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毒麦の喩えについて 聖ジャン・マリ・ヴィアンネ

2022-02-09 15:43:50 | 格言・みことば
毒麦の喩えについて

 今日の聖福音はこうです。畑の主人が良い土地に種を播いたところ、敵が彼の眠っている間にやってきて、毒麦をその畑に播きました。この意味は、神様は人間を善良な完全なものとして創造なさったのですが、その後、敵がやってきて罪を播いたというのです・・・ごらんなさい、アダムの罪、恐るべき堕落を。人間の心に罪を導き入れたのです。ごらんなさい、善と悪との混合を。徳の中に罪がまじっているのです・・・。

 毒麦を引っこ抜かなくてはならぬと考えるでしょう。主の御答えはこうです「いやいや、毒麦を抜くときに良い麦を抜くかもしれない。刈り入れまで待ちなさい・・・」。このように、人間の心は最後まで、善と悪、悪徳と美徳、光と暗、良い麦と毒麦とがまざったままにされていなくてはならないのです。神様はこの混合をこわして、私共の本性を良い麦しかないものに作りかえようとはお望みになりませんでした。神様は私共が戦い、毒麦がすべてを侵すのを防ぐよう努力することをお望みなのです。

 悪魔がやってきて、私共の道々に誘惑を播きます。だから聖寵によって悪魔を征服することができます。毒麦を枯らしてしまうことができます・・・毒麦とは特に邪淫と高慢とです。邪淫と高慢とがなければ、誘惑に対する抵抗も大きな功徳にはならないであろうと聖アウグスチノは言っています。

 誘惑に抵抗するには絶対三つのことが必要です。私共の知恵を明らかにしていただくためのお祈りと、私共を強めていただくための秘跡と、罪に陥らないための警戒とであります・・・誘惑を受ける霊魂は何と幸福でしょう。悪魔は霊魂が神様と一致しそうだと見るとその凶悪さを倍加するのです・・・おお、幸なる一致よ・・・。

聖ジャン・マリ・ヴィアンネ







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