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聖ヒエロニモ司祭教会博士   St. Hieronymus C. et D. E.

2024-09-30 23:52:43 | 聖人伝
聖ヒエロニモ司祭教会博士   St. Hieronymus C. et D. E.    記念日 9月 30日


 聖ヒエロニモは西暦342年頃パンノニアとの国境近くにある、ダルマチアのストドリンという町で生まれた。両親は甚だ富み、カトリックを奉じていたが、当時の習慣に従い、ヒエロニモが洗礼を授けられたのは、既に成長の後であった。彼は才能も豊かに元気活発な少年で、おおよそ354年頃ローマに赴き、ある学校に入って勉強する身となった。
 ローマはその頃コンスタンチヌス大帝がカトリックを国教と定めてから漸く40年を経たばかりで、神々の像やそれを祀る神殿など昔の異教の名残が至る所に見られた。そればかりか、利己心から、カトリック信者となっても異教の思想を捨て去らぬ人も決して少なくはなかった。なかんずく学問や芸術、政治方面などでは、そのよからぬ影響が明らかに認められたのである。
 志操いまだ堅まらぬ血気盛んな青年ヒエロニモもこの享楽的な異教の感化を受け、罪悪の淵に沈倫した。しかしやがて大患を得て病床に呻吟する身となるや、始めて既往を反省し、この苦しみも天主の御懲罰と悟り、快癒の後は生まれ変わった如く信仰に精進し、清い生活を送るようになった。
 間もなくヒエロニモは信仰道徳に危険の多いローマを後に、当時ローマ帝国の首府であったドイツのトリール市に行った。そしてそこで全くわが身を天主に献げる決心を為し、聖職者の列に加わったが、エジプトに於ける隠修士の麗しい修道生活を聞いていたく感動し、先ず聖地パレスチナ巡礼を思い立って5人の同志と共にトリールから出発した。
 かくて漸くシリアのアンチオキアに到着した時、また熱病に罹り、九死に一生を得た彼は、全快までの日を療養のつれづれにギリシャ語を研究したが、この知識が後日天主の思し召しにより旧新両約聖書のラテン語訳を完成する上に、大きい役割を勤めようとは、夢にも知らなかったのである。
 病癒えたヒエロニモは隠遁して修道に専念する決心の実行に着手し、カルシスの荒野に行ってそこに住む数多の隠修士の仲間に入り、祈祷や苦行や勉学にいそしみ、数年償いの生活を送った。しかし往年の華やかな享楽の日々の回想は、しばしば現在の寂しい不自由な生活に、深い疑惑の念を抱かせる事がないではなかった。それは恐るべき悪魔の誘惑であった。彼は殆どそれに圧倒されて、再び世間へ戻ろうかと考えたことも幾度とあったか知れない。が、天主の御助けを祈り求めつつ、彼はよく最後まで耐え忍んだ。そしてその誘惑に打ち勝つ一助にもと、今度は至難なヘブライ語の研究を始めた。
 ヒエロニモは聖職者の端には列していたものの、まだ司祭の資格は有していなかった。友人等はそれを惜しんで頻りに叙階の秘蹟を受けるよう勧めた。それで彼は数年の後荒野を出てアンチオキアに帰り、叙階されて司祭になった。しかし極度に謙遜な彼はもったいなさに唯の一度もミサ聖祭を献げようとはしなかった。ちょうどその頃の事である。彼は親交のあったナジアンズの司教グレゴリオに勧められて、オリジェネスの護教書や、オイゼビオの聖会史などをラテン語に翻訳した。彼のうんちくの深さはそれによって一時に世に知れ渡り、その名声は遠くローマにまでも轟き渡った。されば382年教議会が開かれるや。時の教皇ダマソに招かれる光栄をになったのも不思議はなかったのである。
 ギリシャ語やヘブライ語に堪能なヒエロニモは、教皇を補佐して種々の問題の議定にあずかって力あり、またその命を受けてそれまで用いられていたイタラ聖書中の誤訳を訂正した。それだけでも彼の聖会に対する功労は偉大なものと言わざるを得ない。
 当時ローマ人士の間には遊惰、冷淡の弊風が瀰漫していた。ヒエロニモは之を憂え、真摯な人々を糾合してその指導者となり、彼等に依って一般市民にもカトリックの真の精神を鼓吹する事に努めた。この有意義な事業に協力援助を惜しまなかった者には、元老議員パンマキオやその友人等、執政官未亡人聖マルセラ、貴族夫人聖パウラ及びその二令嬢聖ブレシラ、聖オイストキウムなど上流の人々も少なくなかった。しかし悪魔もさる者、そのまま黙っているはずがない。巧みに冷淡な信者や異教徒たちを煽動して、ヒエロニモの運動を妨げるべくあらゆる手段を講ぜしめたのである。
 その結果、彼は同志や修道者数人を伴い、聖地パレスチナに赴き、ベトレヘムに於ける主の御降誕聖堂の傍らに男子修道院を、またそこからやや離れた所に女子修道院を設けた。その女子修道院最初の修練女となったのは、間もなく彼の後を慕ってベトレヘムに来た貴婦人パウロとその令嬢オイストキウムに外ならなかった。
 ヒエロニモは自分の経験からして、独居修道に励む隠修士よりも、一指導者の下に共同生活をして互いに切磋琢磨する方が遙かに修養に役立つ事を悟って自ら修士達を教え導く任に就き、日に数回聖堂に集まって聖務日祷を共に誦え、朝の御ミサには完徳に関する有益な説教を為し、残余の時間には適宜一同労働に従事する事とした。なお余暇には旧新両約聖書の写本を作らせ、之を諸々に送り与えた。
 ヒエロニモは更に旧約新約両聖書を平易に正確に改訳する事を心がけ、カルデア語を学び、386年から404年まで孜々として執筆を続け遂に右の大事業を完成した。これこそ世に高いウルガタ訳聖書である。のみならず諸教父の著書や聖書の各書に就いての注釈説明書も著し、多忙の中から各方面の名士と文通も怠らなかった。さればベトレヘムの修道院はさながらカトリック的生活の中心たる観を呈し、次第に巡礼地の如く天下に名を知られるに至り、ルシニオというスペインの一富豪がヒエロニモの筆に成る書物をことごとく得んものと写字生6人を送ればアフリカ、スペイン、ガリア、ドイツなどからは司教司祭達が彼の教えを請いに来、またイタリアの総督やガリアの貴婦人達は信仰箇条に関する説明を求めるという風であった。
 それほど世人に渇仰され賞賛されたヒエロニモであったけれど、天主の試練や悪魔の誘惑もない訳ではなかった。否、ないどころかそれは数十年の長きに亘って彼を悩ましたのである。それに彼の打ち負かされなかったのは、全く彼が天主の御助けを熱烈に祈り求める一方、常に身を惜しむ事を忘れなかったおかげであった。しかもかかる内憂ばかりでない、小アジアから蛮族がパレスチナに侵入するという外患も二度に及び、彼は危うくその毒手を免れて九死に一生を得たものの、壊滅された修道院復興に多大の心労をせねばならなかった。410年ゴート族がローマに侵入、殆ど全市を廃墟と化したという凶報に接した時などは「聖会の損害を聞き、悲しみに胸迫ってただただ嗚咽し、言うべき言葉を知らぬ」とある書信中に述懐している位である。
 かくて天主から託された使命を悉く終えたヒエロニモは420年9月30日、その報酬を受くべく天主の御許に赴いた。享年78歳。
 なおヒエロニモに就いて名高い一伝説がある。それはある日一匹の獅子がびっこを引き引き彼に近づき、前足を差し出すので、見るとそこには大きな棘が刺さっている。で、彼がそれを引き抜いてやると、獅子はさも嬉しげにたてがみのふさふさした頭を、彼の体にすりつけ、その後は聖人の傍を離れなかったというのであるが、これはヒエロニモが獅子の如き勇気を以て聖会の為に闘い、己に打ち克ち、自分の欠点悪欲の如き棘を抜き去るのに絶えず努力した事実を象徴した話であろうと思われる。

教訓

 世人はアレクサンダー大王やシーザーやナポレオンのような人物を、稀代の英雄豪傑として崇敬している。しかし真に偉大な英雄とは、彼等の如き侵略者征服者に非ずして、己の欠点や悪傾向に打ち勝ち、完徳に達した聖人方ではなかろうか。聖ヒエロニモはかかる聖なる英雄の中でも最も偉大な一人である。我等は彼の美徳の数々に倣わねばならぬ。




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