カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

勉強についての心得『基督信者宝鑑』

2021-03-23 02:52:11 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

9-2-1 勉強についての心得

 学問に長足の進歩を遂げてあっぱれな人物となり、家のため、天主様のため、大いに活動しようと思ったなら、熱心に勉強しなければならぬ。

 人間の頭脳というものは、非常な天才は別として、そうまで甲乙のあるものではない。ただ、勉強のいかんによって、優劣がでてくるので、実にある人の言ったとおり、
「勉強は天才を造る」
のである。
ギリシャ無双の雄弁家デモステネスも、
「あなたはどうしてそれほどまで雄弁術に傑出されました」
と人に問われて、
「酒よりも多く油を費やしてですよ」
と言下に答えたそうであります。

 15世紀の中頃、オランダのウトレク市の織屋のせがれに、アドリアンと呼ばれる青年がいました。なかなかの学問好きで、貧しい中からいろいろと工面をして、ルーウェンの大学に入学しましたが、その勉強の猛烈なことと申しましたら、夜も昼も手から書巻を放したことはないというほどで、そのために学問の進歩は驚くばかり、たちまちのうちに同級生を遥かに凌駕してしまいました。

 すると、金持ちで、さほど勉強もせず、出来もあまり面白くない連中は、自分等の不勉強は棚に上げて、しきりにアンドリアンの進境に嫉妬の目角を尖らせ、どうにかして彼のアラを探し出して、面目玉を潰してやらんものと密かに談合をはじめました。あたかも、善しアドリアンは、毎晩、日がドップリ暮れさえすれば必ずそっと大学を抜け出ていつでも同じ方向を指して行くが、夜中もずっと過ぎてからコソコソと帰って来る、学友がついて行こうとすれば、なんとかうまく口実を作って、謝絶するのでありました。

 これはどうも臭い。何か秘密がありそうだ、よし、その現場を突き留めて、厭というほど、彼に制裁を加えなければならぬ、というもので、一夜数人の同級生が密かに後をつけていった。アドリアンはそれと悟って、巧みに姿をくらましてしまいました。見逃すものかと市中をくまなく探しまわったが、皆目足跡がわからない。

かれこれ12時頃にもなった。もう尋ね当たる見込みはない、とても聖堂の方へは言って居るまいが、折角だからというので、聖ペトロ堂を指して行ってみた。すると先導の一人が、にわかに足を止めて

「オイ、止まれ、止まれ。 僕の見損ないか知らぬが、聖堂の門には人影らしいのが見えるぜ、 そらランプの側に石像のように動かぬで」
と注意するから、皆が抜き足差し足、そっと近づいてみると、確かに人だ。

薄暗いランプの光に、書巻を一心不乱に見つめている。顔は蒼ざめ、随分とやつれ果てて居る模様。

「アドリアンだ」

 たちまち頓狂な叫び声が期せずして皆の口から起こった。見当たられたと思って、アドリアンは、おもむろに顔をもたげ、学友の方へやってきた。

「やあ、秘密があばかれたナ。

 これで何もかも読めただろう。僕は家が貧しく、ロウソクが買えないもんだから、
 4ヶ月前から、ここでも道ばたでも、ランプのあるところを探して勉強していたんだよ」
と打ち明けました。
学友がいよいよ驚いて

「しかしこの寒さでは、凍死するよ」

と言えば、アドリアンは軽く笑って、自分の手を友人の手の上に置いたが、不思議にもぬくぬくしている。それから心臓を押さえて
「僕は、ここに、諸君の嘲笑でも、凍りつく寒さでも切り抜ける或る物を持っているからナ」
と快活に答えました。

 アドリアンは、こんなに熱心に勉強した甲斐が顕われて、非常な好成績でもって大学を卒業し、貧しい織屋の小せがれから、一躍して同大学の副総長に挙げられ、累進してドイツ皇帝カロロ5世の師伝、イスパニアの宰相となり、終にはローマ教皇の尊位にまで登りました。

 これが、かの有名なる教皇アドリアン6世であります。




勉強の必要『基督信者宝鑑』

2021-03-22 02:44:22 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

9-1-1 勉強の必要

 労働は人の本分である。人はどのような身分境遇にあっても、ブラリブラリと遊び暮らしてはならぬ。ところで、学生の身に取っては、勉強こそその本分で、学生たるものは皆大いに勉強して、その身に必要なる学を修め識をみがき、他日世に立って事を為すときの用意をしておかねばなりません。

 世間には学問の為に学問する人もあろう。飯の口にありつく為に勉強する人もあろう。身を立て、家を富まし、国家社会に貢献するために蛍雪の苦を惜しまぬ人もあろう。それらは固より賞賛に価すべきことではあるが、しかし、キリスト信者たる者は、なお、その上に天主様の御栄光を発揚し、己を救い、人をも救うべき重大な責務を負っている。

そして、
「知は志のもと」
だから、この重大な責務を満足に果たすには、まずこれを知らなければならぬ。その方から考えても、信者はより多く学ばねばならぬ必要があるのである。

「婦人なんかに学問させるのは無益なことだ」
という人もあるが、それはそういう人の思い違いで、婦人は他日、人の母となって、大切な子女の教育に当たらねばなならぬ。

 そのために第一に必要なのは信心だけれども、しかし多少の学識も備えていて、子女の分からないところは自分で説明してくれる位でなければ、子女は自然あなどって、その戒めを用いなくなります。

 いわんや、父親が不信仰で、子女に悪い御手本でも見せるようだったら、母たるものは自分の信心をもってそれを補ってゆかなければならぬに、無学文盲ではどうすることも出来るものではありますまい。

 このような次第だから、男でも女でも、尋常六年の義務教育  (注釈:現在の義務教育はご存知のとおり9年 <小学校6年中学校3年> )だけは、是非とも授けてもらわねばならぬ。

 それから上の教育は、家の財政、本人の学才にもよることで、何とも申されないが、幸いにして中等教育、なお進んで高等教育までも受けられる身の上だったら、それこそ一方ならぬ天主様の御恵だと思って、一心と勉強しなければなりません。



労働と救霊の関係性

2021-03-13 06:40:26 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

8-3-1 労働は救霊を全うするために極めて肝要である。

 それは、労働が罪を避け、善を行わさせるのに、益して大いに力あるものだからである。人は、働いている間は、想像も自由に飛びまわる暇が無いから、良からぬ思い、汚らわしい考えなどが起こってこない。心の門を堅くふさいでいるようなものだから、守護の天使を悲しませるようなつまらぬ、怠けかえった願望の入る隙もありません。悪魔は盗人と同じで、常に眠り込んでいる人を付け狙うので、セッセと働いている人には、容易に近づき得ないのです。

 何一つせずに、ブラリブラリと遊んでいるより危険なことはない。昔から、閑人の道徳家、怠け者で品行の正しい人というのがあったためしがない。馬は、始終乗って乗り回さなければいけないもので、すこし遊ばせておくとすぐに暴れ出して仕方がない。
 人も同じで、五官だの、想像だのいうものは、絶えず働かしておかないと、必ず暴れ出して終には取り押さえ難くなるものであります。

 ダヴィドを見なさい。師を率いて、東を防ぎ、西に戦って居る間は、天主様のみこころにかなう大聖人でありました。でも、敵を征服して、静かに平和を楽しむようになると、たちまち言うも汚らわしい大罪を犯しました。

 ソロモンもだ。聖堂建築の為に夜昼頭を悩まして、奔走して居る頃は、才智といい、徳行といい、世界を驚かすほどでありましたが、工事が終わって、労働が無くなると、馬鹿馬鹿しい罪に落ち込んで、国にも身にも取り返しのつかない禍を招くに至ったじゃありませんか。
 労働は実に「徳の保護者」だ。邪欲をしずめ、心を紛らわせて悪事を思う余裕を与えない。退屈をさせず、日の長いのに困るという憂いを無くしてくれる。で、誰にしても父母から労働の趣味を覚えさせてもらったならば、百万の宝を譲っていただいたのよりも感謝すべきである。
 その反対で、
「遊惰は、あらゆる悪事を人に教える」
ものである。

 人には何か趣味がなくてはならぬ。労働に趣味をもたなければ、ぜひとも他に趣味を求めようとする。食べる、飲む、遊ぶ、家から家へとしゃべり回る。遊観見物にうつつを抜かす。心の中は全くお留守になってしまう。あげくの果ては、名あって実がない、異教者も同様な信者になり果てるならまだしも、まかり間違えば、新聞の三面欄をにぎわすような、厄介者になり終わらぬとも限らないのであります。

 フローレンスの司教聖アントニノが、ある日町中を歩いていると、ある祖末な家の屋根の上に、天使が立って、それを守護しておいでになるのを見当たりました。不思議に思って中に入ってみると、一人の貧しいやもめが、三人の娘と住んでいるのでしたが、四人とも信心篤く、徳は優れて、しかも熱心に働いているのだけれども、どうも貧乏で貧乏で、外に出るにも靴さえ持たぬ、はだしで歩いているというくらいでありました。
 かわいそうと思った司教様は、たんとお金を施してやりました。しばらく経って、またその町を通りましたから、今、そのやもめの家を眺めてみると、先の天使は影も形も見えないで、そのかわりに、悪魔がさも嬉しそうに小躍りしているのです。
 あまりのかわりようなので、司教様も余程驚いて、よくよく探ってみると、3人の娘が、お布施をもらったのに安心して、怠けて来た為だとわかりましたから、彼らに自分の見たところを告げて、その不心得を戒め、早く精々と働いて悪魔を追い出すようにせよ、と御勧めなされたという話であります。

「怠け者よ、往きて蟻に学べ」(箴言6:6)
とソロモンは叫んでいる。

 蟻は朝から穴を出て、終日餌を探して東に西に奔走します。道が遠かろうと、石塊が横たわっていようと、暑い日が照りつけようと、
少しも屈せず懸命に働きます。労働者の立派な模範じゃありませんか。
 とにかく、労働は天主様の命令であり、罪の償いとなり、悪を避け、救霊を全うするためにも極めて肝要であるから、人は世に在る間は皆それぞれに働いて、天国の終わりなき休息を待たなければなりません。



労働は罪の償い『基督信者宝鑑』

2021-03-08 10:49:52 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

8-2-1 労働は罪の償いである。

 アダムが楽園にいる間は、春の花が暖かい日の光を受け、自然につぼみを破って、美しく咲きこぼれるように、いくら働いても疲れなどは一つもなくて、むしろ喜びを感じ、愉快を覚えるのみでありました。
 しかし、一度罪を犯して楽園から追い出されると、局面がたちまち一変して、いままで愉快に覚えられた労働も、よほど苦しく感じられて来た。
「汝、額に汗を流してパンを求めよ」
と天主様の厳しい宣告が降ってからというもには、土はやたらにイバラとアザミとを生ずるようになり、随分と汗水たらして、そのイバラを抜き、そのアザミを鋤(す)き、その土を掘り返さぬでは、穀物も野菜も生じなくなりました。

 このように労働は、アダムの子孫に課せられた償いであって、人はどのような身分境遇にあっても、これを避けることはできぬ。
「その労働は卑しい、その業は恥ずかしい、身分に似合わない」
なんて思う人は、まことのキリスト教精神をもった人ととは思われぬ。
見なさい。
 聖人等のうちには、その高い位をなげうち、その貴い官職を棄て、貧しい生計を為し、賎しい業をとられた御方が幾人ありますか。殊に、イエズス様の美しい賓鑑(みかがみ)を思いなさい。身は天地万物の御君にて在しながら、三十年の長い間、マリア様の為、ヨゼフ様の為、自ら辛い労働を為し、額に汗をたらして、日々のパンを求められたじゃありませんか。

 労働は罪の償いであるから、辛いのはもとより、辛ければこそ、従来の過失を補い、罪を償い、天主様の御憐れみをこうむれるのである。そして、熱心に労働すればするだけ、償いの値打ちは増して来る。天主様の正義はやわらいでくる。その御審判は緩くなってくるわけである。
 これに反して、一生の間、悠々閑々と遊び暮らして、かつて心の疲労も、体の汗も一つとして天主様に献げたことのない人は、審判の暁に至って、どんなおそろしい目を見ねばなりますまいか。




信心生活の入門 聖フランシスコ・サレジオ

2021-02-26 02:18:19 | 青年の友
 娯楽・またはダンスを、心身の休息のためにするのは、よいのですが、愛着のためにするのはいけません。
 また、少時間に限ること、疲労困憊する程度にいたらないこと、まれに楽しむことが必要です。平素より、かつ、しばしば行うことや、娯楽でなくて労役です。

 つぎに、どのような機会に、娯楽やダンスをしてよいのか、ということです。不良性を帯びないダンス、または、娯楽の機会は多く、不良な娯楽は、危険率あるいは不良性の程度に反比例して、その機会が少ないものです。
 ひとことで申し上げますと、上述の条件を守り、かつ、一座のよい娯楽をわかち、興ざめしないように人々とともに娯楽に興ずるほうがよいと信じた場合に限りますが、これを判断するには、聡明にして健全な常識を必要とします。人々と娯楽を分かち合いのは、愛徳の行為ですから、これによって元来悪くない娯楽は善行となり、危険な娯楽も許可され、悪い娯楽すら不良性を失うようになるのです。

 たとえば、勝敗を争うような娯楽が、一般には有害であっても、時として、一座の興をたすけるために差し支えなくなるのも、そのためです。

 聖カロロ・ボロメオの伝記に、彼が平素は極めて厳格であったのですが、スイス人とともに娯楽を楽しんだという一挿話を読んで、私は深く感動しました。

 聖イグナシオ・ロヨラも、招きに応じて娯楽を楽しみました。ホンゴリアの聖女エリザベトも、種々の集会で、しばしば娯楽に興じたり、ダンスをしたりしました。でも、彼女の信心は、ちっともゆるぎませんでした。ちょうど、波風にうたれているリエット湖畔の岩のように、聖女の信心は、貴い王妃の位につきもののの、華麗なる生活のうちに、絶えず成長していたのです。

 しかし、風が吹いて燃え上がるのは大きな炎であり、小さい灯火は、風を避けなければ、吹き消されることを忘れてはなりません。

 聖フランシスコ・サレジオ『信心生活の入門』第3篇 第34章