『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
6 雷帝後の動乱のロシア
5 ロマノフ朝の成立
それから四ヵ月たった一六一三年二月、モスクワには各地からの代表、約六百名が集まり、ロシアで空前絶後といわれる大がかりな全国会議(ゼムスキー・ソボー=イワン四世時代につくられた)が開かれた。
この身分制議会では、「動乱」の厄払いとして三日間の斎戒(さいかい)がおこなわれたのち、議事にはいり、新しいツァーリの選出がおこなわれた。
しかし、ツァーリの立候補者はたくさんいた。
すなわちポーランド王子、スエーデン太子、偽ディミートリーの遺児(マリーナの息子)、コリーツイン公、ムスチスラウスキー公、ツルベツコイ公などである。
そこでまず、外国の王室から、ツァーリを招へいすることは、コサック代表のつよい反対にあって否決された。
つぎにロシア人のうち、だれを選ぶかになると議論百出し、遺族たちが対立した。
その間には買収、抱きこみ工作もおこなわれたというが、容易には決しなかった。
しかし会議の途中から、下層貴族の士族やコサックのあいたで、「ミハイル・ロマノフ」という呼び声がしだいに高くなってきた。
このロマノフ家は、イワン雷帝の最初の妻アナスターシァをだした由緒ある大貴族である。
しかしボリス・ゴズノフの政敵となってからは、つねに逆境におかれ、それがかえって世間の同情をよんでいた。
動乱中には、ツァーリ・シュイスキーに反対して、偽ディミートリーの側についたことも、のちにコサックの信望をえるもととなった。
その当主はツシノの総主教フィラレートで、そのころポーランド軍の捕虜となっており、ミハイルはその長子であった。
しかもまだ十六歳の少年で、「これといったとりえはなく、ツァーリにふさわしいとも見えなかった」というが、全員会議では、犬猿のあいだがらであった士族とコサックの二大勢力が、ふしぎにも「この人選にだけは一致した」という。
また、つぎのようなエピソードもある。議論が紛糾して決しなかったので、民意をたしかめるために、数名の聖職者と大貴族が赤の広場に出かけて、「だれをツァーリにしてほしいか?」とたずねると、群衆は口ぐちに「ミハイル!」「ミハイル!」と叫んだという。
このようにして、ロシアに新しい王朝、ロマノフ朝が誕生する。
それは一九一七年のロシア革命でたおれるまで、約三百年間、この国に君臨することになる。
しかもイワン雷帝のような帝王神権説による「専制君主」としてではなく、「人民から選ばれた」ツァーリとしてであった。
しかし動乱の貴重な産物であるこの新しい政治原理は不幸にも、ロシアでは長つづきしなかった。
西欧の議会制度に発展するかに見えた全国会議も、歴史上のたんなる一エピソードにおわり、動乱がおさまり、国内に平和が回復するにつれて、新王朝はしだいにこれを必要としなくなった。
その結果、初代ミハイル帝(在位一六一三~四五)のときには十回、二代アレクセイ帝(在位一六四五~七六)の治世には五回ひらかれた全国会議が、三代フョードル三世(在位一六七六~八二)からつぎのピョートル一世(在位一六八一~一七二五)にかけて、わずか三回召集されただけで、それ以上後はまったく姿を消してしまう。
このことは中世ロシアの身分制議会である全国会議が、イギリスの「パーラメント」のように王権を制限する方向に発展しないで、かえって逆にこれを強化する役割を果たしたこと、したがってその役目がおわると、自然消滅するのがむしろ当然であったことを示している。
ロマノフ朝のツァ-リたちも、側近や寵臣にあやつられるロボッ卜にすぎなかった。
ミハイルがツァーリに選出された当日、大貴族のひとりは語っていた。
「ロマノフ家のミーシヤ (ミハイルの愛称)はまだ若僧で、その分別といっても知れたものだ。
それが、おれたちにはもっけのさいわいだ」と。
ミハイルは十六歳、アレクセイも十六歳、フョードルは十四歳で即位しているが、このように歴代のツァーリが「若僧」で、おまけにそろいもそろって「意志薄弱者」であったことから、寵臣のばっこを容易にした。
すなわちミハイル帝のときのサルチコフ家、アレクセイ帝のときのモローゾフ家、フョードル帝のときのリバーチェア家がそれで、これからロシア社会には「権勢家」とよばれる新しいタイプの人間が登場する。
彼らは官金の着服、土地の横領をほしいままにし、一般庶民の恨みを買った。
モスクワ市民は、共有地がとりあげられたため、家畜を放牧することも、薪をとりに行くこともできなくなり、
「こんなことは、これまでのどのツァーリのときにもなかった」とこぼし、
「ツァーリはバカで、大貴族モローゾフのいいなりになっている。……脳みそを悪魔にもっていかれたのだ」
とうわさした。