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4-15-3 敦煌の壁画

2023-03-13 17:02:43 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
15 敦煌の秘宝
3 敦煌の壁画

 敦煌における石窟の開創は、三六六年のこととされている。
 それは、ここから出た碑文によるものである。
 しかし現存する石窟をしらべたところでは、北魏の後半期(五二〇年代)のものがもっとも古い。
 つまり雲岡石窟より新しいわけである。
 そうして北魏から隋唐をへて、宋・元の時代までつぎつぎにひらかれていったのであった。
 どの石窟にも、仏像がおさめられ、天井から壁まで、びっしり濃彩の密画や文様がえがかれている。
 北魏の石窟の代表となるのは、第二四五窟である。
 ここでは奥に大きな方柱があって天井に達し、方柱には仏像をおさめる龕(がん)が掘られている。
 左右の壁にもいくつかの仏龕がある。
 こうした形式のほか、小さな窟では中心の方柱がなく、正面の奥と左右の両壁に、一列または二列に龕のあるものもある。
 この龕は、インドでは修行憎が休憩するところであったが、ここでは人間のかわりに仏像がおかれる形式になっている。
 第二四五窟の壁画には、降魔(ごうま)図・涅槃(ねはん)図・仏伝図に、ジャータカ(ブッダ本生譚(ほんじょうたん))、小さい仏像を羅列した千仏図がある。
 天井にはエキゾティックな花文様や幾何文様・神話的人物・空想的動物・仏伝図がいっぱいえがかれている。
 その表現は粗野にして奔放で、精巧とはいえない。中国ふうの描線主義ではなく、西域ふうの濃彩主義である。
 また、龕におさめられた北魏の彩塑(さいそ)像は、やせがた胴長で、異国ふうの顔だちをしており、ガンダーラふうのものや、西域ふうのものもあった。
 唐代の石窟になると、その形式は今日の寺のように方形で、正面の奥にひきこんで仏壇をつくり、そこに仏像がならべられる。
 左右の壁に龕をならべる場合もあった。
 唐代のものは、仏像も仏画も中国ふうの本格的な作法となり、写実性もつよくなる。
 北魏のころの生硬なかたちから、肉づきのよい豊満なものにかわる。眼鼻だちも中国ふうになる。
 壁画の主題も、浄上図がおもになり、阿弥陀如来を主尊とする西方極楽浄土図になる。
 薬師・弥勒(みろく)・維摩(ゆいま)もでてきて、頭上にはきらびやかな天蓋が垂れる。
 法隆寺の壁画と同じである。唐代における仏教の全盛と、浄土思想の普及が、ここによく反映しているといえよう。
 これらは、仏典の叙述をよりどころにしていることはいうまでもないが、唐代の画家は、そのなかに時代の現実にもとづいて描写したものもあると思われる。宮殿の外観や、そこにおどる天女も、蓮池にうかぶ舟も、当然のこととして当時の享楽形式をとりいれているであろう。
 第一五六窟は、張議潮夫妻出行図のあることでなだかい。張議潮は唐の宣宗の大中五年(八五一)、吐蕃(とばん)を追いはらって、この地方一帯を漢人の手に回復した。壁画は張議潮夫妻の大行列をえがいたものである。
 南壁の浄土変相図の下に、高さ一メートルの幅で、えがかれている。三十騎の儀仗兵をはじめ、舞者や楽者、また徒歩の随員、白馬の将軍、などがえがかれている。
 北壁に宋(そう)国夫人(張議潮の夫人)が白馬に乗ってすすむ図もある。
 これらの図によって示される張議潮の豪華な生活は、単に敦煌方面の風俗をうかがわせるだけではない。
 唐代の風俗そのものの研究の上に、まことに貴重なものということができよう。






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