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天国は暴力に襲われ、暴力の者これを奪う

2024-11-03 06:31:00 | 浦川司教


(5)-心から望まなければならぬ ー 「人の世にあるは戦いに在るが如し」(ヨブ七ノ一)とヨブはいい、御主も「我地に平和を持ち来たれりと思うこと勿れ、我が持ち来たれるは平和に非ずして刃なり」(マテオ十ノ三十四)だの、「天国は暴力に襲われ、暴力の者これを奪う」(マテオ十一ノ十二)だの、「人もし我後につきて来たらんと欲せば己を棄て、己が十字架を取りて我に従うべし」(マテオ十六ノ二十四)だのと教え給うた。して聖人などは皆その教に従い、絶えず悪戦苦闘を続けて、天国に昇られたのであります。

 しかるにこれを見ると、天国の福楽をかち得るためには、随分と辛い目を見、苦しい戦いを経なければならぬ。やれ朝夕の祈りだ、やれ日曜日のミサだ、やれ公教要理だ、説教だ・・・祝日が来た、告白をして下さい、聖体を拝領しなさい、伝道に手伝って下さい、ビラを蒔いて下さい、などとしきりに責付かれ、督促される、うるさくて堪らないくらい。ですから天国の福楽を一心に望み、是非ともこれを手に入れたいと熱く望まないならば、到底遣り了せるものではないのであります。


(6)-今の中に望まねばなりません ー 後で後でと差延して、その後がなくなってから望んでも駄目な話である。しかるに多くの人はそれに就いて頓んだ思い違いをしている。「今じゃせわしくて仕方がない、後で今少しゆっくりなってからのことにしよう」とか「今少し俟って下さい。若い時は何ともされない信心は年取ってからの仕事だ、死ぬ時にはきっと改心しますよ」などといっている。それが果たしてあてになりますでしょうか、今日あって明日の分からぬ生命じゃありませんか。後でゆっくりなるまで生きながらえ得るか、果たして老年に達し得るか、死の前に告白する余裕があろうか、不意に死ぬようなことが無いでしょうか、誰かそれを保証することできますでしょう。

 聖人などは決してそうはなさらぬのでした。青年の方々は、老境に入ってからとはいわないで、その美しい花のような青年時代を天主に献げ、なるべく罪を犯さないよう、善を行うようにと務められた。子の親たる御方々は、子供が成人してから、借金が減ってからとはいわないで、自分が先に立って信心をし、子供に良き模範を示して親の務めを全うせられましたから、今、天国に楽しんでおられるのです。老人も同じくそうで、「死ぬ時に心を改めます、立派に告白しますよ」とは云わないで、もう年老いて、他に望む所はなし、ひたすら天を望み、信心をし、慈善事業や伝道事業に携わり、務めて余年を有意義に過ごそうと務められたから、今天国においていうに云われぬ幸福をほしいままにしておられるのであります。皆さんもどうぞその辺の所をよくよくお考えになり、後の日は決してあてになるものでないから、今の中から、できるだけの善業を励み、天国に寶を積むようにして下さらねばなりません。



聖人はどのようにして天国に昇られたか

2024-11-02 23:36:42 | 浦川司教


十 一 月 二 日

(4)-聖人などはどのようにして天国に昇られたか ー 一口に聖人と申しましても、天主から特別の聖寵をかたじけなうし、人目を驚かすようなことをして、高い高い徳域に進まれた御方もあれば、普通の途を踏み、普通の徳をただ普通ならぬ心掛けで以って実行し、それによって聖人となり、天国へ昇られた御方もございます。人目を驚かすような徳を行って聖人となることは、誰にでもできる話ではありませんが、しかし普通の徳を普通ならぬ心掛けで以って実行し、天に昇ることならば、できない人はないはずである。

 すなわちこの祝日のついでに、誰しも、どうしたら天国に昇れるかということを篤く考えて見る必要があろうかと存じます。聖トマス博士の妹が、ある日兄博士に向かい「聖人となるにはどうしたらよいのですか」と問いました。すると聖人はたった一口、「望みさえすればそれでよいのだ」と答えられた。言は短い、ただ一口に過ぎないが、しかし意味はなかなか深い。実際、救霊を得るため、聖人となって天国に昇るためには、どんな困難に出くわしても、一歩も後へは退かない覚悟で、どこまでも根気強く、勇ましく進んで行かなければならぬ。それだけ随分強い意志,熱い望みが必要である。是非とも救霊を全うしたい、是非とも聖人になりたいという火の如き望みがないならば、到底百千の障碍物を打ち破って進むことできようはずがありません。

 さてどんな風に望まねばならぬか、ただ一通り望んだばかりで足りるかというに、そればかりでは足りません。誰にしても救霊を得たい、天国に昇りたいと望まぬ方はありますまいが、皆が皆,救霊を得、天国に昇る訳でもないのは、望み方が不充分だからであります。しかるばどんな風に望まねばならぬかというに、第一、心から望まねばならぬ。第二、今の中に望まねばならぬ、第三、根気強く、最後まで望み続けなければならぬのであります。




十一月二日(3)、浦川和三郎 司教『祝祭日の説教集』

2024-10-26 01:22:28 | 浦川司教

(3) - 今日天国の聖人などは皆こういう楽しみをほしいままにしていられる。思えば思えば羨ましい次第ではございますが、しかし必ずしも聖人などの身の上を羨むにも及びません。

 我々も聖人などの踏み分けなさった道を進んで行きさえすれば、一度は必ず彼の楽しい天国へ辿り着くことができるのであります。「我が父の家に住むところ多し」(ヨハネ十四ノ二)と御主はのたまうた。随って誰でも、またいくらでも天国には昇れる、聖人などに与えられた福楽は、我々にも約束されてある。天主が我々に、罪を犯すな、善を励め、掟を守れ、熱心に務めよ、と命じ給う時は、もとより天地万物の御主、我々の造主にて在ますのですがら、御褒美なんか何一つ下さらずとも、我々は飛び立って御命令に従わなければならぬはずである。

 しかし天主様は決して善業のために善業を行えとは命じ給わぬ、我々が僅かな罪を避け、小さな善を行いましても、一寸した御誡めを守り、一寸した信心の務めを果たしましても、一々それに酬い、立派な御褒美を下さるのであります。で我々は始終この大なる天国の福楽を打眺めて、我と我が身を励まし、善の道に突進しなければなりません。

 しかるに今迄の我々を振り返って見なさい、天国の福楽の終なきことを信じているとはいながら、全くこれを知らない、信じない異教者見たように、誰だ誰だ浮世の財宝や快楽にばかり心を奪われていたことはありませんか。天主の御勧めにはなるべく従うまい、信心の務めならば、なるべく御免を蒙ろうとするが、浮世の事になると、一も二もなくこれに従い、飛び立って遣って退けます。浮世が瞬く間に過ぎ去る夢のような財宝なり、快楽なりを示してさし招きますと、何も彼も忘れてその方へ走り出し、骨身を砕いても厭いませんが、天主が窮りなき天の幸福を掲げて手招き下さっても、容易に腰を立てようとはしません。

 英国のヘンリー八世王が聖会に背きました時、大臣のトマス・ムーアは王に従わなかったので、ついに牢獄に打込まれました。ある日のこと奥方が見舞いに参りまして、トマスの足下に平伏し、「どうぞ王様の仰しやる通りにして、生命を保って下さいまし」と涙を流して連りに願いました。「王様に従ったら、幾年ぐらい活き伸びることできると思うかね」とトマスは尋ねました。「少なくも未だ二十年は大丈夫でございますよ」「そうか、たとえ百年も生き伸びることができても、俺はその百年くらいの生命と天国の窮りなき福楽とを代えっこはしないよ」といって潔く信仰の為に殺されました。

 我々も今からしばしば天国の幸福を思いまして、その窮りなき福楽をば、現世の短い夢のような財宝や快楽やと代えっこするようなことがないように務めたいものであります。



 

「煉獄」浦川和三郎 司教『祝祭日の説教集』

2024-10-24 20:03:57 | 浦川司教
浦川和三郎 司教『祝祭日の説教集』
十 一 月 二 日

(一) 煉獄の霊魂の記念

(2)-天国とはいかなるところであるか ー 天国とは苦しみや禍が一つもなく、かえってあらゆる福楽のみち溢れているところであります。

 どなたも御存じの通り、この世は涙の谷でございまして、寒さや暑さや、餓え渇きや、病の苦しさ、貧の辛さなど涙をこぼさねばならぬことが随分多いものである。

 しかるに天国には暑さもなければ寒さもない、餓渇きを覚えることもなければ、貧に悩む気遣い、病に苦しむ憂いもない。我々の足が一たび天国の門をくぐりますとすべての涙は綺麗に拭き取られる。もう泣くにも及ばぬ、嘆く必要もない。かえっていわれぬ幸福を楽しみ、喜びに踊るのである。無上の善にして、最高の美、限りもなく愛すべき天主を眼前に仰ぎ見その天主を我が物として、いつまでもいつまでも楽しむとは、実に何という幸福の至りでございましょうか。

「神がこれを愛し奉る人々に備え給いしこと、目もこれを見ず、耳もこれを聞かず、人の意にも上らざりき」(コリント前二ノ九)と聖パウロもいっているくらいであります。



浦川和三郎 司教『祝祭日の説教集』煉獄

2024-10-23 13:50:58 | 浦川司教

『祝祭日の説教集』
浦川和三郎(1876~1955)著
(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

十 一 月 二 日

(一) 煉 獄 の 霊 魂 の 記 念
(1)煉獄に苦しめる霊魂の憫(あわれ)むべき状態を思いなさい。

 彼らは善を尽くし、美を尽くし給う天主を一時も早く仰ぎ見、心を傾けて尊び愛したいとやる瀬なき思いに焦がれている。

 彼らは実に遠島せられた罪人が、故郷の天を恋い慕う以上に、真っ暗な牢屋に繋がれている囚人が、晴天白日をこい願う以上に、最愛の母に別れた孤児(みなしご)がその母にあこがれる以上に主を思い焦がれ、その御国にあこがれているのであるが、しかし少しの汚点でも残っている間は、何うすることもできない。

 苦しんで苦しんで、その汚点を磨き落すより他はない。なお、彼らは自分の犯した罪、なおざりにして顧みなかった過失を悔しがり、良心の鞭にひどく責められているのであります。ついに煉獄には火の苦しみもあると一般に信じられる、その火がいかなる性質のものであるか、いかにして無形の霊魂を苦しめるか、それは明白でありませんが、とにかく、天主の御はからいにより、霊魂の汚点を取り去って、これを純の純なるものたらしめる為のものですから、決して生やさしいものではないのです。