カトリック情報 Catholics in Japan

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3、長い病院生活

2018-11-12 00:28:58 | シュステル枢機卿
『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著

★2、興味ぶかい事件 アルベルト・カスティリオニ神父

◆3、長い病院生活

 そのあと病いを得たわたしには、長く、苦しい複雑この上もない病院生活が待っていたのです。ついに、1960年の5月のはじめ頃、目上は医師たちのすすめに従って、祖国イタリアに帰るようにと、わたしを説得しました。

「なあに、故郷の空気を吸ったら、元気になって、また日本に戻ってこれるよ」といわれましたが、あとで打ちあけられた真実は、まったく別のことでした。

 "もう長くない命だから、せめてもの慰めに祖国で死なせてやりたい”というのが、医者たちの意見だったのです。でも、わたしは、そんなことは、その時は、知るよしもありませんでした。

 東京についてわたしが出会ったのは、森口先生です。かれは、ミラノ市の大学医学部の有名なトラブッキ教授の直弟子です。

「イタリアにお着きになりましたら、まっ先にトラブッキ先生を訪ねて診察を願うようにおすすめします。かれは大変な名医ですから」と、森口先生はいってくれました。

 わたしは、このすすめに従おうと心にきめました。

(写真:別府温研病院入院当時のカスティリオニ神父。サレジオ会総会長レナト・ジッジョッティ神父のみまいをうける(1955年)。)



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別府教会での活躍

2018-11-11 00:45:33 | シュステル枢機卿
『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著

★2、興味ぶかい事件 アルベルト・カスティリオニ神父

◆2、別府教会での活躍

 あの時から9年もたっていました。日本に渡っていたわたしは、1946年12月2ユ日、東京で、土井大司教によって、司祭に叙階されたのです。

 その最初の任地は、九州の別府ときまりました。有名な、観光と温泉の町であるこの別府に、わたしは13年もの間とどまり、いささか神のみ国のために働いたと思っています。

 なかでも、いちばん人々の思い出になったと思われる事業は、別府の力卜リック墓地造りでした。

アルベルト・カスティリオニ神父 ★2、興味ぶかい事件 

2018-11-10 05:36:31 | シュステル枢機卿
『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著

★2、興味ぶかい事件 アルベルト・カスティリオニ神父

◆1、シュステル枢機卿にあいさつ

 ちょうど40年前のことです。北部イタリアのカリエロ志願院から布教地に派遣される神学生がありました。出発に先だって、生まれ故郷に、両親や親戚にあいさつに行くのがならわしだったのです。

 同じミラノ大司教区出身の、わたしを含めた4名も、そろって故郷に出かけましたが、このチャンスを大司教シュステル枢機卿訪問に利用しました。そのとき、わたしは、最年長の24才だったことを、ここにつけ加えておきます。

 目的は、枢機卿の祝福をうけることでしたが、面会のための交渉は、一番大胆なモンツァ市生まれのポリス神学生に一任しました。

 こうして、1937年7月のある朝、4人の神学生は、胸をどきどきさせながら応接室の隅にひとかたまりになって枢機卿を待っていました。そのあいだ、

「ねえ、ポリス君、お願いだ、あんまり無駄口をたたくなよ」

「きみは、おしゃべりだってことに気をつけろよ」などと、わたしたちは、あの神学生に念をおしたものでした。

 やがて、わたしたちの前に姿をあらわしたシュステル枢機卿、かがやくばかりの笑顔でわたしたちを書斎に歓迎し、慈父の祝福を与えてくださったことは、いうまでもありません。

 やがて、面会時間も終わりに近いと思われる頃、枢機郷は、机の引き出しを開けて、一枚の写真をとり出し、わたしたちの前に置きながらいいました。

「これは、今まで発表されなかったドン・ボスコの写真ですよ」

「………」

 若い神学生は、感激と、尊敬のうちに緊張し、貝のようにおし黙っています。もうポリス神学生は、これ以上口をつぐんでいることはできなくなりました。

「閣下!」とかれは呼んでみました。枢機郷の笑顔が、次の言葉を待っています。何をいったらいいのでしょう。かれは、すっかりあわててしまいました。

「閣下、この写真に、閣下のサインをお願いできませんでしょうか?」

「わが子よ、これは、ドン・ボスコの写真ですよ。サインなら、ドン・ボスコにしてもらうんですね」

 シュステル枢機郷は、ますますほおえみながら、わたしたちにその写真を与えられました。

 書斎から出たとたん、わたしたち3人は、ポリスさんを攻撃しました。

「こら、無駄口をたたくなと、あれほどいっておいたのに」、「あんなばかなこといってさ」、「ぼくたち、はずかしかったぞ」

(写真:アルベルト・カスティリオニ神父別府カトリック教会の6代目の主任司祭(1954年一1960年))



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シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者 23、力強い取りつぎ者

2018-11-09 03:41:17 | シュステル枢機卿
『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著

◆23、力強い取りつぎ者

(写真:聖体賛美式のとき、侍者の手から呑炉をうけている場面。ご聖体に対する礼拝と愛は、シュステル・カルディナルのかがやかしい特長でした。)

 墓は、かれの生前の望みに従い、大聖堂の横の聖母祭壇ぼひの前に葬られました。かれは、かねてから、墓碑を自分で準備し、みんなの祈りを願っていました。しかし今は、反対に、みんなが、かれの取りっぎを願うために墓を訪れています。それは、かれの取りつぎで数えきれないほどの恵みが与えられたからです。

 その恵みの一つが、別府のもとの主任司祭カスティリオニ神父さまに与えられたので、ここで、次にこれをご紹介いたします。


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シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者 22、ともしびが消える

2018-11-08 07:44:00 | シュステル枢機卿
『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著

◆22、ともしびが消える

 8月15日は、聖母被昇天祭を祝うために、ミラノ大聖堂に行くことすらできませんでした。それで、ヴェネゴノ町の大神学校に行って、休息をとることにしました。

 8月30日には、ミラノに帰ろうときめていたのに、病気はすすんで、かえって、その日に天国への旅路をたどったのです。

 今、まさに、息たえようとするとき、シュステル枢機卿は、最後の力をふりしぼって、臨終の床にかけつけた人にいいました、

「教区のすべての人を祝福します。どうぞ、わたしに悪かったことがありましたら、ゆるしてください。怠りについても、ゆるしてください」

 人々は、感謝と愛情のかぎりを、まなざしにあらわして、涙にむせびながら、うなづきました。ふたたびカルディナルの唇が動きました。

「おお聖母よ、あなたこそ、わたしの母、わたしの希望!・・・イエズスよ、わたしをあわれんでください。・・・主よ、ミラノの大聖堂で信者の尊敬をうけるシュステル枢機卿のなきがらみ旨のままに……」といいながら、すうっと、ひきこまれるようにその胸は呼吸をとめました。

 亡骸は、やがてミラノに運ばれると、数えきれない参加者のもとで、荘厳な葬式が行なわれました。そのとき集まった人々のなかで目立っていたのは、4名のカルディナル、35名の司教、政府の代表者たちでした。


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