カトリック情報 Catholics in Japan

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聖ペテロの使徒座    

2025-02-22 00:00:07 | 聖人伝
聖ペテロの使徒座                              祝日  2月 22日


 およそ座には三種類のものがある。第一に、王たる尊厳の座である。「ダビデは、座についていた」と書かれている座のことである。第二は、司祭たる尊厳の座である。 「そのとき、祭司エリは、座にすわっていた」と書かれている座である。第三は、教師の座である。「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている」と書かれている座のことである。聖ベテロは、これらすべての座をしめていた。第一の座は、彼がこの世のすべての王たちの王であったから、第二の座は、役がすべての司祭たちのうえに立つ牧者であったから、第三の座は、彼が全キリスト教徒の教師であったからしめていたのである。                           
 教会は、聖べテロが教座を定めた日を祝日として祝う。なぜなら、記録に残っているように、この日聖ペテロは、非常な栄誉をもってアンティオケイアの司教座につけられたからである。この祝日が設けられた理由は、四つある。第一の理由は、こうである。聖ペテロがアンティオケイアとその周辺で説教していたとき、アンティオケイアの市長テオピロスは、「ぺテロよ、なぜわたしの人民をまちがった道にみちびくのか」とたずねた。べテロがキリストのことを説くと、テオピロスは、彼をしばって投獄し、食べものも飲みものもあたえてはならぬと命じた。べテロは、死に瀕した。そこで、彼は、もう一度全力をふりしぼり、眼を天にむけて言った。「イエズス・キリストさま、すべてのあわれな人間の救難者よ、どうかこの悲嘆のなかで滅びてしまわないようにわたしをお助けください」すると、主は、答えてこう言われた。「ペテロよ、わたしがあなたを見棄てたとおもっているのか。わたしのことをそんなふうにおもうのであれば、あなたは、わたしの慈悲に泥をぬっていることになります。あなたを助ける者がつねに近くにいることを知りなさい」聖パウロは、聖ペテロが捕らえられたことを聞いた。それで、テオピロスのところにのりこんで、自分はあらゆる技術の大家であって、木材や板に彫刻をしたり天幕に絵をかいたり、そのほかいろんなことにすぐれた腕をもっていると売りこんだ。まんまとひっかかったテオピロスは、自分のおかかえになって、この官邸に住むようにと、パウロを熱心にくどいた。数日後、聖パウロは、ひそかに聖ぺテロがとじこめられている牢に行き、べテロが衰弱しきって死にかかっているのを見た。そこでパウロは、はげしく泣き、大きな悲しみをおぼえながらペテロを抱擁し、こう言った。「おお、ペテロよ、親愛なる兄弟よ、わたしの名誉であり喜びである人よ、わたしのた
ましいの片われよ、わたしが来たのですから、元気をとりもどしてください」聖ペテロは、眼をあげてバウロだとわかり、おなじように泣いた。しかし、すっかり弱りはてていたので、口をきくことはできなかった。パウロは、べテロの口に食べものを流しこんでやったが、ペテロは、口をあけるのもやっとのことであった。しかし、その食べもののおかげで元気をとりもどすと、パウロの腕のなかに身を投じた。ふたりは、たがいに涙をながしあった。そのあと、聖パウロは、こっそりと牢から出て、テオビロスのところに行ってこう言った。「テオピロス閣下、あなたの名声とみやびな生活ぶりは、じつに見あげたもので、あなたの栄誉にふさわしいものです。しかし、これはどの美点も、ちょっとした汚点のために台なしになってしまいます。あなたがまるで立派なことででもあるかのようにべテロという名のあの神のしもべになされた仕打ちを思いだしてごらんなさい。と申しますのは、あのペテロは、身なりも粗末で、からだつきもみにくく、やせこけ、貧弱ですが、彼の説教だけは、たいへん高貴だからです。どうしてそんな人物を投欲するようなことをなさったのですか。自由の身にしてやれば、あなたのお役にたつ人物です。なんでも、わたしが聞きましたところでは、彼は、病人を治し、死人もよみがえらせたと言いますから」テオピロスは答えた。あなたが言うことは、つくり話にすぎん。というのは、もしあの男が死人をも生きかえらせることができるのであれば、自分の縛めを解くことぐらいできたはずではないか」パウロは言った。彼らの神キリストは、死から復活したけれども、十字架からは逃れようとはしなかったと聞いております。ですから、ひょっとしたら、あのペテロも、牢をぬけだしたりはしないで、彼の信じるキリストのために苦しみに耐えているのかもしれません」それにたいして、テオビロスは言った。彼のところへ行って、十四年まえに死んだわたしの息子を生きかえらせてくれるように言いなさい。そうしてくれたなら、彼を釈放しよう」パウロは、牢に行って、市長の息子を生きかえらせる約束をしてきたとペテロに話した。ペテロは答えた。「パウロよ、あなたは、むずかしいことを約束してきました。しかし、神のおん力にとっては造作もないことです」そこで、人びとは、ペテロを牢から出して、墓をあけた。聖ペテロは一心に祈った。すると、少年は、死からよみがえった。

 以上の話が、なにからなにまで信用できるとはおもえない。聖パウロ。がこのような世故にたけた略を弄し、絵描きや彫刻の腕前を売りものにして相手をぺてんにかけたとは考えられないし、少年が死後十四年というのもだんだんに誇張されてきたもののようにおもえるからである。

 さて、テオピロスをはじめとするアンティオケイアのすべての市民たち、さらにその他の多くの人びとも、キリスト教を信仰するようになった。そして、美しい教会を建てて、すべての人びとが聖べテロの姿を見、その説教を開くことができるように教会のなかに高い座を設け、そこにべテロをすわらせた。彼は、威厳と敬意とのうちに七年間その座についていた。その後、ローマにおもむき、ローマの教座に二十五年間ついていた。しかし、教会は、アンィオケイアで高座につけられた記念だけを祝う。なぜならば、当時教会の指導者たちは、まず最初に座と権能と名称とを高められたからである。このとき、『詩篇』に彼らは、民の集まりにおいて彼を高め、長老たちの座において彼をたたえるであろう」と書かれていたことが成就したのである。
 
 ここで留意しなくてはならないのは、聖ペテロが高い座につけられた教会に三つの種類があるということである。戦士たちの教会と悪者たちの教会と勝利者たちの教会とである。彼は、それらのどの教会においても高座につけられたので、教会は、年に三度彼の祝日を祝うのである。第一に、彼は、戦士たちの教会において高座につけられた。彼は、戦士たちの王であり、精神と信仰と徳とにおいて彼らを立派に統治したのであ。今日祝われるのが、その祝日であり、聖ペテロが教座を制定した日とよばれ。この日彼がアンティオケイアの司教の権能の座に高められ、以後七年間そこで立派に教会を統治したからである。第二に、彼は、悪者たちの教会においても高められた。彼自身が悪者たちの教会を破壊し、彼らをキリスト信仰へと改宗させたからである。われわれは、これを聖べテロの鎖の記念日に祝う。この日、彼は、悪者たちの教会を破壊し、多くの人びとをキリスト信仰こ改宗させ
たからである。第三に、彼は、勝利者たちの教会においても高座につけられた。なぜなら、彼は、天の至福にあずかり、勝利者たちの教会に入ったからである。われわれは、これを彼が殉教した日に祝う。この日、彼は、至福の人たちの仲間に高められたからである。われわれが聖ペテロの日を年に三度祝うのには、ほかにいくつかの理由がある。              軒
 第一の理由は、彼は、三つの点で他の聖人たちにまさるものを特別に賦与されていたことである。教会が年に三度彼の祝日を祝うのは、そのためである。彼は、使徒たちの王であり、天国への鍵をさずかっていたから、他の聖人たちよりも高い尊厳をもっていた。また、彼は、キリストにたいして他の聖人たちよりも大きな愛をもっていた。それについては、福音書に多くのことが書きのこされている。また、彼は、力という点においても他の聖人たちより聖寵に恵まれていた。その証拠に、彼があたえた影は、病人たちを健康にしたからである。これについては、『使徒行伝』に書かれている。
 第二の理由は、彼が全キリスト教界の最高位の聖職にあったことである。というのは、教会がアジアとアフリカとヨーロッパという三つの大陸に拡大したとき、聖ペテロは、それらすべてのうえに立つ最高位の聖職者であったからである。だから、われわれは、年に三度彼の祝日を祝うのである。
 第三の理由は、彼がわれわれにほどこしてくれる大きな慈愛のわざである。なぜならば、彼は、繋ぎまた釈く権能をさずけられていたからである。つまり、彼はわれわれが、想念と言葉と行為とにおいておかす三種類の罪、あるいは神と隣人とにたいしておかす三通りの罪をまぬがれるようにわれわれを助けてくれるのである。罪人が教会において鍵の権能によってさずけられる恩恵も、三様である。すなわち、贖宥の告知、永劫の罰を有限の罰に変えること、および有限の罰の一部を赦すことの三つである。聖べテロは、この三つの恩恵のためにも三度うやまわれるのである。
 第四に、われわれは、三つのことのために彼にたいへん負債がある。というのは、彼は、言葉と範例と現世での助けもしくは代願の力でもってわれわれを食べさせ、牧養しているからである。われわれは、このためにも彼を三度うやまわなくてはならない。
 第五に、彼の範例のためである。というのは、彼は、どのような罪人も絶望させないからである。罪人は、べテロのょうに神を三度否定するばあいでさえ、やはりべテロのようにこころと口と行ないでもってふたたび神の信仰を告白しようとするのである。

 今日の祝日を祝う第二の理由は、『クレンソスの流行記録に出ている。それによると、ペテロは、神の言葉を説いていた。そして、アンティオケイアの近くまできたとき、人びとは、粗毛の衣服をまとい、素足で市門の外まで出て彼を迎えた。人びとは、頭に灰をまいていた。そして、彼らが魔街師シモンとともに聖ペテロの教えに反する生きかたをしてきたことにたいして、慈悲を乞うた。ペテロは、彼らの悔悟を見て、神に感謝をささげた。人びとは、すべての病人と悪霊にとりつかれているすべての人たちをペテロのもとにつれてきた。ペテロは、足もとに彼らを寝かせて、一心不乱に神に祈った。すると、一条の巨大な光があらわれ、人びとは、のこらず健康になった。彼らは、べテロのあとを追い、その足跡に接吻した。こうして、七日間に一万人以上の人びとが洗礼を受けた。市長のテ
オピロスは、自分の家を教会として献納し、すべての人たちがペテロの姿を見、説教を聞くことができるように、そこにペテロのために高い座を設けたのだった。 この話は、まえに述べたことと矛盾しない。ペテロがパウロの助力によってテオピロスと町じゅうの人びとから敬意をもって受け入れられたというのは、おそらく実際に起こったことなのであろう。しかし、その後べテロがこの地をはなれると、魔術師シモンがやってきて、人びとを邪道にみちびき、聖ペテロから離反するようにそそのかした。こうして、人びとは、ふたたび贖罪をし、大きな敬意をもってペテロを迎え入れたのであろう。

 べテロが教座を定めた日は、またべテロ供膳の日ともよばれる。これが、今日の祝日が設けられた第三の理由である。ヨハネス・ベレトが書いている由来記によれば、異教徒たちは、二月の一定の日に祖先の墓に食物をそなえるのが昔からの習慣であった。そなえられたご馳走は、その夜のうちに悪霊たちが腹におさめてしまうのだが、異教徒たちは、墓のまわりをうろついている人魂が食べるのだと信じていた。もっとも、彼らは、人魂のことを影とよんでいた。というのは、昔の人びとの習慣によれば、まだ身体にやどっているたましいだけがたましいとよばれ、地獄に行ったたましいは亡霊、天国に行ったたましいは霊とよばれ、死んでから日が浅く、まだ墓のあたりをうろついているたましいが影とよばれたのである。死者にご馳走をそなえるこの習慣は、キリスト教徒のあいだ
でも根絶されえなかった。初期教皇たちは、これを見て、この祭りのかわりに聖べテロがローマとアンティオケイアに教座を定めた祝日を設けた。こうして、かつては死者にご馳走をそなえる日として祝われた今日の祝日をいまでもペテロ供膳の日とよぷ人びとがいるのである。
 第四に、この祝日は、司祭の冠をうやまうために設けられた。というのは、ある人びとが書いているように、司祭の中剃りは、この日に始まったことが知られているからである。聖ペテロがアンティオケイアで説教していたとき、人びとがキリストの聖名を侮辱し嘲笑するために彼の頭のてっべんの髪を切り落としたことがあった。以後、すべての司祭が中剃りするようになり、キリストの聖名のゆえに使徒たちの王者にたいして侮辱としてなされたことが、すべての司祭にたいして栄誉のしるしとしてなされることになったのである。この司祭の冠そのものについては、三つのことに留意しなくてはならない。頭を剃ること、まわりの髪を短く切ること、中剃りを円形にすることの三点についてである。頭のてっべんを剃るのは、三つの理由からである。そのうちのふたつは、デイオニュシウスが『教会の階層について』のなかで書いている。それによると、髪を剃るのは、清潔であるが不恰好な生活をあらわしている。というのは、剃髪すると、清潔さの維持、不恰好および素裸という三つの結果が生じるからである。髪を長くしていると、どうしても頭に不潔なものがたまるから、剃髪は、清潔さを保ってくれる。髪の毛は、人間の飾りであるから、これを剃るのは、なんと言っても不恰好、不体裁である。したがって、中剃りは、清潔であるが不恰好な生活のしるしとなる。なぜならば、司祭は、内面において思念の純潔を保持し、外面において、不恰好な生活、いっさいの虚飾を排した生活をしなければならないからである。また、素裸は、司祭と神とのあいだに介在物があってはならず、司祭は直接的に神と合一し、神の栄光をヴエールなしに見ることができなくてはならぬということの
しるしである。また、残りの髪の毛を短く切らなくてはならないのは、司祭たる者はそのこころからあらゆる余計な想念を切り落とさねばならず、その耳をつねに神の言葉を聞くために準備し、開いておかねばならないということ、つまり生命の維持に必要なもの以外はすべての現世のものをことごとくしりぞけなくてはならないということを銘記するためである。中剃りが円形であるのほ、いろいろな理由による。第一に、円形には端緒も末端もないように、司祭が仕える主もまた端緒も終末ももたれぬことのしるしである。第二に、円形には角がないからである。それは、司祭の生活にはいかなる不純で不潔なものもあってはならぬということを意味している。「というのは、角のあるところには不純さがあるからである」と聖ベルナルドゥスも言っている。また、それは、司祭はその教えにおい
て真実であらねばならぬことを意味する。「真実は角を好まない」とは、聖ヒエロ二ュムスの言葉である。第三に、神が星辰を円形におつくりになったことからもわかるように、円形はあらゆる図形のなかで最も美しいものだからである。つまり、それは、司祭たる者はそのこころに内面の美しさを、その品行に外的な美しさをもたねばならぬということを意味している。第四に、円形は、あらゆる図形のなかで最も単純素朴なものだからである。というのは、アウグステイヌスが言っているように、ただ一本の線でかこまれる円形をのぞいて、どのような図形も、一本の線だけでは形づくれないからである。つまり、中剃りが単純素朴な円形であるのは、「鳩のように素直であれ」と書かれているように、司祭は鳩の素直さ、素朴さをもたねばならないことを意味している。




聖ペトロ・ダミアノ司教教会博士  St. Petrus Damiani E. et Doct.Eccl

2025-02-21 04:01:12 | 聖人伝
聖ペトロ・ダミアノ司教教会博士  St. Petrus Damiani E. et Doct.Eccl     記念日   2月21日



主イエズス・キリストの聖言に「汝等は世の光なり。(中略)汝等の光は人の前に輝くべし」(マテオ5-14,16)とあるが、中世紀の有名な教父、聖ペトロ・ダミアノ枢機卿こそは、まことにその熱烈な信仰と博識な知識を以て、冷淡不信の暗黒に迷っていた当時の人々を松明のごとく照らし、これに正しい途を示した「世の光」であったと言えよう。

 彼は1006年、イタリア、ラヴェンナ市の貧しい日傭取りの息子として生まれた。9歳の頃既に両親を失ったので、最初長兄の手で養育されたが、この人はあいにく冷酷な性質で、彼を邪魔者扱いしたため、司祭の職にあった次兄が見かねてやがて手元に引き取り、愛を以て育てる傍ら自ら初等教育を施した、そのうちにペトロが世にも稀な学才に恵まれていることを発見した彼は、それを十分に発揮させる為、後に弟を大学にまで送った。
 ペトロは次兄の恩に報いるため、日夜勉学にいそしんだ甲斐あって非常な好成績で大学を卒業した。しかし霊眼も暗くない彼は、つとに世間の名誉の浮き雲の如くはかないものであることを悟り、いかなる出世も思いのままの洋々たる前途を自ら葬って、ファエンザ市に程近い山中に隠遁し、草の庵を結んで祈りと修道に専念する身となったのである。
 人里離れて大自然の懐に抱かれた彼は、聖霊の御光に照らされる事いよいよ繁く、霊界の神秘を悟る事ますます深く、信仰は熱烈さを加えるばかりで、その苦行振りには感嘆を禁じ得ないものがあった。もとより謙遜な彼は、自分の徳の光を人の前に誇示するつもりなど毛頭無かったが、隠すよりは現れるというたとえの通り、聖人であるという評判は間もなく四方に響き渡った。で、その徳望を慕って教えを乞いに来る人々が多数ある中に、ベネディクト会大修道院長は、その修道院内部の改革に助力を与えられんことを懇願し、後には教皇までもペトロの人格と識見とを恃んで聖会信仰の振粛を企てられたほどであった。

 当時聖会は悲しくも規律乱れて、冷淡の風潮は平信徒はおろか修道者、聖職者階級までも浸食し、聖職売買の弊風がここ彼処に行われ、司祭も童貞を守らぬという有様であったから、教皇の願いを容れてかのような風紀の粛正に乗り出したペトロは、いにしえの洗者聖ヨハネの如く、イタリア、フランス、ドイツ諸国を巡り、舌端火を吐くような説教と、謹厳侵しがたい福音的生活の模範とを以て人々の心を動かし、遂に彼らの胸に再び信仰の聖火を燃え立たしめる事が出来たのであった。さればグレゴリオ、クレメンス、レオ、ステファノ、ニコラオ等諸教皇が彼を聖会復興の大恩人として尊敬され、またドイツ皇帝ヘンリコ3世が、彼の如き聖人と文通し得る事を無上の光栄と喜ばれたのも無理のない話であった。

 殊にステファノ教皇の如きはその功労に報いる為、1057年彼をオスチアの枢機卿の栄位に挙げられた。謙遜なペトロは再三これを辞退したが、辞退しきれずして遂に受けると、責任のいよいよ大きいことを痛感し、更には以前の熱心を倍加して革正事業に努力した。その為一部の人々から誤解や非難を蒙った殊もしばしばあったが、もとよりそれを意に介するような彼ではない、目的とするのは唯天主の御光栄と聖会の隆盛ばかりである。かような清い志を有する彼の活動が豊かな果を結んだ事は勿論であった。

 しかしようやく老境に入ったペトロは、一切の激務を離れて、好む所の祈りの生活に帰り、心静かに善終の準備がしたいという思いを抑えることが出来なかった。この望みはアレクサンデル教皇の時に叶えられた。けれども閑散の身になってからも彼はまた聖会の為重い任務を委ねられた。それはドイツ、フランクフルトの大会議に教皇使節として列席し、重大問題を解決した事である。そして1072年、ドイツからイタリアへ帰国の途中、彼の霊は天主の御召しを蒙り、生前の偉大な功績に対する報いを受ける為に天国に凱旋したのであった。

「大切なことは神に祈ることであって、神について書くことではない。もし神に祈らないのであれば、神の言葉を含む文を文法的に正しく書いても何にもならないのである。」 聖ペトロ・ダミアノの言葉


教訓

 聖ペトロ・ダミアノの立派な行為や言葉は当時及び後代の人に多大の感化を及ぼした。我々は我々の言葉、行為、祈り、善行などが、決してその場限りの一時的なものではなくて、必ず周囲の人々や後々の結果に影響を及ぼすものである事を忘れてはならない。それでこそ自分の欠点を改めて善に進み、他人を照らす「世の光」になる意義があるのである。







レオニッサの聖ヨゼフ証聖者   St Josefus a Leonissa  

2025-02-21 04:01:03 | 聖人伝
レオニッサの聖ヨゼフ証聖者   St Josefus a Leonissa     記念日 2月 20日


 西暦1556年北イタリアのミラノ市で聖フランシスコの流れをくむカプチン会修道者フェルノのヨゼフという一司祭が逝去した。この人は欧州に盛んな「四十時間の御聖体訪問」という信心の業をはじめて提唱したので知られているが、それはその名の如く、信者が聖堂を訪問し、四十時間、昼も夜も絶えず祭壇に顕示され給う御聖体に対し、祈りを献げる事をいみするのである。

 ところが丁度その同じ年、ウンブリアのアッシジにほど近い、レオニッサという町に、後年この「四十時間の御聖体訪問」の信心を盛大ならしめた聖人が呱々の声を挙げたのは一奇と言わざるを得ない。彼はデシデチのヨハネというさして裕福ではない伯爵の家に生まれ、受洗の折りにはオイフラニオという霊名を与えられた。幼くして両親を失い、ヴィテルボ大学教授である伯父の許に引き取られて養育されたが、添付の英才は間もなく人々の讃歎の的となるに至った。伯父は行く行くは彼を某公爵の令嬢と結婚させるつもりでいたけれど。本人は学生時代に種々の危険があったにもかかわらず無事に切り抜けた清い心をそのままに、世間的栄誉や家庭生活を望む気持ちは少しもなかったから、アッシジの聖フランシスコが創立したカプチン会に入ってヨゼフと言う修道名を授かり、人知れず着衣式も済ませたのである。
 これを知った伯父は事が志に違ったのを大いに憤り、暴力に訴えても彼の心を翻らせようとしたが、ヨゼフはあくまで踏み止まって完徳の道を歩む初志を守り通し、聖フランシスコの模範に倣い、或いは我が身を犠牲として信じ難いほどの難行苦行を行い、或いは昼夜祭壇の前に平伏して熱烈な祈りを献げるなど、ただ主を愛し、己を捨てる努力精進に余念がなかった。
 このように熾天使にも劣らぬ聖愛に燃えている彼であったから、信仰の為に生命を献げることはもとより望む所で、1587年カプチン会総長からトルコへの派遣の命令を受けるや、喜び勇んでその異教の国に赴き、コンスタンチノーっぷる市に奴隷となっているキリスト信者等を慰め救い出したのみならず回教の迷妄に沈んでいるトルコ人達を相手に、公然聖福音を宣べ伝え、殊にさまざまの事情や艱難に打ち負けて棄教した信者等に主の愛を説いて改心させるなど、盛んな活躍振りを示した。
 ヨゼフはなおそれに止まらず、トルコ国皇帝メレク・エル・カミルに聖教を伝えた聖フランシスコに倣おうと、ある日その城を訪れたが、たちまち衛兵に捕らえられ、牢獄に投げ込まれ、間もなく恐ろしい刑罰を受けることになった。それは鋭い鈎に左の手と右の足とを突き刺して宙に吊され、二日四十時間というもの責められたのである。当時あたかも33歳であったヨゼフは、イエズス御受難の年齢に、主と同様な苦しみを受けて致命し得る光栄を深く喜び、その恵みを与え給うた天主を、激しい痛みの中にも讃美謳歌して已まなかった。
 刑吏はいやが上にも彼を苦しめようと、その真下に火を焚いて燻しはじめた。黒煙はもうもうと渦巻き上がり、呼吸は一刻一刻苦しくなり、もはや最期と聖人は覚悟したが、その時皇帝より死一等を減ぜられ国外に追放される事になった。
 それからヨゼフは故国に帰り、今度はウンブリア地方を巡って、舌端火を吐く説教に、冷淡に陥った信者の心を再び天主への愛に燃え立たしめた。その説教は少なくとも一日三四度に上り、時には更にお多きをかぞえ、それに依って改心した者の数は幾ばくなるやを知らぬというから、彼の活動のいかに目覚ましくかつ有効であったか察せられよう。
 人々を冷淡や悪欲から救うために、彼が「四十時間の御聖体訪問」の信心普及に努めたのもその頃の事であった。彼は自分が四十時間責め苦を受けた身であることを忘れず、その時わが胸に燃えたぎっていたような、イエズスに対する愛と犠牲の精神をその信心の業によってあらゆる信者に鼓吹しようとしたのである。

 かようにイタリアに於いて使徒的活動を続ける事二十二年、ヨゼフは重い癌を患い病床に伏せる身となったが、その手術中医師が彼の身動きすることを懼れて、紐で台に縛りつけようとした所、彼は手にしている十字架を示し
「紐よりもこの方が強いから安心です」と言ったという。しかしあらゆる治療も無効に終わり、1612年2月4日彼は帰天したが、その激しい病苦の中にも終始天主への讃美を絶たなかったと伝えられている。
 その後彼の取り次ぎに依って奇跡の行われた事数知れず、為に1746年、時の教皇ベネディクト14世はこのレオニッサのヨゼフを聖人の列に加えられた。

教訓

 我等はレオニッサの聖ヨゼフを鑑と仰ぎ、彼の如く熱烈な信仰を以て天主の為には如何なる犠牲をも辞せぬ覚悟を定め、弱き心を強められん為にこの聖人の取り次ぎを願おうではないか。








ピアツェンツァの聖コンラド修道者   St. Conradus a Piacenza C.

2025-02-21 04:00:54 | 聖人伝
ピアツェンツァの聖コンラド修道者   St. Conradus a Piacenza C.     記念日 2月19日


 物質的不幸がかえって精神的幸福を招く事はしばしばあるが、聖コンラドの生涯もその一例であるといえよう。

 彼は北イタリアのロンバルジア州ピアツェンツァ市に生まれ、地位も高く財産も豊かで、何不足ない身であった。別に働かずとも食うに困らぬ彼は道楽として狩猟を殊の外好んでいた。
 ある日コンラドは例によって山へ狩りに行ったが、その時射損なった一匹の獣が、とある藪の繁みに逃げ込んでしまった。すると彼はそれを追い出したいばかりに、浅はかにもその藪に火を放った。所が折からの晴天続きで、草木がすっかり乾ききっていたからたまらない。火は見る見るうちに燃え広がって、手のつけようもない山火事になってしまった。
 それと知った近所の人々は、急いで駆けつけて消火に努めたが、鎮火した時は既に広大な山林耕地が燃え尽き、その被害は極めて甚大であった。
 自分の軽率からこの大事を引き起こしたコンラドの驚愕と痛心はどれほどであったろう!彼はその場にいたたまれずして、密かに我が家に逃げ帰ったのである。

 その内にたまたまそこに居合わせた一農夫が、憐れにも放火の嫌疑を受けて、官憲の手に捕らわれた。そして当時の習慣である拷問にかけられ、苦痛に耐えかねて、心にもない自白をし、いよいよ真犯人と決定されて濡れ衣のまま死刑台に上る事となったのである。
 このことを伝え聞いたコンラドは、良心の呵責に胸も破れそうであった。遂に彼は何度も煩悶を繰り返した後、堅い決意を以て自首し、憐れな百姓の無実を晴らし、自分を如何様にも処刑して頂きたい、また人々にかけた損害は、自分の全財産で能う限り償いたい、と至誠を披瀝して申し出たのであった。
 が、その頃はもう人々の激昂もだいぶ鎮まりかけていた。そして結局コンラドは暫く禁固された後釈放されるに至ったのである。けれどもこの恐るべき体験は、彼に霊の覚醒を促さずにはいなかった。彼は獄中にあって、しみじみこの世の事物のはかなさを悟った。そうなると今までは通り一遍であった彼の信仰も、熱烈さを加えずにはいない。彼は出獄帰宅するとすぐ妻と相談し、共に天主に身を献げる事とし、妻がピアツェンツァ市にある聖クララ修道会の修院に入るのを待って自分は一介の巡礼に身をやつし、永遠の都ローマに向けて旅立った。そしてそこに数ある大聖堂を巡礼し、またアッシジの聖フランシスコが創立された第三会に入会し、後南下して、シシリア島のノトにある或る病院に人知れず看護人として住み込み、更に山中に庵を結んで祈りと苦行の隠遁生活を始め、四十年の久しきに及んだ。その間彼は金曜ごとに下山し、或いは生活の必需品を求めたり、或いは告解したり、或いはその町に名高い聖十字架に尊敬を献げたりした。彼の祈りを求める人々が絶えず訊ねてきて、病気を癒してもらう者もあった。シラクサの司教さえもコンラドの祝福を受けるために訪れた。

 いよいよこの世を去る日の近づいた事を知ったコンラドは1351年2月19日程近い村の聖堂を訪れ、ミサ聖祭にあずかり、御聖体を拝領し、御ミサが済んでも席を去りやらず、なおも祈りにふけっていた。しばらくしてその聖堂の司祭が、食事を共にしようと呼びに行って見ると、コンラドは主イエズスの御像の前に、祈りに我を忘れた如く、跪いたままこときれていたという。その後コンラドの遺体はノトの聖ニコラス教会の中に葬られ、そこは多くの巡礼者たちが来る場所となっている。

教訓

 聖書に「火もし飛びていばらにうつり、その積み上げたる穀物、或いは未だ刈らざる穀物、或いは田畑を焼かば、その火を焚きたる者は必ずこれを償うべし」(出エジプト記 22-6)とあるが、聖コンラドもはからず大事を引き起こして人々に損害をかけた時潔く全財産をなげうってこれを償った。じつを言えばもとは悪意から出た行為ではなく、ただ軽率のために起こったことであるから、罪という程でもなく、従って償いも義務ではなかったであろう。しかしこれを敢えてした彼の心は誠に高潔で、さればこそ天主も彼を聖人の道へ招き給うたのである。始めから人に損害を与えるつもりでした場合はもちろん罪で、ただ告白するのみならず、できる限りその償いをしなければこの罪は赦されない。







聖シメオン司教殉教者      主イエズスの従兄弟である聖人

2025-02-18 00:00:07 | 聖人伝
聖シメオン司教殉教者      主イエズスの従兄弟である聖人      記念日 2月 18日




 聖福音書に折々「イエズスの兄弟」という言葉が見いだされる。しかし主が聖母の御一人子であった事は周知の事実であるからこの兄弟とは実の兄弟を意味するのではなく、従兄弟と指している事は言うまでもない。例えば小ヤコボ、ユダ・タデオ、カアナンのシモン等三使徒や、ここに語らんとする聖シメオンも主の従兄弟にあたる人々である。

 このシメオンはイエズスの御降誕の幾年か前に生まれ、父の名はアルフェオといった。シメオンは十二使徒の中には加えられなかったが、直接主から聖教を聞き、又聖霊降臨の時には、かの百二十人の弟子達の中に加わっていたと信ぜられる。エルサレム最初の司教小ヤコボの兄弟であって、紀元62年ヤコボが殉教するや、その後任に選ばれ、麗しい徳行に信徒の多大な尊敬を集める一方、熱心に布教の為尽くす所があった。

 紀元70年、エルサレムがローマ軍の攻撃を受けるや、信者等は今は亡きイエズスのエルサレム滅亡の御預言を思い出し、急遽ヨルダン川の東にあるペラという村に避難したが、シメオンもその時自ら牧する羊の群と行動を共にしたのである。

 果たしてエルサレムは主のおっしゃった通り「一つの石も崩して残されぬ」までに蹂躙され、死者数知れず、僅かに生き残った人々は捕虜にされてローマに引かれ、或いは闘技場で猛獣の餌食にされ、或いは憐れむべき奴隷に売られるなどの憂き目を見たが、主の警告に依って難を逃れた信者等はローマ軍撤退の後エルサレムに戻り、廃墟の上に仮の住まいを建てて、付近の町々に聖教を述べ伝えたところ、何しろ恐るべき天罰を目の当たり見た事とて、さすが不信のユダヤ人等も心折れて、聖教に帰依する者多く聖会はかえってこの艱難の時に隆盛に赴いたのであった。もっとも間もなくナザレノ派、及びエボニト派の二つの異端が起こったけれど、これはシメオンの存命中には、それほど流布するに至らなかった。

 シメオンはその後も信徒には善き牧者となり、異教者には真理の光となり、ひたすら天主の御国の為に働き百二十歳の高齢に達した。すると当時のローマ皇帝トラヤヌスは、ユダヤ史上に名高いダビデ王の後裔をを求めて見あたり次第これを殺すべき事を天下にふれた。これはユダヤ人等の間に、やがてダビデ王の子孫から偉大な人物が現れて、ユダヤ民族をローマ帝国の桎梏のもとより解放し、新たに光輝あるイスラエル王国を建設するであろうという風説が専ら行われていたのを、伝え聞いたので、およそダビデ王の末とあれば、如何なる嬰児といえども殺し去ってその血統を根絶やしにし、以てわが主権を犯される憂いを未然に防ごうとしたのである。

 然るにシメオンもダビデの血を承けていたから、捕らわれてユダヤの総督アッチコの前に引き出された。総督は彼の老齢を憐れんで、キリスト教さえ棄てるならば一命は助けてやろうと言ったが、もとよりおめおめと命欲しさに信仰を捨てるようなシメオンではない、きっぱりとそれを拒絶したので、アッチコは遂に彼を磔にすべく宣告を下した。
 シメオンはイエズスと同じ刑の下に致命し得る光栄を深く喜び、自ら進んで十字架の上に仰臥して手足を釘付けられ、己を殺す人々の為に天主の赦しを祈り求めながら、崇高な死を遂げた。時にキリスト御降誕後百六年のことであった。


教訓

 聖シメオンはローマの軍勢がエルサレムに近づいた時、主の御預言を思い出し、信徒等を促して市外に逃れ、以て未曾有の大難を免れた。かように、主の聖言は必ず成就し、それに従う者は又必ず霊肉の幸福を得るのである。イエズス御自身もかって仰せられたではないか「天地は過ぎん、されど我が言葉は過ぎざるべし」(マタイ24・35)と。