kさん:生命に対して、どこまで人は介入できるのか。中絶はしていい??現在はさらにひどくなっている。

Aさん:生まれることを否定することで、存在を認めて欲しい。要は「生きたい」。 YesーNoでは括れない。「無」な状態。

Cさん:アイデンティティの一部として「生まれない方がよかった」と。

Fさん:障害があるとしても、そこには親の「産みたい権利」・「産む権利」・「産まない権利」の3種類がある。

ファシリテーター:河合香織の『選べなかった生命』ではロングフルバース訴訟の原告母親が、「出生前診断で障害がわかっていれば中絶していた」問う訴状文面を「中絶の蓋然性が高かった」に訂正した。そこには「中絶した」と言い切れないけど、たしかにある状態=<中動態>的なものがあるのでは。

Cさん:当人は、まだ何も定められていない。

ファシリテーター:自分の生を「生きるに値しない」と、自分が判断する。

Eさん;主張するということは、本人だけの問題には止まらない。優生思想になりかねない、そのむずむずするところが法的問題とは別に気になる。

Cさん:障害者団体は反対するでしょう。

Dさん;何を得ようとしているのか。承認?選択の不自由?選択する権利を奪われた権利?

ファシリテーター:こだわりたいのは、胎児の選択権はあるのか?という点。

Eさん:選んだのは他者、引き受けたのは自分。このムカつき。

Jさん:生まれない権利として、すべての人間に認めることになる。誰でも訴えられることになるし、誰を訴える?

Aさん:〈生まれない権利〉は寅さん流に言うと「それをいっちゃおしまいよ」という問題じゃないか。

Mさん:障害を知りたいか、知りたくないかの別は難しい。はっきりした障害でなければ、分からない。同じような人が診断なしに生まれないように、他者に承認させるため。

ファシリテーター:〈生まれない権利〉は出生前診断を受けた上での問題ではある。

Nさん:海外によっては、障害だから、という理由だけで施設に閉じ込められることもある。障害者が権利を主張することは必要だろう。

Fさん:権利を主張するのは、社会に対して。スピリチュアルで、障害の人は強い魂をもつ。人間が生まれてくるのは、世界をより良くしていくため。肩書きをもって生まれる。

Cさん:障害に対して、世の中はまだ対応し切れていない。つらい人生を歩いているから、権利を主張している。似ているのは、人道の罪のように後から価値づけられていっている。「生まれない権利」というのも、振り返った中で言われている。

ファシリテーター:障害が切実ならば、それでもこの権利を認めるべきなのか?

Dさん:あくまで裁判上の権利。社会の中で、権利としては認められない。

ファシリテーター:医療過誤の問題から派生して、障害者自身が自分の生を否定する問題になってしまっている。いっぽうで、それを否定しにくいのはなぜなのか?欧米では訴訟で「権利」として認められていることの問題をどう考えるべきか。

Dさん:権利と言ってはいけない。主張していいけども、そもそも権利なのか??

Gさん:その昔、Eさんが「自分の人生を引き受け直す」ということを言っていたことを思い出した。「権利」として認めるべきではない。自分の生をどうにもできる、という考えが傲慢だと思う。

Eさん:イノセンスの主張。「おれのせいじゃない!」からこそ、引き受ける!ということがあるのではないか、ということを言った覚えがある。自分の責任ではないがゆえに、引き受けられる。〈生まれること〉には自分の責任はない、「おれのせいじゃない」。そうであるがゆえに、その生を引き受ける責任があるのではないかな、ということ。この論理はあり得なくはないのでは。

Oさん:本人が訴えられないほどの障害だとどうなのか。自分の生の判断能力がない場合、この権利はどうなる?彼らに訴える“権利”はあるのか?

Dさん:これは「いつから人間なのか」という話になる。

ファシリテーター:加藤秀一は「〈生まれない権利〉の「騙り」の危険性を射て聞いている。他者が本人のあるいは「そうであったかもしれない」可能性の存在の代弁をすることの危険性を指摘している。これは別の障害者の「騙り」につながるのでは?「可能性」だったものに「権利」を認める危険性のこと。

ファシリテーター:皆さんは「自分に責任はないがゆうえに引き受けることができる」という理論にはガッテンしますか??資料には地球温暖化をはじめ、危険な将来の世界で「子供を産みません」と主張するカナダの女子高生の記事を載せてある。そんな主張をする彼女にとって、「自分の責任ではないが故に引き受けること」は何を意味するか?

Eさん:「しゃらくさいことを言う権利」としての、「生まれない権利」。むしろ認めていこう!!ということじゃないの。

Oさん:文句を言えない、という現代社会の問題。

Gさん;今までの「しょうがない」と受け入れてきたのは、他人の人生であって、いったんは否定するけれども、そのあとで引き受けるとうことなんじゃないかな。つまり「人生を立てる」ということが、すなわち「自分に責任はないがゆえにこの制を引き受けることができる」ということじゃないか。

ファシリテーター:訴えて何が欲しかったか、というと、訴えることで「自己を立てる」ということか。

Cさん:すると、この理論は訴えることができない人に対しても、そういう権利があるんだな、と見ることにならないか?

ファシリテーター:いや、それは「騙り」ながら、他者の生を私有化するという危険性があるでしょ。

Eさん:「いったん訴えてみっかぁ!!」という文化

Cさん:アメリカにおける訴訟技術というという事情が大きく反映しているんじゃないかな。

Kさん:自分の責任の中に、他者の責任が含まれている事情がある。他者と自分は分けられるのか?という問題があるのでは。

Pさん:障害者のなかに、当事者の中に「優生思想」がある面白さ。中途失明の人間にとって差別を受ける苦しさ、差別を内面化してしまうことがある。「自分の責任ではないがゆえに葛藤の中で引き受けていく」ということは、 責任が自分ではないことを確認することでもあるが、さらに選択を迫られてしまう。けっきょく、人間は他者が用意してくれるものを待ち続けていかないといけないのか?と。

Kさん:様々な人の「属性」、しかし、アイデンティティに注意する必要がある。人の多面性・多様性を削ぎ落とすことになっている危険性に注意しなければいけない。

哲学カフェ―〈生まれない権利〉を考える

2019-12-17 | 生老病死系

【テーマ】「生まれない権利」を考える
【日 時】1月11日(土)16:30〜18:30    
【会 場】ペンとノート(福島市上町2-20 福島中央ビル2階 )
【申 込】基本的に申し込みは必要がありませんが、席数に限りがありますので、参加される場合はできるだけメッセージを下さい。
【参加費】会場費2,100円を参加者で割り勘にします。
     飲み物は各自でご購入下さい。
【カフェマスター】渡部 純
【開催趣旨】

哲学カフェを開催します。
哲学カフェはテーマについて各人の考えを述べ合いながら、対話によって思考を深める活動です。
今回のテーマは「〈生まれない権利〉を考える」です。

〈生まれない権利〉とは何か?
この言葉にはじめて目にしたのは、2000年にフランスで起きたペリシュ事件についての新聞記事です。
ペリシュ事件とは、医師が妊産婦の風疹に気付かなかったため、深刻な脳損傷を抱えて生まれた17才の少年ペリシュに賠償を受ける権利を認めた医療裁判です。
出生前診断によって障害が見つかっていれば、母親は中絶を選択していたとするペリシュは自らの出生を否定する権利を訴え、それがフランス司法において認められたのです。
さらに、その後も同様の判決が破棄院(最高裁)で下されています
もちろん、これに対しては障害者団体から強い反発が起きましたが、今日、これは障害者だけの問題に止まりません。
昨今の倫理学では、この世界に生まれ出ることそのものが反道徳的だと主張する「反出生主義」という潮流がありますが、実際にインドでは「同意なしに自分を生んだ」と両親を訴えた事例があるそうです。
〈生まれない権利〉はこの反出生主義と結びつくものですが、もし自分の子どもからこのような訴えを受けたとしたら、あなたはどのように応えるでしょうか?
この議論をめぐる資料は当日準備するつもりですが、まずはシンプルに〈生まれない権利〉の是非を身近な問題として考え合ってみましょう。