(挿絵はピョートル大帝)
『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
7 西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革
1 文明開化のはしり
十七世紀ロシアで、アレクセイ帝(在位一六四五~七六)の宮廷に、日給一・五ルーブルで、歴史家(年代記編者)としてつかえたユーリ・クリジャニッチという人物がいた。
すぐれた学者であったが、幼時を孤児としてイタリアでおくり、カトリック神学校を卒業したのち、ヨーロッパ各地を遍歴し、最後にモスクワにやってきた。
彼はここを「第二の祖国」として愛好し、スラブ語を勉強して、その文法や辞典を著わしたが、またスラブ族の統一を主張し、のちの汎スラブ主義の開祖ともなっている。
しかしやがて「現行制度を批判した」という理由で、とつじょシベリアへ流刑となり、そこで不幸な十五年間をおくった。
その著書のひとつ『政治的随想』のなかで、クリジニッチは、ロシアを西欧と比較し、そのいちじるしい後進性を指摘している。
すなわちロシアは貧しく、教育がおくれ、農業や工業にかんする書籍もなく、商業都市や工場も少ない。
ロシア人は、頭髪やあごひげはのびほうだいで、まるで森の中から出てきた人間のようにむさくるしい。
彼らは不潔で、金銭を口のなかに入れて平気であり、食べたあとも食器を洗わない。
ロシア人が店にやってくると、そのあと一時間ぐらい臭気がただよい、耐えがたく不快である。
またロシア人の住宅も不便で、窓がひくいし、農家には煙突がなく、かまどの煙が立ちこめて、目をやられる。
ロシア人は酒をのむときだけは景気がよいが、しらふのときにはまったく元気がなく、人間としての誇りも、民族としての自負も失っている……
彼はさらに一歩すすんで、これらの欠点をとりのぞく改革をツァーリに進言している。
すなわち第一に、国民の啓蒙、とくに書籍の出版と学問の奨励、
第二に、「上からの改革」、つまり政府による法規の制定、たとえば商人は算数を修得しなければ、商店を開業する許可をあたえないようにすること。
第三は、「政治的自由」の付与で、商人・職人・農民の各身分ごとに、それぞれの自治をみとめること。
そして第四に、技術教育の振興、すなわち各地に工業学校をつくり、商工業にかんするドイツ文献を翻訳させ、ドイツ人の工匠や資本家をロシアへ招へいすること。
そしてこれらは、のちのピョートル大帝による「大改革」のプログラムと一致している。
ところで、文化がおくれていたモスクワ宮廷にも、このころになるとようやく「新しい風」が吹きはじめる。
アレクセイ帝は「片足でギリシア正教的古代に、片足で西欧文化に」立つといわれ、はじめてドイツ式の洋服を着、ドイツ式の馬車にのり、妻子をつれて「外人部落」(モスクワ郊外で外国人が住み、「ロシア国内のヨーロッパ」といわれた)でバレエやオペラを観賞し、演会で酔っぱらうとラッパを吹いたり、オルガンを演奏し、また子供たちに、ラテン語やポーランド語を習わせたという。
この「文明開化」皇帝は、詩文にも長じ、モスクワの外人たちの評判もよかったが、お人好しで、情熱に欠け、改革を断行するだけのファイトがなかった。
一六七二年、後妻ナタリアが皇子を生むと、アレクセイ帝は大よろこびで、『外人部落』の市長ヨハン・グリゴーリに、劇を上演するように命じ、これが奇縁となって、ロシアで最初の劇場(『喜劇座』)が生まれたというが、この皇子こそ、のちのピョートル一世(大帝)であった。
皇子誕生のすこしまえ、民謡で有名なステンカ(ステパン)・ラージンの乱がおこった。
この人物について、公の記録はなにもないが、伝承によれば、ドン・コサックの出身、「年ごろ四十歳前後、中背で頑丈な体躯の男」で、ボルガ川を下る御用船をおそって財宝をうばい、これを貧民たちに分け与えたという。
また民謡にあるように、ペルシアに遠征した帰途、人質として捕えた美姫を水中に投じて、ボルガの水神をなだめたという話もある。
一六六七年、このラージンの指導のもとに、貧窮したドン・コサックや農民たちは、ツァーリの官僚や地主貴族の圧制に対して反抗した。
乱はボルガ川の中・下流地域一帯におよび、反乱軍はアストラハン、サラトフ、サマラなどの中央ロシアの重要都市をつぎつぎに占領し、兵力は三万余にふくれあがった。
そのすすむところ、貴族は殺りくされ、土地台帳は焼かれ、農奴は解放された。
また、彼らは船隊をととのえ、攻城砲をつみ、「母なるボルガ」をさかのぼってモスクワへ攻めのぼる気配さえしめし、「動乱」の再来として、モスクワの貴族層はふるえあがった。
しかし一六七〇年十月、シンビルスクの攻城戦に失敗したのが運のつきとなった。
その敗報がつたわるとラージンは部下にそむかれ、故郷のドンにもいれられず、再起をはかって流浪中を捕えられ、七一年六月、モスクワの「赤い広場」で四つ裂きの刑となった。
乱もこの年末ごろまでに平定された。