カトリック情報 Catholics in Japan

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聖オイフラシア修道女  St. Euphrasia Virgo

2025-03-13 00:00:07 | 聖人伝
聖オイフラシア修道女  St. Euphrasia Virgo          記念日 3月 13日


 7歳にして修道女となるとは甚だ珍しい例であるが、オイフラシアは之を実行した聖女であった。

 彼女は380年、東ローマ帝国の首府コンスタンチノープルに生まれた。父は宮廷に仕える高官でアンチゴノといったが彼女の誕生後一年にして世を去った。母は東ローマ教会で聖女と崇められているほどの人で、夫の死んだ頃はまだ年も若かったからしきりに再婚を勧められたけれど、故人を偲び遺児の為を思っては、到底そうした気持ちになれず、かえって世間をうるさいものに思い、縁談を断って娘と共に亡夫の財産のあるエジプトに退いた。
 それから未亡人は諸々を巡り、或いは聖人隠者に道を聞き、或いは慈善の業を行いなどしていたが、たまたま一修道院の童貞方の厳しい生活振りに感心し、その後は同院の付近に居を定め、しばしばそこを訪問しては修女方と祈りを共にしたり彼等に霊魂上の教訓を請うたりする事にした。
 それにしてもその修女方の生活があまりにも貧しいので、気の毒に思った未亡人は、夫の冥福を祈ってもらう事にして毎年一定の金額を寄付し、彼女達を援助しようとした。しかし修院長は「私共はせっかく天主様の為にかような貧しい生活に入ったのですから、生涯この不自由を忍びたいと思います」と彼女の好意を固辞し、ただ聖堂に用いる燈油、香などを受ける事だけを承諾した。

 さて娘のオイフラシアは愛深い母の庇護の下にすくすくと成長し、早7歳を迎えたが、ある日例の通り母について修院を訪れたとき、楽しげな修女達の様を見て子供心にも何かを感じたのだろう、時刻が来て母が連れ帰ろうとしても「いつまでも此処にいるの」と言ってどうしても動かない。院長が「此処は天主様に身を献げた人でなければ居られないのですよ」と諭して帰そうとすると、オイフラシアは傍にあった十字架を取り胸に抱いて「それなら私も天主様に身を献げます」と言う。院長はそのけなげさに感嘆しつつも、なお修院に入れば厳しい断食や激しい労働をしなければならぬ上に、全く我が儘の出来ない事などを話して、思い止まらせようとしたが、幼いオイフラシアは「何でも言うことを聞きますから、此処においてちょうだい。もし少しでも言いつけを守らなかったらその時追い出されてもいいわ」とあくまで願ってやまない。で、その熱心さに、始めは驚いた母も今は共々に院長に頼み、彼女を修院においてもらう事にした。しかし何分幼い子供の事とて、最初は修院の他の人々も多少危ぶんでいたが、さて共に生活してみると成人も及ばぬ真剣な態度に、今更の如く舌を捲いたのであった。
 オイフラシアの母はその後5年にして帰天した。娘のオイフラシアは13歳になった時、東ローマ帝国の宮廷から一通の書簡を受け取った。何事であろうと封を切って見ると、それは幼い時に許嫁になったある人との結婚を果たせとすすめたものであった。けれども日々天主との清い交わりを楽しんでいるオイフラシアには、もとより煩わしい世間の渦中に帰るつもりは少しもない。彼女はテオドシオ皇帝及びその皇后に返書をしたため、今の自分には愛するイエズスの浄配として一生を終える他何の望みもないことを述べて容赦を乞い、また自分の全財産を貧民に施されるよう依頼したので、皇帝皇后も大いに感じ、彼女の願いを許可されたのであった。

 それからもオイフラシアはますます我が身を修め徳を磨くに努め、衆人に優れた熱心を以て苦行、祈り、日々の務めにいそしみ一院の尊敬を集めていたが、30歳になった時急に大患をを得て、410年3月13日天国に旅立った。

教訓

 「三つ子の魂百までも」ということわざは宗教の方面に於いても真理である。聖女オイフラシアはその好適例であるが、彼女が7歳の幼年で心から修道生活を望むに至ったのは、日頃の母の指導もよろしきを得ていた事と思われる。一般信者の親たる者も常に子供は天主より与えられて天主に返すべき者である事を忘れてはならぬ。しかして心して之に宗教教育を施すならば、他日その子供達の中より、ただ国家社会に有用な人物のみならず、また天主の聖意に適う聖人も必ず出ずるに相違ないのである。





聖マクシミリアノ殉教者

2025-03-12 00:00:05 | 聖人伝
聖マクシミリアノ殉教者                             記念日 3月 12日


 275年23歳のマクシミリアノは、ローマの軍隊に入るのを許否したので、法廷に引き出された。兵士の多数は志願制であったが、退役軍人の息子は徴兵として戦わねばならなかった。父ファビウス・ヴィクトールは、息子と同じくキリスト信者になったので、息子の徴兵拒否を支援した。法廷はアルジェリアのテベサで開かれた。
 軍役を拒否する者は死刑に処せられることになっていたので、緊張がみなぎった。
 賢明な裁判官ディオンが尋問した「他のキリスト信者たちは、兵士として服役している」。マクシミリアノは答えた「それは彼等の自由で、私のことではありません。私もキリスト信者です。しかし、兵士になることはできません」。
 ディオンはマクシミリアノの父に向かって「あなたの息子を正常にしなさい」と言ったが、父は答えた「私の息子は自分が信じていることを知っています。彼は、志を変えないでしょう」。ディオンは士官に命じて、階級の印のバッジを与えようとしたが、彼は「それはいただけません。もし、私に無理につければ、それを傷つけます。キリスト信者として私は鉛の印をつけることはできません。私はすでにキリストの聖なる印をつけています」。
 ディオンは、威嚇して言った。「もしお前が軍務を拒絶するなら、お前はすぐにキリストの所へ行くのだ」。すると「それは私が最も望むことです。早く行かせて下さい。そこにこそ私の栄光があります。私は死なないでしょう。この地上から出るとき、私の魂は、私の主キリストと共に生きるでしょう」とマクシミリアノは答えた。
 「私は軍隊を侮るというかどにより、お前に死刑の宣告を下す」とディオンは言って、法廷の裁決を読み上げた「マクシミリアノは、軍人の誓いを拒絶した。ゆえに彼を斬首の刑に処す」。
 聖人はすぐさま刑場に連れて行かれて、首をはねられた。父は自分の息子が、彼の主キリストに栄光を帰して勇ましく死を選んだことを喜んで、家に帰った。






ボローニャの聖カタリナ修道女  St. Catharina de Bologna Virgo

2025-03-11 00:00:05 | 聖人伝
ボローニャの聖カタリナ修道女  St. Catharina de Bologna Virgo     記念日 3月 11日


 聖女コレタ(記念日3月6日)がフランスにその高徳を謳われていた頃、イタリアにも同じく聖徳に秀でていた一女性があった。それは聖クララの跡を踏む修道女、聖カタリナである。

 彼女は1413年9月8日聖マリア御誕生の祝日に呱々の声を挙げた。父母は共に貴族の家柄で、学徳並び備わった人々であった。さればその血を承けたカタリナが早くから才知の鋭い閃きと善徳への強い傾向を示したのも敢えて不思議ではない。9歳の時彼女はフェララ候の懇望に従いその城中におくられ、候の息女エリザベトと共に教育されることになった。この二少女は仲も良く互いにふさわしい相手であったが、わけてもカタリナの信心の深さと知識の進歩の速やかさはあらゆる人々を驚かせずにはいなかった。
 彼女は間もなくラテン語に熟達し、あの難しい言葉を読むにも語るにも書くにも誤ることがなかった。そしてその筆跡も今なお残っているが、それは極めて美しい書体である。彼女が最も愛読した書物は教会博士その他諸聖人の著書であった。なおカタリナは手芸にもすぐれた腕前を示し、美術にも堪能で、殊に絵画の方面に立派な作品を残している。

 カタリナがフェララ城に来てから早くも三年は過ぎた。するとその頃友のエリザベトはリミニの王子と許嫁の縁を結び、カタリナはまた父を失って母の許に帰る事になり、二人は互いに別れねばならなくなった。エリザベトはその時後日友が再び彼女の傍に戻り来る事を望んだが、カタリナはそれを謝絶した。それは天主に身を献げようという聖い志を胸に秘めていたからである。
 それ故彼女はまた申し込まれる縁談をことごとく断った。母は一切を彼女の気ままに任せてくれた。で、彼女は素志の貫徹に些かの顧慮する所もなく邁進する事が出来たのであった。

 ちょうどその頃フェララの町にルチア・マスケロニという婦人があったが、この人は在俗のまま数人の同志と共に修道女の如く敬虔に、祈りと労働との生活を送り、町中の人々に良い感化を及ぼすこと僅少ではなかった。さればカタリナもこの人の徳を慕ってその姉妹の中に加わり、一層天主と友なる生活の喜びに浸る身となった。しかしその幸福も長くは続かなかった。というのは間もなく様々の試みが彼女の上に降りかかって来たからである。
 まず彼女は孤独への憧れを感ずる事が日一日と強くなって、共同生活が苦痛になり、いっそ同志の人々と袂を分かとうかとまで思った。しかし彼女は熱心に聖霊の御光を願った結果、依然そこに留まるのが最良の途である事を悟ったのである。
 第二の試練は悪魔の激しい誘惑であった。彼女は時々それに抵抗する気力すら失いかけた。この悩みが過ぎ去ると、今度は霊肉の他の苦悩が始まって、彼女は聖教を疑う心さえ起こすに至った。けれどもカタリナは天主の聖寵に縋ってすべての試練に打ち勝った。あまつさえ自分一生の罪と欠点とをことごとく許された事を天主から示されて深い慰めを受けた。彼女はこれらの悩みの時に幾多の貴重な経験を体得した。そして他の人々の参考にもと、それを録した一小冊子を著した。

 謙遜な彼女は自分では少しも気づかなかったが、世人はその敬虔に感じて彼女に多大の尊敬を献げていた。中にもヴェルデ候の奥方は彼女及び彼女の同志を讃仰するあまり、聖クララの戒律による一修道院を建てて彼女等に与えた。カタリナは身に余る幸福を感じ、賤しい仕事も天主の為と(彼女はいつもそう言っていた)、深い喜びを以て果たすのであった。
 彼女等の麗しい信仰生活、わけてもカタリナの聖なる模範は、世の若い女性を感動させずにはいなかった。かくてその修道院に入る事を望む者が多くなった時、カタリナはその修練長の職に挙げられた。彼女は従順の誓願に従ってその任務を引き受けた。そして日頃愛読してきた聖書や教会博士達の著書の該博な知識を傾けて修練者達を教え、またおのが立派な日々の行いの鑑をもって彼等を導いた。

 その頃彼女は天主から特別のお恵みを授かる光栄に浴した。その一は救い主の御苦しみを、その御霊魂の御悩みは勿論、御肉体の御苦痛さえ深く理解し、且つある程度まで如実にこれを感じた事であり、その二は1445年のクリスマスの夜に、聖母マリアが御出現になって、聖き御子を彼女の腕に抱かしめ給うた事であった。
 1451年同修道院の院長が死ぬと、姉妹達はいずれもカタリナがその後を継ぐ事を望んだ。しかしあくまで謙譲な彼女は自分がその任にあらざる旨を強調し、一同の賛同を得て、同じクララ会に属するマンツァ修道院から適当な修女を招いてこれを院長に推戴した。が、間もなく姉妹達の増加から、教皇の許可の下に、他にも修道院を設ける事になり、まずボローニャに一修道院が出来ると、今度は聖会長上からの命令で、カタリナも辞退するに言葉なくその院長に就任した。
 当時ボローニャ市民は二三の党派に分かれ、互いに抗争を事としていたが、カタリナはその為に祈って遂に和解せしめた。彼女は自分の修道院を「御聖体の貧しきクララ修道女院」と名づけ、及ぶ限り御聖体の御前で祈り、時には徹夜して祈り明かす事も珍しくなかった。そして姉妹達が戒律をよく守り、又相睦み相愛するように留意し、母親が生みの我が子を慈しむにも優る愛情を以て彼女達に臨んだ。殊に病める者弱き者に対しては、その思いやりと心遣いも一入であった。カタリナは常に修道院内にあって一歩も門外に出なかったが、その聖徳と祈りの力で世人の為、わけても罪人の為、益をもたらした事は決して少なくなかった。
 1463年2月25日、死期の近きを知った彼女は、姉妹一同を集めて最後の訓戒を与えた。その後体力は次第に衰えるばかりで、3月8日至聖御聖体を天使のような敬虔な態度で拝領すると、懐かしさに得耐えぬ如くイエズスの御名を三度繰り返したまま、安らかに永眠した。享年49歳と7ヶ月。

教訓

 聖女カタリナは長い間つらい試練に逢ったが、七つの武器を以て悪戦苦闘し遂に最後の勝利を得た。その武器とは彼女自身ある書の中に記している如く(一)勤勉に労働し(二)己を恃まず(三)天主のみに信頼し(四)しばしばキリストの御生涯を黙想し(五)その御死去を考え(六)天国を思い(七)聖書を熟読する事がそれである。










セバステの40聖人殉教者  Sts. 40 Martyres de Sebaste

2025-03-10 02:29:13 | 聖人伝
セバステの40聖人殉教者  Sts. 40 Martyres de Sebaste            記念日 3月 10日


 烈しい吹雪にも喩えるべきローマ帝国に於けるキリスト教の迫害は、313年コンスタンチノ大帝の御代に終息し、聖会には一陽来復、信仰の春が廻って来た。けれどもその信仰の自由が比較的長く許されていたのは西ローマ帝国に於いてであって、東ローマ帝国に於いては間もなく又皇帝チリニウスの禁教迫害が始まったのである。
 その迫害は当初は密かに行われたが、やがて公然となり、信者達の中にはその圧迫に堪えかねて棄教した者も少しはあったけれど、また深山幽谷に身を潜め、荒れ野の果てに身を隠して信仰を全うした人もあれば、官憲の暴虐にも屈せず栄えある殉教の冠を戴いた勇士もある。次に記すセバステ町(今のアルメニア地方に在る)の四十聖人殉教者の如きはその最も著名な例と言ってよかろう。
 彼等はいずれも軍人で、勲功抜群の名誉ある第十二連隊に属し、猛勇にして果敢、誠に武人の典型として恥ずかしからぬ人々であった。所が彼等の隊がセバステに派遣された時の事である。東ローマ帝国チリニウスは彼等にキリスト教を信奉せぬ印に、偶像に香をを献ぐべき事を命じた。しかしかような命令に従えば勿論背教者となる他はない。されば彼等は皆「香を焚くような事は私共軍人の仕事でないばかりでなく。それにまた天主の掟にも背きますから・・・・」と言ってきっぱりと拒絶したのである。総督アグリコラウスは彼等如き勇士を四十人も殺すのを、いかにも残念な事に思い、或いはいろいろな甘言を以て、或いは様々の威嚇を以て、彼等を棄教に導こうと試みたが、彼等の決心は鉄石の如く、どうしてもこちらの意志に従わせる事が出来なかった。そこで総督は彼等の全身を鞭打たせ、その脇腹を熊手で掻きむしらせ、教えを棄てねばまだまだ恐ろしい苦痛をみせるばかり故、よくよく考えてみるがよかろうと言い渡して獄に投じた。
 が、再び引き出して尋問しても彼等の心は依然として変わらない。で、アグリコラウスは遂に死刑の宣告を与え、その処刑にも特別苦痛の多い方法を取った。それは彼等をセバステの町外れに引き行き、まだ三月の寒空に衣服を剥ぎ取り、降りしきる雪の中、そこの大きな池に張りつめた氷の上に座らせ、凍死させる事にしたのである。
 しかし四十人の勇士はかねて致命は覚悟の前であるから少しも驚かず、かえっていよいよ栄光の時の来た事を喜び、互いに顧みて励まし合い、「我等の主イエズス・キリストが荒れ野に於いて断食し給うたのも四十日、またモーゼがシナイ山で祈り、エリアが断食した期間も四十日、四十は聖なる数でございます。願わくは主よ、今四十人打ち揃って殉教せんとする我々に、この責めの苦しみを終わりまで耐え忍ぶ聖寵をお与え下さい!」と一心不乱に祈りを献げた。
 刑の執行に当たっている兵卒等は、歯を食いしばって冷たさ寒さをこらえている勇士達の傍らに温かそうな風呂を沸かし「キリスト教を棄てようと思う者は、早くここへ来て身体を暖めよ」と誘惑したけれども、信仰の勇士達は誰一人その手に乗りそうにも見えなかった。
 かようにして彼等がはや半死半生の有様になった頃、ふと風呂場の番をしていた一人の兵卒が天を仰ぐと、勇士達の上あたりに不思議な光が揺曳し、中を数多の天使達が手に手に燦然と輝く冠を持ってしずしずと降って来るので「これは神が信仰堅固なあの人々を賞し給うのであろう」と深く感じ入ったが、数えて見ると冠が三十九しかない。どうしたのかといぶかっている内、処刑を受けている中から「助けて下さい」と言いながら一人が這い出して来た。責め苦に耐えかね愚かにも棄教する心になったのであろう。それっと言うので兵卒等はその男をいたわり衣服を着せて、火の焚いてある風呂場へつれて行ったが、急に寒い所から暑い所に来た為か、心臓麻痺を起こして頓死してしまった。
 この天罰を目の当たりに見た先の番人は、天主の聖寵に心眼開け、カトリックの真の宗教である事を悟り、熱烈な信仰の念の燃え上がるままに「私もキリスト教を信ずる!」と叫んで自ら衣服を脱いで殉教の列に加わった。かくて一旦卑怯者の脱退で不足となった四十という聖数も、ここに勇士達の願い通り再び満たされて、欠けることなく済んだのである。彼等の歓喜は察するに難くあるまい。やがて勇士達は一夜の氷責めに、次ぎ次と倒れていった。裁判官はかかる殉教者の死骸を信者の手に拾われたくないと思い馬車に積んで場末に運ばせそこの広場で焼き捨てさせる事にしたが、唯一人メリトンという勇士だけは、年齢も一番若く、身体も丈夫であったせいかまだ息があったので、そのままに残しておいた。ところがその母が又雄々しい信仰の持ち主で、それと見るより傍に馳より我が子を励まし、他の馬車に乗せて三十九人の後を追ったが、その途中メリトンも母の膝に抱かれて遂にこときれたという。
 四十勇士の死体を焼いた灰は、河中に投げ棄てられたが、不思議にもそのまま水上に一塊りとなって浮いているので信者等が拾い取り、後に聖バジリオが之を納める聖堂を建て、彼等の偉勲を表彰した。以上が初代聖会史上に名高いセバステの四十聖人殉教顛末の大略で、時は我が主御降誕後320年の事であった。

教訓

 かの四十勇士中唯一の棄教者は、始めこそ他の人々と共に数々の責め苦をよく耐え忍んだのに、終わりに至って屈服したばかりに可惜九仭の効を一簣に欠き、聖人の列に加わる事が出来なかった。我等もこの前者の覆轍に鑑み、また「死に至るまで忠実なれ、さらば生命の冠を与えん」(黙示録2-10)と聖書にあるを思い、戒心して終わりまで耐え忍ぶ恵みを天主に祈り求めようではないか。








ローマの聖フランシスカ修道女 St. Francisca Vid.

2025-03-09 00:00:05 | 聖人伝
ローマの聖フランシスカ修道女 St. Francisca Vid.                 記念日 3月 9日


 世にローマの聖寡婦フランシスカとして知られているこの聖女は、その呼び名の如くローマで育ち、ローマ市民の為に尽くしてローマで死去した生粋のローマっ子であった。またその霊名フランシスカは、彼女の両親がアッシジの聖フランシスコを大方ならず尊崇していたに由来するものであるが、名は体を表すとやら、貧者に対する同情に篤かった点に於いてフランシスコにごく酷似じているのも一奇である。

 彼女は1384年ローマの貴族の家に呱々の声をあげた。両親共に熱心な信者で、殊に教皇庁の為に少なからず尽くす所があったという。フランシスカはそういう親の子と生まれて、幼少の頃より善い感化を受け、聖母マリアの小聖務日課その他の祈りも母と共に唱え、また彼女に連れられてローマの諸々にある聖堂に参詣するのを何よりの楽しみとしていた。
 かように信心深い彼女であるから修道女になって生涯を天主に献げたいという望みを抱いたのは当然であったが、父は娘がわずか12歳の時早くもこれをロレンゾ・デ・ポンチアニと呼ぶ一青年貴族の許嫁にしてしまった。フランシスカはこれを知って大いに驚いたけれど、聴罪司祭も結婚をよしとする意見であったので、遂に我が望みを捨ててポンチアニ家に嫁ぎ、よく夫に従って一家の主婦たる務めを果たした。子供は前後6人を儲けたが、彼女はこれをいずれも立派に教育し、また召使いをも親身の兄弟のように親切に遇したから、その家庭はいつも春風が吹くように和やかに幸福であったのである。
 ロレンゾは軍人であったから、無骨な所もあったが、しかし決して妻の霊的生活を妨げるような事はしなかった。かえって彼女が屋根裏の小部屋を聖堂の如くしつらえそこに引きこもって黙想するのを、折々召使いが陰口をきいたりすると、それを誡めるほどであった。

 ポンチアニ家の家政を全く委ねられたフランシスカは、一方に慈善の業をも始めた。即ち彼女は毎朝城の前に集まってくる数多の乞食達に恵むばかりでなく、親しく貧民窟を見舞ったり教会の前や町の広場に群がる貧しい人々に問いかけたりして出来るだけ彼等を助けるように努めたのである。また彼女は病者に尽くすことも天主より与えられたわが務めと考え、城内に病室を設けてかかる哀れな人々を収容し、自らその看護に当たった。殊にペストの如き悪疫流行の場合や、飢饉の如き天災の時には一層病者や貧民の救助に奔走し、その為にはわが所有物の全部を投げ出しても悔いない熱意を示したから、人々はことごとく彼女を天使のように崇め、天主も彼女の施しによって空となった倉庫を奇跡的に再び満たし給うた事があったという。
 その内にフランシスカの上にはつらい試練の日が訪れて来た。15世紀の初め頃ローマの貴族達は絶えず相争っていたが、やがてナポリの王ラジスラオがローマに侵入し、市中は非常な大騒動となり、その際フランシスカの夫ロレンゾも市を護る為に戦って捕虜にされたのを手始めに、長男ヨハネも敵の人質にされる、最愛の次男エヴァンジェリスタはペストで倒れる、娘のアグネスまでも急病で死ぬ、それに悪者に家財を略奪される、まったくあらゆる不幸が次から次へと降りかかって来たのである。しかしフランシスカは一切を天主の摂理としてよくこれらの苦痛に耐えたのみか、かえって貧しい身となった事を喜び感謝し、ロバを引いてローマ市近郊カンパーニャの野に出で、薪を集めてこれを売り食料品を求めてなお貧民に恵むことを怠らなかった。
 けれども当時は例の戦乱の為貧者病人がおびただしく出来たので、到底彼女の独力を以てしては思うように救済する事も叶わなかったから、彼女は同志の貴婦人達を集め、慈善事業を目的とする修道会を創め、トス・デ・スペッキにその修道院を建てた。そして自分もその一員に加わるつもりでいたところ、ちょうど敵の手にあった夫と息子が帰って来たので、しばしその希望を抑えなければならなかったが、間もなく夫は病を得て彼女のねんごろな看護を受けつつ世を去ったから、今は年来の念願を果たすべき時と、息子ヨハネや孫の留めるのも聞かず、肉親の情を大義の為になげうち、彼等を天主の御手に委ねてその御祝福を祈りつつ別れを告げ謙遜を示すため首に縄をかけてトレ・デ・スペッキ修道院の階下に平伏し入会を願った。修女達はもとより創立者なるフランシスカのこと故、さながら慈母の帰宅に接した子供等のように一議に及ばず喜び迎え、今までの院長が自発的に辞任した後へ彼女を据えるに至った。
 しかしこれまでの苦行や活動や心労の疲れが出たものか、その4年後の1440年彼女は病床に就き遂に3月9日、姉妹達に愛惜されつつ再び帰らぬ人となった。享年56歳。

 聖フランシスカは日頃守護の天使と親しい交際を結んでいたことで世に知られている。言い伝えによれば彼女は愛子エヴァンジェリスタを失ってから世を去るまでの20年間、いつも守護の天使をわが傍らにありありと見ていたとの事で、その姿は太陽の如く燦爛と輝き、顔は常に恍惚と天を仰ぎ、手は胸に十字に交差して当てていたと言う。そしてそれが見えるのは聖女が祈りをしたり、聖堂にいたりする時ばかりではない。影の形に添う如く片時も側を離れぬが、ただ少しでも天主の聖旨にもとるような事をすれば、たちまち見えなくなって、その償いをするまでは再び現れなかったそうである。

教訓

 ある人はフランシスカを闇夜にきらめく星に喩えている。それは彼女が物情騒然たりし15世紀にあって、家庭生活と慈善事業とに麗しい模範を示したたぐいまれな聖女であった為である。けれども彼女の生涯に於いて天主が主に我等に教え給うのは守護の天使をもっと重んずべき事であろう。我等は平生あまりにわが守護の天使をないがしろにしてはいないであろうか?果たして彼を尊敬し、愛し、危うい時に保護を願い、必要な時に助力を求めているであろうか?この機会によくよく反省して見るべきである。