当時石山中学校は豊羽鉱山の七区に新設されていました・・
豊羽グランドの横の空き地に平屋で建てられ室内体育館がありました。
建設された状況は不明ですが不用の空き地があり又グランドは豊羽グランドが使用出来ます。
又その時代鉱山は安定した生活が出来石山でも割合裕福であった事であると思います。
建物は平屋で安価な材料で建築されて冬は寒い教室となります。
隣接地に教員社宅があり私の先生は松樹先生で元憲兵隊です。
先生は単身で風呂の帰りに家に依って焼酎1合を飲んで帰ります・・母が応対してました。
毎年近隣りリンゴ畑からリンゴの剪定した枝を沢山貰い焚きつけにしました。
私が卒業する前に学校の移転問題で各区の親御さんともめ事がありました。
七区に住んで居る学生は通学には便利ですが、他の地区に住んで居る学生の通学は大変です・・
結論は石山陸橋附近の木村リンゴ園の近くに建て替えられて2~3年の通学は遠くなり大変でした。
当時石山中学校は豊羽鉱山の七区に新設されていました・・
豊羽グランドの横の空き地に平屋建で室内体育館は廊下でつながっていました。
建設された状況は不明ですが不用の空き地があり又グランドは豊羽グランドが使用出来ます。
又その時代鉱山は安定した生活が出来石山でも割合裕福であった事であると思います。
建物は平屋で安価な材料で建築されて冬は寒い教室となります。横には社宅が2軒建っていました。
毎年近隣りリンゴ畑からリンゴの剪定した枝を沢山貰い焚きつけにしました。
私が卒業する前に学校の移転問題で各区の親御さんともめ事がありました。
七区に住んで居る学生は通学には便利ですが、他の地区に住んで居る学生の通学は大変です・・
結論は石山陸橋附近の木村リンゴ園の近くに建て替えられて2~3年の通学は遠くなり大変でした。
この回顧録は2007年(14年)前一度blogに書きましたがその後多忙の為途中で中断しておりました。
先日掲載にコメントがある事に気が付き読みました。
それに依りますと福井館の女将がその方の祖母と云う事です。
再度記憶をたどりますとその女将が三人姉妹で女将の姉が私のお婆ちゃんで、もう一人は札幌清田区の朝鮮学校の近くで雑貨店を開いており、一度伺った覚えがあります。
そのお婆ちゃんは一番下の方と思います・・私のお婆ちゃんとそっくりでした!!
「 さちさん2015年07月16日 02:25 コメント
この話しはどこまで本当か分かりませんが私の祖母が福井館の女将でした。
後継がいない為閉館しました。祖母は自殺しましたがかなり老いてからです。
貴方の話しが本当なら何処かで掛け違えたお花ではないかと思いますが。
あっ決して批判する為にコメントした訳ではありません。
もしかしたら私と貴方は血の繋がりのある親戚かもしれませんね」
叔父さんは株で儲け競争馬をもつていたと聞きましたが、泊まった夜に叔母さんに福井館の古い写真を見せて頂きました。
当時は湯の川では一番の旅館で明治天皇もお泊りになり、その時の写真も拝見させて頂きました。
その時疎開当時の思いが蘇りました・・・
函館湯の川「福井館」はお婆ちゃんの姉が取り仕切り大きくし、名誉である明治天皇お迎え準備に大金を使いました。
旅館内の畳・布団・女中の着物等全て新しい物に取替えましたが、その借金で旅館が傾き始め女中も辞め、栄華の週末を向えるに至りました。
妹である私のお婆ちゃんが姉の手助けをしていた時、母も女中として手伝わされたと思います。
その後女主人は病に倒れ、後妻である当時の叔母さんが入籍し子供二人をもうけ、金銭に不自由なく育った子供たちは、成人になり理由は分りませんが二人とも自殺したとの事でした。
今では大型ホテルが建ち昔の面影を残すものはありません・・・
私が就職した頃担当地区が道南になり函館にも毎月出張しており駅前の旅館(若松旅館)を利用しておりました。
その頃は室蘭の新日本製鉄・苫小牧の王子製紙・砂川の東洋高圧・函館ドック・国鉄連絡船・北洋漁業の道内景気が最高潮の頃で町は栄えており、函館北洋時期になりますと旅館が取れません?
その時湯の川の叔父さんに連絡を取りお願いして泊まりに行った事がありました・・・
当時、和風旅館「福井館」は国鉄の保養所として貸しており、その庭の奥に東屋風平屋建てがあり叔父さん夫婦が住いされておりました・・・
私は仕事が終わると泊まりに行きましたが、そこは只では泊まらせず薪割りや夕食後叔母さんの肩もみをさせられ大変でしたが、朝叔父さんは朝酒と朝風呂が習慣で私も朝から風呂に入らせて頂いた思い出があります。
なぜ今迄手元にあるのか分りませんが、106年前の大正四年(1915年)おじいさんが札幌で警察署長をしていた頃の宮内庁からの招待状があります・・・
なんの招待状か分りませんが、あて先は下々方警察署長宛になっていますので、配属警察署は大きな所ではないと想像出来ます。
当時の住まいは戸籍謄本から推察すると帝国製麻工場付近となっていますので、工場の女工さんたちが多く住んでいた場所と思います・・・
(画像)
*帝国製麻(株)札幌工場
1890年前身は北海道製麻で、大麻を原料として当時屯田兵の麻の作付けを奨励していた。夏服・蚊帳・帆船・戦車カバーなど日露戦争から大正10年(1921年)頃までが最盛期であつた。
(定鉄バス・電車)
子供の頃は海までは遠く山川で育ちました・・
春になると餓鬼大将が毎年競い合うのが「誰が一番先に大川を泳ぎきるか?」でした・・・
雪が溶けて川は濁流となって力強く流れています・・
白川沿いの高い硬石の崖下付近から上級生と私たち数名が褌ひとつで濁流に飛び込みます、川幅は14~20m位であったと思います。
流れがきつく向う岸まで着くには100~150m位下流に流されます・・命がけの勝負です!!
流される距離は違いますが誰一人溺れる人はおりませんでした。
当時は豊平川につり橋が架かっており、つり橋の上から飛込みもした記憶があります。
*子供の頃は豊平川とは呼ばず子供仲間では「大川」と呼んでいました
校庭には二宮金次郎の銅像がありました。
夏には泳ぎつかれて麦畑を横切り帰途に付きますが、腹ペコで今にも倒れそうです・・
川に飛び出た高い岩から飛び込み、白い石を投げて川底から拾ってくる競争もしました。
川育ちですので海を見ると恐怖にかられた記憶があります。
米軍基地が側にありましたので休日には米兵がジープに日本女性を乗せて遊びに来ます・・
その米兵は川に向かって手りゅう弾を投げてきます・・すると川の魚が浮いてきます。
学校が終わると自宅に鞄を放り投げて泳ぎに行きます。
2~3人の友達と田んぼのあぜ道を通り、女友達の家の麦畑を通り大川に(豊平川)着きます。
衣服は川岸の枝にかけ手ぬぐいかパンツ一枚で泳ぎます。
午後の日差しはきつく蝉がうるさい程に鳴いています・・
寒い日は川岸の大きな丸い石をお腹に抱えて身体お温めますが気持ちが安らぎます。
友達が多くなると焚火をしますが川岸のトウキビ畑から数本盗み焼いて食べますが広いトウキビ畑ですので苦情はありません。
お腹が空いて帰りますが友達の麦畑から片手で麦の穂をちぎり殻取って口に入れて噛みます?
何回も噛んでいると白いガムになります・・
今思い出すと裕福ではありませんが自然と遊び毎日がゆったりとしていた感じがします。
当時私たちのクラスは先生が定着せず、各学年の中でも腕白坊主が多く、先生を手こずらしていました・・・
体育館の掃除当番で上級生と乱闘になり担任の先生から往復ビンタを両面に頂きました・・・
互いに顔を見合いましたが、赤く手の痕が残っていましたが泣く子はいませんでした。
舌を出して笑っちゃいました!!
イタズラが激しく女の先生を困らせ帰宅を許さず廊下に立たされて、帰りが遅いので心配してお婆ちゃんが学校に迎えに来た事があります。
お婆ちゃんは「うちの子がどの様な悪さをしたのでしょうか?」と先生に尋ねると泣きながら「私の指導が悪く申し訳ございません?」と云い帰されました・・・
また石山四区の友達数人が銅線や砲金等を集め雑品屋へ売っていました。
割とお金になり私も友達に付いて廻りそのお金で食べ物を買いご馳走になった記憶があります。
いま思い出すと生活が苦しかった事よりも、楽しかった想いが多くあり懐かしく思います。
小学1年生の入学式は幾ら考えても浮かんできません?
小学校は現在の場所ですが私が入学の頃は道路は勿論砂利道でした。
通学は選鉱場の腕白坊主が一団となって学校へと行きます・・
当時石山地区は豊平町字石山で選鉱場地区は石山七区と呼ばれていました。
その頃はまだ自動車は少なく石山駅前には馬の蹄鉄を打つ所があり、石山は馬車追いが多く住んでいるところでした。
冬の朝通学する時に馬橇が走っておりイタズラに馬車追いの陰に隠れこっそりと後ろの橇の端に隠れ乗って行きます・・・大変楽です!!
馬車追いが重さに気が付き、皮のムチで思いっきり殴ってきます? 避けるのも自慢です。
雪解けと共に道路が溶け始めると、馬糞がそこら中に出てきて春風が吹くと舞い上がります・・・
その頃の学校は木造二階建てでL字型に建つており、向かって左が職員玄関・中が学生玄関・右側には室内体育館がありました・・
体育館横には校長宅・先生社宅があり付近には木が被い茂っていました。
確か二宮尊徳の像があった記憶と校庭には大きな桜の木が一本あった様に思います。
春になるとその桜の木の前で毎年記念写真を取っていました。
確か背の低い黒顔でメガネをした三春久平と云う写真屋であったと思います・・・
小学一年生の担任は黒顔の女で真坂先生でした・・