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ウガンダ、癌との闘いをキリストに捧げた十代の少女にちなんで学校を命名

2024-07-05 18:30:58 | 教会ニュース

 2024年7月3日(LifeSiteNews) - ウガンダの小学校に、がんで命を落としたペンシルバニア州バックス郡の最愛の10代、マリア・ミドルトンさんの名前が付けられた。

 6月のプレスリリースによると、ウガンダのアジュマミ地区は、癌との戦いをキリストに捧げた素晴らしいティーンエイジャーであったミドルトンを称えるために、2月にマリア・ミドルトン・ソドゴ小学校を開校した。

 「マリア・ミドルトンは、16歳の時に手術不可能な脳腫瘍と診断されてからわずか9ヶ月後の2019年10月の訪問の際に、ウガンダのコミュニティに永続的な印象を与えた。」とプレスリリースは明らかにした。

「彼女の病気のニュースは瞬く間に世界中に広まり、ウガンダのスタッフや生徒たちは彼女の回復を祈るようになりました」と続けた。

 マリアは短い生涯を閉じたが、神への深い愛を通して周囲の人々の心を動かした。LifeSiteNewsが以前報じたように、マリアは16歳の若さで脳腫瘍と診断された。

 しかし、彼女は絶望することなく、キリストを受け入れ、魂を救うために苦しみを捧げることを選んだ。マリアは学業面でも精神面でも優秀で、教区賞、最高平均賞、コロンブス騎士団作文コンテスト第1位など、いくつかの賞を受賞して学校を卒業した。

「マリアが通っていたレジーナ・アカデミー・アット・セント・ジョン・ザ・バプティスト校の進学担当ディレクター、マリオン・パスマンは、ライフサイト・ニュースに対し、「マリアの学業、リーダーシップ、奉仕への献身は、私たちがすべての生徒に植え付けようと努力している価値観を体現しています。「ウガンダで彼女の名前を取って学校が命名されたことは、地元と世界の両方で、彼女の永続的な影響の証です」と彼女は続けた。

 マリアは非常に賢く、聖なる性格であったにもかかわらず、「とても普通」であったと、彼女の父、ブライアンはライフサイトニュース編集長ジョン・ヘンリー・ウェステンに語った。「私の好きなマリアの日記の中に、「聖であるために奇抜である必要はない 」という言葉があります。

 マリアは聖なる人でしたが、彼女はあらゆることに秀でていました......勉強であれ運動神経であれ、しかしそれが彼女を決定付けることはありませんでした」2019年初め、彼女は脳腫瘍と診断され、余命9カ月と宣告された。診断を受けた直後、マリアは父親に次のような言葉をかけた: 「私の人生の状況がどうであれ、私の目的は変わらない、それは神を知り、愛し、仕えること。信仰は感情ではありません。感情は上下する。信仰はコミットメントです。私は絶望しません」。

 マリアはさらに与えられた9カ月よりも長生きし、2019年10月に両親とともにウガンダへ飛ぶことができた。2020年、マリアは病院に行かなければならなくなり、家族はそこで約5カ月間、彼女と一緒に暮らした。彼女が寝たきりで重い病気だったにもかかわらず、マリアの存在は病院スタッフの生活を変え始めた。

 2020年の聖金曜日、マリアは死ぬかと思われたとき、魂の救いのためにすべての苦しみを捧げた。彼女は言った。"神はすぐにここに来て、奇跡を起こすか、私を家に連れて帰るかどちらかでしょうが、それまでの間、魂を救い続けましょう。」「彼女は人々を永遠のイエスへと導いていた 」とマリアの父親は言った。「病室はチャペルになり、彼女のベッドはいけにえの祭壇になった。人々は実際に休憩を取り、マリアの部屋にやってきて祈った......一晩中、人々がやってきて(祈った)」。

 マリアは最終的に、18歳の誕生日の1カ月後まで生きた。彼女の葬儀には何千人もの人々が参列し、多くの人々がこの若き聖女に帰依した。彼女にちなんで名づけられた学校に加えて、マリアの両親は 「絶望の連続の中にいる人々に手を差し伸べること 」を目的とするシンク・ホープ財団を設立した。財団の名前は、マリアの日記の最後の2つの言葉に由来する: 「希望と思案」

 財団は、カトリック教育と古典教育を提供し、絶望している十代の子供たちを支援し、生活や学業に希望をもたらす団体を支援しようとしている。


9-7-3 「海への出口」を求めて

2024-07-05 18:14:19 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
7 西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革
3 「海への出口」を求めて

 「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてそこから流れ出る」といわれる。
 この意味からすれば、「ピョートル改革」はロシア史の転換点であり、これを境として「古いロシア」と「新しいロシア」とがわかれることになる。
 しかしそれほどに重要性をもつピョートルのロシア近代化も、はじめに一定のプログラムがあって、それにもとづいて着々と行なわれたものではなく、それはいわば情勢の推移につれて、「ゆきあたりばったり」に、手さぐりですすめられた。
 そしてそれを推進したのは、まず戦争であった。
 ピョートル三十五年間の治世において、平和な時期は二年とつづかなかったといわれるが、「海への出口」を求めることは、ロシアにとって不可欠であり、このため他国と衝突した。
 たとえばロシアはトルコの支配下にあったアゾフ海、黒海進出をめざして、アゾフ遠征(一六九五~九六)を行ない、苦心のすえ、これを陥落ざせた。
 この戦いは青年皇帝ピョートルの存在を、はじめてヨーロッパ諸国に示すものであった。
 その後、外遊のとき(一六九七~九八)、ピョートルは対トルコ同盟を諸国とむすぼうとしたが、果たせなかったこともあり、一七〇〇年、平和条約にふみきった。
 これによってロシアはアゾフを併合したが、黒海航行の自由はみとめられず、この問題は他日に残された。
 ロシア同盟しなかったイギリスやオランダは、むしろロシア進出を恐れる立場にあった。
 この対トルコ和平の年、一方でロシアは大きな戦争をはじめた。スエーデンとの北方戦争(一七〇〇~二一)で、その領土をうばうためである。
 当時のスエーデンは北欧の大国で、バルト海沿岸地方の多くを領土とし、ヨーロッパ一流の軍隊をもっていた。、
 そのころ、西ヨーロッパではスペイン継承戦争(一七〇一~一四)がおこるような情勢であり、諸国は東欧まで干渉する余裕がなかった(たとえば、スエーデンはフランスと接近していた)。
 好機とみたロシアはデンマーク、ポーランドと同盟して、戦いにふみきった。
 ところが一七〇〇年十一月、ロシア軍はナルバで、十八歳の年少王カール十二世(在位一六九七~一七一八)のスエーデン軍によって大敗した。

 しかしカールがポーランドに攻めこんだので、余裕をえたピョートルは、いそいで軍制改革に着手した(カールが冬のロシアに侵入しなかったことのよしあしについては、軍事史上の問題となっている)。
 人的消耗を補充するため、彼はまず当時のヨーロッパにさきがけて、ロシアに徴兵制度をしいた。
 これは毎年三万人の新兵を徴集するのがねらいで、農家二十戸につき一人の割合であった。
 兵士には西ヨーロッパふうな訓練をこころみた。戦争がながびいたため、新兵はいつまでも除隊にならず、これはそのまま常備軍となり、ピョートルの晩年には、兵力は二十一万二千となった。
 一方、ピョートルは軍需工場の設立をいそいだ。
 また海軍としては、アゾフ違征のとき、急に艦隊がつくられたが、その後、外国技術者の力をかりてバルティック艦隊が編成された。前述のトルコとの講和のときには、これをもって威圧した。
 一七〇九年七月、ロシア軍はポルタバで、スエーデン軍に雪辱(せつじょく)をはたし、やがてバルト海沿岸地方に進出する。
 カール十二世は一時トルコにのがれ、翌年、この国はロシアに宣戦した。
 これには、ロシアの強大化を恐れるイギリス、オランダ、フランスなどの意向もはたらいていた。
 しかしロシア軍は損害が大きく一七一一年、和議がなり、その結果、ロシアはまえに獲得したアゾフを返還することとなった。
 それだけにいっそう、ピョートルは全力をバルト海方面にそそいだ。
 こうして北方戦争はさらにつづき、一七一八年、カール十二世は戦死したが、けっきょく一七二一年八月、講和が成立、ロシアはバルト海沿岸に領土をえて、ヨーロッパの大国として登場するにいたった。
 戦勝の栄光を背後に、一七二一年十月、ピョートルは元老院から、全ロシアの「イムペラートル」(皇帝)の称号をおくられて、これからロシアは公式に、「ロシア帝国」(それまではモスクワ大公国、モスクワ国家などとして、ロシアを支配)とよばれることなる(ただし、今後もツァーリの称号が併用される)。
 なお北方戦争後、ロシアはペルシアと戦い(一七二二~二三)、カスピ海の西岸地方をえた。ピョートルはさらにインドを志向していたが、これは果たされなかった。
 戦争につれてまず軍の改革がすすめられたが、西欧式な軍隊がうまれると、これまでの銃士隊や騎士(主として下層貴族よりなる)は無用の長物となり、ロシアの貴族層の変質をもたらすことになった。すなわち、貴族層を二分していた身分的差別がなくなり、大貴族とよばれていた特権層は士族(下層貴族)と合体した。
 その結果、変質をとげた貴族層は、あるいは近代的常備軍の将校として、あるいは絶対主義国歌の高級官僚として、世襲的に勤務することを義務づけられた。
 彼らは十五歳になると近衛連隊にはいり、ここで兵卒をつとめあげると、将校として他の部隊へ配属される。
 こうして近衛連隊が士官学校の役割を果たすことになるとともに、近衛将校の勢力がしだいに強くなる。
 彼らは皇帝ピョートルの腹心となり、外国へ留学し、西欧文化の移植者となり、改革の重要な担い手となった。
 戦争が長びくと貴族のなかには軍務を回避し、仮病をつかったり、所在をくらますものもあらわれたが、ピョートルはこれに厳罰をもってのぞんだ。
 軍務を退役となって所領へ帰ることのできるのは、老齢か、不具の場合だけで、あとはほとんど首都か、任地で生活し、ときたま休暇をもらって故郷へ帰るにすぎなかった。


聖アントニオ・マリア・ザカリア司祭  St. Antonius Maria Zacharias C.

2024-07-05 17:13:13 | 聖人伝
聖アントニオ・マリア・ザカリア司祭  St. Antonius Maria Zacharias C.  記念日 7月 5日


 1503年イタリアのクレモナで、ザカリアと名乗る身分の高い青年が世を去った。彼はまだ若かったが既に妻帯の身で、妻は彼より更に若く、なお少女と言えるほどの年頃であった。二人の間には生後数ヶ月を経たばかりの男の子が一人あり、名をアントニオと言った。信心深い母はこの忘れ形見を掌中の珠といつくしみ、その無垢の心に早くから聖い信仰や祈祷、神への愛、隣人への愛などの精神を刻み込もうと努めた。それでアントニオは敬虔に愛深く生い立ち、まだ年端もゆかぬ内から貧しい子供に自分の晴れ着を恵んだり。我が家の召使い達に説教や公教要理の勉強の折り聞いた話を語って聞かせたりしたこともあったという。
 クレモナで基礎教育を受けた後、彼はパヴィアで哲学を、それからパドヴァで医学を専攻した。この医学を専攻したのは何もそれで生計を立てようと思ったからではない。暮らして行くには有り余るほどの財産を持っている。それでそれはまったく人助けの為、同胞殊に貧しい人々の霊肉の悩みを救いたいという一念から出たものであった。彼はこの志に従って暫くはその博愛の業にいそしんでいた。が、その内に天主の御示しを蒙って司祭になる決心を起こし、神学の研究にとりかかり、ついに1528年叙階の秘蹟を受けた。
 その初ミサの時であった。彼が一心こめて聖い祭りを行っていると、列席者はその頭に不思議な光の冠の燦爛と輝くのを認めた。また天使達が天降って聖変化の後主を礼拝し奉る有様をもありありと見たのである。
 司祭となったアントニオは寝食を忘れて救霊に勉めた。彼は機会ある毎に説教し、告解を聴いた。その上貧民、病人、囚人をも喜んで見舞い慰め、すべての人々を力の及ぶ限り助けようとした。しかも自分の生活は厳格を極め、しばしば断食し、決して肉を摂らず、徹宵祈り明かすことも珍しくなかった。

 当時の世の風潮には実に嘆かわしいものがあった。教会にも冷淡不熱心な信者が多く、それにあたかもマルチン・ルターがその異端説を唱道し始めた頃の事とて、これに走る者もまた少なくなかった。で、アントニオは痛嘆に堪えず、いかにしたら風俗改善の実を挙げることが出来ようかと日夜肝胆を砕いていたが、天主のお示しにより、ふと司祭達の会を設けて償いの業をしたり人々に改心を説いたりしてはどうかと考えついた。これは間もなく実現される運びになった。即ち1530年に、ルイザ・トレリという大公の息女から、霊魂上の顧問としてミラノに来るようお招きを受けたアントニオは、謙遜の心から切に辞退したが、なおも再三の懇望黙し難く、とうとうその地に赴いた。所が同市で思いもかけず二人の青年が彼を訪れ、生活を共にせんことを願った。これこそ実に新修道会の始めとなったのである。
 その後更に二人の司祭が来て、やはり同志に加わった。かようにして会員の数が8人に達すると、アントニオは教皇クレメンス7世に願い出てその認可を得た。8人の会員達は聖パウロの聖職者と名乗り、救霊の熱心に燃え、自らはへりくだって清貧に甘んじ、峻厳な生活を送ったから、世の人々の賛嘆の的となった。
 とはいえいつの世にも悪魔の配下は跡を絶たない。やがて聖人方をそねみ誹謗する者が出て、その為会を解散せねばならぬかと思うような悲運に立ち至った。けれども幸いに聖会側の調査は彼及びその同志に何の罪もないことを立証した。で、教皇パウロ3世は更にその新修道会を認可され、その為同会も発展の一路を辿ることが出来るようになった。彼等の活動は多大の効果を収め、わけても祭壇の秘蹟に対する尊敬を説き頻繁な御聖体拝領をすすめた事などは彼等の偉大な功績と言えよう。
 しかしアントニオは少しも思い上がるようなことはなかった。彼は自分で戒律を編み、首尾よく教皇の認可を受けたが、謙遜の一念からそれを人々に知らせなかった。実際それが発見されたのは、彼の死後40年を経た1579年のことであった。また彼は会の総長になることを承知せず、代わりに最初の弟子なるモリジアを推挙任命したが、その聖なる生活振りは会員一同の鑑と仰がれずにはいなかった。彼は同じ女子修道会の戒律をも編纂した。なおアントニオ等は司教からひとつの教会を与えられたが、それは聖バルナバに献げられたものであったから、これより彼等の会はバルナバ会と呼ばれるに至った。
 アントニオはまだ若かったが、その激しい活動と厳しい苦行とは、早くも彼の体力を消耗し尽くした。それでも彼は働きをやめず、1537年にはヴィンセンシアで、1539年5月にはグナスタラで説教を続けた。しかし彼はその使命の半ばにして倒れ、再びクレモナに連れ帰られ、思い出多い我が家においてなお健在の母に看取られつつ息を引き取った。時は7月5日のことで享年37であった。
 その帰天後いくばくもなく、世人は彼を聖人として尊敬するようになった。けれども公の列聖の儀は騒然たる世相が禍して、なかなか行われず、ようやくその実現されたのは、1897年5月27日、レオ13世教皇の御代においてであった。

教訓

 人の誹謗を受けた時は、聖アントニオに倣って全知なる天主に信頼しよう。正義に在す主は、いつかは必ずその無実を晴らして下さるに相違ない。