今日もやっぱりぬこ日和 ~ぬこは扶養家族~

3ぬこと寡の日々の写真日記
でも猫画像は少ないです。

妻を看取らば~闘い抜いた8ヶ月~

2012年05月02日 | 妻を看取らば

話は去年の8月まで遡る。

にょーぼが「お腹の調子が悪い」と口にするようになり、
行きつけの病院で診てもらうことにした。

検査をして何が原因なんだろうねと話していたある日、
にょーぼから「医師が家族も同席してほしい」と言われ、
どんな診断なのか不安にかられながらも医師の話を聞いた。

「胃がんの疑いがあります。」

初め聞いた時、なんでにょーぼがと思った。
家系にがんを患った親族はいないからである。

でも本人を前にしてそういう事を言うのだから
たいしたことないだろうと楽観的だった。

にょーぼが席を外した時、医師は改めて言った。

「胃がんに間違いありません。」
「完治は難しいでしょう」

がん細胞はリンパ腺に乗って体の至る所に転移する。

因って切除しても他のところで再発することも十分有り得る。

治療は抗がん治療ということで薬を4週間飲み続け、
5週目に入院をして溜まった薬を流し出すという、
日常生活に近い形で治療をしていくものだった。

服用が始まり、9月の第4週に早速入院をした。
10月、11月と同じ様に4週毎の入院が行われた。

こんな感じのが続くのかなと思いながら12月に引っ越しをした。

そう、にょーぼは実の、ただ一人の肉親である妹からがんであるにも関わらず、
出ていけと病床で言われたのである。

その頃から体調が芳しくなく、週4日の派遣の仕事も休みがちになった。
多分薬の影響だろうけど私は「辛くても仕事しなきゃ」と言った。

思いやりのない言葉だとは思ってはいるが、私の収入だけでは心細いのである。

そして「足が痛い」と訴えはじめた。

右大腿部に痛みがあり、それは日に日に酷くなっていった。
杖を使って歩かなければならないが、心ない奴にぶつかられたり、
ゆっくりバスを乗り降りすることに冷たい視線を浴びないか、
痛みを耐えながら懸命に歩む姿を思うと涙が滲んでしまう。

ちょっと動かすだけで痛いを連発。だき抱えて起こし、
幸い部屋が狭いのでそこいらの家具などに掴まって動くことができる。

それでも病院に行かなくてはならないときは、
格安のレンタカーを借りて乗せたり、往復タクシーの利用もやむを得なかった。

やがて新たな問題がわいた。

入院や外来の医療費が払え切れていないのである。
何故払えてないのか、今となっては知る由もないが、
この先も治療や入院があるはずだからこのままでは未払いが増えるだけである。

ソーシャルワーカーさんに相談したところ、
私の稼ぎは多過ぎて低所得での医療費軽減には該当しないと言われた。

最後の手段は離婚をしてにょーぼは生活保護を受けるというものだった。
巷では偽装離婚とか、昼からパチンコに行く夫婦とか本来の目的ではない使われ方が問題になっているが、医療費を負担しなくていいのは助かる話だ。

しかし、男としては情けなく、屈辱的なことである。
にょーぼ一人稼ぎの中で面倒見切れないのである。

私は決断を渋った。しかしにょーぼは心に決めて物件を探しだした。
病院にバス一本で通えるところだ。

その間にも足はどんどん悪化し、病院や不動産屋との打ち合わせのキャンセルが続いた。

こんなんで生活できるのか不安だった。
保護の申請が通ったらずっと入院でいいんじゃないかと考えていた。

そして4月5日、二人は離婚した。あと5ヶ月で結婚20周年というところで。

だからと蔑ろにすることは出来ない。金銭的援助は国がしてくれても
生活の援助はしてやらなくてはならない。

この時は足が痛いのは椎間板ヘルニアに因るものと診断され、
治るまでは訪問介護も必要かなと思っていた。

また、喘息みたいに呼吸が荒れてきて、息苦しいと訴えるようになった。

動けないにょーぼは寝かせ、私は複雑な思いで荷造りをしていた。
主としてのふがいなさとこれからは貯金ができる。自分の為だけにお金が使えると。

引越を前日に控えた4月10日、にょーぼは歩けなくなった。
感覚が麻痺して足に力が入らなくなっていた。

救急車で行きたいにょーぼ、タクシー代わりに使うなという私。

結局は救急車を呼んで搬送された。

たまたま担当医師が救急病棟にいて診てもらうことができた。

「奥様は大変危険な状態です。」

「いつ容態が変わってもおかしくありません。」

「体の至る所に転移して臓器の機能を悪くしています。」

医師の口から発する言葉に光は見えなかった。

歩けないのは骨が溶けてしまっているからだということだ。

肺が苦しいのは水が溜まっているからで、抜いた水は赤くなっていて
そこも冒されているということだ。

「抗がんの治療を止めて痛みを和らぐ治療にします。」

抗がんしないということは転移を繰り返し、
そこの機能を低下させるのも仕方ないということだろう。

「あと延命治療の事もお考え下さい。」

延命と言ってもあと3日の命が一週間に延びる訳ではない。
せいぜい10分というところだ。

人工呼吸器や心臓マッサージの施しをするか否かだ。

それを知らない私は「7月が誕生日だからそこまでは…」なんて言ったが、
医師ははっきりと言った。

「それは叶わぬ願いです。」

いよいよなのかなと思いながらも夜勤をこなし、翌日の引越しに立ち会った。

荷物の搬出‐搬入はあっという間に終わった。
衣装ケースや段ボールしかなかったからだろう。

区役所で転入届を出してその足で見舞いに。
前日は緊急入院でスペシャル個室しかなかったが、今日は一般に移れていた。

いろいろ報告をして翌日、ソーシャルワーカーさんと話した。
すでに役所にアクションを起こしてくれていた。

厄介なことに、10日に搬送されたので前の住所の区であり、
申請が下りても11日からの医療費に適用されると。

それは仕方がないだろうとは思う。

その前に扶養から外れたので保険を切り替えなければならない。

会社経由で書類申請をしたものの、全然こない。

ある日病院から、担当医が話したいことがあると。

「今朝方容態が変わりまして、予断を許さない状態です。」

そして延命処置は人工呼吸や心臓マッサージはせずに
苦痛を感じさせることのないように、全て病院の診療方針に従う事を伝えた。

いよいよもってかと、初めて会社に報告をした。

社長は夜勤休んで付いててやれというけど、働かないと治療費が払えなくなってしまう。

そしてその時が来た後も手筈を整えなければならない。

生前から二人で亡くなったら献体に出そうと話していた。

医大生の為に解剖の実習に身体を提供するというものだ。

登録は何故か歯科大、しかしにょーぼの母、
祖母が登録していた地元の歯科大は人数が多過ぎて
棺を安置する場所がなく、受け付けていない。

それならば火葬をするしかないのか、でも献体も諦められない。

すると日本歯科大学は受付をしているとのことだった。

申し込み書の届くのは待ってられない。
こちらから取りに行った方がいいだろうということで
4月18日に受け取り、翌日には速達で返送した。

せめて書類が届くまでは保ってくれとの思いが通じたか、
症状は治まり(決して良くはならない)
よくしゃべる様になった。

痛みを抑えるため、麻薬やモルヒネも使用している。

ある日行くと個室に移っていた。

イメージとして夜中に何が起こっても
他の患者を起こすことがない=危ないと勘繰ってしまう。
それに個室だから付き添いベッドも用意できると言われちゃ尚更だ。

また、歯科大学に行った日は見舞いに行けなかった、
翌日行くと「もう来ないかと思った」と一筋の涙が流れていた。

元々毎日行くつもりだったが、ずっと寝てて会話なしの時もあったし、
いいかと思った矢先であった。

見舞いは13時~なので、仕事の準備が終わってからの1時間程度の
空き時間に昼メシ、15時前には見舞いを終えて、駅にバイクを止めて電車で家に。

風呂、もしくは仮眠をしたのち夕飯。
出掛けには4皿にご飯を盛ってちびはま達には長時間の留守番をしてもらう。

翌日は昼メシを食べたら仮眠所で寝て、
起きたら見舞いに行くパターンを交互の繰り返してなるべく疲れない様にした。

その頃には4人部屋に移っていたが、現状悪くなるのを遅らせる治療しか行われていない。

痛いと訴えなくなったのは薬が効いているのだろうか、
しかし同時に意識が朦朧としているのがわかる。

短い答えはできるが、長くなると途中で寝てしまい、記憶することや、
考えて物を言うことが難しくなった。

以前出した書類は組合にやっと届き、国民保険の加入となり、
生活保護の相談にとりかかり、必要書類を出して申請の段階までたどり着いた。

しかしGWが役所や病院の動きを阻む。
今までの人生でこれ程GWを恨めしいと思ったことはない。

先月末辺りからろれつが回らなくなり、呼吸も荒くなった。
素人目にも明らかに容態の悪化がわかる。また肺に水溜まってんのかな?
抜いて貰わなきゃ。と呑気に考えていた4月30日のことだった。

5月1日
病院より呼吸、血圧の低下が著しいので明日来てください、とのこと。
もとより昼過ぎには行くつもりだった。

5月2日
7時過ぎに病院から電話。貧血で昨日より呼吸が弱くなって来ている、
来れるなら来て付き添って欲しい、と。

何度めの覚悟だろう。

急にどうなる事ではないが、全ての数値が低下しているので傍
に付いててあげてくださいと。

確かに酷い状態だ。目の下にはクマがあり、呼吸は逆に大人しくなった。

目は閉じたままだが時折見開く、私を認識出来たようだ。

もはや言葉は唸るだけだが、

「水が飲みたいのか?」

「あ゛、あ゛、あう」

ストローをくわえる力もなく、スポイトの様にして口の中に入れた。

これが夫婦の最期の会話であり、施しであった。

時は経ち、反応していた目も閉じたままになり、
呼吸も5秒に一回位になった。脳波はかろうじて動いているが
いつの間にか呼吸をしなくなっていた。

「お疲れ様」

「もう休んでいいよ」

「…ありがとう」

義妹の到着を待って宣告を受ける。

平成24年5月2日 17時30分 幽門前庭部胃癌により死亡 享年43。