濃密な読書会だった。
ドストエフスキー『悪霊・別冊スタヴローギン』を読むだけでは済まず、やっぱり全巻読み通しておくべきだった、と後悔した。
もちろん読み通してきた人もいる。
挫折した人もいる。
でも、参加した8名の話し合いはすごかった。
まず、カフェマスターの深瀬さんから前説がある。
「白痴」のムイシュキンが現代に賦活したイエスを復活させた善の化身だとすれば、スタヴローギンは悪の化身として描かれている。
そのスタヴローギンが少女マトリョーシャを凌辱し、自殺に追いやったことをチーホンに告白をしに行くところを描いたのが本書だが、なぜチーホンに告白しに行ったのか?チーホンはそれをどう受け取ったのか?
深瀬さんはこうした問いを立てる。
スタヴローギンは罪を本質的に理解しているのではないか。スタヴローギンは存在論的に罪を自覚していたんじゃないか。
以上がドストエフスキーの罪の思想が表れているし、『悪霊』の他の登場人物は戯画化しているが、本気で書いているのはスタヴローギンだけではないか。
そこにはどこかドストエフスキーの二重性を感じる。
すなわち、彼は地下室者の手記を書く前にシベリア流刑から戻ってくるのだけれども、ロシア社会の急進化に参画したために死刑判決を下され他後に、恩赦を受け解放されたことが背景にある。
そこからドストエフスキーはこの時期から二枚舌になったんじゃないか。
それを彼は「永遠の二重性」という言葉で言い表している。
なるほど。
深瀬さんの解説には深い学識があり、感銘を受けた。
それでもスタヴローギンは罪を自覚していたといえるのだろうか。
いや、自覚していたからこそ、「自分で自分を許すことが最大の目的だ」と言いながら、「あなたは私に必要ない」と嘯きながらもチーホンの元へ行ったのではなかったか。
しかし、彼を深い不安に陥れる罪の自覚は、そこから逃れたいがために少女凌辱の事実を文書に書き、公衆に示そうとする行動に駆り立てる。
その記述がスタヴローギンの告白だ。
自分のどうしようもない残虐性、悪、その実体を克明に記述する。
しばしば「スタヴローギンより」というタイトルは、聖書の使途「〇〇より」になぞらえているという指摘があるように、キリスト教的告白のスタイルによって、自分の矛盾を記述することで逆説的に善を示そうとすることのようにも思える。
そこにチーホンはキリスト教思想が深く示されていることを指摘する。
しかし、それが本当に罪の自覚であったのか。
チーホンはその指摘の後に「ただし…それが本当の意味で懺悔であるのならば」と付け加える
ここに引っ掛かりを覚える。
深瀬さんが存在論的に罪を自覚したというスタヴローギン。
しかし、その自覚とは何か。
チーホンは公衆の目にその罪をさらすことで罪が贖えると考えるスタヴローギンに、その不十分性を読み取ったのではなかったか。
そもそもスタヴローギンは、罪状の事実を公衆にさらすことで罪が購えると考えたのは、それによって受ける嘲笑や非難という苦痛によって清められると考えたからではなかったか。
あれはそれを「深化させるため」という。
しかし、そんなものはとってつけた戯言ではないか。
アドルフ・アイヒマンですら、裁判中に自分の犯したホロコーストの事実を、後世の教訓として自伝に公開する予定があると語りだし、裁判長に「それは君が今、この場でやるべきことだ!」と叱責される。
どうも、公衆に洗いざらい告白すれば自分の負い目や罪の重さから解放されるというのは、悪を犯した人間に共通する心理のようだ。
しかし、それによって彼の罪は許されるわけではないのは言うまでもない
彼が許しを請えるのはただ一人、マトリョーシャだけである。
しかし、その彼女は自死してしまった。
いくら公衆からの罰を受けても、彼を責め続けるマトリョーシャの亡霊、目は消えるわけではない。
司祭であるチーホンは、それは唯一神による許しを求めるほかないし、いくら無神論を嘯こうともスタヴローギンは既にそれは許されてるともいう。
しかし、最終的に彼はそれを受け入れきれなかった。
「自分で自分を許すこと」。
その不可能性を彼が突破するのかどうか。その彷徨の物語こそスタヴローギンの告白ではなかったか。
このことを深瀬さんの問いに差し戻すならば、彼はチーホンを必要としないと嘯きながら、彼の予知性や予言性をまさに予知的に感じていた。
そうであるがゆえに、彼は自分で理由もわからずに、チーホンのもとへすがるように向かった。
すると、彼は神の許しを既に自覚していた?
もちろん、彼自身はそれを否定する。
しかし、彼の矛盾に満ちた数々の行動をどう理解すればよいのか。
スタヴローギンという偽悪に満ち満ちた人物ですらも、すでに神に包摂された存在として、その全体性のなかで足掻くちっぽけな「存在論的悪」(深瀬)として抱擁されている、ということなのか。
というテキスト読解に終始するだけでは、『悪霊』を読み解けないということを阿部さんは指摘する。
その背景にある農奴解放やロシア革命前夜を予言的に示唆することにこそ、『悪霊』のすごみがある、というのだ。
革命の英雄譚ではない。
むしろ、この小説では登場人物のほとんどが死んでいく。
それもスタヴローギンに影響され、翻弄されながら革命という観念に身を投じていく若者の情熱的な姿は、ある種の狂気を彷彿とさせる。
それが日本では連合赤軍のような学生運動の時代に『悪霊』が注目されたことは無関係ではない。
何がそうさせたのか。
人間の内在的な悪ではない。
舞踏の聖書の引用にある「豚の悪霊」は、悪霊が外側から憑依するものとして描かれており、それが人間の悪性を実現させる。
もし、オウム真理教事件の時に誰かがこの小説に注目していれば、よりお蔵にとって違ったリアリティを与えたのではないか。
こうした社会背景や文脈を踏まえて読むことは、『悪霊』の悪霊性をより際立たせる読み方としてスリリングさを可能にする。
それにしてもスタヴローギンという人物はつかみどころがない。
決して自ら悪を実行するわけではない。
周囲を先導し、忖度させ悪を実行させるフィクサー的人物。
そうであるがゆえに、彼が悪をなしたとはだれも証明できない。
マトリョーシャの自殺もスタヴローギンが原因だと走らない。
ただ、無神論者の彼においても自分自身だけがそれを知っている。
そして、その自分自身だけは死なない限りいつまでも付きまとって離れない告発する主体である。
その意味でマトリョーシャは彼ではなかったか。
彼が自分自身から許しを得るということは、その意味であろう。
しかし、それはいかに自分につきまとって告発しようと、マトリョーシャの代理表象に過ぎない。
真に許しの主体であるマトリョーシャはこの世にいない。
許しえぬ悪の許しは如何にして可能か。
しかし、存在論的悪としたスタヴローギンですらも、こうした自己告発的な良心は存在するのかもしれないが、それが生じない悪はどうすればいいのだろう。
その点で、ドストエフスキーの悪はキリスト教の伝統的な悪の延長線上にある。
このほか、文体が人物の外側と内側を往還する書き方であることもそのわかりにくさを与えているという感想もあった。
東欧スラブ圏語学を専門とする参加者からは、逐一ロシアらしさや表現体の統制を指摘していただいた。
これに尽きない議論の数々に、ものすごい知性の集いだったことを感じ入った。
テキストがそれ可能にさせるという点で、やはりドストエフスキーは偉大なり、ということなのだろう。(文・渡部純)
ドストエフスキー『悪霊・別冊スタヴローギン』を読むだけでは済まず、やっぱり全巻読み通しておくべきだった、と後悔した。
もちろん読み通してきた人もいる。
挫折した人もいる。
でも、参加した8名の話し合いはすごかった。
まず、カフェマスターの深瀬さんから前説がある。
「白痴」のムイシュキンが現代に賦活したイエスを復活させた善の化身だとすれば、スタヴローギンは悪の化身として描かれている。
そのスタヴローギンが少女マトリョーシャを凌辱し、自殺に追いやったことをチーホンに告白をしに行くところを描いたのが本書だが、なぜチーホンに告白しに行ったのか?チーホンはそれをどう受け取ったのか?
深瀬さんはこうした問いを立てる。
スタヴローギンは罪を本質的に理解しているのではないか。スタヴローギンは存在論的に罪を自覚していたんじゃないか。
以上がドストエフスキーの罪の思想が表れているし、『悪霊』の他の登場人物は戯画化しているが、本気で書いているのはスタヴローギンだけではないか。
そこにはどこかドストエフスキーの二重性を感じる。
すなわち、彼は地下室者の手記を書く前にシベリア流刑から戻ってくるのだけれども、ロシア社会の急進化に参画したために死刑判決を下され他後に、恩赦を受け解放されたことが背景にある。
そこからドストエフスキーはこの時期から二枚舌になったんじゃないか。
それを彼は「永遠の二重性」という言葉で言い表している。
なるほど。
深瀬さんの解説には深い学識があり、感銘を受けた。
それでもスタヴローギンは罪を自覚していたといえるのだろうか。
いや、自覚していたからこそ、「自分で自分を許すことが最大の目的だ」と言いながら、「あなたは私に必要ない」と嘯きながらもチーホンの元へ行ったのではなかったか。
しかし、彼を深い不安に陥れる罪の自覚は、そこから逃れたいがために少女凌辱の事実を文書に書き、公衆に示そうとする行動に駆り立てる。
その記述がスタヴローギンの告白だ。
自分のどうしようもない残虐性、悪、その実体を克明に記述する。
しばしば「スタヴローギンより」というタイトルは、聖書の使途「〇〇より」になぞらえているという指摘があるように、キリスト教的告白のスタイルによって、自分の矛盾を記述することで逆説的に善を示そうとすることのようにも思える。
そこにチーホンはキリスト教思想が深く示されていることを指摘する。
しかし、それが本当に罪の自覚であったのか。
チーホンはその指摘の後に「ただし…それが本当の意味で懺悔であるのならば」と付け加える
ここに引っ掛かりを覚える。
深瀬さんが存在論的に罪を自覚したというスタヴローギン。
しかし、その自覚とは何か。
チーホンは公衆の目にその罪をさらすことで罪が贖えると考えるスタヴローギンに、その不十分性を読み取ったのではなかったか。
そもそもスタヴローギンは、罪状の事実を公衆にさらすことで罪が購えると考えたのは、それによって受ける嘲笑や非難という苦痛によって清められると考えたからではなかったか。
あれはそれを「深化させるため」という。
しかし、そんなものはとってつけた戯言ではないか。
アドルフ・アイヒマンですら、裁判中に自分の犯したホロコーストの事実を、後世の教訓として自伝に公開する予定があると語りだし、裁判長に「それは君が今、この場でやるべきことだ!」と叱責される。
どうも、公衆に洗いざらい告白すれば自分の負い目や罪の重さから解放されるというのは、悪を犯した人間に共通する心理のようだ。
しかし、それによって彼の罪は許されるわけではないのは言うまでもない
彼が許しを請えるのはただ一人、マトリョーシャだけである。
しかし、その彼女は自死してしまった。
いくら公衆からの罰を受けても、彼を責め続けるマトリョーシャの亡霊、目は消えるわけではない。
司祭であるチーホンは、それは唯一神による許しを求めるほかないし、いくら無神論を嘯こうともスタヴローギンは既にそれは許されてるともいう。
しかし、最終的に彼はそれを受け入れきれなかった。
「自分で自分を許すこと」。
その不可能性を彼が突破するのかどうか。その彷徨の物語こそスタヴローギンの告白ではなかったか。
このことを深瀬さんの問いに差し戻すならば、彼はチーホンを必要としないと嘯きながら、彼の予知性や予言性をまさに予知的に感じていた。
そうであるがゆえに、彼は自分で理由もわからずに、チーホンのもとへすがるように向かった。
すると、彼は神の許しを既に自覚していた?
もちろん、彼自身はそれを否定する。
しかし、彼の矛盾に満ちた数々の行動をどう理解すればよいのか。
スタヴローギンという偽悪に満ち満ちた人物ですらも、すでに神に包摂された存在として、その全体性のなかで足掻くちっぽけな「存在論的悪」(深瀬)として抱擁されている、ということなのか。
というテキスト読解に終始するだけでは、『悪霊』を読み解けないということを阿部さんは指摘する。
その背景にある農奴解放やロシア革命前夜を予言的に示唆することにこそ、『悪霊』のすごみがある、というのだ。
革命の英雄譚ではない。
むしろ、この小説では登場人物のほとんどが死んでいく。
それもスタヴローギンに影響され、翻弄されながら革命という観念に身を投じていく若者の情熱的な姿は、ある種の狂気を彷彿とさせる。
それが日本では連合赤軍のような学生運動の時代に『悪霊』が注目されたことは無関係ではない。
何がそうさせたのか。
人間の内在的な悪ではない。
舞踏の聖書の引用にある「豚の悪霊」は、悪霊が外側から憑依するものとして描かれており、それが人間の悪性を実現させる。
もし、オウム真理教事件の時に誰かがこの小説に注目していれば、よりお蔵にとって違ったリアリティを与えたのではないか。
こうした社会背景や文脈を踏まえて読むことは、『悪霊』の悪霊性をより際立たせる読み方としてスリリングさを可能にする。
それにしてもスタヴローギンという人物はつかみどころがない。
決して自ら悪を実行するわけではない。
周囲を先導し、忖度させ悪を実行させるフィクサー的人物。
そうであるがゆえに、彼が悪をなしたとはだれも証明できない。
マトリョーシャの自殺もスタヴローギンが原因だと走らない。
ただ、無神論者の彼においても自分自身だけがそれを知っている。
そして、その自分自身だけは死なない限りいつまでも付きまとって離れない告発する主体である。
その意味でマトリョーシャは彼ではなかったか。
彼が自分自身から許しを得るということは、その意味であろう。
しかし、それはいかに自分につきまとって告発しようと、マトリョーシャの代理表象に過ぎない。
真に許しの主体であるマトリョーシャはこの世にいない。
許しえぬ悪の許しは如何にして可能か。
しかし、存在論的悪としたスタヴローギンですらも、こうした自己告発的な良心は存在するのかもしれないが、それが生じない悪はどうすればいいのだろう。
その点で、ドストエフスキーの悪はキリスト教の伝統的な悪の延長線上にある。
このほか、文体が人物の外側と内側を往還する書き方であることもそのわかりにくさを与えているという感想もあった。
東欧スラブ圏語学を専門とする参加者からは、逐一ロシアらしさや表現体の統制を指摘していただいた。
これに尽きない議論の数々に、ものすごい知性の集いだったことを感じ入った。
テキストがそれ可能にさせるという点で、やはりドストエフスキーは偉大なり、ということなのだろう。(文・渡部純)