カトリック情報 Catholics in Japan

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志村辰弥神父『聖母マリアの崇敬』、3

2016-07-23 07:04:58 | 聖母崇敬
志村辰弥神父『聖母マリアの崇敬』

◆3、マリアは人類の母

 さらにマリアは、人類の母であります。ヨハネ福音書によると、イエズスは十字架にかけられたとき、「その愛する弟子がそぱに立っているのをごらんになり、母に『婦人よ、これがあなたの子です』とおおせられ、また弟子には、『これがあなたの母です』とおおせられた。その時から、その弟子は、マリアを自分の家に引き取った」(ヨハネ19章26-27節)とあります。これは、マリアが人類の心の母となられたことを意味します。教会憲章もこれを認めて、マリアの母心を強く称賛しています。「マリアが天に上げられた後も、この救いをもたらす務めを放棄せず、かえって数々の取り次ぎによって、われわれに普遍の救いのたまものを得させるように続けている。・・・このために、聖なるおとめは教会において、弁護者、扶助者、救援者、仲介者の称号をもって呼び求められている」(第62節)。

 まことにマリアは、今もなお神の母としての権能と限りない功徳をもって、わたしたちひとりひとりに母の愛を傾けて、守り助けてくださるのです。

 レーニンベルグは、「すべての母親がその子に対して抱いている愛も、マリアがわたしたち、ひとりひとりに持たれる愛情に比べれば影に過ぎない。マリアはすべての聖人が一緒になって愛しえないほどの愛をもって、わたしたちを愛してくださる」といっています。

志村辰弥神父『聖母マリアの崇敬』、4

2016-07-23 07:04:28 | 聖母崇敬
志村辰弥神父『聖母マリアの崇敬』

◆4、聖人たちのことば

 これについて、聖人たちのことばを聞いてみましょう。

★ 弁護者マリア

 ベルナルディーノ

「罪人よ、ありとあらゆる罪を犯したとしても、決して信頼を失ってはならない。恐れることなく、もっとも光栄ある元后によりたのむがよい。あなたはマリアのいつくしみを求めている。けれどマリアは、あなたによいことをすること、あなたに寛容仁慈であることをあなたより熱心に望んでおられる」。

★ 扶助者、救助者マリア

 アルフォンソ.ド・リゴリオ

「マリアは、カナの婚宴でブドー酒がつきたとき、だれからも願われなかったのに、"あの人たちは、もう酒がありません"とキリストに訴えた。おん子は、"まだ時が来ていない"とおおせながらも、マリアの願いを聞いて、すぐ奇跡をおこなわれた。このように、マリアは助けを願わぬうちから、それを与えようと望んでおられるのに、求められた助けを拒むことがどうしてあり得ようか!」

 ベルナルド

「マリアのご保護によりすがって助けを求め、おん取りつぎを願ったものがひとりとして棄てられたことは、昔から今にいたるまで聞いたことがない」

★ 仲介者マリア

 ボナヴェントゥーラ

「太陽と地球との間に位する月が、太陽から受けた光を地球に与えるように、神と人との川におかれたマリアは、恵みの天来のカを受けて、これを地上のわたしたちに注いでくださる」

 ベルナルディーノ

「わたしたちがマリアを天の門とお呼びするのは、天の門であるマリアを通らなければ、だれも天国にはいることができないからである」

シエナのベルナルディーノ

「天が与えるすべてのたまもの、すべての善徳、すべての恩恵は、マリアのみ手を通して与えられる。マリアは望むものに、望むとき、望む方法でそれをお与えになる」

 以上の考察によって、マリアがいかに尊い方、偉大な方、権力ある方、慈悲深い方、わたしたちの幸福を願っている大切な方であるかということがわかります。そうしたことから、教会はマリアに対して特別崇敬(hyperdulia)、つまり、神に向けられる礼拝よりは下位であるが、他の天使聖人に対する崇敬と本質的に異なる唯一の高い崇敬をささげております。

志村辰弥神父『聖母マリアの崇敬』、5

2016-07-23 07:03:07 | 聖母崇敬
志村辰弥神父『聖母マリアの崇敬』

2、歴史に見る聖母崇敬

 聖母崇敬は、唯一・聖・公・使徒承伝を軸とするカトリック教会の特徴であります。
 それは、マリア論と平行して漸進的に発展しました。はじめは、キリストと結ばれて崇敬されていたが、四世紀頃から、「うるわしいおとめ」、「めでたし聖なる母」などと独自に賛えられ、祝日が定められ、マリアを記念する聖堂が建てられはじめました。

 中世紀になって、マリアの崇敬は急に上昇しはじめました。そして、土曜日がマリアの日と記念され、マリアのミサが取りいれられ、一〇世紀にはマリアの小聖務日課、一三世紀にはマリアの連願(別名連祷)、ロザリオの祈りが普及されました。そうした発展は、カルメル会、シトー会、ドミニコ会、フランシスコ会などの実践的崇敬や、カニジウス、ベラルミーノ、サレジオのフランシスコ、アルフォンソ・ド・リゴリオ、グリニョン・ド・モンフォールたちによる神学的基礎づけに負うところが大きかったと思います。そして、この崇敬は文学や芸術の世界にまで及び、詩歌、著書、絵画、彫刻、音楽などにすばらしい傑作を産み出しました。

 たとえば、詩歌では「スターバト・マーテル」、著書ではアルフォンソ・ド・リゴリオの「聖母マリアの栄光」、グリニョン・ド・モンフォールの「聖母マリアのまことの信心」、絵画ではヴィラスケの「マリアの戴冠」、ティチアーノの「マリアの被昇天」、彫刻ではミケランジェロのピエタ」、音楽ではグノーやシューベルトの「アヴェ・マリア」などまよく知られています。

 また一方、マリアを保護者とあおぐ修道会や教会が随所に設立され、マリアの恵みやとりなしを記念する聖地が誕生しました。修道会では「無原罪の聖母修道会」、「マリアのみ心の愛好会」、教会ではローマの「聖マリア大聖堂」、パリの「ノートルダム大聖堂」などが有名です。また聖地としては、イタリアのロレートをはじめ、フランスのルルド、バイエルンのアルトエティング、スイスのアインシーデル、スペインやメキシコのガダルーぺ、ポルトガルのファティマなどがあって、年間数百万の巡礼者を数えています。

志村辰弥神父『聖母マリアの崇敬』、6

2016-07-23 07:01:23 | 聖母崇敬
志村辰弥神父『聖母マリアの崇敬』

3、わが国と聖マリア

 わが国と聖母マリアわが国へはじめてキリスト教を伝えたのは、フランシスコ・ザビエルであります。かれは天文十八年(1549年)8月15日鹿児島へ上陸し、その日はちょうど聖母被昇天祭に当ったので、日本の布教をマリアのみ手に委ねたといわれます。

 日本の布教は、すばらしい発展をとげ、わずか五、六〇年の間に信徒三〇万を数えるにいたりました。ところが、天正十八年、豊臣秀吉の禁教令によって布教は阻止され、大部分が棄教しました。しかし、ある人々は信仰を堅持して殉教し、ある人々はかくれキリシタンとなって密かに信仰を保ち、ひとりの司祭、ひとりの修道者もないまま三百年の迫害に耐えてきました。その間、かれらの信仰の支えとなったのは、マリア観音としてあがめられたマリアに対する信心でした。

 やがて一九世紀のなかば、日本の開港に先立って、天保一五せ年(1844年)、パリ外国宣教会司祭フォルカード神父が日本教会の復興のために琉球へ派遣されました。かれはマリアに対して深い信心をもっていたので、那覇へ到着と同時に、アルクメーヌ艦上でミサをささげ、日本の布教をマリアのご保護にゆだねました。

 そして、「聖母マリアの潔きみ心(当時の名称)」の祝日を日本の一級大祝日として、5月1日に祝う認可をローマから得ました。

 元治二年(1865年)3月17日、長崎の大浦天主堂でプチジャン神父がかくれキリシタンを発見したのは、信徒が聖母像をみて神父に質問をかけたことにはじまります。こうしてマリアは、不思議な方法で信徒を守り、導いてくださったのです。その後、明治時代にはいり、信仰が認められたとはいえ、従来の偏見によって布教は困難でした。第二次世界大戦によってもたらされた信仰の自由は、敗戦といういたましい試練を通してではあったが、わが国民に救いの道が完全に開かれた点では、喜ぶべきことでした。

 これについても、マリアの不思議なはからいがうかがわれます。それは、開戦と終戦と平和条約がマリアの主要な祝日に当っていることです。すなわち、開戦は昭和一六年(1941年)12月8日、マリアの無原罪のおんやどりの祝日、終戦は昭和二〇年(1945年)8月15日、マリアの被昇天の祝日、講和条約は昭和二六年(1951年)9月8日、マリアの誕生の祝日ということになるのです。それら三つの大事件がマリアの祝日に当ることを偶然の結果と見るのは、偶然の確率からいって困難です。このようにして戦後は宣教にすばらしい発展をとげて、戦前百年間に勝ち得た信徒の数を戦後十年間で越えるほどになりました。

 現在、日本は経済大国に発展して国民生活は豊かになったために、人々は物質的幸福を求めて信仰から遠ざかり、改宗者は終戦直後には及ばないが、聖書はベストセラーとして広く読まれ、キリスト教文学もくまなく紹介されています。こうした国民の関心は、やがて時が満ちれば、たちまち開花する準備態勢と考えられ、マリアの恩恵が期待されています。しかし、1844年以来、日本の一級大祝日として祝われて来た「聖母マリアの汚れなきみ心」の祝日が、公会議の典礼刷新の機会に消されてしまったことは、かえすがえすも遺憾です。

志村辰弥神父『聖母マリアの崇敬』、7

2016-07-23 07:00:06 | 聖母崇敬
志村辰弥神父『聖母マリアの崇敬』

4、ロザリオの祈り

 ロザリオの祈りは、マリアを崇敬し、その取りつぎを願うために、もっともふさわしい祈りであります。

 ローザはバラの意(ラテン語)、天国の優雅な象徴とされています。そこで、マリアを賛えるために、「めでたし」の賛歌をくりかえして霊的バラの花冠をつくり、これを献げるのが、ロザリオの祈りであります。

 この祈りは、一三世紀のはじめ、ドミニコがアルビ派の異端を克服する為に、マリアの啓示を受けて始めたといわれます。それから、三百年経って、トルコの大軍がイタリアを襲ったことがあります。そのとき、ピオ五世教皇は、その難を免れるために、全国に指令してロザリオをとなえ、マリアのご保護を祈らせました。そして一〇月一〇日、わずかの兵をもって、レバントの海戦で敵を全滅し、奇跡的な大勝利を得ました。教皇は、マリアのこの著しい助けを記念するために、一〇月の第一主日をロザリオの祝日と定め、マリアの連願に「キリスト信者のたすけ」という語句を加えました。その後、1716年、またもトルコ軍がハンガリーのコルフー市を襲いましたが、国王カロロ六世は国をあげてロザリオを祈らせ、マリアの取りつぎによって、強敵を撃退することができました。教皇クレメンス一一世は、これを感謝して、ロザリオの祝日を全世界の教会で祝うように命じました。現在一〇月一〇日に祝われているのは、1913年ピオ一〇世によって変更されたためです。

 一九世紀は唯物主義や自由主義の台頭によって信仰が脅かされはじめた時代です。教皇ピオ九世およびレオ一三世は、これに対処するために、マリアの崇敬に関する回勅を出して、ロザリオの信心を推奨しました。二〇世紀においては、科学の偉大な進歩と唯物主義、共産主義が暴力をふるい、世界の多くの国々がその支配を受けて、道徳が頽廃しました。ロザリオの信心を促すため、ピオ一二世は、ファティマに出現したマリアの啓示に促がされて、現代の危機を救うために、マリアの特別なご保護を求めるよう強調しました。そして一九五〇年には、マリアの被昇天のドグマ(信仰箇条)を決定して、マリアの崇敬を高めました。

 ヴァティカン公会議を召集したヨハネニ三世教皇は、典礼の刷新やプロテスタント神学の影響によってマリアの信心が低下するのを憂慮し、一九六一年、六二年の二回にわたって使徒的書簡を公にして、「ロザリオはその重要さにおいて、ミサ聖祭と秘跡および聖務日課に次ぐものであり、一般信徒にとっても、秘跡にあずかることの次に、もっとも重要な信心である」とさとしました。つづいて、パウロ六世教皇は、一九七四年、「マリアの崇敬について」という使徒的勧告によって、マリアヘの信心をすすめ、公会議による典礼刷新の意図を明らかにしたことは前述の通りであります。なお、現教皇ヨハネ・パウロ二世もファティマのマリアに対する深い信心を持ち、現代の悪を克服するには、キリストのしるし(十字架・ぎせい)とロザリオが最良の武器である」と強調しています。このように歴代の教皇がロザリオを推奨しているのは、その祈りの効果が著るしいばかりでなく、マリア自身がこの祈りをとなえることをルルドやファティマで求めておられるからでありましよう。