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9-6-1 雷帝後の動乱のロシア

2024-06-18 04:08:01 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
6 雷帝後の動乱のロシア
1 帝位を奪ったボリス・ゴズノフ

 ロシアのモスクワ国家では、専制皇帝イワン四世(雷帝・在位一五三三~八四)の死後、この皇帝のもとで恐怖の日々をおくっていた大貴族たちが勢力をもりかえし、多年の混乱をひきおこした。
 彼らのまき返しは、すでに雷帝の子フョードル一世(在位一五八四~九八)の時代にはじまり、最初に勢力をえたのは、ロマノフ家(雷帝の最初の妻アナスターシャの実家)であった。
 その当主が病死すると、皇妃エレーナの兄、ポリス・ゴズノフ(一五五一~一六〇五)が実権をにぎることとなった。
 このゴズノフ家は、タタール(モンゴル)出身の大貴族で、ポリスが頭角をあらわすのは、イワン雷帝の親衛隊長の娘婿になったときからである。
 彼は、目に一丁字もなく、死ぬまで文字が読めなかったというが、その才能といい、風貌といい、非のうちどころのない人物のように思われ、その治世―― 一五九八年、フョードル一世が世を去ると、後嗣がなかったので、ポリス・ゴズノフが帝位についた――も、はじめは「万事に愛想がよい」ので、好評であった。
 しかしまもなく彼を非難し、中傷するうわさがどこからともなくひろがり、ポリスはメフィストのように、すべての「悪」の中心人物と目されるようになった。
 たとえば一五七一年、クリミア汗国(十五世紀に成立、トルコの勢力下にあった)の軍隊を引き入れて、モスクワを焼け野が原にしたのはポリスであるとか、フョードル一世とその妃(ポリスの妹)も、彼によって毒殺されたのであるとか、ポリスがツァーリ(皇帝)に推戴されたのも、政治的陰謀によるものであるといったように――。
 しかしポリスが根っからの悪人であったかどうかは、問題である。
 プーシキン(一七九九~一八三七)の詩史劇『ポリス・ゴズノフ』は、この立場にたっているが、評論家ベリンスキー(一八一一~四八)にいわせると、これはあやまりで、ポリスは「不運な」善人であった。      

 つまりポリスは「能吏型」の人物で、したがって、あまり人から好かれるたちの人間ではなかった。
 それでも、彼が「生まれながら」のツァーリであったならば、おそらく「英主」として歴史に残った々あろう(ロシアから留学生がはじめて西欧に送られたのは、彼の時代であるという)。
 しかし成りあがりのツァーリで成功するには、とくに卓越した才能が必要であり、ポリスにはそれが欠けていたともいわれる。
 いずれにせよ、前述のような悪評にたいして、ポリスがとった弾圧政策も、世人の不満に油をぞそぐ結果となった。
 すなわち彼は、ロシアで悪名の高い「秘密警察」の創始者となり、政敵である大貴族の下僕たちを買収し、密告を奨励した。
 この密告の結果、追放、拷問(ごうもん)、処刑、家産没収があいつぎ、当時の人の言によれば、「前代未聞の不幸」をまねいた。
 したがってポリスの治世は、いつしかイワン雷帝時代の「恐怖政治」の復活となり、各家庭では食事のさいに、「ツァーリとその一族」を祝福するお祈りを強制されるにいたった。
 農民の生活も、この時期にはいよいよ苦しいものとなった。
 ロシアに「農奴制」をしいた張本人は、ポリスであるといわれる。
 この説はかなり割引されなければならないが、このころになると、新しい領主層である「士族」(下層貴族)の農民にたいする搾取が、一段とひどくなるのは事実である。
 それにたえかねて、辺境やポーランドヘ逃亡する農民の数も増大し、そのような農民の移動を禁止する法令が、しばしば出されている。
 とくにポリスの治世にとって致命的となったのは、一六〇一年からはじまる全国的な凶作であった。
 春には霧雨が七週間にわたって降りつづいたが、秋には収穫をまえにして、「史上に前例のない」寒波が襲来し、作物がすべて立ち枯れた。
 しかも不作は翌年も、そのつぎの年もつづき、全国の穀倉は空となり、おそるべき飢饉がはじまった。
 飢えた群衆は食をもとめて全国を流浪し、モスクワの人口は殺到する避難民でふくれあがったが、ここで餓死したものの数は五十万に達したという。
 ところで、このような不穏な情勢のうちに、一六〇三年十月、コサックの頭目(アタマン)フロプカの乱がおこり、数千のコサック・農民軍が首都に向かって攻めのぼるようになる。
 なおコサックの語源は、タタール語で「自由な冒険者」を意味するという。
 彼らは、前述のような逃亡農民たちで、中央権力のとどかない辺境(とくに南ロシアのステップや大河の流域)にのがれ、自治組織をつくって農業にしたがい、兵士としても勇猛であった。
 また中央政府に、つねに敵意をもっていた。
 ポリスの軍隊はかろうじて、このフロプカの乱を鎮圧するが、その翌年には、ポリスにとってきわめて不利なうわさがひろがりはじめた。
 すなわち、死んだとされているイワン雷帝の遺児ディミートリー(一五九一年、九歳で謎の死をとげたが、ポリスの刺客によって、殺されたともいわれた)が生存しており、十年前に殺された少年はじつはかえ玉で、本人はポーランドに亡命して時のいたるのを待っているというのである。
 騒然たる世論のうちに、一六〇五年春ポリス・ゴズノフはクレムリンの一室に急死した。
 晩年の彼は恐怖症にとりつかれ、人目をさけてつねに宮殿の奥深くとじこもり、「あたかも盗人(ぬすびと)のごとく」オドオドしていたという。
 彼のあとを子フョードル(フョードル二世)がついだが、「皇子ディミートリー」を名のる謎の人物があいついで登場し、「動乱(スムーク)」時代(一六〇四~一三)はいよいよ拍車をかけられる。



9-5-7 「大御代」の終わり

2024-06-17 05:33:57 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
7 「大御代(おおみよ)」の終わり

 ルイ十四世の大きな政策の一つは、一六八五年「ナントの勅令」を廃止したことであった。
 これは十六世紀末(一五九八)に、ときの国王アンリ四世が発してプロテスタントに信仰の自由をあたえ、多年の宗教内乱を終わらせたものである。
 ところがルイ十四世はこの勅令の役目を終わったものとみなし、自分が信ずる力トリック教で国民を統一することによって、王権をさらに確立させ、また国際的にもカトリック勢力の中心になろうと考えた。
 マントノン夫人ら側近の意向もあったらしい。
 この処置は、カトリック教徒が多い国民からはだいたい好意をもって迎えられた。
 しかし勅令廃止の結果、プロテスタント信仰をすてぬ者に対してはげしい迫害がおこり、一種の新しい宗教内乱が生じた。
 また亡命したプロテスタントは二十万から三十万といわれ、そのなかには産業家、手工業者、技術者、科学者なども多く、彼らを失ったことはフランスにとって打撃であるとともに、亡命先の新教国イギリス、オランダ、スイス、プロシアなどに利益をあたえることとなった。
 内乱としては「カミザールの乱」が有名である。
 一七〇二年、南フランスのプロテスタントたちがおこしたもので、夜目にもわかるように、服の上に白いシャツ(シュミーズ)を着ており、このシュミーズの方言カミゾーから「カミザール」の名がでたものらしい。
 彼らはジャン・カバリエなどのすぐれた指導者のもとに、団結して抵抗し、ルイ十四世はスペイン継承戦争に兵力が必要であったにもかかわらず、一時はビラール元帥と一万の兵をさかねばならなかった。
 ガバリエが亡命したのちにも、他の指導者のもとに、反乱は一七〇五年から一〇年までつづいた。
 ルイ十四世の宗教政策は、国際的にもよい結果をもたらさなかった。
 カトリック側の賛意はとおり一遍であったうえに、プロテスタント諸国は――前述のように亡命者で利をえたうえに――フランスに対して敵意をいだいた。
 おもしろいのは、この政策がイギリス名誉革命(一六八八)に影響したという見解である。
 当時のイギリス王ジェームズ二世はカトリックを保護したので、議会は、王がフランスに似た政策をとるのではないか、と心配した。
 ジェームズの要求で、フランスの遠征隊が渡英するといううわさも流れた。
 そこで議会はこれに早く対応して、ジェームズを位から追う必要にせまられたというわけである。
 ともかく名誉革命によって、オランダのオランイェ公ウィレムがイギリス王ウィリアム三世となったが、彼は政治的にルイ十四世と対立しただけではない。
 宗教上でも新教の擁護者として、フランス王と対抗したのである。

 ルイ十四世の時代は「大御代(おおみよ)」とよばれて、コルペールの重商主義政策のもと、フランスの発展をめざしたが、一方では、あいつぐ戦争や宮廷の浪費生活などのため財政難となった。
 また一般の国民はむしろ経済成長の犠牲とされ、貧しい状態におかれたままであり、とくに農民の多くは領主に搾取(さくしゅ)され、戦争に狩りだされ、凶作や伝染病に苦しみ、重税にあえいでいた。
 税といえは、王権とむすんで私腹をこやす徴税総請負人(フェルミエ・ジェネロー)は、人民大衆のうらみの的であった。
 当時の貧農たちの家といえば、ほとんど家具もなく、屋根裏つきの一部屋だけであり、満足なペッドももたず、麦わらの上に起き伏し、すりきれて、垢だらけの衣服をまとい、粗末な木靴に冬でも素足をつっこみ、パンがないときには草の根を食べ、酒が飲めるのはまれで、たいてい水で用をすましていた。
 彼らのたのしみは、祭礼の日の踊りとか、遊戯のようなものだけだったとみえる。
 したがって絶望からの農民反乱が各地で起こった。
 それはすでにルイ十四世の最盛期から生じ、その晩年には「慢性的状態」となった。
 しかもこうしたところへスペイン継承戦争がはじまり、国土の一部を占領した敵兵による掠奪、暴行がつづいた。
 一七〇九年ごろにはベルサイユにおいても、王宮の柵ごしにもの乞いする者がでるありさまであった。
 農民の逃亡、農作物の減産によって十八世紀初めには地価も下がった。乳児や幼少年の死亡率も高く、人口増加が停滞した。こうした状態に対して、改革をめざす人びとも現われてきた。
 たとえば、ルイ十四世の孫で、王位継承予定者ブルゴーニュ公ルイの教育係フェヌロン(一六五一~一七一五)を中心として、王政改革派が形成された。
 彼はいう。「全フランスは荒れはてて、食べものもない、広大な貧民救護所にすぎない。」
 フェヌロンは教材として書いた『テレマック』において、「人民を愛せよ、戦争を好むな」と王者の徳を説いて、反響をよんだ。
 ところが期待されたブルゴーニュ公は一七一二年、ルイ十四世に先んじて死去し、フェヌロンら王政改革派の夢もついえたのである。
 あるいは軍人、築城家として当代の第一人者ボーバン(一六三三~一七〇七)は一書を著わして、税制上の特権を批判し、全国民に平等な課税を要求した。      

 しかしこの意見は僧侶や貴族の特権階級の猛反対をあび、ボーバンは悲憤のうちに世を終えた。

 統治七十二年、あと四日で満七十七歳をむかえるルイ十四世は、一七一五年九月二日、逝去した。
 晩年の王は肉親にあいついで先立たれ、からだも衰え、失意の色がふかかった。
 栄華を誇ったベルサイユも王とともに老いて、活気を失っていた。
 そして王の死は国民に大きな解放感をあたえた。葬列が通過するパリの街頭では、人びとは踊り、歌い、飲み、口ぎたなくののしっていた――。




9-5-6 スペイン王位をめぐって

2024-06-16 01:20:58 | 世界史

(挿絵はフェリペ5世)

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
6 スペイン王位をめぐって

 ハブスブルク家のスペイン王カルロス二世(在位一六六五~一七〇〇)は、二度結婚したが、子供がなかった。
 当時のスペインは十六世紀以来、衰えたりとはいえ、本国のほかにイタリア、ネーデルラント方面に領土をもち、また中南米の植民地、フィリピンなどをも領有していた。
 このスペインの王位相続はヨーロッパ諸国の関心の的である。
 そこでフランス、イギリス、オランダのあいだに、スペイン領を分割してそれぞれ統治者をたてることがきめられた。               

 しかしこれを不満とするカルロス二世は、スペインの領土保全を目的として、血統上関係があるルイ十四世の孫、十八歳のアンジュー公フィリップを王位継承者と遺言した。
 それは死の三週間前のことであり、一七〇〇年十一月一日、王は最後の息をひきとった。
 スペイン領分割協定によれば、このアンジュー公フィリップと、オーストリアのハブスブルク家のカール大公が領土を分けることになっていた。
 ところがオーストリア側はこの協定に同意せず、全スペイン領をカールにあたえたいと望んでいた。
 マントノン夫人も出席した会議では、遺言受諾へ反対論もあったが、もし拒否すれば、カール大公にスペイン主位がまわる恐れもある。
 一時は決定を保留したルイ十四世は、ついに断を下して、分割協定を破棄した。
 ベルサイユ宮廷で、ルイ十四世から返答をえたスペイン大使は、アンジュー公の前にひざまずき、その手に接吻していった。
 「もはやピレネーは存在しなくなりました。」
 あいにくアンジュー公はスペイン語ができなかったので、これに代わってルイ十四世は、流暢なこの言葉で謝辞を述べた。
 それから王は群がる廷臣たちに、声高らかに披露した。
 「ここにスペイン王がいる。亡き王の遺志によるものであり、また天のおぼし召しによるものである。
 余は喜んでこれに従った。」
 こうしてブルボン家からスペイン王フェリペ五世(在位一七〇〇~四六)がうまれた。

              

 それはフランスのすばらしい成功であった。そしてこれだけであったならば、戦争にはならなかったかもしれない。
 しかしここでルイ十四世は調子にのったのか、拙(まず)い手をうってしまった。
 たとえば王はフェリペ五世とその子孫に、フランス王位継承権を保留した。
 これは将来、フランス、スペイン両王家が合併される可能性をうむものとして、諸国を刺激する。
 またルイはフェリペ五世のために、スペイン領ネーデルラントに出兵したりした。
 すでにルイの侵略的な戦争は、たびたび諸国を敵にまわしていた。陸相にあたるミシェル・ル・テリエ(一六〇三~八五)とその子ルーボア(一六四一~九一)によって、「貴族の私物的な軍隊」から、「国王の統帥(とうすい)下におかれた軍隊」への改革が、長い年月をかけて行なわれた。兵力も増大し、フランス陸軍はヨーロッパ最強のものとなる……。
 この「強兵」はコルベールによる「富国」とあいまって、フランスを領土拡大欲や他国との経済的対立にかりたてた。
 それはスペインに対するフランドル戦争(一六六七~六八)、オランダ戦争(一六七一~七八)とつづき、商業貿易上で対立するオランダを苦しめ、フランスの領土を拡大したが、一方ではヨーロッパ諸国を刺激した。
 とくにイギリスは伝統的にヨーロッパ大陸の勢力均衡を、その外交政策の基本としている。
 そこでフランスの強大化を恐れたイギリスやオランダは、同盟をむすんだ神望ローマ皇帝やドイツ諸侯、スペイン王、スエーデン王などと協力して、フランスに対抗するようになった。
 このアウクスブルク同盟は一六八六年に成立し、諸国はファルツ問題に始まるアウクスブルク同盟戦争(一六八九~九七)のすえ、ライスワイク条約(一六九七)によってフランスの領土拡大をくいとめた。
 一七〇一年九月、前イギリス王ジェームズ二世が世を去った。
 名誉革命(一六八八)で位を追われ、フランスに亡命中の人物である。
 ルイ十四世はジェームズを歓待し、対英政策に利用していたが、ライスワイク条約によって宿敵ウィリアム三世を、すなわち名誉革命でオランダから招かれたこの人物をイギリス王とみとめた。
 それにもかかわらず、いまルイは一貫性を欠き、ジェームズの長子をイギリス王として、ウィリアムに挑戦的な態度をとった。
 一七〇一年九月、イギリス、オランダ、神聖ローア皇帝はフランスに対抗するため、いわゆるパーク同盟をかすんだ。
 そして、フランス、スペインに対するスペイン継承戦争が始まり、参戦する国々もふえていった。
 フランスはまず神聖ローマ皇帝を戦線から離脱させようと、一七〇三年名将ビラール(一六五三~一七三四)指揮のもとに攻勢に出た。
 皇帝は一時ウィーン退去を考えるまでに事態は切迫したが、いま一歩のところで、攻撃は成功しなかった。
 一七〇四年フランス軍はふたたびウィーンを攻めたが、同盟側はこんどは防衛を固めており、皇帝軍のオイゲン(一六六三~一七三六)と英軍のマールバラ公ジーン・チャーチル(一六五〇~一七二二、ウィンストン・チャーチルの祖先)は、一七〇四年八月ブレンハイムで大勝利をえ、フランス軍五万中、三万が失われたという。
 ブレンハイムの戦いの結果、神聖ローマ皇帝を負かそうというプラタスの作戦は失敗したが、歴史的にみればこの戦いよりも、同じころ、英軍がジブラルタルを占領したことのほうが重要であった。
 イギリスの地中海における制海権が確立したからである。
 一七〇六年、皇帝軍はスペインを攻め、マドリードは陥落、フェリペ五世は一時追われるありさま、さらにフランスはウーデナルド(一七〇八年六月)、マルプラケー(一七〇九年九月)の戦いに敗れた。
 一七〇九年秋、マントノン夫人によれば、
 「王はときどき押えきれない叫びをあげられます。そうかと思うと、まったく口をおききになりません。」
 しかし二つの事態が情勢をかえた。
 一七一〇年、イギリスの政界で主戦派が退いた。
 一七一一年、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ一世が世を去り、嗣子がないため、スペイン王位継承者に目されている弟のカールが皇帝となった。
 これは場合によっては、ハブスブルク家の大帝国をつくることとなろう。
 さすがに諸国はこれをきらった。
 一方、フランスのビラールは一七一二年七月、ズナンにおいて起死回生の勝利をえて、敵軍のフランス侵入の危機をくいとめた。
 こうしてようやく妥協的な講和となる。一七一三年成立したユトレヒト条約は、将来フランス、スペイン両王室が合併しないことを条件に、フェリペ五世を承認した。
 一方、イギリスはジブラルタル、北アメリカの仏領の一部などをえた。
 フランスの大陸制圧の野心はくじけ、イギリス優位の時代が訪れることとなった。



9-5-5 「スカロンの寡婦」 

2024-06-15 03:58:47 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
5 「スカロンの寡婦」

 一六七九年、モンテスパン候妃が見いだした新しいライバルは、前述のマリー・アンジェリック・ド・フォンタンジュ(一六六一~八一)であった。
 金髪で十八歳のこの小娘に対して、モンテスパンは嫉妬にかられ、ルイの面前で荒れ狂ったらしい。
 のちに王は苦笑いしていった。「二人の女性のあいだよりも、ヨーロッパに平和をつくるほうがやさしい。」
 女の戦いはモンテスパン夫人の勝利であった。
 フォンタンジュは一人の子供をうんだのち、ポール・ロワイヤル修道院へひきこもった。
 しかしモンテスパン夫人の勝利は長つづきしなかった。ルイ十四世が年とともに、熱情的な寵妃に飽満の情をいだきはじめたころ、彼女のいかがわしい秘密がはっきりしでしまった。
 当時、上流社会に毒殺事件が多く、一六八〇年、当局は容疑者の逮捕にふみきった。
 ところがこれに関連して錬金術師、女占い師、魔術師などのうたがわしい組織が明るみにでてきて、モンテスバン夫人も関係があり、ラ・バリエールを呪っていたようなことがわかってきた。
 たとえば、モンテスバン夫人はあやしげな祈祷師のもとへ通い、秘密の「黒いミサ」に出席し、捨て子や幼児をいけにえにささげて、願いごとがかなうように試みたりしたのである。
 さすがに当局の追及はうちきられ、王も寛大ではあったが、彼女に対する情愛は急速に衰えていった。
 しかもモンテスバン夫人に代わるべき女性が、すでにいたのである。
 その女性、フランソワーズ・ドービニェ(一六三五~一七一九)は、アンリ四世の友人で、新教徒の詩人を祖父にもっていたが、父母にはめぐまれず、孤児として残され、一六五二年、十六歳のとき、四十歳をこえた詩人スカロン(一六一〇~六○)に見そめられて結婚した。
 スカロンは関節炎で不具、彼女は名ばかりの妻であった。
 しかし夫のサロンで、彼女は十分な教養を身につけ、才知豊かな女性に成長していった。八年ほどの生活をへて、彼女はスカロンと死別した。
 その後、夫に借財を残され、貧しさにあえいでいた三十なかばに近いスカロン未亡人に目をつけ、自分とルイ十四世とのあいだに生まれた子女の養育係としたのは、ほかならぬモンテスパン夫人である。
 王は最初は「社交界の才女」をきらったという。
 彼女はいつも黒衣をまとい、必要なとき以外は金や銀を身につけなかったので、変わり者と思われていたが、子守役としては申し分なかった。
 敬虔(けいけん)で思慮ぶかい彼女は、子供たちが母のルーズな生活にまきこまれないように努めたし、また彼らが病気のとき――母は賭事(かけごと)などにふけっていたが――看護に専念するのも彼女であった。
 王女が一人死亡したときには、父のルイは子供の死よりも、お守りの悲しみのほうに心をうごかされたという。
 そしてルイ十四世の心はモンテスパンから離れるにつれて、この「スカロンの寡婦(かふ)」にうつっていった。
 一六七四年、王は彼女の労に報いるためにマントノンの領地をあたえ、これより彼女はマントノン夫人(女侯爵)とよばれるにいたった。      

 一六八〇年の「毒物事件」にかんしてルイはモンテスパンをとがめなかったものの、マントノン夫人の地味で堅実な性格にひかれていった。
 しかも彼女は王の誘いに応ぜず、むしろ忘れられている王妃に愛情をそそぐことを彼にすすめた(モンテスパンはその後、修道院にはいった)。
 王妃はマントノン夫人に対する感謝のうちに、生涯の最後の三年ばかりを幸福にすごした。
 そしてまだ四十歳なかばの王妃は、一六八三年七月末マントノン夫人の腕に抱かれて病没した。
 それから、一年たらずのあいだに――日付については、いろいろ臆測はあるが――おそらくは一六八四年六月ごろ、ルイ十四世とマントノン夫人はベルサイユ宮殿礼拝堂で、ひそかに結婚した。
 王は四十六歳にちかく、夫人は三歳年長であった。
 この年齢からみても、王をとりこにしたものが、若さや美しさではなかったことが明らかであろう。
 夫人は正式の「王妃」となるには身分が違いすぎるので、「妻」にとどまったが、実質的には王妃に対する慣例が適用される場合もあったらしい。
 そしてこの結婚後、ルイは情事をまったくつつしみ、いわば家庭生活に専念するのである。
 マントノン夫人は外見は端麗で威厳にみち、王が日ごろ、「堅実なお方」とよんだというところから、強くてたのもしい性格と考えられがちであるが、じつは陰うつで、ほかから影響されやすい気分屋だったという説もある。
 王に対しても、政治や宗教問題についてある程度の力をもっていたとも、あるいは一般的なことはともかく、個々の問題の決定についてはまったく関係がなかったともいわれる。
 なお夫人は一六八六年、サン・シールに貧しい貴族の子女のための学校をもうけ、王の死(一七一五)後はここに引退した。   

          

9ー5ー4 誇り高き侯妃

2024-06-14 10:59:36 | 世界史

(ローマ神話をイメージした仮装をしたルイ14世と后妃たち)

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
4 誇り高き侯妃

 宮廷がベルサイユに移るまえのことである。
 前述のルイ十四世の愛人ルイーズ・ド・ラ・バリエールは口数も少なく、王を喜ばすようなウィットにとんだ言葉を、考えだすことは苦手であった。
 そこでルイーズは友人たちを側近においておく必要があった。
 なかでも機知縦横というべきは、モンテスパン侯妃アテナイスであろう。アテナイス・ド・モルトマール(一六四一~一七〇七)はフランスでも屈指の名門の出であり、それだけに遠慮がちなルイーズにくらべて誇り高く、威厳にみち、それらは情熱的な性格とあいまって、生来の美貌をさらに輝かせていた。
 彼女はルイが王妃を迎えた一六六〇年宮廷に出仕し、三年後モンテスパン候と結婚し、やがて二児をもうける。夫は宮廷に不在がちだったので、言いよる貴族たちも少なくなかった。
 彼女は、王がルイーズ・ド・ラ・バリエールを見そめたことについて、内心おだやかでなかったであろう。
 しかし賢明なモンテスパン夫人はルイーズの友人となって、チャンスを待った。          

 はじめ彼女に関心をもたなかったルイ十四世も、いままで経験しなかったタイプの女性に、しだいに心をひかれるようになった。
 それは一六六六年ごろからである。
 翌年夏、王がネーデルラントの国境方面に出むいたとき、王妃とモンテスパン夫人たちは同行したが、宿舎におけるモンテスパン夫人の部屋は、王の近くであった。
 まもなく王の部屋の衛兵はほかへうつされ、王は「すばらしく陽気に」みうけられた。
 王妃マリー・テレーズは侍女の一人にいった。
 「昨夜、陛下がベッドにはいられたのは四時で、もう夜が明けそめるころでした。
 いったい何をなさっていたのかしら。」
 もれきいた王は弁解した。
 「いそぎの文書を読み、その返事を書いていたのです。」
 一年後の一六六八年夏から、ルイとモンテスパン夫人との関係ははっきりしてきた。
 それは王にとってルイーズに対する牧歌的な愛とはちがい、成熟した男の官能的なものであった。
 娘が王に愛されていることを知った父モルトマール公は、「ありがたい、いよいよ福の神の到来だ」と喜んだが、夫のモンテスパン侯は宮廷に現われていやがらせをしたり、仲間の助力をえて妻をスペインにつれてゆくつもりだなどとうわさされた。
 しかしけっきょく、妻が王の子をうんだときくと、侯は「妻は媚態(びたい)と野心がもとで死んだ」と称して、友人たちを模擬の葬儀に招き、うわべだけの喪に服した。
 ルイーズの純愛に対して、モンテスパン夫人の愛は、王の権勢や財力がめあてであったともみられる。
 彼女は王から金や宝石をえたり、父を要職につけたり、親戚に良縁をあてがったりすることに成功した。
 彼女は宮廷でもっとも羨望(せんぼう)される女性となった。
 しかしルイーズとともに生活し、六年間も王は両手に花をたのしんだのである。
 あるとき国外に出かけた王の一行に、王妃のほかにこの二人の女性が加わったが、現地の人びとは、馬車に同乗する彼女たちを「三人の王妃」とよんだという。
 当時、王は正妻、寵妾、嫡子、庶子とともに全部が一大家族のように住まっていたのだから、現代感覚からすれば妙なものである。
 しかしルイーズはしだいにこうした生活に耐えられなくなり、信仰を深めて修道院にはいることを望み、一六七四年春、宮廷を去っていった。
 彼女は最後に王妃の足もとにひざまずき、その心を長らく苦しめたことを詫びた。
 あとはモンテスパン夫人の天下である。いまや王の心を独占しているこの気性はげしい女性に対して、その怒りにふれることを恐れる廷臣たちは、彼女の部屋の前を足音をしのぼせて通るありさまであった。
 ところがこのモンテスパンも、ルイーズと同じような運命をたどるのである。