植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

袁紹の言い訳1

2011年07月27日 23時01分17秒 | ゲームシステム
 曹操の引き立て役になってしまい、家柄に頼ったおぼっちゃまだとか優柔不断だとか言われ、彼が下した判断はことごとくダメダメだったと言われる袁紹ですが、それもそのはず彼の記述の殆どが曹操を主人公として書かれた魏書の為です。
 では、本当に彼の判断は間違っていたのでしょうか? 今回は、袁紹になったつもりで、なるべく史実はそのままに、但し書かれなかったことは最大限 彼を弁護するようにして、彼の言い訳を書いてみたいと思います。


袁紹のお言葉・・・

1.献帝の迎え入れ

 まず、ワシの最初の判断ミスと言われているのが帝を迎え入れなかったことだ。195年に朝廷の様子を探らせる為に郭図を派遣したところ、郭図は戻るや否や帝の状況を説明し迎え入れることを勧めだした。これには淳于瓊が反対し、沮授が賛成した。沮授が賛成しおったら郭図はいきなり反対に回りおったわ。まあどちらにしろワシは迎え入れるつもりは端からなかったわ。
 ワシは191年から一貫して、劉虞殿に皇帝になって貰う予定だったので今更その方針を変える訳にはいかんだろう。首尾一貫じゃ。それに帝はともかくとしてその腰巾着の董承らも迎えねばならん。董承は曹操の暗殺を企てたようなヤツじゃ。迎え入れたなら必ず我が陣営にとって不利益を働くであろう。それに帝を迎えるメリットもない。宦官出の曹操なら帝を傀儡に出来ても、ワシのような王朝の忠臣たる四世三公の家柄では、帝を尊重せねばならん。曹操のように帝をないがしろにすることは出来んからな。
 と言うことでワシは帝を迎え入れるのをやらなかったのじゃ。

 1つぬかったと思ったのは、曹操が迎え入れて帝を良い様にし出したことじゃ。曹操が大将軍位に就くと言う話を聞いた際はブチ切れそうになったわ。そしたら曹操め、ビビりおってワシに大将軍位を譲って来おったわ。確かに曹操には帝は有効に働いたが、それはワシに影響するものではなったと言う事じゃ。


2.劉備反乱時の強襲

 次に199年に曹操に下っていた劉備が反乱を起こして徐州を奪った時じゃ。田豊が「今こそチャンス!曹操を攻めるべき!」と進言して来たが、あの時は本当に劉備が曹操に反乱を起こしたのか? そしてそれを鎮圧する為に本当に曹操が向かったのかが判らなかったのじゃ。
 あの時は、曹操と一触即発の状態で、黄河をきわに我が軍と曹操軍が対峙している状態で、その最中にまさか曹操本人が劉備を攻めに行くとはにわかには信じられなかった。当然罠だと思ったわ。そもそも劉備の反乱も怪しかったわ。無理して渡河して攻めに行った挙句、曹操に「罠でしたー!」と言われたら目も当てられないからな。そんなリクスを犯すわけにはいかん。それにこのまま体勢を整えて、万事を期して戦争を行えば安全に勝てるのに、何ゆえ危うい奇襲など賭けに出ねばならんのだ!
 という事で、却下!却下じゃ! そしたらたまたまその時期に息子が病だった為に、それが理由で兵を動かさなかったんだと言われる始末じゃ。


つづく・・・

※この記事はあくまで千夜の想像です。

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