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ボローニャの聖カタリナ修道女  St. Catharina de Bologna Virgo

2025-03-11 00:00:05 | 聖人伝
ボローニャの聖カタリナ修道女  St. Catharina de Bologna Virgo     記念日 3月 11日


 聖女コレタ(記念日3月6日)がフランスにその高徳を謳われていた頃、イタリアにも同じく聖徳に秀でていた一女性があった。それは聖クララの跡を踏む修道女、聖カタリナである。

 彼女は1413年9月8日聖マリア御誕生の祝日に呱々の声を挙げた。父母は共に貴族の家柄で、学徳並び備わった人々であった。さればその血を承けたカタリナが早くから才知の鋭い閃きと善徳への強い傾向を示したのも敢えて不思議ではない。9歳の時彼女はフェララ候の懇望に従いその城中におくられ、候の息女エリザベトと共に教育されることになった。この二少女は仲も良く互いにふさわしい相手であったが、わけてもカタリナの信心の深さと知識の進歩の速やかさはあらゆる人々を驚かせずにはいなかった。
 彼女は間もなくラテン語に熟達し、あの難しい言葉を読むにも語るにも書くにも誤ることがなかった。そしてその筆跡も今なお残っているが、それは極めて美しい書体である。彼女が最も愛読した書物は教会博士その他諸聖人の著書であった。なおカタリナは手芸にもすぐれた腕前を示し、美術にも堪能で、殊に絵画の方面に立派な作品を残している。

 カタリナがフェララ城に来てから早くも三年は過ぎた。するとその頃友のエリザベトはリミニの王子と許嫁の縁を結び、カタリナはまた父を失って母の許に帰る事になり、二人は互いに別れねばならなくなった。エリザベトはその時後日友が再び彼女の傍に戻り来る事を望んだが、カタリナはそれを謝絶した。それは天主に身を献げようという聖い志を胸に秘めていたからである。
 それ故彼女はまた申し込まれる縁談をことごとく断った。母は一切を彼女の気ままに任せてくれた。で、彼女は素志の貫徹に些かの顧慮する所もなく邁進する事が出来たのであった。

 ちょうどその頃フェララの町にルチア・マスケロニという婦人があったが、この人は在俗のまま数人の同志と共に修道女の如く敬虔に、祈りと労働との生活を送り、町中の人々に良い感化を及ぼすこと僅少ではなかった。さればカタリナもこの人の徳を慕ってその姉妹の中に加わり、一層天主と友なる生活の喜びに浸る身となった。しかしその幸福も長くは続かなかった。というのは間もなく様々の試みが彼女の上に降りかかって来たからである。
 まず彼女は孤独への憧れを感ずる事が日一日と強くなって、共同生活が苦痛になり、いっそ同志の人々と袂を分かとうかとまで思った。しかし彼女は熱心に聖霊の御光を願った結果、依然そこに留まるのが最良の途である事を悟ったのである。
 第二の試練は悪魔の激しい誘惑であった。彼女は時々それに抵抗する気力すら失いかけた。この悩みが過ぎ去ると、今度は霊肉の他の苦悩が始まって、彼女は聖教を疑う心さえ起こすに至った。けれどもカタリナは天主の聖寵に縋ってすべての試練に打ち勝った。あまつさえ自分一生の罪と欠点とをことごとく許された事を天主から示されて深い慰めを受けた。彼女はこれらの悩みの時に幾多の貴重な経験を体得した。そして他の人々の参考にもと、それを録した一小冊子を著した。

 謙遜な彼女は自分では少しも気づかなかったが、世人はその敬虔に感じて彼女に多大の尊敬を献げていた。中にもヴェルデ候の奥方は彼女及び彼女の同志を讃仰するあまり、聖クララの戒律による一修道院を建てて彼女等に与えた。カタリナは身に余る幸福を感じ、賤しい仕事も天主の為と(彼女はいつもそう言っていた)、深い喜びを以て果たすのであった。
 彼女等の麗しい信仰生活、わけてもカタリナの聖なる模範は、世の若い女性を感動させずにはいなかった。かくてその修道院に入る事を望む者が多くなった時、カタリナはその修練長の職に挙げられた。彼女は従順の誓願に従ってその任務を引き受けた。そして日頃愛読してきた聖書や教会博士達の著書の該博な知識を傾けて修練者達を教え、またおのが立派な日々の行いの鑑をもって彼等を導いた。

 その頃彼女は天主から特別のお恵みを授かる光栄に浴した。その一は救い主の御苦しみを、その御霊魂の御悩みは勿論、御肉体の御苦痛さえ深く理解し、且つある程度まで如実にこれを感じた事であり、その二は1445年のクリスマスの夜に、聖母マリアが御出現になって、聖き御子を彼女の腕に抱かしめ給うた事であった。
 1451年同修道院の院長が死ぬと、姉妹達はいずれもカタリナがその後を継ぐ事を望んだ。しかしあくまで謙譲な彼女は自分がその任にあらざる旨を強調し、一同の賛同を得て、同じクララ会に属するマンツァ修道院から適当な修女を招いてこれを院長に推戴した。が、間もなく姉妹達の増加から、教皇の許可の下に、他にも修道院を設ける事になり、まずボローニャに一修道院が出来ると、今度は聖会長上からの命令で、カタリナも辞退するに言葉なくその院長に就任した。
 当時ボローニャ市民は二三の党派に分かれ、互いに抗争を事としていたが、カタリナはその為に祈って遂に和解せしめた。彼女は自分の修道院を「御聖体の貧しきクララ修道女院」と名づけ、及ぶ限り御聖体の御前で祈り、時には徹夜して祈り明かす事も珍しくなかった。そして姉妹達が戒律をよく守り、又相睦み相愛するように留意し、母親が生みの我が子を慈しむにも優る愛情を以て彼女達に臨んだ。殊に病める者弱き者に対しては、その思いやりと心遣いも一入であった。カタリナは常に修道院内にあって一歩も門外に出なかったが、その聖徳と祈りの力で世人の為、わけても罪人の為、益をもたらした事は決して少なくなかった。
 1463年2月25日、死期の近きを知った彼女は、姉妹一同を集めて最後の訓戒を与えた。その後体力は次第に衰えるばかりで、3月8日至聖御聖体を天使のような敬虔な態度で拝領すると、懐かしさに得耐えぬ如くイエズスの御名を三度繰り返したまま、安らかに永眠した。享年49歳と7ヶ月。

教訓

 聖女カタリナは長い間つらい試練に逢ったが、七つの武器を以て悪戦苦闘し遂に最後の勝利を得た。その武器とは彼女自身ある書の中に記している如く(一)勤勉に労働し(二)己を恃まず(三)天主のみに信頼し(四)しばしばキリストの御生涯を黙想し(五)その御死去を考え(六)天国を思い(七)聖書を熟読する事がそれである。










セバステの40聖人殉教者  Sts. 40 Martyres de Sebaste

2025-03-10 02:29:13 | 聖人伝
セバステの40聖人殉教者  Sts. 40 Martyres de Sebaste            記念日 3月 10日


 烈しい吹雪にも喩えるべきローマ帝国に於けるキリスト教の迫害は、313年コンスタンチノ大帝の御代に終息し、聖会には一陽来復、信仰の春が廻って来た。けれどもその信仰の自由が比較的長く許されていたのは西ローマ帝国に於いてであって、東ローマ帝国に於いては間もなく又皇帝チリニウスの禁教迫害が始まったのである。
 その迫害は当初は密かに行われたが、やがて公然となり、信者達の中にはその圧迫に堪えかねて棄教した者も少しはあったけれど、また深山幽谷に身を潜め、荒れ野の果てに身を隠して信仰を全うした人もあれば、官憲の暴虐にも屈せず栄えある殉教の冠を戴いた勇士もある。次に記すセバステ町(今のアルメニア地方に在る)の四十聖人殉教者の如きはその最も著名な例と言ってよかろう。
 彼等はいずれも軍人で、勲功抜群の名誉ある第十二連隊に属し、猛勇にして果敢、誠に武人の典型として恥ずかしからぬ人々であった。所が彼等の隊がセバステに派遣された時の事である。東ローマ帝国チリニウスは彼等にキリスト教を信奉せぬ印に、偶像に香をを献ぐべき事を命じた。しかしかような命令に従えば勿論背教者となる他はない。されば彼等は皆「香を焚くような事は私共軍人の仕事でないばかりでなく。それにまた天主の掟にも背きますから・・・・」と言ってきっぱりと拒絶したのである。総督アグリコラウスは彼等如き勇士を四十人も殺すのを、いかにも残念な事に思い、或いはいろいろな甘言を以て、或いは様々の威嚇を以て、彼等を棄教に導こうと試みたが、彼等の決心は鉄石の如く、どうしてもこちらの意志に従わせる事が出来なかった。そこで総督は彼等の全身を鞭打たせ、その脇腹を熊手で掻きむしらせ、教えを棄てねばまだまだ恐ろしい苦痛をみせるばかり故、よくよく考えてみるがよかろうと言い渡して獄に投じた。
 が、再び引き出して尋問しても彼等の心は依然として変わらない。で、アグリコラウスは遂に死刑の宣告を与え、その処刑にも特別苦痛の多い方法を取った。それは彼等をセバステの町外れに引き行き、まだ三月の寒空に衣服を剥ぎ取り、降りしきる雪の中、そこの大きな池に張りつめた氷の上に座らせ、凍死させる事にしたのである。
 しかし四十人の勇士はかねて致命は覚悟の前であるから少しも驚かず、かえっていよいよ栄光の時の来た事を喜び、互いに顧みて励まし合い、「我等の主イエズス・キリストが荒れ野に於いて断食し給うたのも四十日、またモーゼがシナイ山で祈り、エリアが断食した期間も四十日、四十は聖なる数でございます。願わくは主よ、今四十人打ち揃って殉教せんとする我々に、この責めの苦しみを終わりまで耐え忍ぶ聖寵をお与え下さい!」と一心不乱に祈りを献げた。
 刑の執行に当たっている兵卒等は、歯を食いしばって冷たさ寒さをこらえている勇士達の傍らに温かそうな風呂を沸かし「キリスト教を棄てようと思う者は、早くここへ来て身体を暖めよ」と誘惑したけれども、信仰の勇士達は誰一人その手に乗りそうにも見えなかった。
 かようにして彼等がはや半死半生の有様になった頃、ふと風呂場の番をしていた一人の兵卒が天を仰ぐと、勇士達の上あたりに不思議な光が揺曳し、中を数多の天使達が手に手に燦然と輝く冠を持ってしずしずと降って来るので「これは神が信仰堅固なあの人々を賞し給うのであろう」と深く感じ入ったが、数えて見ると冠が三十九しかない。どうしたのかといぶかっている内、処刑を受けている中から「助けて下さい」と言いながら一人が這い出して来た。責め苦に耐えかね愚かにも棄教する心になったのであろう。それっと言うので兵卒等はその男をいたわり衣服を着せて、火の焚いてある風呂場へつれて行ったが、急に寒い所から暑い所に来た為か、心臓麻痺を起こして頓死してしまった。
 この天罰を目の当たりに見た先の番人は、天主の聖寵に心眼開け、カトリックの真の宗教である事を悟り、熱烈な信仰の念の燃え上がるままに「私もキリスト教を信ずる!」と叫んで自ら衣服を脱いで殉教の列に加わった。かくて一旦卑怯者の脱退で不足となった四十という聖数も、ここに勇士達の願い通り再び満たされて、欠けることなく済んだのである。彼等の歓喜は察するに難くあるまい。やがて勇士達は一夜の氷責めに、次ぎ次と倒れていった。裁判官はかかる殉教者の死骸を信者の手に拾われたくないと思い馬車に積んで場末に運ばせそこの広場で焼き捨てさせる事にしたが、唯一人メリトンという勇士だけは、年齢も一番若く、身体も丈夫であったせいかまだ息があったので、そのままに残しておいた。ところがその母が又雄々しい信仰の持ち主で、それと見るより傍に馳より我が子を励まし、他の馬車に乗せて三十九人の後を追ったが、その途中メリトンも母の膝に抱かれて遂にこときれたという。
 四十勇士の死体を焼いた灰は、河中に投げ棄てられたが、不思議にもそのまま水上に一塊りとなって浮いているので信者等が拾い取り、後に聖バジリオが之を納める聖堂を建て、彼等の偉勲を表彰した。以上が初代聖会史上に名高いセバステの四十聖人殉教顛末の大略で、時は我が主御降誕後320年の事であった。

教訓

 かの四十勇士中唯一の棄教者は、始めこそ他の人々と共に数々の責め苦をよく耐え忍んだのに、終わりに至って屈服したばかりに可惜九仭の効を一簣に欠き、聖人の列に加わる事が出来なかった。我等もこの前者の覆轍に鑑み、また「死に至るまで忠実なれ、さらば生命の冠を与えん」(黙示録2-10)と聖書にあるを思い、戒心して終わりまで耐え忍ぶ恵みを天主に祈り求めようではないか。








ローマの聖フランシスカ修道女 St. Francisca Vid.

2025-03-09 00:00:05 | 聖人伝
ローマの聖フランシスカ修道女 St. Francisca Vid.                 記念日 3月 9日


 世にローマの聖寡婦フランシスカとして知られているこの聖女は、その呼び名の如くローマで育ち、ローマ市民の為に尽くしてローマで死去した生粋のローマっ子であった。またその霊名フランシスカは、彼女の両親がアッシジの聖フランシスコを大方ならず尊崇していたに由来するものであるが、名は体を表すとやら、貧者に対する同情に篤かった点に於いてフランシスコにごく酷似じているのも一奇である。

 彼女は1384年ローマの貴族の家に呱々の声をあげた。両親共に熱心な信者で、殊に教皇庁の為に少なからず尽くす所があったという。フランシスカはそういう親の子と生まれて、幼少の頃より善い感化を受け、聖母マリアの小聖務日課その他の祈りも母と共に唱え、また彼女に連れられてローマの諸々にある聖堂に参詣するのを何よりの楽しみとしていた。
 かように信心深い彼女であるから修道女になって生涯を天主に献げたいという望みを抱いたのは当然であったが、父は娘がわずか12歳の時早くもこれをロレンゾ・デ・ポンチアニと呼ぶ一青年貴族の許嫁にしてしまった。フランシスカはこれを知って大いに驚いたけれど、聴罪司祭も結婚をよしとする意見であったので、遂に我が望みを捨ててポンチアニ家に嫁ぎ、よく夫に従って一家の主婦たる務めを果たした。子供は前後6人を儲けたが、彼女はこれをいずれも立派に教育し、また召使いをも親身の兄弟のように親切に遇したから、その家庭はいつも春風が吹くように和やかに幸福であったのである。
 ロレンゾは軍人であったから、無骨な所もあったが、しかし決して妻の霊的生活を妨げるような事はしなかった。かえって彼女が屋根裏の小部屋を聖堂の如くしつらえそこに引きこもって黙想するのを、折々召使いが陰口をきいたりすると、それを誡めるほどであった。

 ポンチアニ家の家政を全く委ねられたフランシスカは、一方に慈善の業をも始めた。即ち彼女は毎朝城の前に集まってくる数多の乞食達に恵むばかりでなく、親しく貧民窟を見舞ったり教会の前や町の広場に群がる貧しい人々に問いかけたりして出来るだけ彼等を助けるように努めたのである。また彼女は病者に尽くすことも天主より与えられたわが務めと考え、城内に病室を設けてかかる哀れな人々を収容し、自らその看護に当たった。殊にペストの如き悪疫流行の場合や、飢饉の如き天災の時には一層病者や貧民の救助に奔走し、その為にはわが所有物の全部を投げ出しても悔いない熱意を示したから、人々はことごとく彼女を天使のように崇め、天主も彼女の施しによって空となった倉庫を奇跡的に再び満たし給うた事があったという。
 その内にフランシスカの上にはつらい試練の日が訪れて来た。15世紀の初め頃ローマの貴族達は絶えず相争っていたが、やがてナポリの王ラジスラオがローマに侵入し、市中は非常な大騒動となり、その際フランシスカの夫ロレンゾも市を護る為に戦って捕虜にされたのを手始めに、長男ヨハネも敵の人質にされる、最愛の次男エヴァンジェリスタはペストで倒れる、娘のアグネスまでも急病で死ぬ、それに悪者に家財を略奪される、まったくあらゆる不幸が次から次へと降りかかって来たのである。しかしフランシスカは一切を天主の摂理としてよくこれらの苦痛に耐えたのみか、かえって貧しい身となった事を喜び感謝し、ロバを引いてローマ市近郊カンパーニャの野に出で、薪を集めてこれを売り食料品を求めてなお貧民に恵むことを怠らなかった。
 けれども当時は例の戦乱の為貧者病人がおびただしく出来たので、到底彼女の独力を以てしては思うように救済する事も叶わなかったから、彼女は同志の貴婦人達を集め、慈善事業を目的とする修道会を創め、トス・デ・スペッキにその修道院を建てた。そして自分もその一員に加わるつもりでいたところ、ちょうど敵の手にあった夫と息子が帰って来たので、しばしその希望を抑えなければならなかったが、間もなく夫は病を得て彼女のねんごろな看護を受けつつ世を去ったから、今は年来の念願を果たすべき時と、息子ヨハネや孫の留めるのも聞かず、肉親の情を大義の為になげうち、彼等を天主の御手に委ねてその御祝福を祈りつつ別れを告げ謙遜を示すため首に縄をかけてトレ・デ・スペッキ修道院の階下に平伏し入会を願った。修女達はもとより創立者なるフランシスカのこと故、さながら慈母の帰宅に接した子供等のように一議に及ばず喜び迎え、今までの院長が自発的に辞任した後へ彼女を据えるに至った。
 しかしこれまでの苦行や活動や心労の疲れが出たものか、その4年後の1440年彼女は病床に就き遂に3月9日、姉妹達に愛惜されつつ再び帰らぬ人となった。享年56歳。

 聖フランシスカは日頃守護の天使と親しい交際を結んでいたことで世に知られている。言い伝えによれば彼女は愛子エヴァンジェリスタを失ってから世を去るまでの20年間、いつも守護の天使をわが傍らにありありと見ていたとの事で、その姿は太陽の如く燦爛と輝き、顔は常に恍惚と天を仰ぎ、手は胸に十字に交差して当てていたと言う。そしてそれが見えるのは聖女が祈りをしたり、聖堂にいたりする時ばかりではない。影の形に添う如く片時も側を離れぬが、ただ少しでも天主の聖旨にもとるような事をすれば、たちまち見えなくなって、その償いをするまでは再び現れなかったそうである。

教訓

 ある人はフランシスカを闇夜にきらめく星に喩えている。それは彼女が物情騒然たりし15世紀にあって、家庭生活と慈善事業とに麗しい模範を示したたぐいまれな聖女であった為である。けれども彼女の生涯に於いて天主が主に我等に教え給うのは守護の天使をもっと重んずべき事であろう。我等は平生あまりにわが守護の天使をないがしろにしてはいないであろうか?果たして彼を尊敬し、愛し、危うい時に保護を願い、必要な時に助力を求めているであろうか?この機会によくよく反省して見るべきである。









聖ヨハネ・ア・デオ証聖者 St. Joannes de Deo C.  聖ヨハネ病院修道会創立者

2025-03-08 00:00:07 | 聖人伝
聖ヨハネ・ア・デオ証聖者 St. Joannes de Deo C.  聖ヨハネ病院修道会創立者   記念日 3月 8日


 聖ヨハネ・ア・デオ、即ち「天主の聖ヨハネ」とは、この聖人がその改心後、全く天主の御旨のままに生きられた所からそう呼ばれるのであるが、彼はまた聖会に於いて聖ヴィンセンシオ・パウロと共に慈善事業を目的とする修道会の創立者として有名な人である。

 彼ヨハネは1495年ポルトガルの一小村モンテモール・ノヴォに生まれた。父母は極めて信心深い人々であったが、若い頃のヨハネは両親に似ず、あまり信仰熱心でもなく、冒険心好奇心が強く、むしろ悪に流れやすい方であった。それが始め大した罪悪にも陥らずに済んだのは、全く彼の唯一の美点、聖母マリアに対する尊敬心の深かったに依るものであろう。
 
 7歳の時彼は、ふとスペインの旅人から聞いたその国の有様が見たさに、大胆にも家出をしてしまった。すると母はそれを苦にして重い病の床に就き、間もなく死去する、父も世をはかなんでリスボン市のフランシスコ修道院に入ったが、これも二三年して妻の後を追うに至った。
 しかしヨハネはのんきなもので、憧れの国スペインへ行くと、オロベサという伯爵家の羊飼いに住み込んだ。かくて忠実に奉公する事15年、主人にその陰日向のない所を見込まれて寵愛されるようになり、ついにはその姫君の夫にとまで懇望された。けれども日頃童貞なる聖マリアを尊敬するヨハネは、思い切ってその縁談を断り、そうなると最早主人の家にも止まりかねる所から、ちょうどその頃戦争があって兵士の募集があったのを幸いに、スペインの軍隊に入った。これは彼にとって不幸であった。何となればふしだらな周囲に感化され誘惑されて、ついに罪悪を犯すようになったからである。
 その内彼は九死に一生を得ること二度、急に故郷が懐かしくなり、父母の消息も知りたく、モンテモール・ノヴォをさして帰った。所が両親は既にこの世の人でなく、それも自分の不幸のためと聞いた時の彼の驚きと悲しみはどれほどであったろう!今更痛悔の涙にくれたヨハネはことに前半生の罪を償う堅い覚悟を定めるに至ったのである。
 彼はその為にまず聖ペトロ・ノラスコ等の如く回教徒の捕虜となっているキリスト信者を救い出すべくアフリカに渡ろうと思い両親の墓に詣でて別れを告げ、ジブラルタル海峡を経てツェウタに行こうとしたが、たまたま途中侫臣の讒言に逢ってポルトガルを追放された某貴族一家が落ちぶれて生計を立てる術も知らず、むなしく餓死を待っている哀れな有様を見て心動かされ、かような人々を救うこそ天主の思し召しに沿うゆえんと、自分の衣服を売り払って急場を助け、またある工場に雇われて労働し、得た給料もことごとくその一家に与えたから、彼等は聖人の恩に感じて涙にくれるばかりであった。
 その後ヨハネは捕虜救済の成し遂げ難い事を知ってスペインに戻り、まずジブラルタルで、次にグラナダ市で聖具画商を始めた。そして商売の傍ら無学な農夫や労働者や子供等に、天主の事聖母の事などを語り聞かせ、彼等の心に信心を植え付けるように努力した。かような教理を伝える仕事は、性質に合うのか彼は真から好きであったが、天主はやがて彼をより貴い事業に召し給うたのである。
 1539年の1月20日、聖セバスチアノの祝日の事である、16世紀スペインでその名を謳われていたアヴィラの福者ヨハネがグラナダに来て大罪と地獄に就き一場の説教をした。それを聞いたヨハネ・ア・デオは深く感じ、今更のように過去の我が罪の恐ろしさを思い、今まで償いではまだまだ不十分であると考え、遂に公衆の面前で我が罪を告白しその赦しを求めた。所が人々は彼が発狂したものと誤解し、引き捕らえて精神病院に入れた。が、彼はそこでアヴィラのヨハネに会って慰めを受け、憂いの雲も名残なく晴れ、今後は一身を慈善事業に捧げようと決心するに至ったのである。
 その手始めとして彼はグラナダ市立病院の看護人となり、無給で働く事にしたが、間もなくその病院が火災に罹ったので彼は努力で一病院を創立する念願を立て、早速労働に就き、賃金を貯蓄し材料購入その他の費用に宛てる事にした。勿論貧しい彼にはこれはなかなかの難事業であったが、天主の御祝福があった為か思いの外早く、小さいながらも一つの病院を建てる事が出来たから、彼は喜び勇んで哀れな病者を収容し、彼等を主キリストの兄弟としてあらん限りの親切を尽くしたのであった。
 もとより患者から一文の金も取らぬので、経営の費用は自ら心配する外はなかった。その為ヨハネは朝一通りの看護の務めを果たすと籠を背に、二つの瓶を手にして町を廻り、施しや寄付を請うては、喜捨した人々に礼心から聖い話を聞かせるのを常とした。そして自分は極端に質素な修道的生活に甘んじ、施しで得た物はことごとく愛する病者達の為に用いるのであった。
 かように博愛の精神を具現したヨハネの活動が人々の心を動かさぬはずはない、やがて彼の評判は国中に高く、今は貴族も富豪も喜んで彼の事業に寄付するようになり、果ては国王フィリポ二世からも御下賜があるに至ったから、彼は病院を拡張し諸般の設備を完全にし、ますます不幸な病者の救済に努めた。それにその頃には同志の士も多く集まって来たので、一層華々しい活動も出来るようになったのである。ヨハネは別に修道会を立てるつもりはなかったが、ただタイの司教の勧めで、同志は皆司祭服に似た制服を身にまとう事にした。
 ヨハネはまた日毎町を廻る間に貧しい人々の悲惨な生活振りのみならず、彼等の荒んだ心にも憐れみの情をそそられずにはいなかった。わけても彼の胸を痛めたのは、半ば自暴自棄から身をもち崩した娼婦等の爛れきった罪の生活であった。で、彼は彼女等を救うべく毎金曜日訪問して道を説き、更正を望む女達にはその負債を払ったり、正しい職業を与えたり、或いは真面目な結婚生活に入らしめたりしてやった。もっともその間には堕落しきった娼婦達やその抱え主、ならず者等に憎まれて罵られた事もある、嘲られた事もある、殴られた事もある。しかし彼はよくその恥辱を堪え忍んで、霊の光の失われていない哀れな女の救い出しに成功したのであった。
 なおヨハネはかつて自分も精神病院に入れられ、狂人のごとく遇せられた事があるが、その為か精神病者に対する同情も人一倍強く、その保護救済の方面にも大いに尽くす所があった。

 さて聖人はかく慈善博愛の為日夜活動を続けていたが、追々と、身の衰えを覚えるようになった。折しも春まだきにヘニル河が氾濫して洪水となった時、流されて来た一人の子供を救おうと濁流の中に飛び込んで身を冷やしたのが原因になり、重病を発して危篤に陥った。これを聞いたグラナダの司教が親しく彼を見舞い臨終の秘跡を授けた後「何か言い残す事はありませんか」と尋ねると、ヨハネは「実に気がかりな事が三つございます。その一つは私は今日まで天主様から言い尽くせぬほど多くの御恵みを頂いておりますが、まだその萬分の一の御報恩も果たしておらぬ事、次にはせっかく正しい道に帰した婦人達が、また罪に陥らぬかという事、それからもう一つはこの名簿に記してあります患者の負債をまだ支払っていない事であります」と言いつつ枕の下から一冊の帳面を取り出して渡した。司教は「貴方の第一の御心配は天主様の御慈悲にお任せ致しましょう。また第二第三の御心配に就いては、不肖ながら私がきっとお引き受けして如何様とも取り計らいますからどうぞ御安心下さい」と頼もしく断言したので、ヨハネは感謝の涙にくれた。いよいよ臨終が近づくと、彼はむっくと起き直り十字架に向かって跪き、祈りながらこの世を去った。時は1550年の3月8日であった。
 彼が死去してからもその弟子達は師の衣鉢をついで博愛の事業を続けたが、後にその団体は認可を受けて「慈善の友」会と呼ぶ修道会となり、会員は今日も聖ヨハネ・ア・デオの精神に従い病者の看護に努めている。

教訓

 聖ヨハネ・ア・デオは若き日の過失を償うべく一身を慈善事業に献げ、遂に立派な聖人になった。かような人こそ主キリストの「わがこの最も小さき兄弟の一人に為したる所は、事毎に即ち我に為ししなり」(マテオ25-40)との聖言に適うもので、公審判の時特別の表彰を受ける事は疑いない。







聖ペルペトゥア、聖フェリチタス両聖女殉教者 Sts.Perpetua et Felicitas MM 

2025-03-07 00:00:07 | 聖人伝
聖ペルペトゥア、聖フェリチタス両聖女殉教者 Sts.Perpetua et Felicitas MM     記念日 3月 7日


 聖会初代の殉教者中特別有名なのは、ペルペトゥア、フェリチタス両聖女であろう。その為両聖女の名前は毎日のミサ聖祭中に唱えられる事になっている。

 西暦202年ローマ皇帝セプチモ・セヴェロは全国にユダヤ教及びキリスト教の禁令を公布した。その内ユダヤ教の方は間もなく信教の自由を許されたが、キリスト教の方は益々圧迫が甚だしくなるばかりで、分けてもアフリカに於ける迫害は残忍過酷を極めたものであった。かくて203年か204年に法官ミヌチオの前に引き出された聖教志願者の中にはサトゥルニノ及びセクンドゥロという二人の奴隷や弁護士レボカート、その妹で既にさる人に嫁いでいたフェリチタス、また貴族の出であるペルペトゥアという夫人なども加わっていた。
 これらの人々に教理を教えていたのはサトゥロという若い信者であったが、彼等が捕縛された時あいにく彼は不在であった。しかしその事を聞くや否や彼は直ちに駆けつけて彼等を励まし、自分も囚われの身となった。以下記す所は聖女ペルペトゥア及び聖サトゥロの獄中記によったものである。

 彼等が最初監置された所は本当の牢獄ではなく、何故か普通の家屋の中であった。そこでペルペトゥアはつらい思いをせねばならなかった。というのは、異教人である父が彼女の可愛い子供の為に、また年老いた自分の為に、是非キリスト教を棄ててくれと、切に頼んだ事であった。彼女はその恩愛の情のしがらみを必死の思いで突き破って信仰を守り通した。そして間もなくその家に捕らわれている他の人々と共に、洗礼の恵みを受けたのである。
 役人はこれを嗅ぎつけると彼等を本当の牢獄に打ち込んだ。狭い中へ大勢詰め込まれ、その上獄吏の呵責を受けねばならぬ信者等の苦しみは一方でなかった。しかしやがて二人の助祭が役人に掛け合って、一同いくらかましな監房に移してもらう事が出来た。
 彼等がいよいよ裁判官の前へ引き出されたのはそれから暫くしての事であった。その時ペルペトゥアの父は又も娘に、「老い先の短い自分や頑是ない孫を可哀想と思うなら、どうぞキリスト教を棄てて家へ帰ってくれ」と涙を流して頼んだ。そして信者達の恐ろしい死に様を述べて彼女の反省を促しもした。ペルペトゥアはめっきり白髪のふえた父や愛する子供の事を考えて胸も張り裂けるような苦悩を覚えた。けれども一切を天主への愛の為に忍び、毅然として信仰に殉ずる覚悟を定めた。

 裁判官は決まり切った問いをかけて後、彼等を野獣の餌食にする宣告を下した。それから再び牢獄に連れ戻された時、ペルペトゥアは兄弟のディノクラトが救われたという示現を受けた。彼女はたえず彼の為に祈っていたのである。そして殉教の日が迫って処刑場にほど近い獄屋に移されてから、又も兄が改宗したという示現を蒙り、深い喜悦と慰めとを覚えた。父はなおも彼女の心を翻そうと言葉をつくしてすすめたが、ペルペトゥアの決心は勿論金鉄よりも堅かった。

 ペルペトゥアの仲間のフェリチタスは別な監房に入れられていた。始めに記した如く彼女は既に夫のある身で、懐妊中であったから、定めに従って子供を分娩して後処刑される事になった。彼女は出産の時ひどく苦しんだが、残酷な獄吏はかえってそれを嘲弄した。しかし彼女はよく何事も忍耐して他の信者達の如く快活に振る舞い、天国に行く日の一日も早く来たらん事を待ちわびていた。

 遂に一同は闘技場に引き出され、野獣の餌食にされる事になった。しかし彼等は死に直面して少しも恐れる気色なく、かえって喜ばしげに笑み交わしていた。ペルペトゥアは讃美歌を歌い、レボカートやサトゥルニノやサトゥロ等は観衆に来るべき天主の審判について語り、又裁判官に「貴方は私共を裁判なさいましたが、天主様は貴方を裁判なさいましょう」と言った。その為に人々は大いに怒り、まず彼等を腹の癒えるまでむち打たせた。殉教者たちはキリストが同じ刑を受け給うた事を偲びつつその苦痛に耐えた。間もなく野獣が場内に放たれた。一匹の豹がレボカートとサトゥルニノに飛びかかって打ち倒す。と見ると、熊がその体を引き裂いた。サトゥロだけは始めどの獣にも襲われず、獄中で教理を教えていた獄吏と語り合っていたが、やがて豹が来て彼に一撃を加え、鮮血が流れるのを見ると、残忍な観衆は「綺麗になったぞ!」と一斉に囃し立てた。サトゥロは重傷に屈せずかの獄吏の指輪を取り、之を自分の血に浸して返し与え、「では御機嫌よう!私の事を忘れずに、これを見て勇気を出してください」と言った。

 ペルペトゥアとフェリチタスは網に包まれ、牛の角にかけられて投げ上げられた。フェリチタスは地上に落ちてから起きあがる事が出来なかったが、ペルペトゥアは立ち上がって髪や衣服の乱れを直し、フェリチタスの手を取って助け起こした。それを見た観衆は一瞬感動したようだったが、やはり彼女達を殺す事を望んだ。それでペルペトゥア、フェリチタス、その他まだ死なずにいた信者等は、共に刀で斬り殺されて殉教の栄冠を受けた。

教訓

 これらの聖殉教者、殊に聖女ペルペトゥアの深い信仰を見れば、我等も如何なる艱難の時にも天主を信ずる旨を勇ましく言い現し、かつ終わりまで信仰を守る為に「願わくは我等の信仰を増し給え!」(ルカ17-5)と祈らずにはいられまい。