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聖母マリアの御告げの大祝日 Frestum Annuntiationis B. Mariae V.

2025-03-25 00:00:07 | 聖人伝
聖母マリアの御告げの大祝日 Frestum Annuntiationis B. Mariae V.   大祝日 3月 25日



聖マリアの親戚聖エリザベトが懐妊して六月目の事であった。ある日大天使ガブリエルがマリアの許に現れ、「めでたし、恩寵に満てる者よ、主は御身と共に在す。御身は女の中にて祝せられた者であります」と、突然思いがけない祝辞を述べた。そのわけを知らぬマリアは大いに驚き、何事の祝辞かと思い惑っていられると、天使はまた言葉を継ぎ「ご心配には及びません。御身は天主の特別な御恩寵を得られたのであります。御身は懐胎して一子を儲けられるでありましょう。また主なる神はその御子に祖先ダビデの玉座を賜うて、ヤコブの家を限りなく治め、その治世は世々に終わる時がありますまい」と言った。それでマリアも事の次第を始めて悟られたが、彼女は同じダビデ家の裔聖ヨゼフと許嫁の間柄であるものの。まだ一度も同居された事がないのであるから懐胎すべき道理がない。そこで念の為に「私はまだ夫を知らぬ童貞女ですのに、どうして左様な事がございましょう」と訪ねられた。すると天使は答えて「聖霊が御身に臨み給い、最高き者の御能力が御身に働くのであります。されば御身より生まれるべき聖なるものは神の子と称えられるでありましょう・・・」と説明した。ここに於いて一切を豁然と大悟されたマリアは謹んで、「私は主の御召使いであります。仰せの通り私を如何様ともお用下さい」と天主の御摂理に一身を献げる決意を名言「されたが、それと同時に大天使の姿は何れへか消え失せてしまった。以上がルカ聖福音書中に記されている、マリアが天使の御告げを蒙られた有様の大略である。

 人祖が罪を犯して以来断ち切られた天主と人間との関係を再び快復する大任を帯びた救い主は、どうしても天主であり同時に人間であるお方でなければならない。そしてかようなお方は無上の霊なる天主を父とし、人間を母として世に降誕すべきはずであった。だがそのははたる人はいやしくも至聖限りなき天主の御子を宿すのであるから、全く他の被造物に触れられぬ清浄潔白な童貞女で、しかも天主のみを熱愛している方たるを要する。即ちその清さは「近づくべからざる光に住み給う神」(テモテオ前書6-16)の如く神々しくして人のなれるを許さず、ケルビムに護られる「閉じたる園」の如くその霊魂の内に被造物の穢れた足跡を印せしめず、ただ向日葵の花の太陽を慕うが如く天主に向かってのみ無垢の全身全霊を献げる者でなければならなかったのである。

 世界の開闢より終末に至るまで世に現れる人間の数幾千億兆、その中から天主の全知の御眼に映った所用の少女が唯一人あった。天主はその生まれぬ先から無限の愛を之に注がれた。この永劫の昔から永劫の未来に亘って天主の愛、聖寵に充満ちたる者それこそナザレトの少女マリアに他ならなかった。
しかしいかに天主が浄配と選び給うても相手の少女に従う意志がなければいかんとも為し難い。が、聖マリアは四方に「閉じられた園」が天に向かってのみ広く開いている如く、地上の物には心を閉ざしても天主に向かっては前例を開き、日頃から何事も聖旨のままに従う意志があり、且つ今大天使に対してその旨を確言された。かくて聖霊の御作用に救い主なる神人はマリアの御懐胎に宿り、天主悠久の御計画、救世の大事業はめでたく緒に就くに至ったのである。

 童貞女のまま母になられた聖マリアは、今までの純潔な心に、母としての優しい愛情、子のためには己を忘れる妙なる犠牲の精神の、新たに湧くのを覚えられた。そして聖い御子を温かい懐にひしと抱き締め給うては、天主への愛と奉仕に、一層熱情の燃え立つのを感じられたのであった。聖マリアが人類の母、殊に洗礼により新たに生まれ、かたじけなくも主キリストと兄弟の縁に連なった我等信者の母として、種々斡旋されるのも、畢竟はこの天主への愛の延長で「天主を愛するが故にその造られた物をも愛する」超自然的愛によるのである。

 聖母は天主御子を生み給う時には何ら苦しみを感ぜられなかったが、我等を超自然的の子として生み給う時には激しい陣痛に悩まされた。というのは、彼女が我等の母と立てられ給うたのは。最愛の御子イエズスが世の罪を贖うために十字架に磔けられて、聖母の胸も鋭き剣で刺し貫かれるような苦痛を感じられた折りであったからである。即ちその時イエズスは十字架上から御母を顧みて、我等の代表者ヨハネを「これ御身の子なり」と仰せられたが、聖マリアが第二のエワとして人類の母ー滅びの母ではない。永遠の生命の母ーとなり給うたのは、この主の御宣言によるのである

 ああ、きずなく穢れなき童貞、救いの御母、何という神秘的な存在であろう!それにしても人類の救済に、かような清き「永遠の少女にして母なる、完全な女性を用い、人類を滅びに導いたエワの罪を償い、溢れる聖寵の泉とされた天主の御摂理のいみじさには、唯ただ感嘆する他はない。

教訓

 我等も御告げを受けさせられた童貞女マリアの貞潔に倣い、心を清く守ると共に、又一方には聖母の我等に対する超自然的母性愛を頼みとして。天主に執り成しを願い、又その子たるにふさわしく徳の道を進むべきである。















大天使聖ガブリエル St. Gabriel Archangelus

2025-03-24 00:00:07 | 聖人伝
大天使聖ガブリエル St. Gabriel Archangelus               記念日 3月 24日


 救い主イエズス・キリストは弟子達を選び給う時之に向かって「誠にまことに汝等に告ぐ、汝等は天開けて神の使いたちが人の子の上に上り下りするのを見るであろう」(ヨハネ1-51)と仰せになった。主はこの聖言を以て御自分が天使達と親しく交わり給う事を示されたのである。実際聖福音書をひもとけば、天使達が現れて主にお仕えした例が少なからず発見されるが、中でも本日祝う大天使ガブリエルの如きは、最も聖主と深い関係を有し、特別な使命を委ねられた方と言うことが出来よう。ガブリエルはまず聖書にその名を記された三大天使の一位であって、又ラファエルの如く主の御前に立つ七天使の一位でもある。従って彼は天使の九階級中最上の階級に属し、「天主の力」という意味のガブリエルと命名されて救世主に現れた天主の全能を示すべく定められたのであった。

 聖書を調べて見ると、救い主に関連して大天使ガブリエルの世に遣わされた事が三度あった。その最初は旧約時代預言者ダニエルに現れ、「エルサレムを建て直せという命令の出ずるより、メシアたる君の起こるまでに七十週あり(中略)その後にメシアは殺されるであろう(中略)しかして主はその週の半ばに犠牲と供え物とを廃し給うであろう。また神殿は全く毀たれるであろう」(ダニエル9・21-27)と語って救世主御来臨の期その他を告げ知らせたのがそれである。ここにある週とは普通の一週七日を指すのではない。七年を一週としたのである。されば七十週とは490年に当たる。これを事実に徴すればイエズスが降誕されたのは正しくユダヤ人達がバビロニアの捕虜たる運命を免れて、敵軍の為に荒らされたエルサレムの再建を始めた時から490年目の事であった。また一週の半ば、即ち約35歳(正確には33歳)にして聖主が十字架上に尊き御血を流し給い、旧約の犠牲供物を一切廃し、代わりに世の終わりまで続くべき潔き御聖体を献げる御ミサの祭りを創め給うた事も、なおその御死去の三十年後エルサレムに攻め入ったローマの将軍ティトの軍勢の為に神殿が余すところなく破壊された事も、ことごとく預言通りに実現したのである。

 かように大天使ガブリエルはダニエルの預言に依ってユダヤ人達に救い主を迎える心の準備をさせようとしたが、いよいよ預言の時満ちて救い主の御降誕が迫るや、彼は再び天主に遣わされて今度は「主の道を直くする」洗者聖ヨハネの誕生を告げる為にその父ザカリアの許に現れた。この人はユダヤ教の司祭であったが、長い間妻に子がないのを憂えて熱心に祈っていたが更にその効がなかった。所がある日神殿で香を焚こうとして香台の右を見ると、天使の姿が見えたので、驚き恐れていると天使は声をかけ「懼れるなかれザカリア、汝の祈りは聞き入れられた。妻エリザベトは汝に一子を生むであろう。その名をヨハネと名付けるがよい。その誕生は汝にも多くの人々にも大いなる喜びをもたらすであろう。即ち彼は主の御前に偉大にして、葡萄酒と酔う物とを飲まず、母の胎内より既に聖霊に満たされるであろう。またイスラエルの多くの子を主たるその神に帰らしめ、エリアの精神と能力とを以て主の先駆者となるであろう。これ主の為に完全なる人民を備えんとて、先祖の心を子孫に立ち帰らせ、不信者を義人の智識に立ち帰らせん為である。」と言い、不信の罰としてヨハネの誕生までおしとならしめた。かようにして天使に対する不従順は帰する所天主に対する不従順であるという事を示したのである。

 最後にガブリエルが世に遣わされた使命は、彼にとって最も喜ばしくも又光栄なものであった。それは救世主の聖母と選ばれ給うたナザレトの童貞女聖マリアの許に使いした事である。彼は出現するや、清浄潔白いささかの罪の穢れもないマリアを天使に優る天の元后と仰ぎ尊び、まず深くへりくだって「めでたし、恩寵に満てる者よ、主御身と共に在す。御身は女の中にて祝せられた御方でございます」と言った。そしてマリアが何故かように讃美せられるのであろうと驚いて居られるのを見ると、重ねて「懼れるに及びませぬ、御身は天主の御前に恩寵を得られました。御身は懐胎して一子を生まれるでありましょう。その名をイエズスと名付けられるがよろしい。彼は偉大にして最高き者の子と称えられるでありましょう。また主なる神は之にその父ダビデの玉座を賜うてヤコブの家を限りなく治め、その治世は世々に終わるときがないでありましょう」と語りマリアがイスラエルの民に多年待望されて来た救い主の名誉ある聖母と選ばれた事を告げた。それからなおもマリアにその懐胎が童貞を破らずして天主聖霊の全能により成就される事を説明し、彼女が感ずべき謙遜を示して「私は主の御召使いでございます。何事も思し召しのままに」と答えるのを聞くと、彼の使命は全く終わったのであるが、その時のマリアの従順の徳にはガブリエルも三嘆を禁じ得なかったに相違ない。かくてこの大天使は天主の救世の大事業の準備工作を果たしたのであった。

教訓

 大天使ガブリエルが三度も世に使いしてダニエルには救い主御降誕の時期を、ザカリアには主の先駆者ヨハネの誕生を、而してマリアには救い主の母となる事を告げたのは、天主方も救世の大業に深い関心を持ち、同時に又常に救いの玄義に対し我等人間の理解を深めようとしている事を示すものである。とにかく我等は救世の御計画が、いかに広大な天主の御憐れみから生まれたものであるかという事に思いを潜め、一層深い感謝の念を起こすと共に、その御恵みを無にせぬよう、常に偉大なる天使ガブリエルの権威ある代祷を願うがよい。




聖グイニア殉教者

2025-03-23 00:00:05 | 聖人伝
聖グイニア殉教者                                    記念日 3月 23日


 聖パトリックが5世紀にアイルランドを改宗させようと努力していた時、クリト王の宮廷で侮辱され、追い出されたことがあった。しかし王子のグイニアは父王よりも礼儀正しく、まだキリスト教徒ではなかったが、パトリックの信心深さを認めて、自ら立ち上がって自分の椅子を彼に差し出した。後に狩りをしながらキリスト教について考え、ついに信者となった。そして自分の馬を手放して隠修士として暮らし始めた。クリト王の死後、彼は宮廷に帰ったが、王位にはつかずに、770人の男女の信徒(改宗した妹のビアラも含めて)を集めて、ウェールズとブリタニーにキリスト教を広めた。

 ブリタニーのプビグナーで聖人が行ったと言われる奇跡の一つは動物に対する愛を示すものであった。水が不足したので聖人が地面を打ちたたいたところ、3つの泉が湧き出たので、その一つは自分の為、他の二つは彼の犬と牛の為とした。

 聖人とその仲間の多くは殉教者として天に召された。英国コーンウォールの暴君チューダーはキリスト教信者たちを長い間憎み、湖の中に爬虫類をたくさん入れておいて、自分の嫌いな人を投げ入れた。チューダーは、グイニアの仲間の後をつけてきて、彼等を殺したと言われている。

 グイニアは、彼等の死体を見て自分の殉教も遠くないことを知って、残された自分の仲間に言った。「みなさん、ここは私達の休む場所です。神様は、私達が働きを止めるようにと定められました。ですから喜んで私達の生命を神の為にささげましょう。体を殺す者を恐れてはなりません。むしろ体と魂の2つを地獄に投げ入れる力を持つ方を恐れましょう」。

 まもなく、グイニアはチューダーに捕らえられて首を切られた。彼の墓の上には後世、教会が建てられ、グイニアという村の名が、今に至るまで残り、ブリタニーで尊敬されている。







スウェーデンの聖女カタリナ乙女  St. Catharina a Suecia V.

2025-03-22 01:56:31 | 聖人伝
スウェーデンの聖女カタリナ乙女  St. Catharina a Suecia V.   記念日 3月 22日


 一口に善と言っても、天主の御命令を果たした善もあれば、その御勧告に従った善もある。御命令の場合には之を怠れば罪になるが、御勧告の場合には従わずとも別に罪にはならぬ。しかし従えば特別の功績となるのである。本日語らんとするカタリナはかような功績を立てた聖女であった。

 彼女は聖女ビルジッタの四女で1331年北欧スウェーデンに生まれた。母は彼女の為を思い、7歳の幼時に之を手放し、リセベルグの修道院に入れて教育する事にした。後カタリナは同院に於いて、自ら望んで終世童貞を守る誓願を立てたが、それと知らぬ父は独断で彼女をエドガーと呼ぶ貴族の一青年の妻とする取り決めをしてしまったのである。
 これを聞いて驚いたのはカタリナである。彼女は父に我が心を打ち明けて、修道女として一生を送りたいとひたすら願ったが、父はどうしても結婚せよと勧めて已まぬ。で、彼女は愛する父に背く心苦しさと、天主は必ず自分の童貞を護って下さるに相違ないという確信から、遂に父の意志に従う事としたのであった。
 かくて嫁いだカタリナは、自分が貞潔の誓願を立てた事実を話して了解を求めると、夫も一時は大いに驚いた様子であったが、幸いにもやはり敬神の念の篤い人であったから、よく彼女の願いを容れ、名は夫婦ながら兄弟の如く、あくまで清い交際に終始し、互いに愛し慰め励まし助け合って徳の道に精進した。カタリナの伝記を著した修士ウルフォは、この気高い夫妻について「二人は天主の園に相並んで生い立った二本の白百合の如く、麗しい貞潔の光に照り映えていた」と言っているが、蓋し適評であろう。
 彼等の結婚後間もなくの事である。カタリナの父は死去し、母は天主の召し出しを受けてローマに赴いた。この永遠の聖都はカタリナにとってもかねてからの憧れの土地で、わけても母が行ってからというものは一層そこへ巡礼したい望みが熾烈となり、殆ど抑えかねて果ては鬱々として病気にさえなった。夫エドガーはいたく之を憂え、いろいろと親切に問いただすので彼女がその訳を語ると、彼は快くローマへの巡礼を許してくれた。
 そこでカタリナは同じ年頃の友三名を選び、之と共に遙かな旅路に上った。当時はまだ汽車などの便もない頃とて18歳のうら若い女性には道中危険もすこぶる多かったが、幸いにしてつつがなく目指す都に着くと、カタリナはすぐその足で母の許を訪ねて見た。所が意外にも母の行方が解らない、方々探した揚げ句、やっと八日目にローマからやや離れた某修道院で対面する事が出来た。
 それから彼女は母に案内されてローマの諸聖地を巡礼すること数週間、念願を果たして帰国しようと思っている矢先、意外にも夫の訃報に接した。彼を愛していた彼女は一時悲嘆にくれたが、ようようにして気を取り直し、その後は母の許に留まり、二十四年間共に聖い生活を送り、病者を見舞い、助け、その為に祈り、仕え、善終の覚悟をさせるなどして働いたのである。
 巡礼好きなカタリナはその後も暇ある毎に市中の聖堂を参詣したがった。しかし当時教皇はアヴィニヨンに聖座を遷して居られ、ローマは甚だ風紀が紊乱していたから、母はまだ若い娘の身を心配してその一人歩きを禁じた。カタリナは始めそれが不満でたまらなかったが、天主の御光を受けて、巡礼するよりも母に従順であるこそ主の聖旨に適う所以と悟ったという。
 カタリナはまた聖母の小聖務日課、心霊修行、黙想等を好み、殊に主の御苦難を偲ぶには往々数時間に亘ってなお且つ倦む気色がなかったそうである。
 1372年カタリナは母と共に聖地パレスチナの巡礼に赴いたが、その際母は病を得て帰り遂に永眠した。カタリナはその遺骨を携えてスウェーデンに帰り、かつて母の建てたワドステナ修道院に葬り、自らも同院の修道女となり、数ある姉妹に言葉を以て行為を以て模範を示し、人々の尊敬をかちえて1381年50歳を一期としてこの世を去った。

教訓

 聖女カタリナは立派な志から童貞を守る願を立てたのに、父に悲しみをかけたくないばかりに、天主の御保護を確信して結婚を敢えてした。妻にして終世童貞!之は聖母にあやかるものである。されば天主も彼女の崇高な理想と、厚い信頼をよみしてその夫の心を和らげ、彼女の望み通りに計らい給うた。之は又彼女が父への孝心の為とも言えよう。何故なら孝行な子に特別な報酬のある事は、天主が第四戒於いて明らかに約束し給う所だからである。





フリューエの聖ニコラス

2025-03-21 00:00:05 | 聖人伝
フリューエの聖ニコラス                           記念日 3月 21日


 1481年、スイス連邦は崩壊しかけていた。戦争でほとんどの敵を敗北させたが、戦利品の分配の仕方や、フリブールとソルールとを連邦の中に入れるべきか否かの問題についても争っていた。
 その時、相談を持ちかけられたのは、ランフト村の聖堂の近くの小屋に住んでいた64歳の老隠修士のニコラス・フォン・フリューエであった。彼は読み書きも出来なかったが、スイスでは最も賢明な人物とみなされていたのである。聖人の勧告により、代表者達は有名なスタンスの布告を作り上げた。それは、国の平和と一致を救うものであった。

 彼はウンターワルデン近くの豊かな土地に生まれ、初め農業をしていたが、後に軍隊に入ってチューリッヒと戦い、14年後には司令官として再び戦った。
 敬虔な女性ドロテア・ウィスリングと結婚して10人の子供に恵まれたが、隠修士として余生を過ごすことを望んで、19年間、大部分を祈りと黙想にささげ、午後は彼の勧めを受けに来る人々に面会した。

 ニコラスは死んでから、愛国者および聖人としてスイス国中で崇められるようになった。