『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
9 草原の英雄
1 モンゴルの勇者
よく晴れた日であった。いつものように、エスゲイは、ひとりで鷹狩りに出かけた。
オノン川のほとりまでゆくと、むこうから一団の人々が来る。メルキト国の人々であった。
メルキトのチレドという若者が、嫁をもらって連れてゆくところなのであった。
さぐって見ると、顔かたちのすぐれた、うつくしい女である。エスゲイは、たちまちわが家に走りかえった。
エスゲイは、兄と弟とを連れてきた。そしてチレドの行列を追った。
チレドはおそれた。
足のはやい黄馬(きうま)にまたがり、むちうちながら丘をこえて、身をかくした。
そのうしろから、三人はつづいて追った。女は車に乗っている。
チレドは山のはしをひとめぐりして、車のところへもどってきたところに、三人が行きついた。
チレドは馬にひとむちあてて、オノン川をさかのぼって走り去った。
そのうしろから、三人は追った。
七つの丘をこえるまで走ったが、追いつけず、ひきかえして、ホエルンの車をおさえた。
エスゲイは馬の手綱(たずな)をひき、兄と弟とが前後をまもった。
このようにして、エスゲイは、その妻のホエルンをむかえたのであった。
エスゲイは、バアトル(勇者)という称をもち、その称のとおりに、モンゴルの国(ウルス)の勇猛なる部長であった。
ただし、このころのモンゴルの国は、後世のように大きな勢力ではない。
いまのモンゴリア高原の東北、オノン川とケルレン川の源のあたりに本拠をすえて、遊牧の生活をいとなんている部族にすぎなかった。
ひろい高原には、さらに大きな勢力がいくつもあった。
モンゴルの東方には、タタールの国がある。南西にはケレイトの国がある。
また北方にはメルキトの国がある。
そして西方にはトルコ系のナイマンの大国があった。
ときに十二世紀のなかばである。そのころ中国の北部を支配していたのは、金(きん)の帝国であった。
金は、モンゴリア高原をおさえるために、もっとも東方にあったタタールの国とむすんだ。
そのために深刻な打撃をこうむったのが、おりから勢力をのばしつつあったモンゴルの国であった。
モンゴルの人々は、自分たちの牧地をまもるためには、まずタタールと戦わなければならなかった。
戦って勝つためには、強力な組織をもたねばならない。
ここに、モンゴルは部族の統一をなしとげた。
そして、全モンゴルの人々を率いたのが、カブールであった。
エスゲイの祖父にあたる。
カブールは、モンゴルにおける最初のカン(汗)となった。
カン、もしくはハガン(可汗)とは、君長のことである。
カブールについては、その指名によって、アンバガイが二代目のカンとなった。
ところがアンパガイは、タタールの謀略によって捕えられ、金の皇帝のもとに送られて非業の最期をとげた。
エスゲイが、妻のホエルンをえたのは、そのころであった。
三代目のカンとなったのは、クトラである。
カンとなるや、クトラは、モンゴルの民をひきいて、タタールのところに出馬した。戦うこと十三たび、しかしアンバガイのあだをかえし、うらみをむくいることはできなかった。
グトラそのひとも、戦陣のなかで世を去った。
エスゲイもまた、有力な部将のひとりとして、しばしば出征した。
ある年のこと、エスゲイは大いにタタールの軍をやぶり、その将軍テムジンをとりこにした。いさましく凱旋してくると、わが家では妻のホエルンが、はじめての男の子をあげた。
生まれるとき、その右の手に小石のような血のかたまりをにぎっていた、という。
よろこんだエスゲイは、敵将の名にちなんで、テムジンと名づけた。
テムジンの生まれた年がいつであったか、正確なところはわからない。
あるいは一一六二年といい、あるいは一一六八年という。
いずれにせよ、十二世紀のなかば過ぎ、金の国では、世宗の大定(たいてい)年間、わが国では平安末期、平清盛が政権をにぎったころのことである。`
モンゴルの国の数ある氏族のなかで、カブールの系統はキャン(あるいは複数にてキャト)氏を袮した。アンバガイの系統は、タイチウト氏を袮した。
さればエスゲイこそは、キャンの嫡流(ちゃくりゅう)であり、モンゴルの人々のなかで、もっとも由緒ただしい出身であった。
やがてエスゲイとホエルンとの間には、テムジンについで、三人の男の子と、ひとりの女の子が、次々に生まれた。
べつの母親からも二人の男の子が生まれた。
そうして八年の月日が流れた。テムジンは九歳(かぞえ年、以下も同じ)となった。
エスゲイは、テムジンのために嫁をみつけてやろうと、オンギラトの国へ連れていった。
そこは母なるホエルンの生まれ故郷でもあるし、以前からキャン氏の人々はオンギラトの国から妻をむかえる風習になっていたのであった。
オッギラトで柚、デイ・セチェン(セチェン=長者)に会った。ディは、テムジンを見て言った。
「目に火あり、面に光ある子供だね。わたしの娘はまだ小さいが、まあ、見てくれ。」
デイ・セチェッの娘も「面に光あり、目に火ある」美しい子であった。
歳はテムジンより一つ上で、名はボルテと言った。
ひと晩とまって、あくる朝、エスゲイは娘を所望した。
そしてテムジンとの婚約はととのった。
デイの希望で、テムジンをあずけてゆくことになった。
「この子は犬をこわがるのだ。どうか、犬におどろかぬように、してくれよ。」
テムジンを置いての帰りみち、エスゲイはひろびろとした草原のまんなかで、タタールの人々が酒もりをひらいているのに行きあった。
こうしたとき、かれらの風習では、ともに飲み食いするのが礼儀である。
のども加わいていたのでエスゲイは馬をおりて、酒もりにくわわった。
タタールの人々は、かれと知った、「キャンのエスゲイだぞ。」
タタールにとっても、エスゲイは仇敵(きゅうてき)である。
酒のなかに毒をいれて飲ませた。
タタールとわかれて、家に帰りつくまで三泊をかさねたが、しだいに容態が悪くなった。
ついに死期をさとったエスゲイは「胸が苦しい」と訴えつつ、テムジンを連れもどすことを遺言して、息をひきとったのであった。
9 草原の英雄
1 モンゴルの勇者
よく晴れた日であった。いつものように、エスゲイは、ひとりで鷹狩りに出かけた。
オノン川のほとりまでゆくと、むこうから一団の人々が来る。メルキト国の人々であった。
メルキトのチレドという若者が、嫁をもらって連れてゆくところなのであった。
さぐって見ると、顔かたちのすぐれた、うつくしい女である。エスゲイは、たちまちわが家に走りかえった。
エスゲイは、兄と弟とを連れてきた。そしてチレドの行列を追った。
チレドはおそれた。
足のはやい黄馬(きうま)にまたがり、むちうちながら丘をこえて、身をかくした。
そのうしろから、三人はつづいて追った。女は車に乗っている。
チレドは山のはしをひとめぐりして、車のところへもどってきたところに、三人が行きついた。
チレドは馬にひとむちあてて、オノン川をさかのぼって走り去った。
そのうしろから、三人は追った。
七つの丘をこえるまで走ったが、追いつけず、ひきかえして、ホエルンの車をおさえた。
エスゲイは馬の手綱(たずな)をひき、兄と弟とが前後をまもった。
このようにして、エスゲイは、その妻のホエルンをむかえたのであった。
エスゲイは、バアトル(勇者)という称をもち、その称のとおりに、モンゴルの国(ウルス)の勇猛なる部長であった。
ただし、このころのモンゴルの国は、後世のように大きな勢力ではない。
いまのモンゴリア高原の東北、オノン川とケルレン川の源のあたりに本拠をすえて、遊牧の生活をいとなんている部族にすぎなかった。
ひろい高原には、さらに大きな勢力がいくつもあった。
モンゴルの東方には、タタールの国がある。南西にはケレイトの国がある。
また北方にはメルキトの国がある。
そして西方にはトルコ系のナイマンの大国があった。
ときに十二世紀のなかばである。そのころ中国の北部を支配していたのは、金(きん)の帝国であった。
金は、モンゴリア高原をおさえるために、もっとも東方にあったタタールの国とむすんだ。
そのために深刻な打撃をこうむったのが、おりから勢力をのばしつつあったモンゴルの国であった。
モンゴルの人々は、自分たちの牧地をまもるためには、まずタタールと戦わなければならなかった。
戦って勝つためには、強力な組織をもたねばならない。
ここに、モンゴルは部族の統一をなしとげた。
そして、全モンゴルの人々を率いたのが、カブールであった。
エスゲイの祖父にあたる。
カブールは、モンゴルにおける最初のカン(汗)となった。
カン、もしくはハガン(可汗)とは、君長のことである。
カブールについては、その指名によって、アンバガイが二代目のカンとなった。
ところがアンパガイは、タタールの謀略によって捕えられ、金の皇帝のもとに送られて非業の最期をとげた。
エスゲイが、妻のホエルンをえたのは、そのころであった。
三代目のカンとなったのは、クトラである。
カンとなるや、クトラは、モンゴルの民をひきいて、タタールのところに出馬した。戦うこと十三たび、しかしアンバガイのあだをかえし、うらみをむくいることはできなかった。
グトラそのひとも、戦陣のなかで世を去った。
エスゲイもまた、有力な部将のひとりとして、しばしば出征した。
ある年のこと、エスゲイは大いにタタールの軍をやぶり、その将軍テムジンをとりこにした。いさましく凱旋してくると、わが家では妻のホエルンが、はじめての男の子をあげた。
生まれるとき、その右の手に小石のような血のかたまりをにぎっていた、という。
よろこんだエスゲイは、敵将の名にちなんで、テムジンと名づけた。
テムジンの生まれた年がいつであったか、正確なところはわからない。
あるいは一一六二年といい、あるいは一一六八年という。
いずれにせよ、十二世紀のなかば過ぎ、金の国では、世宗の大定(たいてい)年間、わが国では平安末期、平清盛が政権をにぎったころのことである。`
モンゴルの国の数ある氏族のなかで、カブールの系統はキャン(あるいは複数にてキャト)氏を袮した。アンバガイの系統は、タイチウト氏を袮した。
さればエスゲイこそは、キャンの嫡流(ちゃくりゅう)であり、モンゴルの人々のなかで、もっとも由緒ただしい出身であった。
やがてエスゲイとホエルンとの間には、テムジンについで、三人の男の子と、ひとりの女の子が、次々に生まれた。
べつの母親からも二人の男の子が生まれた。
そうして八年の月日が流れた。テムジンは九歳(かぞえ年、以下も同じ)となった。
エスゲイは、テムジンのために嫁をみつけてやろうと、オンギラトの国へ連れていった。
そこは母なるホエルンの生まれ故郷でもあるし、以前からキャン氏の人々はオンギラトの国から妻をむかえる風習になっていたのであった。
オッギラトで柚、デイ・セチェン(セチェン=長者)に会った。ディは、テムジンを見て言った。
「目に火あり、面に光ある子供だね。わたしの娘はまだ小さいが、まあ、見てくれ。」
デイ・セチェッの娘も「面に光あり、目に火ある」美しい子であった。
歳はテムジンより一つ上で、名はボルテと言った。
ひと晩とまって、あくる朝、エスゲイは娘を所望した。
そしてテムジンとの婚約はととのった。
デイの希望で、テムジンをあずけてゆくことになった。
「この子は犬をこわがるのだ。どうか、犬におどろかぬように、してくれよ。」
テムジンを置いての帰りみち、エスゲイはひろびろとした草原のまんなかで、タタールの人々が酒もりをひらいているのに行きあった。
こうしたとき、かれらの風習では、ともに飲み食いするのが礼儀である。
のども加わいていたのでエスゲイは馬をおりて、酒もりにくわわった。
タタールの人々は、かれと知った、「キャンのエスゲイだぞ。」
タタールにとっても、エスゲイは仇敵(きゅうてき)である。
酒のなかに毒をいれて飲ませた。
タタールとわかれて、家に帰りつくまで三泊をかさねたが、しだいに容態が悪くなった。
ついに死期をさとったエスゲイは「胸が苦しい」と訴えつつ、テムジンを連れもどすことを遺言して、息をひきとったのであった。