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6-9-4 きびしい軍律

2023-07-20 19:18:57 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
9 草原の英雄
4 きびしい軍律

 やがて東方に戦火があがった。
 タタールの一部が金(きん)の支配に反抗して、その討伐をうけたのである。
 ケレイトのトオリル・カンも、また動く。
 金軍と呼応して、東西からタタールをはさみ討とう、としたのである。
 テムジンにとって、タタールは父の、祖先の仇敵であった。うらみをむくいる好機は至った。
 テムジンは、トオリルに対して、共同の出兵を申しいれた。
 トオリルは応諾し、それから三日目に早くも軍をととのえて、出馬してきた。
 トオリルとテムジンの軍は、金軍と力を合わせてタタールの本拠をついた。
 タタールの軍は壊滅し、その部衆や家畜は、両者で分けて取りあった。
 族長の住居には、銀製の乳母車と、珠(たま)をちりばめた衾(しとね=寝床)があった。
 それをテムジンが取ったが、貧しく育ったテムジンにとっては、おどろくべき豪華な調度であった。
 ここからタタ―ルの富裕さも、しのばれよう。
 金の国でも、両者の戦功をよろこんだ。
 トオリルに対しては、ワン(王)の称号を与えた。
 これよりトオリルは、ワンカンと称する。
 しかしテムジンに与えられたのは、はるかに低いジャウトクリ(百戸の長)という称号であった。
 両者のあいだには、まだそれだけの実力の差があったわけである。
 ときに一一九六年、テムジンがカンとなってから七年の後であった。
 それから、さらに五年たった。ジャムカの声望もいよいよ高い。
 鶏(とり)の年(一二〇一)、タイチウトをはじめモンゴルの一部から、草原のさまざまの部族・氏族の頭(かしら)たちは、ジャムカを推戴してカンとした。
 ワンカンやテムジンに対抗しようとする勢力が、ここに結集された。
 もはや、ひとつの国だけのカンではない。
 多くの国から部衆が参加したので、グルカン(あまねきカン)と称した。
 これを知ってテムジンは、ワンカンといっしょに出馬した。それは草原の決戦であった。
 ジャムカの陣営には、クイチウトも加わっている。
 グルカンはジャムカの本営にむかい、テムジンはクイチウトの陣を攻め立てた。
 はげしい戦いのさなか、テムジンの頸動脈(けいどうみゃく)を射られ、瀕死の重傷を負った。
 しかしテムジンの軍は、大いにタイチウトを破ったのである。
 クイチウトは、その同族の果てにいたるまで、灰のごとくに吹き散らされた。
 決戦に勝って、その冬をおくり、あくる犬の年(一二〇二)の秋、いよいよテムジンは、タタールの国へ攻めこんだ。
 さきにほろぼしたのは、タタールの一部にすぎない。
 いまこそ兵力も充実し、うらみかさなるタタールの国を、ほろぼしつくそうというのであった。
 攻撃にさきだって、テムジンは軍律をさだめた。
 「敵に勝ったなら、財貨のところに立ってはならぬ。勝ってしまえば、財貨はわれらみんなのものだ。われらは分けあうのだぞ。」
 そして大いに勝った。

 タタールの国の人々は、先祖や父のかたきとばかり、その成人のことごとくが、ほふり尽くされた。
 のこった者は、しもべとして一同に分配された。美女の姉妹を、テムジンが取って、妃とした。
 ところが軍律にそむいて、かってに馬群や財貨をうばった者がある。
 テムジンの叔父や、いとこたちであったが、テムジンはゆるさなかった。
 うばったものは、すべて没収した。
 モンゴルの国でカン(汗)というのは、ほかの大きな国の国王のように、強い権力をもつ者ではない。
 大規模な巻狩りや、戦争のときには、全体の指揮にあたるけれども、すべての行動にわたって、カンの命令が絶対のもの、というわけではなかった。
 カンになった者も、カンにしたがう者も、それぞれ独立した氏族の長であり、ほこり高き武将である。
 ましてや、テムジンをカンに選んだ武将たちのなかには、テムジンにおとらぬ高い家柄の貴族たちが、すくなくなかった。
 おのおの、テムジンと同じように、ほこりをもっていたのである。
 しかしテムジンは、ひとたびカンになると、自分の命令には絶対に服従することを要求した。
 命令にしたがわぬ者は、遠慮することなく処罰した。
 さて、そうなると将軍たちはおもしろくない。
 これまでの習わしによって、戦争の指揮官としてカンに選んだのに、テムジンはまるで帝王のようにふるまおうとするではないか。
 いわば将軍たちにとっては、族長としての、草原の貴族としての、主性体がおかされる。
 それならばむしろテムジンのもとを離れよう、と考えるに至った。こうして、モンゴルの統一は破れた。
 不満な将軍たちは、ジャムカのもとに走った。
 こうしてジャムカは、いったんテムジンとの決戦に敗れたものの、かえって反対の勢力を結集して、いよいよ強力となった。
 テムジンは、すぐれた将軍であった。同時に、すぐれた政治家でもあった。
 どういう組織が最後の勝利をかちえるか、よく考えていた。
 これまでのカンに与えられていたような権力では、国を統率するには弱い。
 カンたる者は、もっと強い権力をもたねばならぬ。
 そこで、自分の周囲に、がっちりした親衛隊をつくるとともに、配下の将軍たちをも、完全な部下として支配しようと考えたのである。
 そのために、同盟の一角がやぶれようとも、もはやかえりみるところではなかった。





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