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労働は天主様の御命令 『基督信者宝鑑』浦川和三郎司教

2021-02-25 10:16:36 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

8-1-1

労働は天主様の御命令

 天主様がアダムとエワを御造って、これを楽園に置き給うたのは、いたずらに花に戯れ、月に浮かれて遊び暮らさせる為ではなく、その楽園を耕させるためでした。してみると、労働は人の本分であって、人は暫くでも労働を怠ってはなりません。

 労働には、身体の労働と、精神の労働と二様がある。どちらも天主様の眼から見れば神聖なもので、少しも優劣はない。強いて優劣を求めれば、その人その人の意向がどうであるかによって然るのであって、高く聖い意向で以て為せば、どんなにつまらない労働でも、高く聖くなるのだが、卑く賎しい意向をもってすれば、どのような高尚な労働でも、卑く、賎しくなってしまうのであります。

 世には働いて働いて、身も心も働き潰してしまうほどに働きながら、それで天国を勝ち得ない人が多い。ただ、抱いているのは、世間的意向、考えているのは、幾分の賃銭だけで、
「天主様の為に天主様に献げてする」
というような観念は一つも持たぬ。
 従って、少しの賃金でも手に握れば、それですっかり満足してしまって、仰いで天を眺めようなんて夢にも思わない。
イエズス様のおっしゃった如く、彼らは、
「この世でその報酬を得てしまう」
のですから、天国の為には何一つ残るところがないのであります。

 それではせっかく汗水たらして働いて、やっと手に入れた賃金を、穴の開いた財布に貯えるようなもので、入れる一方から、がつがつ出てしまうばかりで、ばかばかしい次第ではありませんか。

 たとえ、口を糊する為に働くにせよ、身を富まし、家を興し、国を益するために勤めるにせよ、少し眼を高くあげて天を眺めさえすれば、自分の働きに限りなき価値あらしめ、その流す汗の玉を非常に高く買い上げていただくことは、容易である。

 ただ、天主様に向かって、
「主よ、この労働を御手に献げ奉る。
 御心を喜ばせ申す為に、主の聖なる思し召しに従うが為に、主の光栄を計り
 天国を勝ち得るためにこれを捧げ奉る」
と心から言っただけでも充分なのであります。

で、何事を為すにも、まず、始める前に、
「天主様のみさかえの為に」
という意向を定め、聖母の潔き御手をもってこれを主の御前に献げ、せめて心の中に天使祝詞の一遍なりともとなえなさい。

 聖人等は、その為すところを、天使祝詞をもってはじめ、天使祝詞をもって終わるのでありました。働くうちにもイエズス様やマリア様のことを思いなさい。もし、聖母だったら、どんなふうにこの業をなさるでしょう。イエズス様だったら、この場合にはどんなようにお働きなさるでしょう、、、

 私は聖母と共にこの業をやりかけたんだから、また聖母と共にこれを終わりたい、、、私はイエズス様の御心を喜ばせ申したい、聖母の御気にかないたい、イエズス様、マリア様と御一緒に働くのに、疲労が何だ、退屈が何だ、こう言いながら働いたら、どんなに辛い労働でも、サッサとやってのけることが出来ましょう。


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労働『基督信者宝鑑』

2021-02-14 02:17:16 | 青年の友
浦川 和三郎Michael Wasaburō Urakawa カトリック仙台司教 司教区 仙台 着座 1942年1月18日
離任 1953年11月26日 司祭叙階 1906年7月1日 司教叙階 1942年1月18日
出生 1876年4月6日 長崎県長崎市 死去 1955年11月24日 宮城県仙台市

浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

8-0-1

 現世は活動の世界で、世に在る物はなんでも皆活動して居る。太陽は毎朝東の空に昇って、世界に光と熱とを送り、夜になると月や星が代わって、蒼空にその美しい光を輝かし、草木は花をつけ実を結び、ハチやアリやが忙しそうに朝から晩まで餌をあさりまわっているのも、牛や馬が荷を負い、車をひき、畑を耕すのも、みな、天主様に定められた規則を守って働いているのにほかならなぬのである。
 まして、人たる者が何の為すところも無くして、ブラリブラリと遊び暮らして居られたものでありましょうか。

 いったい、労働は、天主様の御命令 ではありませんか。


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キリスト信者宝鑑 目次

2021-02-13 06:18:21 | 青年の友
キリスト信者宝鑑

毎日の心得
1 日常行為について
1-1 行為の価値は心掛の如何によって定まる
1-2 些細な行為でも積り積れば偉大な行為となる
1-3 意向を純潔くせよ

2 起床
2-1 早く起きる
2-2 身を慎む
2-3 信心を以て起きる

3 お化粧と衣服
3-1 お化粧に気をとられるのは宜しくない
3-2 衣服については尚更注意せねばならぬ

4 朝の祈祷
4-1 朝の祈祷の必要
4-2 朝の祈祷の利益
4-3 朝の祈祷のとなえかた

5 黙想
5-1 黙想の必要とその利益
5-2 黙想の性質
5-3 黙想の方法(その1)
5-4 黙想の方法(その2)

6-0 ミサ聖祭(その1)
6-1 ミサは、十字架の犠牲の記念である
6-2 ミサは、十字架の犠牲の再現である
6-3 ミサは、十字架の犠牲の適用である

7-0 ミサ聖祭(その2) ミサ拝聴の方法、ミサのはじめ
7-1 入祭文から聖福音まで 礼拝
7-2 聖福音より聖体奉挙まで
7-3 聖体奉挙より聖体拝領まで、罪をあがなう
7-4 聖体拝領より終まで、恩恵を求める

8 労働
8-1 労働は天主様の御命令
8-2 労働は罪の償い
8-3 労働は救霊を全うするために極めて肝要

9 勉強
9-1 勉強の必要
9-2 勉強についての心得

10 食事

(  続く  )


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黙想の方法 その2

2021-02-12 05:41:04 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

5-4
黙想の方法 その2

 時間があって、毎朝20分間、あるいは半時間ずつ黙想される人は、何よりの幸福である。そのためにどれほど思想は高尚に、判断は賢く、徳は完全になってくるでしょうか。このような人のためには、黙想を、準備、本部、結尾の3部に分けることができます。

1 黙想の準備

1-1
黙想すべき要点を前晩からあらまし読んでおきます。

1-2
床に就くとき、夜中に目が覚めたとき、顔を洗うときに、黙想の題目を想います。

1-3
朝の祈祷の後、十字架の前か、聖母の御影の前かにひざまづいて、 
  心を鎮め、思いを取りまとめて次の祈祷をとなえます。
 「(信仰)
      主よ、私は主が唯今ここに在すと信じ、
      深くへりくだって主の限りなき御威光を敬い拝み奉る。
  (謙遜と痛悔)
      主よ、私は主に背いた罪人で、地獄にも罰さるべきはずの者であります。 
      今一心に悔やみ、悲しみ奉る。
      御なさけをかけて私をあわれみ給え。私の罪を赦し給え。
  (祈願)
      永遠の御父よ、イエズスとマリアとに対して私を照らし給え。
      この黙想の効果を収めるを得せしめ給え。」

1-4
 次に、天使祝詞をとなえて、聖母の御助力を求め、なお、聖ヨゼフ、守護の天使、保護の聖人に頼みます。ただし、これらの祈祷はなるべく簡単に、熱心に、口でよりもむしろ心でとなえるべきもので、時間も1分間より長くてはいけません。

1-5
 問題次第では、黙想のはじめに、それに当たる場所や人物を想像して、これを目の前にうち眺めるようにすれば、心も散らず、感情も起きやすくて、余程たすけになる。例えば、吾が主の御苦難を黙想するのならば、主が十字架にはりつけられ、全身傷つき破れ、鮮血にまみれておられる御足下に、聖母がヨハネ、マグダレナなどと涙にむせんでたたずんでおいでになるところを想像する。

 死について黙想するときには、息もたえだえに悶え苦しんでいる病人の周囲に、父母兄弟が、涙ながらに居並び、司祭は最後の勧告を為そうと枕もとに座している場合を想像します。しかし、問題が想像に描きだしにくい無形物であれば、強いてこの方法を用いる必要はありません。

2 黙想の本部

 準備がひととおり済んだら、書を開いて、心静かに読みます。読んでは考え、考えてはまた読み、ちょうど、鶏が水を飲むのに、一滴口に入れては天を仰ぎ、一滴口に入れては天を仰ぐようにします。
 しかし、心の感動するところに至ったならば、いつまでもとどまって味わうがよい。必ずしも前の晩に準備しただけを読んでしまおうと焦るには及ばない。
 しかし、読んで考えるばかりが黙想ではない。黙想の黙想たるところは、むしろ、感情と祈祷と決心とにあるのである。考えは、これをたとえると、裁縫針のようなものであるので、考えの針の進む後から、感情、祈祷、決心の糸がついて行かぬでは、それこそ骨折り損のくたびれもうけに終わるのみであります。

(感情)
 読んで考えて、心が感動するとみたら、すぐにその問題に応じて、それぞれに謙遜、感謝、献身の念、わけても主を愛し、罪を痛悔する等の情を起こして天主様と物語る。
たとえば、
「主よ、私は主を愛し奉る。主が万民に愛され給うことを望み奉る。主よ、私の身については、聖旨のままに計らい給え。私は聖旨が広く行われることを望み奉る。」
というような祈祷を繰り返し、繰り返しとなえて、愛情を起こすのであります。

(祈祷)
 感情は大切だが、謙遜と深く頼むの心をもって、その身その身に必要な聖寵を祈るのは、なおさら大切である。黙想をしていると、自分にはどれほど聖寵が必要であるかが分かって来る。さまざまな誘惑に打ち勝たねばならぬ。弱い心を引き立てねばならぬ。万事を主の思し召しにおまかせして、主を一心に愛し、終わりまで永続してゆかねばならぬ事などがよくわかってくるから、そのために要する聖寵を、熱心にお願いせねばなりません。黙想中は、天主様の御前に進んで、お互いに親しく物語りしているので、聖寵をお求めするには、最も都合のよい時であります。

よく申すでしょう、
「黙想は霊魂の呼吸だ」
と。

 人が呼吸するときには、空気を吐き出してはまた吸い、吐き出してはまた吸いするように、霊魂も身を捧げ、主を一心に愛し、罪を痛悔して、自分の感情を天主様に向かって吐き出し、祈祷をもって天主様の恩寵を吸い取るのです。

(決心)
 黙想の終わりには、決心を固めなければならぬが、しかし、ただ一般に「今からは罪を犯さぬ。よいことをする。」
と決心しても、あまり益にならない。
 これこれの人に対して、こんなように堪忍を守る。
 この命令には飛び立って従う。あの誘惑が起こったら、こうして防ぐ、
 今日はこのことについてこんな制欲を実行するというように、細かに一つ一つの場合にあてて決心せねばならぬ。
 そして、その不足を改め、その徳を修めるまでは、幾度も同じ決心を繰り返すのであります。
 なお、天主様に何かの誓願を立てている人は、毎日黙想の終わりにその誓願を新たにするのは、大いに益になる。
 たとえ誓願はたてていなくとも、信者たるものは、いずれも洗礼のときに
「悪魔を棄てる。悪魔のしわざ、その栄華までも棄てる」
と約束しているのだから、その約束を新たにすれば、それで、どれほど心がひきたってくるかしれません。




3 黙想の結尾

黙想の結尾に為すべきことは3つ。

3-1
黙想中に心を照らしていただいたことを感謝する

3-2
決心したところを、すぐに実行すべき手筈を定める

3-3
 その決心を守るための恩寵をイエズス、マリアの聖名をもって御願いし、主祷文、天使祝詞を各々1遍ずつ、となえるようにしなければなりません。

 それから、サレジオの聖フランシスコの御勧めに従い、黙想中に眺めた教訓の花の中で、とりわけ見事に咲き誇っているよと思われる一枝を折りて持ち帰り、終日これを眺めることにいたしなさい。言葉を換えて言えば、黙想中に自分がことさら感じた点を、一つ二つ覚えておいて、時々それを思い出すようにすれば、十分に黙想の効果を収めることができるのであります。



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黙想の方法 その1

2021-02-05 01:17:58 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

5-3 
黙想の方法 その1

 黙想は、そんなに難しいものではない。そして、その方法もいろいろあるが、普通の信者にはごく簡単なのがよい。時間も、10分間か15分間あれば十分です。適当な本を取ってしばらく読んで考える、考えてはまた読む、感じるところがあれば、それについて天主様と物語る。我身の不足や、心配になることなどを訴える。罪の赦しを願う。一日の中に為すべき事の段取りをする。
しまいに、堅い決心を立て、その決心をよく守るために天主様の御助けを求めるというようにすれば、それでもたくさんである。

「でも、私等のように多忙では、黙想も何もあったものじゃない。朝の祈祷さえ出来かねるぐらいだもの」

という人がよくあります。

 実際、15分間の暇が取れぬとあっては、5分間でもよろしい。

 本を開いて1ページくらい読んでも足りる。1ページも読めないのなら、5、6行でも仕方ない。

 天主様とか天国とか永遠の生命とか、そんなものをちょっとでもよいから少し注意深い眼を注いで眺めるというようにすれば、それだけでも罪を避け、善を行うのに、どれほど助けになるか知れません。

 たとえ、文字一つ知らぬ、全く何の本も読めない人でも、黙想の出来ないことはない。四終のことならば、しばしば御説教にも聴くし、殊に死去なんぞは、自分で幾度も見ることもあるから、それを黙想するのは、格別むずかしいものではない。

 イエズス様の御苦難も、本が無くても黙想できる。十字架そのものが立派な書ではありませんか。この書の中には、罪の憎むべき、主の愛の限りなき、救霊の大切にすべき事などが、鮮やかに読まれてある。

 コリネオのベルナルドとかおっしゃる御方がありました。かねてから、十字架を深く尊んでおられたのだが、文字を全く知らないので、友人が

「勉強して本の読めるようになさい」

と、しきりに勧めました。
で、ベルナルドは十字架の前に行って

「どういたしましょう」

とお尋ねすると、

「本を読んでどうする考えなの?私こそあなたの本ではないか。私でたくさんだよ」
と十字架よりお答えがありました。

 そうすれば、十字架の道行の一留か、ロザリオの苦しみの玄義の一つかを採って、誰が、いつ、誰から、誰のために、どんな苦しみをしのいでおられるか、などを観念し、これによって、同情、感謝、痛悔、熱愛などの情を起こし、自分の日々のつとめに当てて何とか決心をするならば、それでも結構な黙想ではありませんか。

 時としては、告白の形にすることもできる。
 すなわち、天主の十戒か、聖会のおいて、7つの罪源の中の一つについて、自分の平生の思い、言葉、行いをくわしく調べてみる。調べた上では、十字架の前にひざまづいて、過った点をイエズス様に告白し、しばらく心を鎮めて、そのご意見や、おとがめや、御忠告やらを承り、過失を改める方法を定めて、必要な聖寵を祈って置く。
 これも立派な黙想ではありませんか。

 こんな様に、黙想はそう難しいものではない。時間があってもなくても、書が読めても読めなくても、志さえあれば出来ないことはない。
 シャンタルの聖ヨハンナは、毎日、朝の祈祷をとなえてから、子女を右左に座らせて、5~6分間、信仰上の道理について黙想させていました。感心なのは、11歳の長女が、15分間も熱心に観念し、観念したところで、後で正直に母に物語っていたということである。

 我が国の家庭にも、そのような美しい習慣が行われるようになったら、どんなに喜ばしいことでしょう。