『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
1 「カンタベリー物語」の世界
3 人間劇の誕生
『カンタベリー物語』の根本の構想――高級の貴族およびもっとも卑賤な階級をのぞいては、ほとんどすべての十四世紀イギリスの諸階層から人物を登場させ、これにそれぞれの性格にふさわしいような物語を語らせたということ、それは簡単な思いつきのようにみえるかもしれない。
しかしこれについては、「たんなる文学上の革新以上のもの、知的態度の変化にほかならない」とか、「ヨーロッパ思想史における一つの転換点」というまでの評価さえあるのだ。
チョーサーはまず諸性格を観察する。彼らの相違を認識する。
そして生き生きとした個性を描写しようと努めるのだ。このような群像、とくに庶民的な群像が文学にあらわれたこと自体、すでに新しいことであった。
まして各人物がそれぞれに信ずるところを、だれにもはばかるところなく、いかにも自由に大胆に発表してゆくありさまは、たしかに若々しく新しい精神のめざめかもしれない。
チョーサーは「総序の歌」の一節で、巡礼たちの言葉や振舞を忠実に、できるだけ正確に語るという意図を、キリストさま御自身も聖書のなかであけすけにお話しなさったなどとユーモアをまじえて述べているが、ここに近代リアリズムの芽生えが見られるであろう。
こうして描きだされた巡礼たちは、当時のもっとも貴重な人間記録の一つとなった。
彼らは彼らの人生のみを生きている。国家、社会の動きにはあまり心をとめない。
関心はもっぱら財布や情事にある。国王よりも隣の亭主のほうが、王妃よりも隣の細君のほうが、ずっと気になるのだ。
簡単である。あらゆる時代に共通するであろう大衆の生き方を、彼らもまた示すだけだ。
それゆえにこそ、我々は、彼らが実在し、呼吸し、彼らが無関心だった当時の歴史をつくっていたことを感ずるのである。
つまりチョーサーは、「真実」に忠実であろうとしたのだ。
しかしこの場合、彼はそのみにくい面を強調しようとはしなかった。
彼は人間に対する深い愛情をもっていた。
人間性とはふつう想像されているよりは、はるかに複雑なものだと知っていた。
この人間に対する共感は、一種のユーモアをもった楽天主義となってあらわれた。
人間の弱点や悪を皮肉にユーモラスに暴露しながらも、心から人生を肯定してやまない態度である。
そしてこれに加うるに中庸を失わない円満で健全な常識――ここに我々は感じないであろうか、イギリス的な考え方の一つの典型があると。
さて『カンタベリー物語』は戯曲ではないが、一種のドラマ的構成をもっているとも考えられよう。
諸性格は見事なリアリティーをもつとともに、思考や言葉つきなどで、それぞれの社会層にふさわしい人物に書きわけられている。
さらに各人物にわりあてられた物語はたんなる独白ではなく、他の人びとに話しかけ、返答をまねき、批評をよび、ついには会話とさえなっている。
こうしていろいろな動機や局面にみちびかれつつ、個性がたがいに働きかけ、巡礼者たちは劇的な操作を始めてゆく。
いわばここに一つの小社会がつくりあげられているのだ。
カンタベリー詣でという共通の目標をもって――。
その中心に登場人物の一人、巡礼たちがとまった宿屋の主人ハリー・ヘイリーが立っている。
彼が「総序の歌」の最後に紹介され、たがいに物語をして、いちばんすぐれた話をした人に、あとで晩餐会を開いてみなでおごってやろうという、『カンタベリー物語』の主旨を示すのも、この人物にふさわしい役目であろう。
彼は巡礼たちのリーダーをもって自認し、かつ案内役や審査役をかってでる。
そしてなるほどこれに適している。がんらい宿屋の主人であってみれば、人びとをもてなし、楽しませる方法を十分に知っているはずだ。
一面識もない巡礼たちのあいだにあって、彼はみなをくつろがせる中心人物である。
彼はおだやかな良識のたすけをもって、この大役を演じて手腕のほどを示し、また自分があつかっている人びとになみなみならぬ理解力を示している。
彼は相手の身分によっておもねったりはしない。
その人の真価に頭をさげるだけだ。
したがって巡礼たちをみな平等に取り扱っている。
騎士や医者から粉屋や船長にいたるまで、みな同一視して自分でリードしてみせるではないか。
そして彼はなんの遠慮もなく、自分の意見をあたりかまわずしゃべりまくる。
こうして「話しっぷりはあけすけだが、分別をそなえ、物知りでもあり、男らしくて、陽気でユーモラスな」この宿屋の主人は、いわば当時の新しい市民のタイプではあるまいか。
チョーサー自身も書いている。
「我々の宿の主人は、ひじょうに目だつ男で宴会の接待役にしてもふさわしい。
眼は鋭く、柄も大きくロンドンのチーフサイドの町人のなかで、こんなにりっぱな男はまたとあるまい。
その話しぶりは大胆で賢明、機転にとんでいる。
また男らしさも満点であった。
この町人が貴賤貧富の一団を、臨機応変に統率してゆくありさまをみるとき、『カンタベリー物語』という小社会に、一つの形容詞をあたえることはできないであろうか。
デモクラティック――そうである。
『カンタベリー物語』を評価する糸口が、たしかにこの人物のなかにあるはずだ。
1 「カンタベリー物語」の世界
3 人間劇の誕生
『カンタベリー物語』の根本の構想――高級の貴族およびもっとも卑賤な階級をのぞいては、ほとんどすべての十四世紀イギリスの諸階層から人物を登場させ、これにそれぞれの性格にふさわしいような物語を語らせたということ、それは簡単な思いつきのようにみえるかもしれない。
しかしこれについては、「たんなる文学上の革新以上のもの、知的態度の変化にほかならない」とか、「ヨーロッパ思想史における一つの転換点」というまでの評価さえあるのだ。
チョーサーはまず諸性格を観察する。彼らの相違を認識する。
そして生き生きとした個性を描写しようと努めるのだ。このような群像、とくに庶民的な群像が文学にあらわれたこと自体、すでに新しいことであった。
まして各人物がそれぞれに信ずるところを、だれにもはばかるところなく、いかにも自由に大胆に発表してゆくありさまは、たしかに若々しく新しい精神のめざめかもしれない。
チョーサーは「総序の歌」の一節で、巡礼たちの言葉や振舞を忠実に、できるだけ正確に語るという意図を、キリストさま御自身も聖書のなかであけすけにお話しなさったなどとユーモアをまじえて述べているが、ここに近代リアリズムの芽生えが見られるであろう。
こうして描きだされた巡礼たちは、当時のもっとも貴重な人間記録の一つとなった。
彼らは彼らの人生のみを生きている。国家、社会の動きにはあまり心をとめない。
関心はもっぱら財布や情事にある。国王よりも隣の亭主のほうが、王妃よりも隣の細君のほうが、ずっと気になるのだ。
簡単である。あらゆる時代に共通するであろう大衆の生き方を、彼らもまた示すだけだ。
それゆえにこそ、我々は、彼らが実在し、呼吸し、彼らが無関心だった当時の歴史をつくっていたことを感ずるのである。
つまりチョーサーは、「真実」に忠実であろうとしたのだ。
しかしこの場合、彼はそのみにくい面を強調しようとはしなかった。
彼は人間に対する深い愛情をもっていた。
人間性とはふつう想像されているよりは、はるかに複雑なものだと知っていた。
この人間に対する共感は、一種のユーモアをもった楽天主義となってあらわれた。
人間の弱点や悪を皮肉にユーモラスに暴露しながらも、心から人生を肯定してやまない態度である。
そしてこれに加うるに中庸を失わない円満で健全な常識――ここに我々は感じないであろうか、イギリス的な考え方の一つの典型があると。
さて『カンタベリー物語』は戯曲ではないが、一種のドラマ的構成をもっているとも考えられよう。
諸性格は見事なリアリティーをもつとともに、思考や言葉つきなどで、それぞれの社会層にふさわしい人物に書きわけられている。
さらに各人物にわりあてられた物語はたんなる独白ではなく、他の人びとに話しかけ、返答をまねき、批評をよび、ついには会話とさえなっている。
こうしていろいろな動機や局面にみちびかれつつ、個性がたがいに働きかけ、巡礼者たちは劇的な操作を始めてゆく。
いわばここに一つの小社会がつくりあげられているのだ。
カンタベリー詣でという共通の目標をもって――。
その中心に登場人物の一人、巡礼たちがとまった宿屋の主人ハリー・ヘイリーが立っている。
彼が「総序の歌」の最後に紹介され、たがいに物語をして、いちばんすぐれた話をした人に、あとで晩餐会を開いてみなでおごってやろうという、『カンタベリー物語』の主旨を示すのも、この人物にふさわしい役目であろう。
彼は巡礼たちのリーダーをもって自認し、かつ案内役や審査役をかってでる。
そしてなるほどこれに適している。がんらい宿屋の主人であってみれば、人びとをもてなし、楽しませる方法を十分に知っているはずだ。
一面識もない巡礼たちのあいだにあって、彼はみなをくつろがせる中心人物である。
彼はおだやかな良識のたすけをもって、この大役を演じて手腕のほどを示し、また自分があつかっている人びとになみなみならぬ理解力を示している。
彼は相手の身分によっておもねったりはしない。
その人の真価に頭をさげるだけだ。
したがって巡礼たちをみな平等に取り扱っている。
騎士や医者から粉屋や船長にいたるまで、みな同一視して自分でリードしてみせるではないか。
そして彼はなんの遠慮もなく、自分の意見をあたりかまわずしゃべりまくる。
こうして「話しっぷりはあけすけだが、分別をそなえ、物知りでもあり、男らしくて、陽気でユーモラスな」この宿屋の主人は、いわば当時の新しい市民のタイプではあるまいか。
チョーサー自身も書いている。
「我々の宿の主人は、ひじょうに目だつ男で宴会の接待役にしてもふさわしい。
眼は鋭く、柄も大きくロンドンのチーフサイドの町人のなかで、こんなにりっぱな男はまたとあるまい。
その話しぶりは大胆で賢明、機転にとんでいる。
また男らしさも満点であった。
この町人が貴賤貧富の一団を、臨機応変に統率してゆくありさまをみるとき、『カンタベリー物語』という小社会に、一つの形容詞をあたえることはできないであろうか。
デモクラティック――そうである。
『カンタベリー物語』を評価する糸口が、たしかにこの人物のなかにあるはずだ。