呆然とした。
というより、悔しい。
本当に、今までの自分が悔やまれてならない。
今日は授業研究会の日だった。
見せていただいた授業は同学年1年松組。
生き生きと楽しそうに活動する子どもたち。
メリハリのある授業。
けじめとは、躾とは、このようなもの。
このような、子どもの姿。
目の前で見せつけられた。
歴然とした差。
これが経験の差なのか?
これがキャリアの差なのか??
子どもの学力差は教師の指導力の差。
内容の無い技術は無力。
尊敬する先生が話されたこの言葉。
これを自らの教育信念に据えて2年弱やってきたけれど・・・。
力のある教師の指導は、自らの信念を軸に指導方針が一貫している。
力の無い教師ほど、その場だけの指導をする。
前者の学級ではめきめきと子どもたちは力をつけ
後者の学級は崩れるように秩序が乱れていく。
4月に立てた学級経営案。
そのときに、確かに誓ったんだ。
この柱で子どもたちと接しよう。
この場でこのように動ける子ども集団をつくろう。
確かに、誓ったはずなのに・・・。
昨年の学級よりも成長している。
こんなに力があるのか、うちの学級は!
そう思って、自惚れていた。
正直、驕り高ぶっていた。
若さは教員最大の武器だという。
若いというだけで、子どもたちは慕ってくる。
それに甘んじるな。
若者はいつか年をとり、年とともに表面的な魅力は薄れる。
子どもは残酷だ。
みるみるうちに離れていく。
内容の無い技術は無力だというけれど
技術のない情熱は、それ以上に空を舞う。
子どもに愛情を注がない親は稀だが
技術を以って子どもを教育する親は、決して多くない。
愛情だけが肥大化したちぐはぐな車輪は
同じ場所をぐるぐると廻り続けるだけだ。
あたしに残された時間はあと一ヶ月。
今日でちょうど一ヶ月。
後悔よりも、それをばねにして
明日を見つめて、子どもたちと関わっていきたい。
子どもたちは、なにもしなくても成長していく。
あたしは、なにもしなくても年をとっていく。
子どもに学力を あたしは教育力を。
というより、悔しい。
本当に、今までの自分が悔やまれてならない。
今日は授業研究会の日だった。
見せていただいた授業は同学年1年松組。
生き生きと楽しそうに活動する子どもたち。
メリハリのある授業。
けじめとは、躾とは、このようなもの。
このような、子どもの姿。
目の前で見せつけられた。
歴然とした差。
これが経験の差なのか?
これがキャリアの差なのか??
子どもの学力差は教師の指導力の差。
内容の無い技術は無力。
尊敬する先生が話されたこの言葉。
これを自らの教育信念に据えて2年弱やってきたけれど・・・。
力のある教師の指導は、自らの信念を軸に指導方針が一貫している。
力の無い教師ほど、その場だけの指導をする。
前者の学級ではめきめきと子どもたちは力をつけ
後者の学級は崩れるように秩序が乱れていく。
4月に立てた学級経営案。
そのときに、確かに誓ったんだ。
この柱で子どもたちと接しよう。
この場でこのように動ける子ども集団をつくろう。
確かに、誓ったはずなのに・・・。
昨年の学級よりも成長している。
こんなに力があるのか、うちの学級は!
そう思って、自惚れていた。
正直、驕り高ぶっていた。
若さは教員最大の武器だという。
若いというだけで、子どもたちは慕ってくる。
それに甘んじるな。
若者はいつか年をとり、年とともに表面的な魅力は薄れる。
子どもは残酷だ。
みるみるうちに離れていく。
内容の無い技術は無力だというけれど
技術のない情熱は、それ以上に空を舞う。
子どもに愛情を注がない親は稀だが
技術を以って子どもを教育する親は、決して多くない。
愛情だけが肥大化したちぐはぐな車輪は
同じ場所をぐるぐると廻り続けるだけだ。
あたしに残された時間はあと一ヶ月。
今日でちょうど一ヶ月。
後悔よりも、それをばねにして
明日を見つめて、子どもたちと関わっていきたい。
子どもたちは、なにもしなくても成長していく。
あたしは、なにもしなくても年をとっていく。
子どもに学力を あたしは教育力を。