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志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』、13

2016-07-24 04:53:11 | キリスト教入門
志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』

◆ 愛は最大のおきて(2)

 すべてに超えて神を愛するわけは、わたしたちは神につくられ、神からすべての恵みを受けているばかりでなく、罪から救われて永遠の幸福にあずかれるように、はからわれたからであります。また隣人を自分と同じように愛するわけは、わたしめたちはみな神の子として召され、キリストによってあがなわれた兄弟姉妹だからであります。

 つづいて、キリストはおおせられます、「父がわたしを愛しておられるように、わたしはあなたたちを愛した。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父のおきてを守り、その愛にとどまったように、あなたたちが、わたしのおきてを守るなら、ああいなたたちは、わたしの愛にとどまるだろう。わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちが互いに愛しあうことを、これがわたしのおきてである。友のためにいのちを与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15・9-13)。

志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』、14

2016-07-24 04:52:44 | キリスト教入門
志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』

◆ 愛は実行をともなう

「主がわたしたちのためにいのちをささげられたことによって、わたしたちは愛を知った。わたしたちもまた兄弟のためにいのちをささげねばならない。世の宝をもちなから、兄弟のとぼしさを見てあわれみの心を閉じる人の心のなかに、どうして神の愛がとどまろうか。子らよ、ことばと口先でなく、行ないと真実とをもって愛そう。それによって、わたしたちは、自分が真理.についていることを知り、神の前に安んじられる」(ヨハネ前書3・16-19)。

「わたしは神を愛するといいながら、兄弟を憎むものは、偽り者である。目で見ている兄弟を愛さないものに、見えない神を愛することがどうしてできよう?(ヨハネ前書4・9)。

志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』、15

2016-07-24 04:52:14 | キリスト教入門
志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』

◆ すべての人を愛せよ

 「あなたたちは敵を愛し、迫害する人のために祈れ。こうしてあなたたちは、天においでになるあなたたちの父の子となるのである。天の父は、悪人の上にも、義人の上にも日をのぼらせ、義人にも、不義の人にも雨をお降らせになる。自分を愛してくれる人を愛したとて、なんの報いがあろう? そんなことは税吏(罪人の代表)でさえも、しているではないか。自分の兄弟にだけあいさつしたとて、なんのすぐれたことがあろう? そんなことは異邦人(神を知らない外人の意)でさえもしているではないか?」(マタイ5・44-48)

志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』、16

2016-07-24 04:51:43 | キリスト教入門
志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』

◆ すべての人を愛せよ(2)

「そのとき、王は右にいる人に向かって、"わたしの父に祝せられたものよ、来て、世ののはじめからあなたたちのために準備されていた国をうけよ。あなたたちは、わたしが飢えていたときに食べさせてくれ、かわいているときに飲ませてくれ、旅にいたときに宿らせてくれ、裸だったときに服をくれ、病気だったときに見まってくれ、牢にいたときに訪ねてくれたからである"というだろう。すると義人たちは答えて、"主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えているときに食べさせ、かわいているときに飲ませ、旅におられるときに宿らせ、裸のときに服をあげ、あなたが病気のときや牢におられるときに見まったのでしょうか?"というと、主は答えて、"まことにわたしはいう。あなたたちがわたしの兄弟であるこれらの、もっとも小さな人々のひとりにしてくれたことは、つまり、わたしにしてくれたことである"というであろう」(マタイ25・34-40)

志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』、17

2016-07-24 04:51:00 | キリスト教入門
志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』

◆ 愛は寛大に罪をゆるす

「あなたたちが他人の過失をゆるすなら、あなたたちの天の父も、あなたたちをゆるしてくださる。しかし、他人をゆるさなかったら、父もあなたたちの過失をゆるしてはくださらない」(マタイ6・14)「ペトロが近づいて、"主よ、わたしの兄弟がわたしに対して罪を犯したら、何度ゆるさなければなりませんか?七度までですが?"と尋ねた。」イエズスはお答えになった、"わたしは七度とはいわない。七度を七十倍までという"と」(マタイ18・21-22)

 イエズスが十字架につけられたとき、その苦しみのなかから天のおん父にむかって、「父よ、かれらをおゆるしください。かれらは何をしているか知らないからです」(ルカ23・34)と祈られました。これこそ、イエズスが実践された愛のあかしであります。