カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

9-7-3 「海への出口」を求めて

2024-07-05 18:14:19 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
7 西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革
3 「海への出口」を求めて

 「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてそこから流れ出る」といわれる。
 この意味からすれば、「ピョートル改革」はロシア史の転換点であり、これを境として「古いロシア」と「新しいロシア」とがわかれることになる。
 しかしそれほどに重要性をもつピョートルのロシア近代化も、はじめに一定のプログラムがあって、それにもとづいて着々と行なわれたものではなく、それはいわば情勢の推移につれて、「ゆきあたりばったり」に、手さぐりですすめられた。
 そしてそれを推進したのは、まず戦争であった。
 ピョートル三十五年間の治世において、平和な時期は二年とつづかなかったといわれるが、「海への出口」を求めることは、ロシアにとって不可欠であり、このため他国と衝突した。
 たとえばロシアはトルコの支配下にあったアゾフ海、黒海進出をめざして、アゾフ遠征(一六九五~九六)を行ない、苦心のすえ、これを陥落ざせた。
 この戦いは青年皇帝ピョートルの存在を、はじめてヨーロッパ諸国に示すものであった。
 その後、外遊のとき(一六九七~九八)、ピョートルは対トルコ同盟を諸国とむすぼうとしたが、果たせなかったこともあり、一七〇〇年、平和条約にふみきった。
 これによってロシアはアゾフを併合したが、黒海航行の自由はみとめられず、この問題は他日に残された。
 ロシア同盟しなかったイギリスやオランダは、むしろロシア進出を恐れる立場にあった。
 この対トルコ和平の年、一方でロシアは大きな戦争をはじめた。スエーデンとの北方戦争(一七〇〇~二一)で、その領土をうばうためである。
 当時のスエーデンは北欧の大国で、バルト海沿岸地方の多くを領土とし、ヨーロッパ一流の軍隊をもっていた。、
 そのころ、西ヨーロッパではスペイン継承戦争(一七〇一~一四)がおこるような情勢であり、諸国は東欧まで干渉する余裕がなかった(たとえば、スエーデンはフランスと接近していた)。
 好機とみたロシアはデンマーク、ポーランドと同盟して、戦いにふみきった。
 ところが一七〇〇年十一月、ロシア軍はナルバで、十八歳の年少王カール十二世(在位一六九七~一七一八)のスエーデン軍によって大敗した。

 しかしカールがポーランドに攻めこんだので、余裕をえたピョートルは、いそいで軍制改革に着手した(カールが冬のロシアに侵入しなかったことのよしあしについては、軍事史上の問題となっている)。
 人的消耗を補充するため、彼はまず当時のヨーロッパにさきがけて、ロシアに徴兵制度をしいた。
 これは毎年三万人の新兵を徴集するのがねらいで、農家二十戸につき一人の割合であった。
 兵士には西ヨーロッパふうな訓練をこころみた。戦争がながびいたため、新兵はいつまでも除隊にならず、これはそのまま常備軍となり、ピョートルの晩年には、兵力は二十一万二千となった。
 一方、ピョートルは軍需工場の設立をいそいだ。
 また海軍としては、アゾフ違征のとき、急に艦隊がつくられたが、その後、外国技術者の力をかりてバルティック艦隊が編成された。前述のトルコとの講和のときには、これをもって威圧した。
 一七〇九年七月、ロシア軍はポルタバで、スエーデン軍に雪辱(せつじょく)をはたし、やがてバルト海沿岸地方に進出する。
 カール十二世は一時トルコにのがれ、翌年、この国はロシアに宣戦した。
 これには、ロシアの強大化を恐れるイギリス、オランダ、フランスなどの意向もはたらいていた。
 しかしロシア軍は損害が大きく一七一一年、和議がなり、その結果、ロシアはまえに獲得したアゾフを返還することとなった。
 それだけにいっそう、ピョートルは全力をバルト海方面にそそいだ。
 こうして北方戦争はさらにつづき、一七一八年、カール十二世は戦死したが、けっきょく一七二一年八月、講和が成立、ロシアはバルト海沿岸に領土をえて、ヨーロッパの大国として登場するにいたった。
 戦勝の栄光を背後に、一七二一年十月、ピョートルは元老院から、全ロシアの「イムペラートル」(皇帝)の称号をおくられて、これからロシアは公式に、「ロシア帝国」(それまではモスクワ大公国、モスクワ国家などとして、ロシアを支配)とよばれることなる(ただし、今後もツァーリの称号が併用される)。
 なお北方戦争後、ロシアはペルシアと戦い(一七二二~二三)、カスピ海の西岸地方をえた。ピョートルはさらにインドを志向していたが、これは果たされなかった。
 戦争につれてまず軍の改革がすすめられたが、西欧式な軍隊がうまれると、これまでの銃士隊や騎士(主として下層貴族よりなる)は無用の長物となり、ロシアの貴族層の変質をもたらすことになった。すなわち、貴族層を二分していた身分的差別がなくなり、大貴族とよばれていた特権層は士族(下層貴族)と合体した。
 その結果、変質をとげた貴族層は、あるいは近代的常備軍の将校として、あるいは絶対主義国歌の高級官僚として、世襲的に勤務することを義務づけられた。
 彼らは十五歳になると近衛連隊にはいり、ここで兵卒をつとめあげると、将校として他の部隊へ配属される。
 こうして近衛連隊が士官学校の役割を果たすことになるとともに、近衛将校の勢力がしだいに強くなる。
 彼らは皇帝ピョートルの腹心となり、外国へ留学し、西欧文化の移植者となり、改革の重要な担い手となった。
 戦争が長びくと貴族のなかには軍務を回避し、仮病をつかったり、所在をくらますものもあらわれたが、ピョートルはこれに厳罰をもってのぞんだ。
 軍務を退役となって所領へ帰ることのできるのは、老齢か、不具の場合だけで、あとはほとんど首都か、任地で生活し、ときたま休暇をもらって故郷へ帰るにすぎなかった。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。