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ミュラー枢機卿、オーストリアの大聖堂にある冒涜的な「聖母像」を非難 (LifeSiteNews)

2024-07-04 15:57:20 | 教会ニュース


ミュラー枢機卿は、反カトリックイデオロギーを促進するための「マリアの道具化」を非難し、芸術はフェミニズムを奨励するのではなく、神の美を表現すべきであると強調した。 

2024年7月3日水曜日 - 日本時間午前11時20分

(LifeSiteNews) - ゲルハルト・ミュラー枢機卿は、オーストリアのカトリック聖堂にある「聖母」像が最近、忠実なカトリック信者によって破壊されたことに対して反論した。

kath.netが発表した声明の中で、ミュラー枢機卿は "教会の家父長的な狭い考え方に対するフェミニズムのイデオロギーを示すためにマリアが道具化されている "と非難した。

月曜日、オーストリアのリンツにある聖マリア大聖堂に、ある "芸術家 "によって設置された冒涜的で卑猥な彫刻が斬首されているのが発見された。

「私は何よりもまず、神の母のためにやったのだ!」像を破壊したカトリックの男は、仲間のオーストリア人アレクサンダー・チュッゲルに言った。

以前、8000人がこの "異教の彫刻 "を撤去するよう教区に求める嘆願書に署名していた。

この像をデザインしたエスター・シュトラウスは、典型的なフェミニスト、妊娠中絶賛成派の主張を繰り返しながら、「この暴力は、女性が自分の体を持つ権利に疑問を持つ人々がまだいるという事実を表現している 」と述べた。

像を制作した彫刻家テレサ・リンバーガーは、カトリックの信仰に反する聖母マリアを意図的に描いたことを認めた。

「カトリック教会の不寛容さ、後進性、啓蒙の欠如は衝撃的です」とリンバーガー氏は地元のニュースメディア『オーバーエスタライヒ・ナッハリヒテン』に主張した。

ミュラー枢機卿は、教理庁の前長官であり、芸術がいかに「見る者の信仰を強め」、キリストを礼拝するように促し、不道徳につながらないようにすべきかを強調した。


「敬虔の手段としてのキリスト教芸術が、自然な羞恥心に反してフェミニズム・イデオロギーの広告に逆転していることへの批判は、慎重さを非難して似非啓蒙的に対抗したり、超保守的な態度の発露として似非神学的に対抗したりすることはできない」と、ドイツの大司教は述べた。

彼は、キリスト教的で神聖な芸術の目的は、「人間の作品において神の無限の美を表現すること 」であると指摘した。


「教会は常に一種の仲裁を正しく行ってきた。信仰、敬虔、敬虔に受け継がれた掟に対応し、聖なる領域の奉仕にふさわしいとみなされる芸術家の作品を判断し、決定してきたのである。(典礼憲章122章)」




9-7-2 ピョートル・ミハイロフ氏の外遊

2024-07-04 15:55:46 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
7 西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革
2 ピョートル・ミハイロフ氏の外遊

 ピョートル一世(在位一六八二~一七二五)は、異母兄フョードル三世(在位一六七六~八二)のあとをつぎ、十歳で即位した。 しかし異母姉ソフィア(一六五七~一七〇四)は軍事力をもって、弟イワン(五世)をピョートルの共同統治者とし、みずからは摂政の地位についた。
 一六八九年からピョートルの親政(十七歳)となるが、このころイギリスで名誉革命がおこっており、またピョートルは清朝の康煕帝(在位一六六一~一七二二)と同時代人である。
 東西で偶然にも時をおなじくして、英明な絶対君主があらわれたことになる。
 ピョートルの人となりは、いかにもロシア的であった。
 身の丈は二メートル以上もある大男、腕力は人一倍つよく、子供のときから本格的な「模擬戦争」が大好きであった。
 そのころの遊戯隊(幼い皇帝の「おあそび」係のようなもの)がのちの近衛軍となり、彼の幼な友だちから、のちの将軍や大臣があらわれる。
 またピョートルは大酒飲みで、ドンチャン騒ぎを好み、自分でハンマーや斧をふるい、鍛冶屋、船大工、旋盤工、外科医以下、十四の「手職」を身につけ、はしけ、椅子、食器、タバコ入れなどの自作品を数多くのこした。             

 彼は何もしないことが苦痛な性分で、ひまをみては手仕事をしていたわけだが、医者のまねごと、とくに歯科をやりたがり、側近は実験台にされはしないかと、いつもピクピクしていたという。
 一六八九年、十七歳のころ、ピョートルは大貴族ロプーヒンの娘エウドーキアと結婚、その翌年、皇子アレクセイが生まれたが、この夫婦生活は気が合わず悲劇におわった。
 ピョートルは「戦争ごっこ」に熱中し、ほとんど家庭によりつかず、遊戯隊宿舎に泊まったり、「外人部落」のある将軍宅で夜を明かしたり、ときにはヤウズ河畔の仮宮殿で、三日三晩飲みつづけて騒いだりした。
 成人したのちも、彼がとくに機嫌のよいのは、新しい船の進水祝いのときであって、この日には、首都の上流社会の男女が招待され、船のなかで「海上の酒もり」がおこなわれた。
 みんなが底ぬけに酔っぱらって陸軍大臣メンシコフはテーブルの下に死んだように横たわり、海軍大臣アプラクシン提督は、泣きだすという騒ぎになる……。
 船に関心をもつピョートルは、造船術にも興味をいだき、先進的なヨーロッパで、これを直接に学ぼうと思いたった。
 さらに新しい技術一般を視察し、外国の軍人、技師、職工たちを招きたく、また外交上の目的もあった。
 一六九七年三月から翌年八月まで、二十代なかばのピョートルは約二百五十名の大使節団を編成し、自分はピョートル・ミハイロフという変名のもとに随員として外遊した。
 そして当時の海軍国オランダ、イギリスでは、船大工として造船術を学んだ。
 そのほか一行は軍事工場、病院、美術館、大学、劇場、議会などを見学し、親しく西欧文明に接した。
 この「野蛮人たち」にかんするエピソードは数多い。
 ドイツにたちより、ピョートルがダンスに興じたとき、貴婦人たちがしめているコルセットを知らず、ドイツの女性の助骨はなんと堅いのかと驚いた、などというのは罪がないが、つぎのような件は名誉にかかわるものであろう。
 一行がイギリスで宿泊した宿では、床や壁にタンがはきかけられ、家具はこわされ、酒宴のあとのよごれが残り、壁の絵は射撃の的となり、庭の芝生は、鉄の長靴をはいた一連隊が行進したかのようにふみにじられているありさま、家主から多額の損害賠償を要求されたという。

 ところで、この西欧旅行は中断され、一六九八年八月、ピョートルは急に帰国したが、それは軍隊の一部に、異母姉ソフィア(すでに一六八九年、ピョートルに対する陰謀で、摂政を廃位されていた)をいただく陰謀がおこったからである。
 彼はこれをはげしく処罰し、みずから拷問室で反逆者の首を斬り落としさえした。
 ソフィアは修道院へ追いやられた。
 そしてピョートルはロシアの「大改革」に着手する。
 そのねらいは「西欧化」であり、まずバルト海にのぞむネバ川の三角州に、一七〇三年ごろから約十年をかけて、美しい西欧ふうの新首都が建設された。
 これが「ヨーロッパヘの窓」といわれたペテルブルグ(「ピョートルの街」の意、いまのレニングラード)であり、これよりロシア史の「ペテルブルグ時代」が開幕する。
 現在、エルミタージュ博物館で、革命まで皇居であった冬宮も、ピョートル時代に造営がはじまった。
 一七一二年、モスクワからペテルブルクヘ遷都された。
 ピョートルは新しい首都を飾るため金銭を惜しまず、すぐれた絵画や彫刻を買いもとめた。
 またフランスの建築家ル・ブロン(一六七九~一七一九)が招かれ、ベルサイユふうの離宮や庭園をつくり、ペテルブルグにゴブラン織り工業などを導入し、この地で世を終えたことは有名であろう。
 ただし、ネバ河口は不健康な沼沢地であったため、ペテルブルグ建設には多くの犠牲者がでたり、また、のち政治犯を収容したペトロパブロフスク要塞がつくられたような一面も、忘れられてはなるまい。 




ポルトガルの聖エリザベト王妃   St. Elisabeth Portugalliae Vid.

2024-07-04 00:00:05 | 聖人伝
ポルトガルの聖エリザベト王妃   St. Elisabeth Portugalliae Vid.   記念日 7月 4日


 ポルトガルは今でこそ共和国になっているが、しばらく前までは王国で、その王妃の中から本日語らんとするエリザベトの如き聖女を出だした。これは同国に取って大いなる名誉と言わねばならぬ。
 彼女は1271年スペイン、アラゴニア王ペトロ3世と、シシリア王女にてその妃となったコンスタンチアとの間に生まれた。世に名高いツリンギアの聖女の甥に当たる父は、わが娘も伯母の高徳にあやからしめたいと、その名をとってエリザベトと命名した。
 当時彼女の祖父は、長男なるペトロと戦っていたが、エリザベトが誕生するや、たちまち両者の間に和解が成立したので大いに喜び、自ら彼女の教育を引き受けたいと申し出た。この祖父が没したとき、彼女はまだ僅かに8歳であったが、その頃の習慣により早くもポルトガル王ヂオニジオのいいなずけとされ、その宮廷生活に慣れるようリスボン市に連れ行かれた。彼女の夫たるべき国王はあまり徳のある人物でもなかった。しかし若い王妃はよく彼に仕え、その満足を買う一方、霊魂に危険な宮廷の豪奢華美を避け、我が身に規矩峻厳な生活を望んだ。それで彼女は大伯母聖エリザベトに倣ってフランシスコ第三会に入り、その聖い戒律を厳守するばかりか、進んで断食等の苦行にさえ精励した。
 1288年彼女は一人の王女をもうけた。この王女は名をコンスタンチアと呼び、後にカスチリアの王妃となったが、間もなく1313年にこの世を去った。1301年には王子が生まれた。これはその後父のあとを継いでポルトガルの王位に登った人である。
 エリザベトの夫ヂオニジオ王は終始変わらぬ愛情を彼女に注いだ訳ではなかった。それ故に彼女は一方ならず苦しんだ。しかし一切を天主に委せて忍耐し、やさしい愛情を以て夫に尽くした。その内に王も彼女の誠心に感じ深い尊敬を抱くようになり、彼女の望むままに信心や慈善の業をして差し支えないと許可を与えた。王妃は喜んで病人や貧民を見舞い、その救済に努めると共に、信心にも精を出し、多く祈り、司祭同様聖務日課を唱え、毎週三度パンと水だけの粗食を摂った。
 かような感ずべき彼女の日常が天主の思し召しに適ったのであろう、度々彼女によって奇跡の起こることもあった。例えば彼女がある憐れむべき盲目の小児の目に手を触れると、たちまちそれがひらいたり、ある病人向かって十字架の印をするとその病がたちどころに平癒したりしたなどである。
 エリザベトはまた臣下の貴族達に対して隣人愛を示した。というのは他でもない、彼等殊に彼女の親戚に当たる人々がしばしば相争い、戦さえしかねる有様であったのを、彼女はいつも調停に奔走して事なきを得させたのである。ある時などは両軍相対峙して今にも干戈を交えようという危機に、王妃が馳せつけ身を挺して大事を未然に防いだのであった。
 1325年、夫ヂオニジオ王が崩ずるや、エリザベトはコインブラなるクララ会の修道院に入り、修女の服を受けたが、今まで国母と仰がれた我が身を一院の下婢の如く考え、完徳の道に精進した。彼女の本来の望みは生涯院内に閉じこもり、全く世間との交わりを絶って修道生活をすることであった。けれども長上の勧告もあり、それまでは厳しい隠遁をせぬ事とし、時々はしばらく宮殿に帰って後事を配慮することもあったのである。彼女が他の和解に努力斡旋したことはその後もう一度あった。が、その疲労は彼女の体力を根こそぎ奪ってしまった。エリザベトは重き病の床に伏す身となったのである。しかし彼女はその激しい病苦をもよく耐え忍んで、かりそめにも人に呟き訴えるようなことはなかった。
 ある日我が子の妃がその枕元に付き添っているとエリザベトが突然「すまないがお前は立って、そこへおいでになった女の方に席をお譲りしておくれ・・・」と言い出した。
 「どの方でございますの?どなたもお見えになりませんが・・・」妃が訝しげにそう尋ねると、エリザベトは「それ、そこに白い衣を着た方がおいでになるではないか?」と答えたが、彼女の目にのみ映じたその方は、恐らく日頃から彼女が深く尊敬していた童貞聖マリアで、彼女を天国に迎える為においでになったのであろう。実際それから数分たつかたたぬに、エリザベトは「聖寵の母、憐れみの母なる聖マリアよ、仇の手より我を守り、臨終の時我等を救いとり給え!」と呟いたと思うと、眠るが如く息絶えたのであった。
 彼女の列聖が行われたのは1625年教皇ウルバノ8世の御代のことであった。

教訓

 聖女エリザベトに倣って隣人と親しむがよい。また特に自分の家庭あるいは親戚間に不和が生じた場合には及ぶ限りその和解調停に努めるべきである。