カトリック情報 Catholics in Japan

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ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父18 遭難

2018-08-18 13:51:54 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 18

 翌年の2月になりました。司教さまが、一番遠いこのリンチョウの視察に来られるのです。カラウァリオ神父は大喜び、川をくだってシュチョウまでお迎えに行きました。途中で匪賊に襲われても、いのちは無事でした。

 司教と出かける前日、かれは、一日じゅうご聖体の前で祈りつづけました。当時チャング・ハート・カイ将軍が将介石に背いて内乱が起きていました。これに乗じたのは、匪賊です。とくにシュチョウからリンチョウのあいだで川や道を旅する人を悩ませていました。そのときまでは、教会の旗を船に立てれば、匪賊は手をつけなかったのです。

 さて、きょうは、いよいよ出発の日です。途中まで汽車で行き、それから翌2月25日の朝、教会の旗を立てた小船に乗りこんだのは、司教とカラヴァリオ神父のほかに、3人の女の先生とふたりの男の先生、ひとりの男の子と船頭ふたり、そして船の所有者の老女です。一行は祈りながら、冷い川をさかのぼって行きます。昼までは、なんとか無事でした。みんなはお告げの祈りをしました。

 急に騒々しくなり、罵声と乱れる足音に人々は、はっとします。

「止まれ!止まらぬと撃つぞ」とだれかが叫んでいます。

 やむなく船を岸に寄せた一向に、銃を突き出したのは、ぞっとするはど残忍な顔をした匪賊の一団!

「いのちがおしいなら500ドルよこせ」と、のどかな田園を地獄に変えてどなります。

 そんな大金をもっているはずもないのですから、この要求は口実にすきません。船に乱人した数人の匪賊が若い女性をみつけました、

「この外人の妻を取ろう」と匪賊。なかのひとりが、「あのときの、あまがいる」とにやりとしました。かれが前に学校に侵入し、共産党の宣伝をしようとして妨げられたのは、このひとりの女性のためでした。今こそ復しゅうのチャンスと思ったのです。

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父17 中国での司牧

2018-08-16 21:04:13 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 17

 まず上海のサレジオ学校におくられ、中国語の勉強をしなければなりません。外国語のタレントに恵まれていたかれは、おどろくばかりの進歩をとげ、1か月後は、早くも中国語で最初の教理レッスンをしました。祈りの協力を願い、母によく便りをしていたかれは、この喜びを次のように書きました、「おかあさん、あなたのお手紙に答えたいと思って今まで待っていました。それは、他でもありません。慰めになるニュースで、喜んでいただきたかったからです。けさ、わたしは、中国語で最初の教理レッスンをしました。どうぞ、この子どもたちが天国に行けるように、この子どもたちとわたしのために祈ってください」と。

 かれ自身も熱心に祈りました。しかし上海で2年もすごした頃、内乱が起きて、サレジオ会員はみんな、追放されねばなりませんでした。やがて、ティモル島におくられたかれは、新しい事業の設立に熱心に協力しました。

 領土としては、ここはポルトガル領でしたが、教会としては、マカオ司教区に属していました。かれは、ここでも2年すごして1929年になりました。このとき、かれを中国に呼びもどしてくれたのは、あのヴェルシリア司教です。

 生徒たちが別れを惜しんで泣きだしたとき、かれは慰めるつもりでいいました、「わたしは、中国に帰るのですよ、あそこに行ったら、殉教者となって、いのちをささげることになるでしょう。それでかえって喜んでください」と。

 こうしてかれは、中国のシュチョウに行くと、ここで聖霊降臨の前日1929年5月18日に、ヴェルシリア司教の手によって司祭に叙階されました。そのとき両親に手紙を書いていいました、「わたしを神にささけてくださったことを大いに喜んでください。あした初ミサをささげるのです。何よりもあなたがたのことをミサのなかで思いだします。そして司祭としてのわたしの最初の祝福を送ります」

 司教は、かれをリンチョウ教会に助任として任命しましたが、「主よ、どうぞわたしにりっぱな布教ができますように・・・」と、どんなに熱心にかれは祈ったことでしょう。カラヴァリオ神父は、なん時間も祈りつづけていました。

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父16  カルヴァリオ神父の召命

2018-08-14 04:11:31 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 16

「カリストくん、きみは何を祈るの?」

「ぼく、イエズスさまにお願いしてるんです。聖アロイジオのように清くして、りっぱな神父さまにしてくださいって」

「ふうふうむ!」院長さまは、感心してしまいました。そして、かれを志願者として、ヴァルドッコのサレジオ会中学校に送ることにしました。それにしても、あまりにも貧乏な家族だったので、院長さまが、かれの費用をすべて引き受けることにしました。

 カラヴァリオは、1919年に修道誓願をたてると、勉強にはげむかたわら、子どもたちに教理を教えていました。ヴェルシリア司教に出会ったのは、この時期です。

 かれの夢が実現したのは、それから2年後でした。汽車で旅立つカラヴァリオをホームに見送る母は、涙をおさえることができません。

「おかあさん、泣かないで、ぼくの心は、いつもおかあさんの側にいるじゃありませんか?ぼく、きっとりっぱに使徒職をはたしてきまずから・・・」

 そういうと、かれは、そっと十字のしるしをして母を祝福しました。おかあさんの涙にかすむ目に、息子の姿はしだいに小さくなり、白いはんかちだけが、小さな点のようにみえています。

 一行が、マカオに上陸したのは、1924年11月11日。数年まえに来ていたもとの目上のブラガ神父によって、大歓迎会が行なわれました。カルヴァリオ神父は、仲間を代表していいました、

「わたしたちは、人々の霊魂を導くためには、いかなるぎせいも、たとえ、それが血のぎせいであっても覚悟しています」と。

 まず上海のサレジオ学校におくられ、中国語の勉強をしなければなりません。外国語のタレントに恵まれていたかれは、おどろくばかりの進歩をとげ、1か月後は、早くも中国語で最初の教理レッスンをしました。祈りの協力を願い、母によく便りをしていたかれは、この喜びを次のように書きました、「おかあさん、あなたのお手紙に答えたいと思って今まで待っていました。それは、他でもありません。慰めになるニュースで、喜んでいただきたかったからです。

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父15  カラヴァリオ神学生

2018-08-13 00:51:58 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 15

 司教叙階後1年たって、ヴェルシリア司教は、サレジオ会本部に行かねはなりませんでした。この機会を利用しておよそ1年ほどヨーロッパに止まりました。それはサレジオ会経営の諸学校や諸司教区の神学校で講演し、布教地の召し出しを促進するためです。もっと熱心だったのは、とくに若い神学生でした。なかでもいちばん燃えていたのは、カラヴァリオ神学生です。

 「司教さま、ぼくも司教さまの布教地に行きたい!どうぞ、いっしょに中国に連れていってくださいませんか」

 と願いました。では、この神学生について、その生いたちを、ここで紹介させていただくことにします。

 かれの名は、カリスト・カラヴァリオ。クオルニエ町に1903年6月8日に生まれました。父ペトロと母ローザは、子どもにりっぱな教育を授けま」た。ふたりの姉妹を持つかれは、幼ない頃から日曜学校に行くのが大好きでした。まるで、そこが自分の第二の家ででもあるかのように感じていたのです。聖堂の掃除も、おとなにまじって、せっせと手伝う子どもでした。
 まもなく、トリノのサレジオ学校に行くようになると、あんまり熱心に祈るので、院長さまは、ちょっと尋ねてみたくなりました。

ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父14  司教聖別

2018-08-12 03:47:34 | ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父
『愛と潔白の殉教者 ヴェルシリア司教 カラヴァリオ神父』企画:デルコル神父 文:江藤きみえ 14

「とんでもありません、この布教地の発展は、他の宣教師たちの努力がみのったのです」といって、かれは、断ろうとしました。そのときは、ちょうどこの地方に内乱が起きて、教会は難民でごったがえしていた時期だったので、なおさらです。

 かれは、6か月ためらった後に、自分をそれにふさわしくないと思いながらも、教皇さまの決定に服従しました。

 その聖別式は、1921年1月9日の日曜日、カントンの司教座大聖堂で行なわれ、4人の司教と大勢の宣教師や信者がたちあいました。この日のために集まったサレジオ会員は17名、サレジオ会独特のコーラスが荘厳な歌ミサをひびかせました。この典礼賛美歌「エッチェ・サチェルドス・マニュス」を新しく作曲して、トリノから送ってくれたのは、かれの親友そして、わたしたちのあのなつかしいチマッティ神父さまです。チマッティ神父さまは、4年後に日本最初の宣教師の団長となって来日し、その後も、ヴェルシリア司教と文通がありました。

 式が終わると、かれは新司教区のカテドラルとなるシュチョウ教会に数人の宣教師とともに移ってゆきました。カテドラルとは名だけ、小さな教会で、聖堂には、やっと200名ぐらいの信者が入れる程度のものです。かれのために低い司教座のいすが準備されていましたが、これにかけようとすれは、その度に頭を下げないと、天井にぶっつけてしまうのです。



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