サン・セヴェリノの聖パチフィコ司祭証聖者 St. Pacificus a San Severino C. 記念日 9月 24日
聖パチフィコは西暦1653年3月1日イタリアはアンコナ州のサン・セヴェリノに生まれた。幼くして父母を失い、伯父の家に引き取られた彼は、早くから荊棘の道を歩まねばならなかった。というのは独身の伯父は家事のすべてを二人の女中に委せていたのに、彼女たちは何故かパチフィコ少年を厭い、事毎に叱ったり虐めたり嘲弄したり、つらく当たったからである。しかしその頃から既に天主の特別な御導きを蒙っていた彼は、感ずべき忍耐を以て一切を甘受し、いじらしくもやるせない悲しみを小さな胸一つに秘めて伯父にも告げず、その家の平和を守り通した。パチフィコとは「平和の使者」という意味であるが、奇しくもその名は体を現しているではないか。
幼時より優れた償いの精神を有していた彼は、その他にも人を驚かす徳行を示すことがしばしばあった。それで彼が18歳にしてフランシスコ修道院に入ったと聞いても、彼を知るものは当然の事として、敢えて怪しまなかったのである。
世間にいた時から衆に抜きん出て信仰に熱心であったパチフィコであるから、修道者になって後は一層わき目もふらず徳の道に精進し、会則の命ずる苦行は勿論、自発的に大斉その他克己の業を実行し、貞潔、清貧、従順、忍耐、謙遜などの諸徳を養う為日々涙ぐましいばかりの努力を続けた。殊に修院に入って8年、叙階の秘蹟を受けて司祭になってからは、その天主に対する愛はますます加わるばかり、熾天使もかくやと思われるほどで、ミサ聖祭執行中幻を見る事も珍しくなくそういう時彼の顔はこの世ならぬ光に照り輝き、身体が宙に浮かんだ事さえ幾度かあったという。のみならず人の心に隠れた思いもたちまちに見抜き、予言する能力も備えていたが、かように天主から恵まれる事が多いのを見ても、いかに彼が偉大な完徳の聖人であったか窺われよう。
さてパチフィコは、罪人を改心させ信者の信仰を篤からしめる為には、ほとんどいかなる犠牲をも厭わず、孜々として聖務に精励しつつ五、六年を過ごしたが、これも天主の聖旨かその頃から病にたおれ、殆ど三十年という長い年月を床についたまま、司祭の仕事は何一つ出来なかった。しかし彼は少しも呟かず、肉体の苦痛も精神の懊悩もことごとくカルワリオの十字架に磔り給うた主の御苦しみに合わせて天父に献げ、不自由の中にも自由の天地を見出していた。この感ずべき犠牲の功徳によって救われた霊魂は、彼の司祭的活動によって救われたそれより、遙かに多かったという事である。
かくてパチフィコはついに再起の機会を得ず、病床を十字架としてその身を横たえたまま、苦しみの盃の最後の一滴まで飲み干し、恭しく臨終の秘蹟を受けてから、1721年9月24日を一期としてこの世を去った。
死後その取り次ぎによって行われた奇跡は夥しい数に上り、為にパチフィコは1786年に福者の位を、1839年には聖人の位を許される光栄をになった。
教訓
サン・セヴェリノのパチフィコがかくも偉大な聖人になることが出来たのは、幼時より天主の御導きに忠実に従ったによるのである。されば我等も彼に倣い、すべてに於いて天主の思し召しを第一とし、聖霊の賜物をよく用いて、徳の道を辿るよう努めねばならぬ。
聖パチフィコは西暦1653年3月1日イタリアはアンコナ州のサン・セヴェリノに生まれた。幼くして父母を失い、伯父の家に引き取られた彼は、早くから荊棘の道を歩まねばならなかった。というのは独身の伯父は家事のすべてを二人の女中に委せていたのに、彼女たちは何故かパチフィコ少年を厭い、事毎に叱ったり虐めたり嘲弄したり、つらく当たったからである。しかしその頃から既に天主の特別な御導きを蒙っていた彼は、感ずべき忍耐を以て一切を甘受し、いじらしくもやるせない悲しみを小さな胸一つに秘めて伯父にも告げず、その家の平和を守り通した。パチフィコとは「平和の使者」という意味であるが、奇しくもその名は体を現しているではないか。
幼時より優れた償いの精神を有していた彼は、その他にも人を驚かす徳行を示すことがしばしばあった。それで彼が18歳にしてフランシスコ修道院に入ったと聞いても、彼を知るものは当然の事として、敢えて怪しまなかったのである。
世間にいた時から衆に抜きん出て信仰に熱心であったパチフィコであるから、修道者になって後は一層わき目もふらず徳の道に精進し、会則の命ずる苦行は勿論、自発的に大斉その他克己の業を実行し、貞潔、清貧、従順、忍耐、謙遜などの諸徳を養う為日々涙ぐましいばかりの努力を続けた。殊に修院に入って8年、叙階の秘蹟を受けて司祭になってからは、その天主に対する愛はますます加わるばかり、熾天使もかくやと思われるほどで、ミサ聖祭執行中幻を見る事も珍しくなくそういう時彼の顔はこの世ならぬ光に照り輝き、身体が宙に浮かんだ事さえ幾度かあったという。のみならず人の心に隠れた思いもたちまちに見抜き、予言する能力も備えていたが、かように天主から恵まれる事が多いのを見ても、いかに彼が偉大な完徳の聖人であったか窺われよう。
さてパチフィコは、罪人を改心させ信者の信仰を篤からしめる為には、ほとんどいかなる犠牲をも厭わず、孜々として聖務に精励しつつ五、六年を過ごしたが、これも天主の聖旨かその頃から病にたおれ、殆ど三十年という長い年月を床についたまま、司祭の仕事は何一つ出来なかった。しかし彼は少しも呟かず、肉体の苦痛も精神の懊悩もことごとくカルワリオの十字架に磔り給うた主の御苦しみに合わせて天父に献げ、不自由の中にも自由の天地を見出していた。この感ずべき犠牲の功徳によって救われた霊魂は、彼の司祭的活動によって救われたそれより、遙かに多かったという事である。
かくてパチフィコはついに再起の機会を得ず、病床を十字架としてその身を横たえたまま、苦しみの盃の最後の一滴まで飲み干し、恭しく臨終の秘蹟を受けてから、1721年9月24日を一期としてこの世を去った。
死後その取り次ぎによって行われた奇跡は夥しい数に上り、為にパチフィコは1786年に福者の位を、1839年には聖人の位を許される光栄をになった。
教訓
サン・セヴェリノのパチフィコがかくも偉大な聖人になることが出来たのは、幼時より天主の御導きに忠実に従ったによるのである。されば我等も彼に倣い、すべてに於いて天主の思し召しを第一とし、聖霊の賜物をよく用いて、徳の道を辿るよう努めねばならぬ。