カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

アルベルト・カスティリオニ神父 8、とうとう日本に渡る

2018-11-28 01:40:57 | シュステル枢機卿
『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著

★2、興味ぶかい事件 アルベルト・カスティリオニ神父

◆8、とうとう日本に渡る

 1962年の7月、日本に帰る手続きのため、ニューヨークの近くのサレジオ会管区長館に行くと、にごにζして近づいてくる神父さまがいます。おお、何と縁のふかい出会いでしょう!日本に帰る途中のデルコル神父さまでした。わたしたちは大よろこびで、いっしょにアメリカを飛び立って、7月16日羽田にっきました。

 空港にわざわざ日本管区長が出迎えるといった大歓迎です。そのあとの、わたしの任地は、もう別府ではありません。大阪の星光学園にある天王寺教会です。わたしは主任司祭に任命されましたが、その前にどうしても行かなければならない所がありました。

 わずかの荷物をとりに別府に行きましたが、第一の目的は、別にありました。

(写真は星光学園・旧天王寺教会)


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

アルベルト・カスティリオニ神父 7、友人のおとずれ

2018-11-17 01:34:39 | シュステル枢機卿
『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著

★2、興味ぶかい事件 アルベルト・カスティリオニ神父

◆7、友人のおとずれ

 こうして手術をうけたその翌日、東京でわたしといっしょに叙階されたデルゴル神父さまが訪れました。かれは、休暇でイタリアに帰り、その当時トリノにあったサレジオ会の本部にあいさつに行ったのでした。すると、布教地担当の長上から、「すぐにレニャーノ病院に行ってカスティリオニ神父さまを見舞いなさい。きっとそこで、かれの父に会うでしょう。まだ、だれも本当のことを告げる勇気がなかったのですから、あなたが、なんとかして、お父さんに知らせ、神のみ旨にまかせるように覚悟させてください」といわれたそうです。

 デルコル神父さまは、そのとおりにしたのですが、死にかけているはずの病人は、かれの訪問を喜んでいるのです。それどころか、2~3日たっても、それ以上たっても、病人は死ぬどころではありません。

 不思議がる医者たちの目の前で、わたしは、ますますよくなり、日ましに元気をとりもどしていきます。とうとう退院することができました。

 冬ももうま近に迫っていたので、長上は、わたしを保養のためシチリア島のタオルミナ市のサレジオ会支部にまわしました。

 おかげで、ますます元気になったわたしは、本部の長上に、ふたたび日本に渡る許可を願いました。わたしの希望は、インド経由でなく、米国経由でしたが、とにかく本部の目上は、許可を与える前に医者の意見を聞かねばならないといいます。

 さっそく、わたしは、ガンデリー二先生を訪ねて、病気全快の証明書をつくってもらいました。ー最近、この書類を探してみましたが、どうもみつかりません。

 さて、許可を得たわたしは、計画どおり米国にわたり、ボストン市のサレジオ会経営のドミニコ・サヴィオ高等学校に9か月滞在しました。そこでわたしは、信者の生徒の告解をきいて、すごしたのです。


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。


6、シュステル枢機卿の取りつぎ

2018-11-15 20:41:57 | シュステル枢機卿
『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著

★2、興味ぶかい事件 アルベルト・カスティリオニ神父

◆6、シュステル枢機卿の取りつぎ

 こうして手術室の外で弟が兄の死をつげられていた頃、わたしは、どうだったでしょう。話は手術の2~3日前に戻りますが、ひとりの婦人が、わたしの病室を訪れました。たしか聖ビンセンシオ・ア・ポロ会の方だったと思いますが、名前さえいってはくれませんでした。

 かの女がもってきたのは、その時はすでに帰天していたあのシュステル枢機卿のこ絵だったのです。ご絵の中の枢機卿は、ひざまずいて祈っており、その服から切りとった小さな布の断片が遺物としてはりつけてありました。このこ絵を、わたしに渡しながら、婦人はいいました、

「この方は、よく奇跡を行なうといわれています。神父さまも取りつぎを願われたら、どうでしょう?」

 わたしにとって、このこ絵は何と不思議なめぐり会いでしょう。お目にかかったあの時の慈父のような微笑が、ありありと心によみがえってきました。わたしは、ご絵の裏に書いてあった祈りをよみながら、深い感謝をおぼえ、心の中でこういいました、

「閣下、どうか先生方が、せめてものことに、わたしの病気の原因だけでもみつけだしますよう、かれらを照らしてください」と。

アルベルト・カスティリオニ神父 5、最後の手術

2018-11-14 06:31:14 | シュステル枢機卿
『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著

★2、興味ぶかい事件 アルベルト・カスティリオニ神父

◆5、最後の手術

 その頃スイスのルガノ市にいたわたしを、「ルガノ市の民」という名の新聞の編集長ビスコッサ氏が招待しました。なん年か前にかれが来日して、別府に来たとき、教会にとめてあげたお礼のためでした。

 でも、かれの家に着くと、わたしは突然気分が悪くなりました、すぐ、かれの友人の医者がよばれました6医者は、わたしの血液に、もうほとんど、ヘモグロビン(赤血球の色素)がなくなりかけているといいます。

 わたしは注射してもらい、入院するため、大いそぎで家に自動車で運ばれたのです。病人なのに動きまわったわたしに、弟は怒っていいました。「おまえが、自分の健康を自分で面倒みないのなら、わたしが面倒をみてやる。あしたは、きっと、レニャーノ病院に行ってガンデリー二先生に話をつけてくるからな」と。

 こうして、ついに10月のはじめにわたしは、レニャーノ市の病院に入院することになりました。

 ずっと後に、弟を通じてわかったことですが、この病院の院長ガンデリー二先生は、診察の感想を驚いて弟に話し、こういったのです、

「不思議ですなあ、カピタニオ病院に一か月も入院なさっていたというのに、どうして、あの腫瘍に気付かなかったのでしょう?手で触ってもすぐわかるほどなのに!」と。

 そして、ある朝、巡回診察に来られた先生が、思いあまった様子でいいました、

「あのー、神父さま、あらゆる手をつくして検査してみたのですが、どうも解決の糸口がつかめません。こうなったら、最後の手段に訴えるしか道はないようです。つまり切ってみる他はないということになりますね」。

 わたしは、少しもためらわずに、すぐ答えました、

「もう何回も切ったのですから、あと一回切ったからといって、どうということはありません。どうぞお願いします」と。

 これは、あとで知ったのですが、手術室に運びこまれたわたしのまわりには、ずいぶんたくさんの人が息をころして見守っていたのです。つまり、メスをとるパストーリ先生の他に.ガンデリー二先生、外科の院長ピッチオー二先生、それから、特別な許しを得た同病院つきのチャプレンであるヨハネ・レポッシー二神父さまです。

 一秒一秒が、音をたてて過ぎ去るような緊張した長い時間がたってから、やっと手術が終わりました。先生は、わたしに、「すべて、うまくいきましたよ」といったものの、その表情は暗かったのです。その理由を手術室を出た弟はきかねばなりませんでした。それで、あとで、その時のことを弟はわたしに告げたのですが、手術室を出た弟のまわりに、暗い表情で額を集めたのは、ガンデリー二先生、ピッチオー二先生、それに、ヴィットリーノ・クレスピさんと、チャプレンのレポッシー二神父さまがいたかもわかりません。

 医者たちは、当惑したように弟にいいました、「お気の毒です、腫瘍は悪性です、それも、手おくれで、もう、ああなったら手のつけようもありません。まあ、長くもってここ2~3日でしょう。しかし、悪くすると、時間の問題かも分りません」と。

 弟は、悲しみを耐えようと、じっと唇をかみました。

アルベルト・カスティリオニ神父 4、イタリアに帰る

2018-11-13 06:01:00 | シュステル枢機卿
『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著

★2、興味ぶかい事件 アルベルト・カスティリオニ神父

◆4、イタリアに帰る

 1960年5月12日、いよいよわたしは、羽田空港を飛びたって、イタリアに向かったのです。そして、5月31日に、ミラノ市に行ったのは、東京碑文谷のサレジオ教会に三つの鐘を寄贈するミラノ市のある家族が、当時のミラノ大司教モンティー二師(のちに教皇パウロ6世になった方)に鐘の祝福をちょうどこの日にしてもらうはずだと聞かされ、祝別式にあずかるチャンスをうまく利用したからでした。式には、ミラノ管区長グジャッティ神父さまも、あずかっていたので、2~3日後のわたしの入院を知らせました。

 次は、トラブッキ先生の訪問です。わたしは、このとき、自分のカルテを先生に渡しました。このカルテこそ、わざほつたわざ別府駅まで、別府温研病院の院長だった八田秋先生が持ってきてくださったものです。そこには、わたしのすべての病気と、行なった治療、手術が記録されていました。わたしは見てはいけないことになっていましたが、とうとうトラブッキ先生の書斎で見てしまうことになったのです。

 先生は、すぐ、カピタニオ病院に電話を入れ、わたしは、6月のはじめ頃、ミラノの病院に入院しました。

 その一か月あとのことでした。当時ミラノの聖アンブロジオ学院の院長だったバッシ神父さまが、見舞ってくださいました。かれは、気の毒そうにいいました。

「今、先生たちと話して来ました。あなたは日本で抗生物質を取りすぎた.そうです。これからは、もうこの薬をとってはなりません。わたしは退院したほうがよいと思っています。きっとグジャッティ管区長さまが、あなたのために適当な任地をきめてくださるでしょう」と。

 その後わたしは、管区長に会って、イタリア滞在中、生まれ故郷のカネグラテ町の父と弟の住む家にとどまる許可をうけました。それにしても、わたしは、じっとしていません。サレジオ会のいろんな支部に顔を出しに行きました。でも9月になると、急に状態が悪化してきました。

(写真は碑文谷教会)

よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。