カフェロゴ Café de Logos

カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

國分功一郎×互盛央『いつもそばに本があった』を読む会

2019-05-14 | 文学系
         
【テーマ】  國分功一郎×互盛央『いつもそばに本があった』を読む会
【開催日時】 6月22日(土)15:00~18:00    
【開催場所】ペンとノート(福島市上町2-20 福島中央ビル2階)
【申し込み】 参加希望される方は必ずメッセージでお申し込みください。
【参加費】  飲み物代(各自)+会場費
【カフェマスター】島貫 真
【開催趣旨】

 あの哲学者國分功一郎の弟子を自称する島貫真氏のリードで本書を読み合います。
 どしどしご参加ください。
 
《カフェマスター島貫より》
『いつもそばには本があった。』國分功一郎・互盛央
個人的に、上半期ベスト3に入る一冊です。
二人と一緒に本を語り合えるような楽しさに溢れた本に仕上がっていることも驚き。この著者だからこそ、の真っ当さを感じます。
極端なことをいえば、本の中身なんて読んでみなければ分からないものです。でも、本を読むことで変容していく主体のことに興味を抱かない本好きはいないはず。その本と向き合うことによる「変容」や「発見」の(特に、答えよりも問いを発見するという)プロセスを、これほど率直に書いている本というのはあまりないのじゃないでしょうか。
この本の効能は
1、ここ25年ぐらいの人文系のテーマを見通すことができる。
2,従って、人文系「本」好きの40代以上の人には文句なしにお勧め。
3,読書体験が、ただ本を読むというだけのことではなく、時代の流行とか、人との出会いとか、もちろん未知の書籍との必然的な出会いとか、本に対する愛着や敬意、その本を読むことによって初めて見えてくる景色の変化とか、さまざまに豊かな側面をもっていることを改めて感じさせてくれる。
4,本の中身についてほとんど直接紹介はされていないのに、ちょっとその本について読んでみようかな、という「誘惑」の力がある。
5,読書体験というものの持つ意味を、お二人と共有できる。
6,二人の対談でも往復書簡でもない、本についての話を互いにしていくことによって著者自身が互いに触発されていくリアルタイムのわくわくがある。それは「連歌」的あるいは「観念連合」的と本文中でも言われているけれど、そのライブ感覚の醍醐味を味わえる。
といくらでも挙げられますが、とにかく人文(思想・哲学・文学)系に興味がある人は必読、といっていい本だと思います。
個人的に直接さわったことのない本も数十冊ありましたが、それはむしろ新たな「誘い」として読めました。ぜひこの機会に一緒に読んでみませんか。

「風が吹くとき」を読む会・まとめ

2018-09-17 | 文学系
  

『風が吹くとき』という絵本は、今回のカフェマスター・宮川綾香さんから教えてもらいはじめて知りました。
その後、色々調べると映画化もされており、さっそくアマゾンで購入。
このアニメ映画の日本語版キャストが凄い。
監修は大島渚。主人公の夫ジムの声は森繁久彌、妻ヒルダの声は加藤治子。
音楽をピンク・フロイドのロジャー・ウォーター、主題歌をデヴィッド・ボウイが担当しています。

あらすじはこう。
老夫婦のジムとヒルダは、イギリスの片田舎で年金生活をおくっていた。しかし、世界情勢は日に日に悪化の一途をたどっていく。ある日、戦争が勃発したことを知ったジムとヒルダは、政府が発行したパンフレットに従い、保存食の用意やシェルターの作成といった準備を始める。
そして突然、ラジオから3分後に核ミサイルが飛来すると告げられる。命からがらシェルターに逃げ込んだジムとヒルダは爆発の被害をかろうじて避けられたが、互いに励まし合いながらも放射線によって蝕まれ、次第に衰弱していく。 (wikipedhia)

とにかく暗い絵本・映画。
今回はカフェ宮川で映画を視聴してから始めたが、そのストーリーはどうしようもなく救いがない。
「互いに励まし合いながらも放射線によって蝕まれ、次第に衰弱していく」二人は、聖書の祈りを唱えながら死を迎えるであろうところでストーリーが終わります。
その最後のコマは本「600万の兵士…死地に…」というセリフで幕をとじるのですが、この言葉の意味が分かりませんでした。
よくよく「あとがき」を読むとテニソンの詩「軽騎兵の突撃」の断片であることが記されていました
この詩はクリミア戦争の際に、イギリスの軽装備旅団600人が、彼らに下された命令の愚かさを承知でロシアの砲兵隊に切り込み、ほとんど全滅したことを詠った愛国的な詩であるといいます。
しかも、明治期には日本でも訳されて流行したそうです。
そして、なぜ、その詩の断片がストーリーの最後を締めくくったのかは、一読すれば腑に落ちます。


すなわち、田舎に住む老夫婦は仲睦まじく過ごしてきたのでしょう。
夫ジムは国際情勢を大いに語り、核戦争の恐ろしさを説く一方、妻ヒルダはその渦中にあっても家の中の整理など日常の秩序が壊れないことの方に気を揉みます。
いかにも男性と女性の関心の違いが描かれていますが、そのなかでジムの愚直なまでに政府を信用しているさまが印象的でした。
政府発行の「戦争に生き残るための手引き」など、そのマニュアルを忠実に守るジム。
そして、水爆投下後、被ばくによって身体が壊れていくさなかにも、すぐに政府の救援部隊が来ることを不安がる妻に語りかけながら励ますジム。
その姿は滑稽なまでに楽観的なのですが、作者のブリッグスは、彼の姿をクリミア戦争で犠牲にされた軽騎兵と重ねたのではなかったでしょうか。

マスターの宮川絢香さんは、今回の趣旨をこう書いています。

「私が『風が吹くとき』を初めて読んだのは小学校2~3年生の頃。
もちろんその時は知識など皆無でしたが、それでもこの本を『怖い(恐い)』と感じた記憶があります。
その後、1999年のJCO臨界事故を経て、現職に就いた初任校で東日本大震災を経験しました。
私の人生で放射線被爆について強く考えさせる機会が3回あったことになります。
 東日本大震災の際、いわき市四倉の実家にて水素爆発のテレビ中継を見た私は、母親と死別の覚悟で別れるときにこの本を思い出しました。
無事に生きて再会し、平和に過ごしている今もあの時の情景と共にこの本が浮かびます。
 初任校での出会いにより、この場にいる幸運を手にしたのも何かの縁と思い、人生経験や知識を伴って今、もう一度『風が吹くとき』を読んでみたい。また、多くの人にこの本を読んでいただき、何を感じるか・どう思うかを聞いてみたいと思います。」


当時、ワタクシと同僚だったマスターとは、ともにあの原発事故直後の過酷な時期をともにした戦友です。
しかし、今回、この本をめぐって語っていただいた原発事故被災の経験談には私自身が知らない事実を語られたことに驚かされるとともに、あらためて被災をめぐる葛藤の個別性と多様性を思い知らされました。

「母親との死別の覚悟で別れるとき」とは強烈な言葉です。
彼女が実家に戻っていたときに原発が水素爆発を起こした際、母上は「ここには二度と戻れないから、お前が連れてったくれ」と祖父母を託されながら、ご自身は職場に戻る選択をしたそうです。
そのとき、マスターは「こんなときくらい、家族をとってもいいじゃないか」と思いながら想起したのが本書の次のシーンでした。



この、急性被ばくの症状が出だしたジムの明るく歌う姿は痛々しい以上の恐ろしさを読み手に与えますが、マスターは「自分の母もこうなるのかもしれない」との不安を覚えたことをはっきり記憶しているといいます。
幸い、こうしたことになることはなかったわけですが、あのとき、多くの人が同じ思いに駆られたのではなかったでしょうか。
そして、別れ際、母上には「お前は一人で生きていけるから」といわれたそうです。
以来、家族同士で連絡した最後の言葉は「生きてもう一回会おう」だったそうです。

二度と会えないかもしれないという切迫感。
まさに、ジムとヒルダが直面した出来事がリアルに経験されたことに外なりません。
その根底には、小学生の時に読んだ本書の読書経験があったということはとても印象的です。
マスターは理系の教員です。
JCO事故で亡くなられた方の凄まじい死を知るにつけ、急性被ばくによる死がどうしようもないことを認識しつつも、放射線に関する基礎資料を提示しつつ、科学的に被ばくの曲解を避けようという姿勢で語ります。
しかし、印象的なのは、科学的評価と自身の思いの振れ幅です。
いや、そのときは落ち着いて被ばくの科学的理解を深められなかったから動揺したのだ、とおっしゃるかもしれません。
それでも、ワタクシには科学的客観的評価ができれば動揺しなかったという論理とは別に、幼いころに読んだ文学の力が妄想に働いたということではないと考えています。
科学的に正しく理解すれば不安を覚えないというのは、伊藤浩志氏の『復興ストレス』によって批判されています。
むしろ、今回の読書会から出だされるのは、人文の力を妄想と切り捨てるのではなく、別の仕方で人間が思考や判断に与える可能性があることをもっと真剣に考えなければいけないのではないか、ということです。

実は、福島市が高線量に汚染された原発事故直後、ワタクシは意を決して当時の校長に全職員避難民の即時避難を進言しに行ったことがあります。
ただ、当時は異常な恐怖心を抱いていたために自分自身が狂っているのかもしれないと思い、まずは二人の若い同僚に進言する内容がおかしくないかを確認してから校長室に乗り込もうとしました。
そのときに相談した一人がマスターでした。
お二人とも異論はないというので、「じゃ、これから校長室へ行ってくる」と踵を返すと、意外なことにお二人が一緒に乗り込むと言い出しました。
その時の記憶を想い起すと、ワタクシが被ばくの危険性を校長に説いたとき、彼はまだピンときていない様子でしたが、顔色を変えたのはマスターが涙とともに訴え出た瞬間でした。
その時の内容も覚えていますが、その背景にマスターの上述の葛藤があったことは、7年を経て初めて知りました。
おそらく、ストレートにはたがいに語り合えなかったのかもしれませんが、この本を媒介に7年越しでマスターの当時の思いや経験を聴くことができたのは、ワタクシにとって忘れがたい時間となりました。

その後、マスターは素敵なおつれあいと出会い、このカフェ宮川でこうした機会を与えてくれました。
今回のお話の衝撃は個人的には大きいものであり、時間をおいてあらためて議論したいことです。
ほんとうは、マスター夫妻が準備して下さった素敵なディナーを堪能しながら、その続きを議論しようといったのですが、あまりに料理が素晴らしすぎて、すっかり楽しい饗宴になってしまいました。


こうした機会を意欲的に設けて下さった絢香マスターにはもちろん、とおるシェフには感謝してもしきれません!
まるで高級中華&アジアン料理店。
実は、ワタクシを含めてその場に誕生日を迎えた参加者向けに、いわき名物ジャンボシューもご準備くださりました。

お二人の歓待には心より感謝申し上げます。
もう、カフェ宮川にのめり込みです。
次回は、トオルシェフによる3時間クッキング講座を開催するかもしれません。
ともかく、頭も胃袋も充実した四倉カフェロゴの時間、ありがとうございました!(文・渡部 純)

【開催】R.ブリッグス『風が吹くとき』を読む会

2018-09-02 | 文学系


【テーマ】  R.ブリッグス『風が吹くとき』を読む会
【開催日時】 9月16日(日)16:00~18:00 
       ※DVD版は14:30から視聴します。
【開催場所】 いわき市四倉・宮川邸(個人宅)
※個人宅での開催ですので、参加申込された方に場所を直接お知らせします。
【申し込み】 要申込 ※参加希望者は「メッセージ」にお申し込みください。
【カフェマスター】宮川絢香
【開催趣旨】
 初カフェマスターの宮川(絢)です。
 私が【風が吹くとき】を初めて読んだのは小学校2~3年生の頃。
 もちろんその時は知識など皆無でしたが、それでもこの本を『怖い(恐い)』と感じた記憶があります。その後、1999年のJCO臨界事故を経て、現職に就いた初任校で東日本大震災を経験しました。私の人生で放射線被爆について強く考えさせる機会が3回あったことになります。
 東日本大震災の際、いわき市四倉の実家にて水素爆発のテレビ中継を見た私は、母親と死別の覚悟で別れるときにこの本を思い出しました。無事に生きて再会し、平和に過ごしている今もあの時の情景と共にこの本が浮かびます。
 初任校での出会いにより、この場にいる幸運を手にしたのも何かの縁と思い、人生経験や知識を伴って今、もう一度【風が吹くとき】を読んでみたい。また、多くの人にこの本を読んでいただき、何を感じるか・どう思うかを聞いてみたいと思います。
 当日は、軽く本をもう一度読んでいただいた後、純さん持参予定のDVD鑑賞(まぁ順番は前後します)その後、意見交換(議論)の流れを想定しています。当日までに放射線障害について簡単にレジュメを作成しておくのでおさらい的に少し目を通してもらえればとも考えています(説明は皆さんが不要なら省きます)
 個人宅開催を堅苦しい・居心地悪いと考えられる方もいらっしゃるかもしれませんが、民家を改造したカフェだとでも思っていただき、気軽にお越しいただければと思います。読む会におけるコーヒー・お茶は当方でご用意致します。

※懇親会(18:00~)以降、要予約制とさせていただきます。
希望される方は、下記についてメッセージにご連絡お願い致します。
1.駐車希望(先着10台程度)
2.懇親会参加希望(会費:アルコール有2,000円/アルコール無1,000円)
※食物アレルギーがある方は、品名をご連絡ください。
3.宿泊希望(布団、タオルは貸し出し致します。)

どのような話が展開するのか、楽しみにしています。皆さんのご参加お待ちしています。


【課題本の概要】※ウィキペディア参照
 核戦争に際した初老の夫婦を主人公にした作品であり、彼らの若い時までさかのぼった作品には『ジェントルマン・ジム』がある。題名は『マザー・グース』の同名の詩から。彼らが参考にする政府が発行したパンフレットは、イギリス政府が実際に刊行した手引書 "Protect and Survive" (『防護と生存』)の内容を踏まえている。
1986年にアニメーション映画化され、日本では1987年に公開された。日本語版は監修を大島渚、主人公の声を森繁久彌と加藤治子が吹き替えている。音楽をピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズ[2]、主題歌をデヴィッド・ボウイが担当している。
日本での劇場公開に際しては、配給はミニシアター系のヘラルド・エースが行った。興行は、首都圏ではセゾン系映画館および国内の作品提供に朝日新聞社が加わっていたことから、有楽町朝日ホールでも行われた。また、全国では各地のミニシアターで展開されていた。その後、作品の特性から非商業上映が全国の教育会館ホールなどの公共施設で多数行われた。
2008年7月26日、アット エンタテインメントによってデジタルリマスター版DVDが発売された。
【あらすじ】
老夫婦のジムとヒルダは、イギリスの片田舎で年金生活をおくっていた。しかし、世界情勢は日に日に悪化の一途をたどっていく。ある日、戦争が勃発したことを知ったジムとヒルダは、政府が発行したパンフレットに従い、保存食の用意やシェルターの作成といった準備を始める。
そして突然、ラジオから3分後に核ミサイルが飛来すると告げられる。命からがらシェルターに逃げ込んだジムとヒルダは爆発の被害をかろうじて避けられたが、互いに励まし合いながらも放射線によって蝕まれ、次第に衰弱していく。

中村和恵さんからのレスポンス

2018-05-22 | 文学系


以前、中村和恵さんの詩「ワタナベさん」を朗読しながら、「〈語れること〉から〈語れないこと〉までを語る会を開催しました。
ラッキーなことに、このときは著者である中村さんにもご参加いただいたのですが、その時のご感想を中村さんよりお送りいただきました。
このように長大かつ濃密なご感想をいただき、感謝感激です。
ぜひ皆様にもご一読いただければ幸いです。


「そこらへんのおばさん」が立ち上がるとき、どんな森も動く
(カフェロゴ×郡山対話の会アンケートとして)

ご氏名 ( 中村 和恵 ) 世代 ( おばさん 世代 ) 
お住まい地域( 東京都 ヨウカイ区 )

(それなんじゃ、という人はこの対話の会でとりあげてくださった二編の詩「ワタナベさん」と「ヨウカイだもの」が載った『ろうそくの炎がささやく言葉』勁草書房刊 をご覧ください。
ちなみにヨウカイとは、自分たちを疑いもなくまっとうな人間と信じて疑わない人々(以下、ニンゲンと表記)に、なんらかの理由で自分たちとは違う、受け入れがたいと考えられ、そのことに苦しみ、受け入れた存在のことを呼ぶ名として、水木しげるさんの漫画から引用したものです。
ヨウカイはニンゲンと異なるらしいですが、いつもニンゲンのまわりにいます。ニンゲンが気になる、じつはニンゲンがけっこう好きらしい。近寄っていってはやられて、帰ってきてはまた近寄っている。ニンゲンなんてどうにでもなってしまえ、とか、攻撃してやる、というヨウカイはヨウカイ会議で問題視されるという噂も。
やれやれ、ヨウカイもラクじゃないわ。)

1, 参加動機をお聞かせください。
 わたしが書いた二つの詩について、集まって長い時間お話になるらしい方々のことを聞き、こっそりのぞいてなにを話されているのか、知りたいとおもいました。二回目も行きたかったのですが、行けなかったので、福島の渡部純さん(こちらは実在の人物)に送っていただいた会の模様のご報告を拝読させていただきました。
一回目に論じられたのは「ワタナベさん」という詩でした。福島の原発事故について、関連会社勤務の自分は会社や政府が隠しているほんとうの話をすべきかどうか・どう考えても正しいとおもわれるけれど関係者の利益に反する可能性のあることをやるべきかどうか・迷っている、という設定のワタナベさんを相手にした詩を、福島にじつは多い名字だというワタナベさんのひとりがお読みになり、なにか感じられた、ということでこうした会をお開きになると聞き、おどろきながらまいりました。

2,あなたにとって、どんな体験でしたか。
 おもしろいこと、つらいこと、怒りがこみあげること、いいたいこと、感心したこと、願うこと、がいろいろありました。

3,発見したこと、気づいたことはなんでしょうか。
 東京が、福島や他の地方都市や人の少ない地帯とはまるで異なる、なんとなく無関心でいい思いしたいだけの連中の集う場所だ、という考えがあることに気がつきました。もちろん東京の人全員がそんなだとは、みなさん思っておられないと思います。でも、そんな空気がきっと色濃くあるんじゃないかな、という感覚が、福島に行ってみて、あるいは他の地方に最近行ったときにも、感じられました。
 なんとなく無関心でいい思いしたいだけ(してるかどうかはまた別)ってのは、東京だけでなく、日本全国、いや世界中の主流かな、と思います。多分福島にもいっぱいいるんじゃないかな。
 そして、そうじゃない連中も、日本全国、きっと福島にも、少数派だとしても、いると信じています。
 最近よく北海道のちいさな町に行くんですが、そこで地元の人が分けてくれるお野菜のすごい充実ぶりに、驚嘆しました。味も鮮度も、東京のスーパーマーケットのものとは同じ野菜とは思えないほど生命力があり、おいしい。家賃は安いし、食材がすごく豊か。現金がそんなになくても暮らす方法がある。東京にいらした沖縄在住の作家が最近こうおっしゃいました。地元の人は東京の人はいい思いしていると思いがちだけど、東京に出てがんばっている方々の話を聞くと、別の種類の大変さがあるんだってことがわかるよね。うん。とわたしはうなずきました。
わたしが教えている学生は主に大手私大の学生ですが、裕福な家の子なんてごく一部です。奨学金という名の学資ローンや、もっと利息の高いローンを背負っている学生・家族が多いです。非正規労働者の親や、片親家庭もすくなくありません。東京の下町区とかどまんなかの谷間・隙間地帯(いっぱいあるよ)に住む、多くの激貧困層や、大多数のぎりぎりやってる層は、野菜の産地なんてかまっちゃいられません。忙しくてお金もったいなくてコンビニのお弁当やチェーン食堂のお昼しかしか食べられないサラリーマンも、なんでも食べてます。紙製品みたいにがびがびの格安スーパーの野菜とか、薬づけのへんな味のお惣菜、栄養と害と半々じゃないかってかんじの大量生産のお菓子を、わたしの学生も日々、食べてます。地方出身者が多いのはこの町の特徴ですが、一部屋だけのちいさな賃貸住宅の家賃は、世界でも一、二の高額です。朝のラッシュ時の池袋駅で、スイカをぴっとやってチャージ不足で三秒、列を遅らせるだけで舌打ちされ、こづかれ、足が止まれば鞄ごと体当たりされてどけ、どけ、遅いやつはどけろ、邪魔なんだよとあからさまな不愉快周波が飛んでくる中を必死で券売機に向かうことになります。ちびまるいおばさんなんか、通りすがりにストレスをぶつけてやってもどうせ怖くなんかない、いいサンドバッグだとおもうらしい人は多いです。
 別種の危険や困難、暴力や圧力を、東京の多くの生活者が日々経験しています。いい思いなんてしてる連中はほんとの一部です。そういうところばっかりテレビで流すから、あっちは、みんなこんなんだろうと思うんだと思います。住んで働いてみたら、すぐわかります。東京在住者のほとんどは、どこからか仕事を求めて住み着いた被雇用者、畑なんて夢にも持てないから(この町じゃまだ、木が一本生えるだけの地面を持っていることがものすごい幸せです。これから空き家が増えても、なかなかそれは変わらないかも)お金がなきゃそのまんま死んじゃう暮らしをしている賃金労働者です。ネットカフェで暮している人々が4、5千人います。非正規労働者がほとんどです。
 そして、こっちのほうが大事なんだけど、福島と東京やその近郊、埼玉や千葉や茨城や栃木は、一蓮托生です。水も海も空気も野菜も共有してますから。近い近い、ほぼ同じ土地で生きてる隣人です。
つまり、福島のことは東京で暮らすもののことです。他人ごとだ、なんていってるとしたら、目をつぶって見ないことにしたってだけです。日常をやりすごすために忘れたふりしてるだけです。それか、どあほうです。
 非難されても帰れっていわれても自分から胸張って大声でなんかいわないかぎり、いない人にされちゃう、反対意見ありませんね全員同じ意見ね、はいみんなにこにこ一致ねっていわれちゃう。そういう社会に、気がついたら生きていました。そこでは大変にやりにくかった。わたし、ほんとうは社会になんて関わりたくないです。隠遁したいです。自分がおもしろいことだけやって、家でみかん食べてあったかくしてたいです。でも、それはできない相談です。ご飯食べたりお医者さんに払ったり、水や電気、屋根の下で息してるだけでお金をとられます。働かないとお金がもらえない。でも、それだけが、外へ出ていく理由じゃない。万いち年末ジャンボが当たったとしても(万いちじゃなくて何兆いちだとおもうけどね)、屋根の下で息してるだけで世界のいろんなことと関わっちゃってることは変わらないでしょう。いろんなことが、みんなつながってることに、あるときわたしは気がついたんです。だから、わたしはこたつから出て、外に行くことにしたんです。
わたしは雑音(ノイズ)でありつづけようと試みています。ときどき壊れて無音になっちゃいますが。みんなと同じじゃないやつは変なやつだからいじめていいんだ、おれの苦しみを弱いこいつに多種多様な暴力としてぶつけていいんだ、勝つことが、負かすことが生きるということなんだ、と考える人がこんなにたくさんいるチミモーリョー世界の中で、うるさいなあ、へんな声するなあ、なんだあこれ、といわれる、ちっちゃい雑音発生器でありつづけたいんです。それでなにかできるとか、変えられる、なんて信じてはいないです。それほどノーテンキじゃいられません、いまの日本で。でもノイズがひとつもなくなったら、しーんとしちゃったら、この国はまっしぐら全体主義一億再戦争モード突入原発どんどん原爆どしどしの可能性ありありじゃないですか。最近いろんなとこでそのことを感じます。いやだよう、といってる人がひとりでもいました、って話にするために、なにかいい続けます。嫌われます。毎朝死にたいなって思って起きます。でもご飯食べて、よっこらしょとまたノイズになります。
 ワタナベさんにこらワタナベとどなってる詩を書いたのは、そういうことです。
 みんなにそうしろなんていうつもり、ありません。でもノイズがそこにいるのはうるさいけどいいことだよね、とときどき微笑んでくれればなって思います。ワタナベさんにお手紙書きつづけようと思うのも、そういうことです。わたし自身がワタナベであり、ワタナベの上司であり、かれらに怒ってる誰かでもある。ワタナベさんのことは、わたし自身が毎日やってる死なないための闘いのことなんです。
 こんな詩、なんですか、ってかんじの反応をもらったこともありました。でも身近に、かなりの数、じつは驚くほどたくさん、こらワタナベ! とノイズを立てたいひとたちがいることにも、気がつきました。福島の集まりは、そういう気づきの連続の中の、新しい喜びでした。

4,日常生活、仕事、暮らしに何か活かせるコトはみつかりましたか?
 これからこの会で感じたいくつかのことを、書こうとおもっています。どう書こうかな。それを考えています。同僚の勝田忠広先生(使用済核燃料管理問題がご専門)にもこの会のことをお伝えしました。偏らない、ということはごまかさない、ということだと信じています。まっすぐ福島の抱える困難に目を向けられる次世代が育つよう、この会で感じたことをまた別の機会にも話したり考えたりしていくことができればとおもっています。

5,ファシリテーターに提案やリクエストはありますか?
 司会がとてもすばらしかったです。桐山さんにお願いしたい仕事をいくつも考えたほどでした! こうしたこと、つづけていただければとおもいます。

6,対話をするテーマへ、注文や提案はありますか。
 自分のことを考えるために、自分とは関係ないと常日頃はおもっていた、よっぽど遠い地について考えることが、じつはとても役に立つ、とわたしは思っています。これはわたしが専門にしてきた比較文学とか比較文化っていう研究領域の得意技のひとつです。よかったらやってみたらどうだろうと思います。
 フランス政府による太平洋での原爆実験の被害者(タヒチほかポリネシアの人々)がいらっしゃいます。フランス領ポリネシア、というように、あのあたりはいまでもフランスの海外領土なので、自国で実験をしてなにがわるい、というのがフランス側の論理でした。先日タヒチから、ライ・シャズさんという作家がわたしに会いに日本にきてくれました。家族や友人を多く、がんで亡くしたそうです。とくに妹さんが亡くなった後、自分の体調が気になってしかたないといってました。デトックスの旅で、長男家族がいるタイに出かけて、日本でも都市ではなくきれいな水のある場所に行きたいとおっしゃいました。タヒチってハネムーン・リゾートってイメージですよね。わたしが行ったときはホテルが高いのでライさんの家に泊まって、裏山のバナナ食べ放題でした。海も美しくて、パリから観光客がきます。でも、地元の人はじつは大変な気持ちを抱えている。
 オーストラリア中央砂漠におけるイギリス政府による原爆実験の被害者(先住民族、とくにピチャンチャチャラの方々)もいらっしゃいます。有名な訴訟事件に発展した、大変な汚染の実態は、日本ではあまり知られていません。オーストラリアの壮大な大自然の一部がひどく汚染されている。その被害は現在も終わったわけではない。ウラン鉱山がある国ですから。鉱山で掘ってる人、そこから流れる水、そもそもの最初のところから汚染が始まる、それが現在の原子力利用です。平和利用だろうが軍事目的だろうが、それが実体だということを、誰も否定できない。否定する方はウラン鉱山に住んでご覧になったらいいです。そういうとみなさん黙って立ち去られます。
ニュークはニューク、いまだに人間が管理コントロールできない毒。科学がこれを分析し、どのようにコントロールできるのか、解明していくことは非常に大切で、待たれる研究です。すでに甚大な被害があるのだから、喫緊の案件です。しかし、それさえもなされないままに、福島の事故をみてもはやコストパフォーマンス的にもどうやら見合わない原子力発電を停止したり廃止しようという国際的流れに逆らって、昨今の太平洋プレートの活発な活動と地震の連続も無視するかのように、日本政府は再稼働を検討しているのだ、というと、アボリジナル・コミュニティの長老は不思議そうにいいます。でも、日本はテクノロジーが発達しているんだろう。トヨタの車や立派なエアコンをつくれる人たちが、なぜ壊れてばかりで暴発したら大勢が死んでしまうような毒が出る危ない機械をつくりつづけるんだ。先住民族の方はよく知ってます。ウラン鉱石があるところは聖地だった場所が多い。触れてはならないものがあるのだと、数万年の知恵が語っている。いまそれに耳を傾けているのは、鉱山会社です。そういう物語があるところに、鉱石がある確率が高いのだそうです。
 ソ連・チェルノブイリ原発事故における知られざる被害者として、エストニア(当時ソ連邦内の共和国、ロシアに隣接)等周辺国から事故現場に派遣された労働者たちもいます。直後の雨はロシアやウクライナだけでなく、バルト地方にも降り注いだそうです。放射能には県境も国境も関係ないです。福島って書いてあったら危なくて別の県名だったら安全っていうのは笑うしかない話です。ひとつひとつ、きちんと情報を開示して逃げないつよさを、むしろ旧ソビエト連邦なんて隠ぺいやスパイ工作ありありの国から、日本人が学ぶ日が来るとは思ってなかったです。でもそれが現状ではないでしょうか。
 さらに、アメリカ合衆国の核廃棄施設や、原発近辺の先住民族居留地の人々。アフリカ中央のウラン鉱山の周辺住民の方々。世界中のたくさんの地域で、声のちいさい、立場の弱い方々に、恐ろしいことを押し付けて、見ないふり知らないふりをすることが、行われています。福島だけではない。そう、福島だけじゃないです。たくさんそういうところがあります。世界中が、調べれば調べるほど、汚染されています。安全なところなんて、ほとんどないってわかります。相対的な安全性しか、ないんです。です。どっちのほうがまだましか、ってことだけ。この現実、どんなにつらくて見ないふりしても、人類にすでに降りかかっています。見るほかない。それが唯一の対策、対策の入り口だから。
 危険は放射能だけじゃないですよね。農薬、遺伝子組み換え、よそに売るもので自分たちのものじゃなきゃ平気、だから薬づけにして見た目だけきれいならいい、そういう現状が、大量生産される食物産業にあふれていることは、『ありあまるごちそう』『世界が食べられなくなる日』といった映画を何本か見れば、誰にでもわかります。遺伝子組み換えと原子力も、因果関係は深いそうですね。
 ちょっと世界を拾い読みするだけで、福島の困難は世界中で分かちもたれてるんだってことがわかります。これ、全部グローバル化世界に生きるわたしたちの毎日の生活やごはんのことです。他人ごと、なんていってる人は愚かものです。これらすべてが、自分のことです。福島も、タヒチも、ピチャンチャチャラも、かれらと同じ海、雨、風、雲を地上で分かち合うわたしのことです。
 だからこそ、ひろくたくさんのつながりの中にいる自分を、再発見するべきなんじゃないでしょうか。自分の苦しみに狭く集中することが、自分の場所を見えなくする、じつは自分のことをわからなくしちゃう、解決策をふさいでしまう、そういうことってあるんじゃないかとおもいます。似た苦しみに立ち向かっている人たちとの連帯は、具体的に立場をつよめるのにも役に立ちます。自分を知るために、「外の仲間たち」のことを学ぶことが、とても大切だとおもいます。

みんなでzineを作ってみよう!

2018-05-17 | 文学系


【みんなでzineを作ろう!】
zineとは… 一人で、あるいはみんなで自由に作れる小さな本です。
みんなで少しずつ文章を書いて、zineにしてみたいなと思い企画してみました。
詳細は以下のとおりです🎶

【テーマ】「旅に一冊持っていくとしたら、どんな本を選びますか?」
【カフェマスター】あをだま
【参加表明&原稿提出締め切り】平成30年6月2日(土)
【文字数】300~700字
【提出内容】(下記1及び2は字数に含みません)
  1 旅行先
  2 本のタイトル、著者
  3 自由に(選んだ理由、読みたいシチュエーション等。ショートストーリー仕立てもあり!)


書いてみたい人はこのブログにメッセージをください~!
原稿は、メールで集める予定です。

久しぶりのzine作り、どきどきしてますが、まずはやってみよう!ということで立案してみました。
みんなで読むのがたのしい一冊になればいいなと思います。

【追記】冊子のタイトルは、「flagmen.」にしようと思ってます。

中村和恵「ヨウカイダもの」を読む会・まとめ

2018-04-10 | 文学系

12名の参加者に恵まれました。
うち2名は常に浮遊する座敷童的存在の小学生。
まさに「ヨウカイダもの」のテーマにふさわしい存在。
2度目になる郡山対話の会とのコラボ。
千葉から、兵庫から駆けつけて下さった人たちもいる。
ある人は、震災後、福島に来ることで自分の正気を保てている気がする感覚があるという。
参加者の多くは「ヨウカイ」側にいることを自認する人々ばかり。
「裏街道」側。
「エライ人」にたてついちゃう。そういうことに抵抗がない。みんなと関心がずれている。
でも、親しくなるといえなくなっちゃう。
ヨウカイになったのは高校生のとき、という人もいる。学校の勉強についていけず、ひきこもりになった。きっかけは担任の先生にお前は「人間の屑だ」といわれたこと。
「ヨウカイ」とは「人間の屑」のことなのか。

中村和恵「ヨウカイダもの」の朗読から始める。
相田みつをの「人間だもの」にかけてあるのだろう。

ここから対話篇。

1.生き延びるための「ヨウカイ」性
「おれの友達の話。有名大企業に勤めるNくんが、いま仕事で大変な目に合っているらしい。ノイローゼになりそうだという。いじめじゃないかとか、体のいいリストラを狙っているんじゃないか。久しぶりに会ったらげっそりして死相が出ているような人相に変わりえっと驚いた。そんなにつらい仕事ならやめればいいじゃないと話したんだけれど、それはちょっと考えられないという。そんな時、「ヨウカイだもの」を読んだとき、彼がほんとに殺されちゃうような罠を感じる。何のために生きるのか。会社に殺される。生き延びるためにヨウカイになるのは必要じゃないかな。」

「いまの話を聞いて、この社会の大筋の流れに入っているから悪いというわけではなくて、それはそれでいいんだ。でも、わたしの息子の場合、「道を外れる人」がいるよとわかると、わりと変われることができた気がする。息子の場合は週5日の仕事は無理だといい、収入が減ってもいいから週2日ならがんばれるという。本人の発達障害の特性もあるのかもしれないけれど、自分の体調を維持するためには、これでいいのだとわかるまでに10年かかった。言葉に出していくのは大事。加藤登紀子が無農薬有機農業野菜にするのは30年かかるよねと言っていた。何かが変わるというのは時間がかかるもの。」

「たぶん私も「ヨウカイ」。人間社会に出ていくと、変わることが怖かったり、受け入れることが怖かったりする。安定していることがいいという社会では、なかなか変われない。発達障害の子が増えているというのは何かの警鐘を鳴らしているのかな。でも、実際の学校では教室の中から出させられちゃう。本当は人間社会とヨウカイの世界が一緒にいて補い合ったりするものなんじゃないかな。」

2.「ヒツジ」化する若者
「学校現場にいると、生徒たちがどんどん「ヒツジ」のように従順になっている。彼らは「人間」になっていくのか。みんなが「ヨウカイ」性を持っているならば、それをどんどん殺していくのが学校。でも、それは「人間」というより「千と千尋の神隠し」に出てくる「カオナシ」。自分の声をもたず、他人の声を借りないと話せない。自我がない。そんな「ヨウカイ」性もある。」

「水木しげるの『妖怪大辞典』によると人類の前に幽霊族がいて、それの生き残りが鬼太郎の親。人間に駆逐されていったのが「ヨウカイ」らしい。」

「「正気を保つために福島に来る」という話。「ヒツジよりおとなしい子供たち」の風景は不気味。ヨウカイ側は正気を保つために使えるためには、それを壊すまいとしている側に気持ち悪さがある。だから、そっちの方がヨウカイなんじゃないのと思うと訳が分からなくなる。3.11以降、おかしいことを見ない、普通でいることがいいと思ってきたけど、それを超えたくなっちゃう自分がいる。フツウの子で生きてきたので、変人でいることがうれしいことに気づくのに時間がかかった。自由な妖怪になりたいな。乱さない不気味さ。楽しく「ヨウカイ」でいたい。」

「人間かヨウカイか。自分が「ヨウカイ」かどうかわからないけど、「変人」ではある。荒れている学校で務めたことで、人間の原点、乳幼児の子たちを見る仕事に就いた。「変」は否定ではない。うらやましい。でも本当はみんなそうなんじゃないかな。本来は、そうなんじゃないかな。みんな圧力をかけなければ、否定しなければ、「ヨウカイ」のまま。子どもたち同士はお互いを否定しない。否定されない空間があると、それぞれの「ヨウカイ」性を自然発生的に認め合える。自分はそうなれないけど、そうじゃないものに変わることに期待しつつ。それが平和につながると思っている。」

3.狂えないニッポン社会
「「べてるの家」に行ったことがある。そこで精神障害の方と話すとめっちゃ気持ちいい。おれの方がおかしいんじゃないか、と思えてくる。本当にその人らしく生きている。素敵だなと思った。その一方、高齢者施設で働いていたころ、お年寄りの問題行動がひどくなると、精神病院に送られることもあった。あるお年寄りがそこで拘束されたまま最期を迎えた。この国では頭がおかしくなれないなと思う自分がいた。」

「いまの話は原発事故によって解放された人ことを扱ったETV特集を思い出した。人生のほとんどを精神医療施設に監禁状態で過ごしてきた人の話。原発爆発とともに相双地区にあった医療機関から解放され、他県で診断を受けた結果「異常」でも何でもなかった人の話。学校、精神医療。つねに「正常/異常」の境界線を設けて、異常を囲い込む社会、日本。」

「その番組にはもう一つの背景がある。家族が彼らの世話を見られ愛という現実。20年間精神医療施設に監禁された背景には、精神患者の受け入れ先がない問題がある。彼らもまたプライドの問題でデイサービスなんていきたくないという。親もパートナーも面倒を見れない。ヨウカイの行き先がない。人数が少ないとヨウカイに見えてきたりする。」

5.半人間、半ヨウカイ
「妖怪人間ベム・ベラ・ベロを思い出した。彼らはいつも「早く人間になりたい」と言っていた。」

「そうそう。でも、悪さをするのはいつも人間の側で、いつも正義をなすのは異形のベム・ベラ・ベロの方。それでも彼らは「人間」になりたかったのはなぜなのかな。」

「周りの秩序を乱す言動をもつのが「ヨウカイ」。人に危害を加える行動は背景に何かがある。認知症の暴力で家族がいっぱいいっぱいになる。必ず暴力の理由がある。それをなかなか表出できない。それをみえないようにしていることは、自分が抑え込んでいる不安。」

「みんなの話を聞きながら自分の職場のことを思い出していた。私は変わっていて、それをいつも上司から指摘され続けてきて、悲しくなったことがあった。」

「ふつうじゃなくていい、ヨウカイでいいんだなと思えた。おもしろく、楽しい人間でもいたいけれど、みんなとも一緒にいたい。枠から外れるのが怖いと思う側の人間なので、最近までははみ出すことはいけないと思ってきたけれど、こういう場に出てからは違うことが前提とされていると半分ヨウカイで半分人間のかな。」

「変人万歳!」

6.「祟り神」化
「ヨウカイ。変人。この場ではそれを受け入れる人がきっと集まるんだろうなと予想していた。でも、その種のヨウカイとは異なるヨウカイもいるんじゃないかな。原発事故直後に見た二人の女性の姿が印象に残っている。一人は原発事故に怒らない福島の人びとに絶望を訴えていた女性。もう一人は仙台のこうした対話の場で、自分の子どもを被ばくした罪悪感から狂ったように署名を集めていた女性。どっちも何かにとりつかれたような、泣き叫ぶ姿は「もののけ姫」に出てくる「祟り神」のような印象があった。その痛切な気持ちがよく分かったから逆に、応答することができなかった。どうしていいかわからず、ただただ受け入れられなかった。

「はみ出ることが怖いとおっしゃったけれど、私もどちらかといえば人間側にいる。ヨウカイでいるよりは、人間の側にいたいなと思っている。」

「ヨウカイと人間をつなぎとめているものは何かな?昨日、温泉に行ったら子どもたちがはしゃいでいた。その彼らに僕は思わず、「そこに書いてある言葉(風呂で騒ぐな)、読める?」と聞いてしまった。その瞬間に、日頃「ヨウカイ」を自認していたのに急に人間になった自分に驚いた。」

7.問題提起されることへの不安
「高校生の「ヒツジ」問題に関して。社会に対して問題提起や批判的問いを発するとをすると、生徒の側に「ディスっている」と受け取る雰囲気がある。何かに反発したり、反抗することはない。寄らば大樹の陰。問題には触れてくれるな、という感じ。それは何かの不安に委縮している姿のあらわれのようにも思える。」

「その話は、先日の講演で耳にした若い大学生のエピソードを思い出した。沖縄の問題、原発の問題。社会にある矛盾を大学の講義で取り上げると、「偏向している」と受けとる大学生が少なくないという。」

「それも「新しいヨウカイ」かもね。」

「問題提起をするとSNSで面倒なことになることも関係しているのかもしれない。」

「安定を壊さないでほしい。そんな気持ちがはたらいているのかも。」

「郡山と福島の気質の違い。転勤族だったけれど、郡山の人たちははやりたいことをやっている印象。多様性を受け入れてくれた。福島は違う。違いを受け入れてくれない土地柄。他人ごとに干渉しない。」

8.ヨウカイの主体性
「ヨウカイになるのは難しい。ヨウカイにならないとNくんのように死んじゃいそうになるのはわかるけれど。自分に正直になれず、周囲に嘘をつくことでがんじがらめになってしまった家族のことを思い出す。以前、Eさんに「Bもアイデンティティを書き換える時期かなぁ」といわれたときにカチンときたんだけれど、自分も随分偏っていたなぁと思って、自分の悪い癖を直さないことで生じている問題を見つめたことがある。大学生のエピソードが「新しいヨウカイ」ってどういうこと?」

「ヨウカイを分類するわけではないけれど、主体的に選択されたヨウカイと背後に自分が気づいていないヨウカイがいるんじゃないかな。」

「祟り神になったお母さんはどっち?」

「それは甲状腺がんや放射線が突き動かす。自覚のない中で背後から何かに突き動かされている感じ。だから主体的にヨウカイ化しているわけじゃない。かといって、それを避ける行動は主体的じゃないとも言えない気がする…」

「生命を大切にする本能みたいなものが動かしている?」

「でも、そこには狂気が入っている。」

「そう。だから、その絶望感やつらい気持ちはすごく伝わるけれど、ふれられない。自身が何かの飲み込まれている感じというのかな。さきほどは、精神異常のヨウカイ性を肯定的に受け入れる議論があったけれど、それを超えちゃっている暴力性というか。怪物性、モンスター性といった方がいいのかもしれない」

「他者の狂気の姿に自分の極限化した姿をそこに見ちゃうのかもね。あれは自分なのかもしれない、と。」

「狂いの経験。」

「多様性を受け入れられない状況になった時、何が助けになった?」

「環境を変えた。その場所から移動した。仲良くなるといえない性格なので、家族や友人関係に対しては、当時、自分の言葉で表現できなかった。小さな違和感がたまる前に相手に伝えられるかどうかが大きいのかな。いい妻でいなければならないとか、本家の人だから、とか刷り込みがあったのかもしれない。自分は違うんだということを表明していく扉が開いていなかった。」

「ヒツジを考えるヒントになるかもしれない。」

「魂の年齢の積み重ね。これはこれでいいんだと思えるようになるのが、魂の年齢の積み重ね。」

「自分が原発事故に怒りまくっているときを思い出すと、あの時は祟り神だったんじゃないかな。祟り神になっているときはヨウカイではない。ヨウカイだからと溜めずに言っていく。そういう技が必要かな。」

「自分を自分でヒツジにしているのかな。発狂したくなる時もあって、そえを溜めて毒を出す側のおもしろいヨウカイでいたいな。」

「おもしろいヨウカイでいたいな。人間でいながら、たまに自分のヨウカイを出してみると、相手の驚く反応を見て楽しんでいる。」

「ヨウカイ万歳、変人万歳。妖怪は理解されないものだけれど、自分が主体的に理解されないじゃなくて、理解してと表現できればいいな。」

「ヨウカイ性を周囲に認めさせる技って大事だよね。僕は「哲学」やってますといえば、自然と周囲が「あぁ、だから変人なのね」と勝手にヨウカイ性を受け入れてくれる、とても生きやすい。アートやっている人もそうなんじゃない。でも、そのヨウカイ性は自分自身を保つ技なんだけれど、周囲を変えていく力をもちうるのか。そこを問いたいな。」

「自分の気持ちと対話しながら生きている。この一年ずっと心に蓋をしてきた。そうじゃなくていいと思えた。自分の気持ちと話し合えればいいな。」

「ヨウカイと人間。僕はけっこう人間は好きな方。ヨウカイになれずに組織になじめない存在も大切にしていきたいなと思う。ヨウカイになれない人生も大切かな。」

「生徒のヒツジ問題。荒れた生徒たちの姿を思いながら活動しているけれど、また新たな子ども像を考え続けたい。」

「人間とヨウカイのあわいの葛藤が自分の中ではありがたいと思っていて、常にそこで自分の在り方を問われ続けている。考え続けるということを表に出すことが大切だなと思えた。」

「ヒツジ化するという問題が、日本人の集合的心性を反映している気がする。大人が何もしないことに対して、その子供たちの心が反応しているんじゃないか。自分の中のヒツジ性を大人はまずは見る必要がある。祟り神の話が最後に出てきたことに意味があるんじゃないかな。怨念や恨みは人々に目を覚ませといっているような気がする。ならば、それを受け止めてみる必要があると思う。自分自身はヨウカイを楽しんでいるタイプだけれど、人間を生きている人がいるからこうしていられると考えれば、郡山と福島のあいだで中通りとして協力し合えることもありうるんじゃないかな。」

2018年、読書への旅―わたしの読書計画―・まとめ

2018-02-12 | 文学系
2018年、私はこれを読むぞ!
と、高らかに宣言すれば引っ込みがつかなくなり、読まざるを得ない状況に自らを追い込もうという意図で始められたこの企画。
あをだまさんが初マスターとしてとりしきってくれました。
参加者の趣味も職業も雑多すぎて、もう、どうなることやらと思いましたが、「そこくるか!」という皆さんのプレゼンスが痛快すぎる会となりました。
なお、以下の参加者のハンドルネームはワタクシ(渡部)が勝手につけたネーミングなので悪しからずご了承くださいm(__)m

あをだま



今年は東欧文学の読破をめざしたいというあをだまさんが挙げた一冊は、これです。
東欧文学への興味は、NHK「100分de名著」で取り上げられた『惑星ソラリス』に興味を持ったことがきっかけだといいます。
『ソラリス』では頭でイメージした人間が実体化される中で展開されるSFですが、そこで自分とは何なのか向き合う哲学的な物語性がおもしろかったといいます。そこからミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』の読解へ行くなど、東欧文学の魅力に引き込まれていったといいます。
本書がどういう話なのか、肝心な点を聴き忘れてしまいましたが、東欧文学の魅力が何なのか。
個人的にもぜひ知りたいところです。


次はこれ。
縄文時代はおもしろい!と宮畑遺跡じょーもぴあのユニークさにふれつつ、あの平和的だったとされる時代への憧憬は共感できます。
宮畑遺跡といえば、なぜ直径90センチメートルもの巨大な柱を建てなければならなかったのか?なぜ「47.82パーセント」の焼けた竪穴住居が焼き壊されなければならなかったのか?をテーマに一般公募した「宮畑ミステリー大賞」を企画・出版したユニークな取り組みもあります。
みんなで県内の縄文遺跡を巡検しながら本を読むのもおもしろいかもね。


これはカナダの漫画ですが、海外漫画へ触手へ伸ばそうというのです。
この「殺」と「死」というタイトルは何を意味するのですかね。

最後は「ブリューゲル」の本を紹介されましたが、展示会巡りを趣味とするあをだまさんは、その足跡を記録帳に記しているそうですが、今年は事前学習を徹底するそうです。
僕にはできそうにありませんが、もしみんなでその記録集を寄せ集めれば、けっこういい感じのミニコミ誌ができるかもね。


ねもち


税理士試験合格に向けて、残すところ一科目だというねもちにとって「読書」なぞしている暇はない。
読むものといえば、ひたすら問題集。
一言一句もずらしたり、間違えたりできないというその試験に向け、ひたすら「スキャナー」と化すしかないようです。
一瞬、その文章を読んだ人は「意味不明」だそうです。
そう、「意味」など考えてはダメ。
誰もが受験地獄で経験したように、意味ではなく記号としてインプットする思考停止状態でなければ、ある種の試験には合格できないというのが「試験」なのです。
もう、そんなのAIに任せちまえよ、と思いたくなるのですが、まぁその現実を目の前にしている人にとってはそんなことを言ってられません。
「今年の仕事は試験に合格して今の仕事を辞めることが目標!」と、高らかに宣言したねもち。
「スキャナー」と化して頑張ってくれ!
「読書」はその先にある。


ふるほんやかずのぶ

お次は、本日42.195Km のフルマラソンを走り切ってきた「ふるほんやかずのぶ」。
フルマラソンを完走してきたとは思えない軽妙な語り口で紹介されたのは、「ナイキをつくった男」として名高いフィル・ナイトの自伝。
やっぱり「走る」ことなのね。
シューズのソールはクッション性が高ければケガしないというエビデンスはない、というのは初めて知りましたが、その発想がかの池井戸潤の『陸王』に受け継がれているというのも驚きですね。
これもおもしろそうだな。


そして、これ。
ふるほんやさんにとっては、やっぱり「走る」ことは外せないようです。
松浦弥太郎は「暮らしの手帳」の編集者。
この人も走る人なんだね。どんな意味で?教えて、ふるほんやさん。


最後は国語教師らしく短歌のアンソロジー。
残念なことに、彼のクラスにおいてある学級文庫から生徒さんたちは「歌集」をまったく手に取らないそうです。
高校生時代に百人一首を善暗記しようとしたというふるほんやさんからすれば、残念この上ないことでしょう。
どうすれば、「短歌」に生徒は興味を持つのか。
前回のカフェロゴでもそうだったけれど、朗読っていい経験だといった人がいたよね。
あをだまさんは、自宅で朗読しているととても気分がよくなるといいます。
映画「勇気あるもの」はシェークスピアを朗読していきながら高校生たちが変化していく様を描いた名作とのこと。

そういえば、僕が出席していたゼミではソフォクレスの「アンチゴネー」を改作したブレヒトの戯曲を朗読した後に、そこで感じたこと考えたことを語り合うという実験的試みがありましたが、これがとてもおもしろかった。
そのなかで、『テヘランでロリータを読む』が紹介されました。

著者は、テヘランの大学で英文学を教えていましたが、抑圧的な大学当局に嫌気がさして辞職し、みずから選んだ女子学生七人とともに、ひそかに自宅でイランでは禁じられた西洋文学を読み始めました。
その読書会は、革命後イランの圧政下に生きる女たちにとって、かけがえのない自由の場となっていたそうです。
これはワタシ(渡部)のお勧めとして紹介しますが、こうした声の読書経験って、意外とふだんはないんだよね。
何より、ここでの議論が次回のカフェロゴ企画が生まれるきっかけとなりました。


本の虫


個人的に今回の最大の衝撃は、「本の虫」さんの読書紹介でした。
本の虫さんは、あをだまさんの仕事上の関係で知り合ったそうですが、それも特に多くの時間を接したわけではなく、お互いに「さっ」と文学のにおいを一瞬直感しただけで通じ合っただけの関係だというのです(剣の達人か!)。
その出会いの話も衝撃でしたが、おもむろに取り出したこのハイデガー全集、そして突如として朗々と朗読し始めたその様に、一同、呆気に取られてしまいました。
ねもちの試験問題集の言語もわけわからんけれど、時々さしはさまれるドイツ語、そもそも日本語なのかこれはという文に段々「般若心経」を聴いている心持になってきました。
この圧巻の朗読劇(?)はとても新鮮な経験だったと思います。


続けて、これ。
自らオーケストラ演奏にも関わってきた本の虫さんならではの選書。
たしかに、遠近法とか、これまで近代の視覚の変容は関心をもってきましたが、音楽に疎いせいか聴覚がどのように変容したのかという観点で本を読んだことはありませんでした。
音楽に関する教養がなければ理解できないのでしょうが、興味深い一冊でした。


で、最後はこれ。
『マラルメ全集I 詩・イジチュール』。
「一家に一冊、マラルメ全集」がモットーだとか。
まさに「文の人homme de lettres」ですね。
ねもちとはまた別の意味で、本の虫さんの「読書の旅」計画は異彩を放っていました。
これだから、人の読書癖、傾向、趣味を尋ねることはやめられません。

はとちゃん

この著者(本?)には「悪い人がいない」のが気に入ったそうです。
悪人がいない、というのは善人ばかりの楽園なのか?
読んでいないからわからないけれど、そうではない気がしますが。
誰もが等しく善人であり悪人である部分をもつ。
「罪を一度も犯していないものだけが石をぶて」とはイエスの言葉。
それとも、みんなやさしい人?みんな傷つく人?ゆるい人?
読んでないからわからないけれど、「悪人がいない」ことの意味を知りたかった
あをだまさんは、これを「外れものの文学」と評しました。
素で「ずれている人」たちが織りなす物語。
素でずれてる人たちはわれわれのことではないのか。
素でずれている人が素でいられるならば、外れものが外れたままでいられるならば、そこに「悪」は生じないということなのか。
読んでみようと思います。

しろだま


個人的に東日本大震災の後に、被災地であらわれた「幽霊話」を集めている研究があることに興味を持っていましたが、それがこの著者だということを初めて知りました。
しろだまさんの所属していたゼミの恩師であり、白玉さん自身飯舘の聞き取り調査にも取り組んだという話は興味深いものでした。
「幽霊話」というと非合理なイメージがありますが、これは民俗学の手法です。
民俗学は客観的事実の正永ではなく、人々が「信じること」の意味に焦点を当てた学問であり、幽霊話が被災者にとって単なる恐怖を与えるのではなく、それがあるがゆえに生き延びられる意味があるという話はとても頷けました。
震災後、大槌町の庭師が自宅に「風の電話ボックス」をつくり、そこへは震災津波で亡くした家族や友人と対話する人が集うようになったといいます。
非合理かもしれないけれど、何かがそう見させるものとは、人間が生き延びるための別の知恵であるようにも思います。
これもまた読んでみたい一冊ですね。


あかだま



高校生にして早稲田商店街活性化を図る企業を立ち上げた社長経験を持つ著者。
あかだまさんは、地域の活性化とは何かと問いながら利潤の循環がうまく回る状況を指して、民間目線での富と資本の循環を論じる著者に注目しています。
利潤を生むプロの民間をいかに地域活性化に導入できるか、そのような視点をまちづくりに生かせることを熱く語るあかだまさんの姿が印象的でした。
その点では、やはり行政の運用が一過性のものばかりというのは首肯できます。
では、カネの論理がパブリックの創出とかみあうとはどういうことか?
今現在読み進めているアーレントの議論は、まさにカネとしての「富」がパブリックスペースを破壊するというもの。
このあたりの議論がどこで接続するのか、個人的には興味深いものですね。

しずちゃん


20代前半にして、人生の辛苦を味わうしずちゃんの経験は、ドラえもんのしずちゃんとは別物です。
そんなしずちゃん。
人生迷いに迷い、自分の時間的位置がつかめないもどかしさの渦中にいる中で手にしたのがこの一冊だそうです。
まさに「さまよえる自己」。
でもねぇ、大丈夫。ここには30になろうが、40になろうが、「さまよえる自己」の人ばかりが集っています。
仕事に行きたくないと泣きながら朝を迎える人もいるし、孤独死したくないと婚活に励む人もいる。
仕事したくないから休職した人もいる。
ワーカホリック気味にバリバリ仕事に没入している人も、実はいろいろ抱え込んでいるのかもしれない。
筋肉美を鍛える人の多くは内的困難を抱えている人の反動形勢だとも聞く。
みんながそれぞれにずれた困難を抱えながら、口に出せないながら、何かに足掻いている人ばかりなのが実際なのではないでしょうか。
でも仕事を市内から解放されたかといえば、それで解決はしないし、なんだかもうそれは解放されないことを受け入れあがら、それでもほんの一瞬とはいえ、こうした自由の時間がふと到来する時間に喜びをかみしめながら、「これでいいのだ」とバカボンのパパみたいに言える人にワタシはなりたい、と宮沢賢治風に言ってみる。
この本の中に何かを見つけられたのならば、その時は教えてほしいと思ってます。


ワタナベさん


読書計画は立てないのたちなので、この一年に読む本というのは頭にありません。
終わり。
というわけにはいかないので、とりあえず今年の一月から始めたアーレント「意志」論の読書会に合わせて、この本を挙げておきます。
が、これはかの國分功一郎氏も「意志」論の重要性を認めつつ肝心要のパウロ、アウグスティヌス、ドゥンス・スコトゥスといった中世キリスト教哲学を無視したように、彼女の思想の最も難解かつ不可解な部分です。
そこを読むためには、パウロ、アウグスティヌス、ドゥンス・スコトゥスを読まなければなりません。
それは同時に、3.11での経験を説明しているようにも思えるからです。
というわけで、今年はその読解に入り込みたいということを課題にしておきます。


スピノザ狂


最後に、今回参加を希望しながら直前で体調不良で参加を断念したスピノザ狂さんのメッセージをお伝えします。
老後の目標としてラテン語でスピノザを読むこと、太田蜀山・三田村鳶魚の全集を読むこと。
だそうです。
ラテン語、すごいね。
老境のなせるわざかな。

さて、今回の読書計画を語る会で盛り上がったのは、次回は朗読劇を皆でやってみたいということ。
小説もいいけれど、みんなでやれるのはやっぱり戯曲かな。
シェイクスピアもいいし、ブレヒト、ゴーリキーもいい。
「12人の優しい日本人たち」も脚本があればやってみたい。
実は『銀河鉄道の夜』なんて、3.11後の語りを見事に描いているんだぜ。
そんな話がやむことなく、深夜まであっという間に時間は過ぎ去りました。
今度は朗読劇を実現してみましょう!(文・渡部 純)

【開催予定】2018年、読書の旅―わたしの読書計画を語る会

2018-02-06 | 文学系
 
【開催日時】2018年2月11日(日)19:00~21:00
【参加申込】要申込 
 おかげさまで定員満席となりましたので、募集を締め切らせていただきますm(__)m
【会 場】参加申込をして下さった方へメール等でお知らせします。
【カフェマスター】あをだま
【会の趣旨】

遅まきながら、2018年の読書計画・抱負を語らおうという会を開きたいと思います。

「今年はこの名作に挑戦するぞ!」とか、「この作家の作品でマラソンするぞ!」とか、みんなが考えている今年の読書計画(もしくは、勉強計画)について語り合い、聞いたり聞き流したりする会、ということで!(´ω`)
人に話すことで具体性を帯びたり、いいアイデアや掘り下げができるといいな~というねらいです。

自慢の本や何年も積んだままになっている本をもちこんだり、計画表を準備するもしないも参加者の自由です。
壮大な読書の旅行計画を存分に語らいましょう。
大人も子どもも本を読まなくなったといわれて久しいですが、それでもなお本を読むのはなぜなのか。
そんなそれぞれの読書論も聞いてみたいところですね。
あるいは、みんなどんな読書をするのか。
推理小説を結論から読んでいくという人もいるかもしれませんし、表紙を眺めるだけで満足する人もいるかもしれません。
そんな「読書」を語らいましょう。

仕事帰りに一杯ひっかけながら文学をグダグダと語る会―太宰治「駆込み訴え」・雑感

2017-09-02 | 文学系
 

「ほんとうに、その人は、生まれてこなかったほうが、よかった」

あらためて読むと、凄い言葉だ。
これは、かのイエス・キリストが「最後の晩餐」で暗にユダに差し向けた言葉だ。
しっかりと、福音書(新約聖書)のマタイ伝とルカ伝にも書かれている。
それにしても、これが「赦し」を説いた神の子イエスの言葉だとは、とても思えない。
本当にイエスはそんなことを言ったのだろうか。
マタイやルカがユダを憎むばかりに、そう書いてしまっただけではないか。
いやいや、イエスだって人間だ。
無限の「赦し」なんて為しえないんじゃない?
いやいや、神にしかなしえない「赦し」を人間でもできるといったのがイエスじゃないか。
この言葉を神の子の言葉とするか、人間の言葉とするか。
いずれにせよ、この言葉がユダの裏切りを引き起こし、そしてイエスは歴史的な宗教者としてその名を歴史に残した。

今回の課題図書・「駆込み訴え」で太宰治が描いたのは、人間イエスを愛したユダの愛憎であり、嫉妬であり、ボーイズラブだ。
人間の、いや男の嫉妬の浅ましさは、かくも屈折した怨念に至るのか。

私は今まであの人を、どんなにこっそり庇かばってあげたか。誰も、ご存じ無いのです。あの人ご自身だって、それに気がついていないのだ。いや、あの人は知っているのだ。ちゃんと知っています。知っているからこそ、尚更あの人は私を意地悪く軽蔑けいべつするのだ。あの人は傲慢ごうまんだ。

「あの人」(イエス)の奇跡は、すべて「私」(ユダ)が仕込んでやったものだ。
「二匹の魚と五切れのパン」を「五千人」分に増やしたという奇跡。
クリスチャン系の学校に通ったことのある参加者によれば、この場面はわずかなパンと魚を少しずつ分け合ったと教えられるそうだ。
でも、五千人というのが大げさな数字だとしても、二匹の魚と五切れのパンをどうやって分けるのか。
これって、商才に長けたユダが裏で買い集めたんじゃない?
じゃあ、水をぶどう酒に変えたっていう奇跡も、手品よろしくユダが仕込んだもの?
湖上を歩いた奇跡も、ユダが水面下に潜って必死に支えていたんじゃないの?
そんな風に想像すると、けっこう笑える。

でも、そんなユダの愛の献身をイエスは知っていながら、いや知っているからこそ「私」を意地悪く軽蔑した、とユダは受け取った。
愛の歪んだ憎しみへの反転。
ストーカーって、こんな感じなんだろうね。
どんな理不尽な修行も受け入れられる師弟愛って、この愛情に近いものもあるよね。
でも、この「私」は、「あの人」と同い年であることにこだわっているよね。
師弟関係だけれど同い年って微妙なんだろうなぁ。
でも、そもそも「私」は宗教的な尊師としての「あの人」に興味ないよね。
宗教上の教えも信じていない。
ただただ、「美しい」存在としての「あの人」を愛しているのであって、「私」は別に神も天国も信じていない。
「人間イエス」を愛しているだけであって「神の子イエス」なんて信じてもいなければ、興味もない。
そもそも、イエスが「神の子」だなんて、実際は後付け話だったんだじゃないの。

クリスチャンがいたら「不敬」とも受け取られかねない「危ない」議論は、酒の力も借りてますます過激に続いていく。
いやいや、ちょっとまてよ。
この小説読んでいるとイエスの人間性が、かなり人間臭くていやらしいものに思えてくるけれど、これって、あくまで「太宰」が描いた「イエス」像であり「ユダ」像だからね。
あやうく太宰の文章力に引っ張られがちになるけれど、そこんとこを忘れないように。

この小説、というか一人語りには段落がない。
最初にそのことを指摘する声もあったけれど、実は二つだけ段落分けがあることを見つけた参加者がいた。
最初の訴えの掛け声である段落。
そこから、「あの人」への怨嗟を一気呵成に弁じる段落。
そして、もはや「あの人」が刑に処せられることが避けられないと悟った後の段落。
たしかに、大きな感情の起伏と変転は、この小説の魅力の一つだ。
なかでも、一度だけ「私」の頑な心が解きほぐされる場面がある。

あの人が、春の海辺をぶらぶら歩きながら、ふと、私の名を呼び、「おまえにも、お世話になるね。おまえの寂しさは、わかっている。けれども、そんなにいつも不機嫌な顔をしていては、いけない。寂しいときに、寂しそうな面容おももちをするのは、それは偽善者のすることなのだ。寂しさを人にわかって貰おうとして、ことさらに顔色を変えて見せているだけなのだ。まことに神を信じているならば、おまえは、寂しい時でも素知らぬ振りして顔を綺麗に洗い、頭に膏あぶらを塗り、微笑ほほえんでいなさるがよい。わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかっていて下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」そうおっしゃってくれて、私はそれを聞いてなぜだか声出して泣きたくなり、いいえ、私は天の父にわかって戴かなくても、また世間の者に知られなくても、ただ、あなたお一人さえ、おわかりになっていて下さったら、それでもう、よいのです。私はあなたを愛しています。


「私、あなたのために頑張っていますよ」と口に出さずとも、それを評価されない「寂しさ」をしぐさや表情に出して「わかってよ!」と訴えることは、「偽善者」のすることなんだ。
心の裡や動機を見せるなよ。
右手のすることを左手に教えちゃだめよ。
でも、そんな説法より「私」は、「私」をわかってくれた「あなた」(イエス)の承認の方に喜びを感じてしまう。

これって、神以上にイエスに対するユダの信仰なんじゃない。
そんな話にもなった。
信仰と愛のあいだに境界はあるのだろうか。
どうなんだろうね。
信仰は盲目の愛なのだろうか。
でも、少なくとも「私」は「あなた」への「無償の愛」を訴えながらも、「あなた」の「承認」という見返りを求めちゃっているよね。
それは姿かたちのない無限の神(ヤハウェ)への信仰や愛とはやっぱり違う、人間への信仰や愛なんじゃないかな。
姿かたちある人間を信仰してしまうことは、やっぱり無償ではなくある種の「見返り」を求めざるを得ない関係構造になってしまう。
本人がそれを求めていなくても、である。
見返りを求めない愛の純粋贈与は、実在をみえる形では証明できない「神」であるがゆえに可能になるんじゃないかな。
でも、この小説において「私」はそんなの関係ない。。
神じゃなくて、「あなた」を愛しているのだ(おや、いつの間にか「あの人」が「あなた」に変わっている)。
だから、そんなの放っておいて、お母さんのマリアと一緒に三人で暮らそうなんて言う。
でも、「あなた」は妻を娶ってもいいともいう。
「私」は「あなた」と夫婦になりたいわけではないらしい。
でも、彼を独占したい。なんだろうこの関係性。

マグダラのマリアへの嫉妬にも狂った。
エルサレムの宮殿での暴挙・狂気にうんざりさせれて、もはや「あなた」が殺されざるを得ない最後の運命を悟った。
愛する「あなた」が他人に殺されるくらいなら、「売られる」くらいなら、「私」が「売ろう」。
理解されなくても、それが「私」の「純粋な愛」の証明である、と「私」は悟る。
それでも、「あなた」の寂しそうな姿に、「私」はその歪んだ愛の表現である「裏切り」の考えを一瞬、悔い改めた。
しかし、しかし、残酷にも、その「私」の一瞬の改心、一瞬の悔い改めは「あなた」に伝わらなかった…

あの人も少し笑いながら、「ペテロよ、足だけ洗えば、もうそれで、おまえの全身は潔きよいのだ、ああ、おまえだけでなく、ヤコブも、ヨハネも、みんな汚れの無い、潔いからだになったのだ。けれども」と言いかけてすっと腰を伸ばし、瞬時、苦痛に耐えかねるような、とても悲しい眼つきをなされ、すぐにその眼をぎゅっと固くつぶり、つぶったままで言いました。「みんなが潔ければいいのだが」はッと思った。やられた! 私のことを言っているのだ。私があの人を売ろうとたくらんでいた寸刻以前までの暗い気持を見抜いていたのだ。けれども、その時は、ちがっていたのだ。断然、私は、ちがっていたのだ! 私は潔くなっていたのだ。私の心は変っていたのだ。ああ、あの人はそれを知らない。それを知らない。ちがう! ちがいます、と喉まで出かかった絶叫を、私の弱い卑屈な心が、唾つばを呑みこむように、呑みくだしてしまった。言えない。何も言えない。あの人からそう言われてみれば、私はやはり潔くなっていないのかも知れないと気弱く肯定する僻ひがんだ気持が頭をもたげ、とみるみるその卑屈の反省が、醜く、黒くふくれあがり、私の五臓六腑ろっぷを駈けめぐって、逆にむらむら憤怒ふんぬの念が炎を挙げて噴出したのだ。ええっ、だめだ。私は、だめだ。あの人に心の底から、きらわれている。売ろう。売ろう。あの人を、殺そう。そうして私も共に死ぬのだ、と前からの決意に再び眼覚め、私はいまは完全に、復讐ふくしゅうの鬼になりました。

イエスよ、汝が神の子であるならば、ユダのそのくらいの心理を読み取れよ…
そんな思いにもかられた。
もっとも、それが太宰の思惑にまんまとはめられたことの証左でもあるのだけれど。
結果として、神も天国も信じていない、ただただ人間としてのイエスを愛したユダの裏切りは、歴史に「神の子」としてのイエスを実現してしまう。
意図しなかったこの歴史の結末を、ユダは「いや、違う、違うんだよ!そういうことをしたかったわけじゃないんだ!」と、あの世で神に「駆込み訴え」していたかもしれない。
おっと、危ない、危ない。
これも太宰によってはめられた解釈なのだ。


相変わらず、この会の最後は、酒の力によっていつの間にか小説の話題からフェイドアウトしていった。
それでも、マスターであるふるほんやかずのぶ氏のチョイスはさすがだ、と思われるほど、みんな饒舌に語った。
ふるほんや氏は、この「駆込み訴え」を演じた小林エレキ氏の一人芝居の見事さを語ったことも印象的だった。
そのスーツ姿で演じたという一人芝居は、「はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」という最後のセリフを言いながら名刺を差し出すという場面で幕を閉じたという。
想像するだに、さぞ圧巻の演技だったのだろう。
それを見てみたい!そんな思いにもかられた。
聖書に関してあまり知らないという参加者は、ずっと女性の話だと思いながら読み進めていたところ、この最後のセリフによってはじめて「ユダ」の話だったことに気づかされたという。
素敵な読みの過程だったと思う。
そんな余計な知識や先入観を持たずに読みすすめるというのは、どんな読書体験だったのだろう。
ファシリテーターがいないからこそ自由に語れるという感想を漏らした参加者もいた。
酒の力がそれを可能にするのだろうか。
でも、やっぱり、酒の力は記憶を留めておかない。
もっと、たくさん面白い話題になっていたはずだ。少なくともその印象は饗宴の強烈な楽しさとして残っている。
各自、覚えている人は断片だけでもコメントに残してくれないだろうか。(文・渡部 純)

【満員御礼】仕事帰りに一杯ひっかけながら文学をグダグダと語る会―太宰治「駆込み訴え」

2017-08-29 | 文学系
           

【日時】2017年9月1日(金)19:00~21:00
【会 場】魚よし・本町店  ※変更しました母屋たすいち(福島市置賜町5-2)
【テーマ】太宰治「駆込み訴え」
【参加費】飲み代(割り勘)
【カフェマスター】 ふるほんやかずのぶ



仕事帰りの居酒屋で一杯ひっかけながら、文学をグダグダ語り合ってみませんか?
第一回目の「中島敦編」が大成功に終わった勢いで、さっそく第2回の企画がその場で決まってしまいました。
第2回の「仕事帰りに一杯ひっかけながら文学を読む会」は、太宰治「駆込み訴え」です。
今回もカフェマスターの暑苦しい文学愛が迸ることでしょう。

なお、週末の居酒屋は混雑することが予想されますので、8月25日までにこのブログのメッセージか、カフェロゴのFacebookへのメッセージにて参加申し込みをお知らせください。
定員いっぱいとなりましたので、参加希望を締め切らせていただきます