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マリアの子守歌 ー ほめたたえよう 清いおとめ マリアを5-2

2019-07-18 02:29:11 | 聖母讃歌
『ほめたたえよう 清いおとめ マリアを』聖エフレム原作、デルコル神父、江藤きみえ 共訳・編

◆5-2、マリアの子守歌

第2考察 マリアの子守歌

 聖エフレムは、こんど、マリアの子守歌を紹介します、「愛にみちた、美しい子守歌」を。マリアのきよいお心で、これを考えるようにしましよう。

【第7篇】 

③ 小さなめばと〔にすぎないマリア〕は、永遠のわし〔にあたるお力〕を、抱きしめ、愛にみちた、美しい子守歌で、ほめたたえながら、歌います。

「おお、かぎりのないおん子よ、あなたをはぐくむため、こんな小さな巣を、おえらびになったとは!
おお、歌にあふれるチタラよ、おさな子となって、ものいえないのを、えらばれたとは!
〔わたしの子よ〕あなたのために、うたわせてね、そのしらべで、ケルビムを感心させるあのチタラにあわせ、ああ、わたしに、あなたの歌を、うたわせてね。

④ おん子よ、か書りなく広い、住家をもったあなたが、わたしをえらんで、あなたの住家になさったとは!
あなたのみいつを容れるため、すべての天も小さすぎるのに、わたしのような、いやしい女が、あなたを支えています。

 さあ、エゼキエル〔予言者〕を、よびよせてください!

 かれが、わたしのひざに坐っておられるあなたをみて、ひれ伏して、おがみますように。

 昔、かれがみた、火の車にすえられ、ケルビムたちの玉座にすわっておられたあの方か、あなただとわかって、わたしの抱きしめているあなたのために、わたしをさいわいな人と、となえますように!

⑤ あの火の車が、わたしにおどろいています、その御者を、わたしが支えているからなのです。ケルビムたちも、おそれおののきながら歌います、"〔神の〕みいつが、そのすまいに、賛美されますように!と。

 ごらんなさい、そのすまいは、わたしのうちにあり、わたしの胎は、あなたのすみ家となっています。あなたの宮殿は、わたしのひざのうえに、あなたの玉座のいしずえは、わたしの腕のうえに、おかれています。あなたの、火の車のために、わたしのゆびこそ、車輪です。
 わたしも、ケルビムに、声あわせて歌いましょう、〔神の〕みいつが、その玉座に、賛美されますように!と。



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マリアの子守歌 ー ほめたたえよう 清いおとめ マリアを5

2019-07-17 02:24:33 | 聖母讃歌
『ほめたたえよう 清いおとめ マリアを』聖エフレム原作、デルコル神父、江藤きみえ 共訳・編

◆5、マリアの子守歌

① 教会は、聖母の小聖務日課に、つぎのように歌っています。「いとも光栄あるおとめ、天の星よりもすぐれた方よ、おさな子となられたつくり主を、あなたは、胸をふくらませて、やしなっておられる」(「賛歌」の賛美歌)。

②「〔信仰によって〕照らされたわたしたちに、ふしぎにみちたあなたを使わされたお方に、光栄](第7篇のおりかえし)

第1考察 すべてきよいおん母

 聖母をほめたたえる第7の賛歌で、聖エフレムは、マリアの美しさをたたえます。

 「すべて清く、くすしき女性」とは、大自然の法則をのりこえて、処女性を完全に保ちながらも、神のおんひとり子、ケルビムのかがやかしい玉座にすわっておられる方を、愛ぶかくだきしめておられるおん母マリアのことであるから、感嘆するようにと、聖エフレムは招います。

【第7篇】

① えらばれたものたちよ、きて、感嘆しましょう。おとめであるおん母、ダヴィドのむすめを。ふしぎなおん子を生んだ、うるわしいお方を。泉(=キリスト)をほとばしらせる、第二の泉を。

 おん父がおつみになったよいしらせの荷をのせたしあわせの舟を。世の偉大な船頭をきよいご胎内にやどして、はぐくんだおとめを。この船頭によってこそ、平和があらわれたのです。地にも、天にも。

② さあ、きて、感嘆しましょう、すべてに清く、くすしき女性を。男をしらずに、みごもりえたただひとりのお方を。このきよい人の、たましいは、感激にみちあふれていて、その心は、いつも、賛歌を、ひびかせておりました。自然の法則によれば、同時にありえないふたつのことで、マリアは、よろこんでいたのです。それは、かわいいおん子をもちながら、終生おとめだったことなのです。一マリアからめばえたお方は、賛美されますように!




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ほめたたえよう 清いおとめ マリアを(聖エフレム)4-4

2019-07-15 05:50:08 | 聖母讃歌
『ほめたたえよう 清いおとめ マリアを』聖エフレム原作、デルコル神父、江藤きみえ 共訳・編

◆4-4、第3考察(続き)

 ここで、聖エフレムがいう"ナザレのこずえ"とは、イザヤが直接救い主についていう、「イエッセの・・・根からめばえる"ひこばえ"」(11:1)のことをさしています。ナザレトは、聖エフレム自身の解釈では、"枝"という意味で、マリアという"ぶどうの木の枝"であり、イエズスという"こずえ"(すなわち、枝の"いただき"にあたる"実")を"めばえさせた"ものであります。それで、ナザレトというところに、マリアの"こずえ"であるイエズスが、はぐくまれたとうたってあります。

 聖エフレムは、結論として、つぎのように結びます。

⑨〔旧約時代の〕シンボルは、すべてマリアに実現し、あらゆる予言と、前じるしは、マリアにおいて、完成されたのです。

祈り 「聖マリアの処女性をゆたかにして、永遠の救いのめぐみを人類に与えてくださった神よ、わたしたちは、神のおん母マリアによって、いのちの泉であるおん子イエズス・キリストをうけたので、おん母の取りつぎをも、わたしたちにえさせてください。アーメン」(典礼から)。

決心 潔白を完全に守るめぐみをねがうために、めでたし一つとなえましょう。


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ほめたたえよう 清いおとめ マリアを(聖エフレム)4-3

2019-07-14 01:48:54 | 聖母讃歌
『ほめたたえよう 清いおとめ マリアを』聖エフレム原作、デルコル神父、江藤きみえ 共訳・編

◆4-3、救い主に関するイザヤの予言

第3考察 旧約時代の実現、マリア

聖エフレムは、うたいつづけています。

③ 〔神の〕示しをうけてイザヤが語ると、おとめたちはみな、〔知りたいという〕あこがれに、胸をふくらませて、ききいりました。
予言者のいう、この方はだれ?
どんなみぶんの人なのか?この不思議なできごとが、いつ、どこに、実現するか、と。

④ 予言者の声をきくと、おとめたちはみな〔心ときめき〕、その胸は、ふしぎな期待におののきました。それは、ヘブライの女性にとって、今までに、きいたことのない予言であって、「ひとりの処女がみごもる」という、このふしぎを耳にして、清いおとめたちの心は、乱れさわいだのです。

⑤ あのイザヤが、いつ、どこで、だれのことかと示さずに、「ひとりの処女がみごもる」とうたった予言は、高らかに、マリアの心にひびきます。それは、この予言の実現が不思議のなかにつつまれた、かの女のうちで実現したからです。

⑥ でも、予言者の示しをきいたおとめたちは、ちぢにみだれる心のうちに、ひとりの処女がみごもるというこの新しいできごとが、いつおこるのかと、思いまどっておりました。
つぎに聖エフレムは、旧約時代のすべてのシンボル、すべての予言と前じるしが、マリアにおいて、実現となり、事実となったことを、うたっています。

⑦ マリアにおいて、予言の書の、ふかい神秘にかくされたあらゆる意味は、あきらかになり、"正義の太陽"は、かの女によってのぼり、やみにあるよろずの国は、てらされました。

⑧ マリアは、ぶどうの木であり、この木から、かかれていたとおりに、ナザレの、あの不思議なこずえ"が、めばえでて、神秘なたとえに秘められたこの予言が実現するように、ナザレトの里に、はぐくまれました。-すべてが実現するために。




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救い主に関するイザヤの予言-ほめたたえよう 清いおとめ マリアを(聖エフレム)4-3

2019-07-13 02:22:26 | 聖母讃歌
『ほめたたえよう 清いおとめ マリアを』聖エフレム原作、デルコル神父、江藤きみえ 共訳・編

◆4-2、救い主に関するイザヤの予言

第2考察 この予言の「おとめ」とは、マリアのこと

「みよ、おとめがみごもり、ひとりの子を生み、それをエンマヌエルとよぶだろう」。

 予言者イザヤのこのことばは、救い主の誕生を示すだけでなく、救い主の誕生の奇跡的な特権をも、あらわしています。

 救い主は、すなわち、ひとりの「おとめ」からお生まれになる、ということを。

 「おとめ」にあたる、ヘブライ語の「アルマ」ということばは、旧約聖書では、このほかに、8度出ていますが、つねに、未婚の女のことをさしています。キリストのご降誕を出発点とする西歴紀元前、つまり、実現前におこなわれた聖書(もちろん、旧約聖書)のギリシア語訳は、「アルマ」というヘブライ語を、「おとめ」(パルテーノス)とやくして、ヘブライ語の原意を、明らかにしました。つまり、いわゆる七十人訳ギリシア語聖書は昔のユダヤ人が、このことばを、どう用いていたかの、貴重な証明であります。この意味は、福音書によって確認されました(マタイ1:23)。マリアの夫、ヨゼフの心配は、マリアが「聖霊によってみごもっていること」を、つまり、マリアがみごもっても、もとの処女性を、完全に保たれたのだということを、あきらかに証明しています。

 イザヤの予言も、このことを強調しています。「主おんみずから、あなたたちに、しるしをお与えくださる」ということばで、はじめていますが、もしマリアが、もとはおとめであったが、みごもって処女性を失なったとすれば、これは、何のしるしといえましょうか? 大自然の法則にしたがって、当然おこることではないでしょうか? マリアの場合は、かえって、大自然のこの法則こそは、のりこえられ、処女性を完全に保ちながらも、同時に母ともなられたのです、エンマヌエル(=わたしたちとともにおいでになる神)である救い主イエズスの、すべて清い、とおといおん母聖エフレムは、この"不思議にみちたできごどを、つぎのようにうたっています。

【第6篇】 ① おとめたちよ、さあ、こぞって、集いましょう。
手をたたいて、賛美のうたを歌いましょう。
わたしたちの感嘆のまとである、あのとおといおとめが、世の偉大な不思議である、聖なるおん子をむ生みになったからです。

② 〔予言者〕イザヤは、すべてのおとめを集めて、あらゆるおとめに、〔厚い神秘のベールをあげて〕示しています、神の奥義を。
ひとりのおとめが、男をしらずにみごもって、奇跡的なおさな子を、きよく生みだすということを。