所属:孫堅→袁術→孫策→独立
年齢:約18歳(200年の時)
孫堅の次男、孫策の弟です。父に続いて兄までもが若くして亡くなってしまい、その兄は自身の子ではなく、弟の孫権を後継者に指名して息を引き取りました。
若くして、軍閥と言うべき集団を纏め上げ、江東の地盤を固めることが出来た政治的手腕は見事なものです。また、その後、曹操が南下を行い、降伏を迫って来て多くの家臣が降伏を受け入れるように勧める状況を覆して、一致団結して曹操と徹底抗戦を行うように路線を切り替え、その戦いに勝利します。
さらに見事なのは、曹操の後を継いだ魏の曹丕と同盟を結び、曹丕の皇帝位を承認し、形だけ臣下の礼をとって呉王に封ぜられたことです。魏は漢の皇帝を抑えていたので、禅譲という形で皇帝位を得ることが出来ました。蜀は、魏が潰した漢王朝を再興する立場として、蜀漢の皇帝を名乗ります。しかし、当時の呉には皇帝を名乗る大義名分が無かった状況でした。そんな中、巧みな外交によって皇帝の前段階である王位を得て、それを足がかりに最終的には呉国皇帝となります。
しかし、孫権の晩年は佞臣 呂壱を重用したり、後継者問題で揉め、多くの家臣を巻き込んだ二宮事件を起こしてしまいます。
呉を建国し、首都 建業を発展させ、後の中華史において南朝といわれる王朝が栄える為の基盤を作ったとも言える名君でしたが、呉自体は二宮事件の影響で、長続きはしませんでした。
さて、能力ですが、統率は悩みどころで、3もかなり贔屓目で2でも良いぐらいかも。こと戦争に関しては、自身が統率したことが何度かあるのですが、徐州の陳登に大敗し、赤壁で周瑜が勝利している間に、裏で合肥を攻撃しているのですが、これも落とせずと戦績が芳しくないです。
一応、戦争のスタイルは父兄と同様に攻撃時は自ら陣頭に立ち、退却時には最後まで戦場に残って退却の指揮を執るなど勇猛果敢で、それが為に命を落としかけたことも幾度かあったとありますので、もしかしたら統率2の武力3の方が合っているのかもしれません。
政治は 4。有能な政治力5ある家臣を上手く使っての治世だったという事で5はつけませんでした。知力は外交は得意でも、策謀的なことはそんなに記述は華々しくないので3。
ちょっと厳し目な気がしますが、こんなぐらいかなーっと。
年齢:約18歳(200年の時)
孫堅の次男、孫策の弟です。父に続いて兄までもが若くして亡くなってしまい、その兄は自身の子ではなく、弟の孫権を後継者に指名して息を引き取りました。
若くして、軍閥と言うべき集団を纏め上げ、江東の地盤を固めることが出来た政治的手腕は見事なものです。また、その後、曹操が南下を行い、降伏を迫って来て多くの家臣が降伏を受け入れるように勧める状況を覆して、一致団結して曹操と徹底抗戦を行うように路線を切り替え、その戦いに勝利します。
さらに見事なのは、曹操の後を継いだ魏の曹丕と同盟を結び、曹丕の皇帝位を承認し、形だけ臣下の礼をとって呉王に封ぜられたことです。魏は漢の皇帝を抑えていたので、禅譲という形で皇帝位を得ることが出来ました。蜀は、魏が潰した漢王朝を再興する立場として、蜀漢の皇帝を名乗ります。しかし、当時の呉には皇帝を名乗る大義名分が無かった状況でした。そんな中、巧みな外交によって皇帝の前段階である王位を得て、それを足がかりに最終的には呉国皇帝となります。
しかし、孫権の晩年は佞臣 呂壱を重用したり、後継者問題で揉め、多くの家臣を巻き込んだ二宮事件を起こしてしまいます。
呉を建国し、首都 建業を発展させ、後の中華史において南朝といわれる王朝が栄える為の基盤を作ったとも言える名君でしたが、呉自体は二宮事件の影響で、長続きはしませんでした。
さて、能力ですが、統率は悩みどころで、3もかなり贔屓目で2でも良いぐらいかも。こと戦争に関しては、自身が統率したことが何度かあるのですが、徐州の陳登に大敗し、赤壁で周瑜が勝利している間に、裏で合肥を攻撃しているのですが、これも落とせずと戦績が芳しくないです。
一応、戦争のスタイルは父兄と同様に攻撃時は自ら陣頭に立ち、退却時には最後まで戦場に残って退却の指揮を執るなど勇猛果敢で、それが為に命を落としかけたことも幾度かあったとありますので、もしかしたら統率2の武力3の方が合っているのかもしれません。
政治は 4。有能な政治力5ある家臣を上手く使っての治世だったという事で5はつけませんでした。知力は外交は得意でも、策謀的なことはそんなに記述は華々しくないので3。
ちょっと厳し目な気がしますが、こんなぐらいかなーっと。