『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
9 草原の英雄
4 きびしい軍律
やがて東方に戦火があがった。
タタールの一部が金(きん)の支配に反抗して、その討伐をうけたのである。
ケレイトのトオリル・カンも、また動く。
金軍と呼応して、東西からタタールをはさみ討とう、としたのである。
テムジンにとって、タタールは父の、祖先の仇敵であった。うらみをむくいる好機は至った。
テムジンは、トオリルに対して、共同の出兵を申しいれた。
トオリルは応諾し、それから三日目に早くも軍をととのえて、出馬してきた。
トオリルとテムジンの軍は、金軍と力を合わせてタタールの本拠をついた。
タタールの軍は壊滅し、その部衆や家畜は、両者で分けて取りあった。
族長の住居には、銀製の乳母車と、珠(たま)をちりばめた衾(しとね=寝床)があった。
それをテムジンが取ったが、貧しく育ったテムジンにとっては、おどろくべき豪華な調度であった。
ここからタタ―ルの富裕さも、しのばれよう。
金の国でも、両者の戦功をよろこんだ。
トオリルに対しては、ワン(王)の称号を与えた。
これよりトオリルは、ワンカンと称する。
しかしテムジンに与えられたのは、はるかに低いジャウトクリ(百戸の長)という称号であった。
両者のあいだには、まだそれだけの実力の差があったわけである。
ときに一一九六年、テムジンがカンとなってから七年の後であった。
それから、さらに五年たった。ジャムカの声望もいよいよ高い。
鶏(とり)の年(一二〇一)、タイチウトをはじめモンゴルの一部から、草原のさまざまの部族・氏族の頭(かしら)たちは、ジャムカを推戴してカンとした。
ワンカンやテムジンに対抗しようとする勢力が、ここに結集された。
もはや、ひとつの国だけのカンではない。
多くの国から部衆が参加したので、グルカン(あまねきカン)と称した。
これを知ってテムジンは、ワンカンといっしょに出馬した。それは草原の決戦であった。
ジャムカの陣営には、クイチウトも加わっている。
グルカンはジャムカの本営にむかい、テムジンはクイチウトの陣を攻め立てた。
はげしい戦いのさなか、テムジンの頸動脈(けいどうみゃく)を射られ、瀕死の重傷を負った。
しかしテムジンの軍は、大いにタイチウトを破ったのである。
クイチウトは、その同族の果てにいたるまで、灰のごとくに吹き散らされた。
決戦に勝って、その冬をおくり、あくる犬の年(一二〇二)の秋、いよいよテムジンは、タタールの国へ攻めこんだ。
さきにほろぼしたのは、タタールの一部にすぎない。
いまこそ兵力も充実し、うらみかさなるタタールの国を、ほろぼしつくそうというのであった。
攻撃にさきだって、テムジンは軍律をさだめた。
「敵に勝ったなら、財貨のところに立ってはならぬ。勝ってしまえば、財貨はわれらみんなのものだ。われらは分けあうのだぞ。」
そして大いに勝った。
タタールの国の人々は、先祖や父のかたきとばかり、その成人のことごとくが、ほふり尽くされた。
のこった者は、しもべとして一同に分配された。美女の姉妹を、テムジンが取って、妃とした。
ところが軍律にそむいて、かってに馬群や財貨をうばった者がある。
テムジンの叔父や、いとこたちであったが、テムジンはゆるさなかった。
うばったものは、すべて没収した。
モンゴルの国でカン(汗)というのは、ほかの大きな国の国王のように、強い権力をもつ者ではない。
大規模な巻狩りや、戦争のときには、全体の指揮にあたるけれども、すべての行動にわたって、カンの命令が絶対のもの、というわけではなかった。
カンになった者も、カンにしたがう者も、それぞれ独立した氏族の長であり、ほこり高き武将である。
ましてや、テムジンをカンに選んだ武将たちのなかには、テムジンにおとらぬ高い家柄の貴族たちが、すくなくなかった。
おのおの、テムジンと同じように、ほこりをもっていたのである。
しかしテムジンは、ひとたびカンになると、自分の命令には絶対に服従することを要求した。
命令にしたがわぬ者は、遠慮することなく処罰した。
さて、そうなると将軍たちはおもしろくない。
これまでの習わしによって、戦争の指揮官としてカンに選んだのに、テムジンはまるで帝王のようにふるまおうとするではないか。
いわば将軍たちにとっては、族長としての、草原の貴族としての、主性体がおかされる。
それならばむしろテムジンのもとを離れよう、と考えるに至った。こうして、モンゴルの統一は破れた。
不満な将軍たちは、ジャムカのもとに走った。
こうしてジャムカは、いったんテムジンとの決戦に敗れたものの、かえって反対の勢力を結集して、いよいよ強力となった。
テムジンは、すぐれた将軍であった。同時に、すぐれた政治家でもあった。
どういう組織が最後の勝利をかちえるか、よく考えていた。
これまでのカンに与えられていたような権力では、国を統率するには弱い。
カンたる者は、もっと強い権力をもたねばならぬ。
そこで、自分の周囲に、がっちりした親衛隊をつくるとともに、配下の将軍たちをも、完全な部下として支配しようと考えたのである。
そのために、同盟の一角がやぶれようとも、もはやかえりみるところではなかった。
9 草原の英雄
4 きびしい軍律
やがて東方に戦火があがった。
タタールの一部が金(きん)の支配に反抗して、その討伐をうけたのである。
ケレイトのトオリル・カンも、また動く。
金軍と呼応して、東西からタタールをはさみ討とう、としたのである。
テムジンにとって、タタールは父の、祖先の仇敵であった。うらみをむくいる好機は至った。
テムジンは、トオリルに対して、共同の出兵を申しいれた。
トオリルは応諾し、それから三日目に早くも軍をととのえて、出馬してきた。
トオリルとテムジンの軍は、金軍と力を合わせてタタールの本拠をついた。
タタールの軍は壊滅し、その部衆や家畜は、両者で分けて取りあった。
族長の住居には、銀製の乳母車と、珠(たま)をちりばめた衾(しとね=寝床)があった。
それをテムジンが取ったが、貧しく育ったテムジンにとっては、おどろくべき豪華な調度であった。
ここからタタ―ルの富裕さも、しのばれよう。
金の国でも、両者の戦功をよろこんだ。
トオリルに対しては、ワン(王)の称号を与えた。
これよりトオリルは、ワンカンと称する。
しかしテムジンに与えられたのは、はるかに低いジャウトクリ(百戸の長)という称号であった。
両者のあいだには、まだそれだけの実力の差があったわけである。
ときに一一九六年、テムジンがカンとなってから七年の後であった。
それから、さらに五年たった。ジャムカの声望もいよいよ高い。
鶏(とり)の年(一二〇一)、タイチウトをはじめモンゴルの一部から、草原のさまざまの部族・氏族の頭(かしら)たちは、ジャムカを推戴してカンとした。
ワンカンやテムジンに対抗しようとする勢力が、ここに結集された。
もはや、ひとつの国だけのカンではない。
多くの国から部衆が参加したので、グルカン(あまねきカン)と称した。
これを知ってテムジンは、ワンカンといっしょに出馬した。それは草原の決戦であった。
ジャムカの陣営には、クイチウトも加わっている。
グルカンはジャムカの本営にむかい、テムジンはクイチウトの陣を攻め立てた。
はげしい戦いのさなか、テムジンの頸動脈(けいどうみゃく)を射られ、瀕死の重傷を負った。
しかしテムジンの軍は、大いにタイチウトを破ったのである。
クイチウトは、その同族の果てにいたるまで、灰のごとくに吹き散らされた。
決戦に勝って、その冬をおくり、あくる犬の年(一二〇二)の秋、いよいよテムジンは、タタールの国へ攻めこんだ。
さきにほろぼしたのは、タタールの一部にすぎない。
いまこそ兵力も充実し、うらみかさなるタタールの国を、ほろぼしつくそうというのであった。
攻撃にさきだって、テムジンは軍律をさだめた。
「敵に勝ったなら、財貨のところに立ってはならぬ。勝ってしまえば、財貨はわれらみんなのものだ。われらは分けあうのだぞ。」
そして大いに勝った。
タタールの国の人々は、先祖や父のかたきとばかり、その成人のことごとくが、ほふり尽くされた。
のこった者は、しもべとして一同に分配された。美女の姉妹を、テムジンが取って、妃とした。
ところが軍律にそむいて、かってに馬群や財貨をうばった者がある。
テムジンの叔父や、いとこたちであったが、テムジンはゆるさなかった。
うばったものは、すべて没収した。
モンゴルの国でカン(汗)というのは、ほかの大きな国の国王のように、強い権力をもつ者ではない。
大規模な巻狩りや、戦争のときには、全体の指揮にあたるけれども、すべての行動にわたって、カンの命令が絶対のもの、というわけではなかった。
カンになった者も、カンにしたがう者も、それぞれ独立した氏族の長であり、ほこり高き武将である。
ましてや、テムジンをカンに選んだ武将たちのなかには、テムジンにおとらぬ高い家柄の貴族たちが、すくなくなかった。
おのおの、テムジンと同じように、ほこりをもっていたのである。
しかしテムジンは、ひとたびカンになると、自分の命令には絶対に服従することを要求した。
命令にしたがわぬ者は、遠慮することなく処罰した。
さて、そうなると将軍たちはおもしろくない。
これまでの習わしによって、戦争の指揮官としてカンに選んだのに、テムジンはまるで帝王のようにふるまおうとするではないか。
いわば将軍たちにとっては、族長としての、草原の貴族としての、主性体がおかされる。
それならばむしろテムジンのもとを離れよう、と考えるに至った。こうして、モンゴルの統一は破れた。
不満な将軍たちは、ジャムカのもとに走った。
こうしてジャムカは、いったんテムジンとの決戦に敗れたものの、かえって反対の勢力を結集して、いよいよ強力となった。
テムジンは、すぐれた将軍であった。同時に、すぐれた政治家でもあった。
どういう組織が最後の勝利をかちえるか、よく考えていた。
これまでのカンに与えられていたような権力では、国を統率するには弱い。
カンたる者は、もっと強い権力をもたねばならぬ。
そこで、自分の周囲に、がっちりした親衛隊をつくるとともに、配下の将軍たちをも、完全な部下として支配しようと考えたのである。
そのために、同盟の一角がやぶれようとも、もはやかえりみるところではなかった。