2回に渡って魯粛と周瑜の天下二分の計について見てきましたが、最後に関わる人物としてホウ統について書きたいと思います。
ネットでホウ統が、劉備の部下ではなく魯粛が遣わした呉の臣下であると言う面白い説を読みました。さすがにこの説は行き過ぎと思ったのですが、他の事象やここら辺の経緯を見ていくと、あながちホントかも? と思ったので、そこら辺を書きたいと思います。
まず、ホウ統が最初に登場するのは水鏡先生の門下生として諸葛亮が伏龍なら、ホウ統は鳳雛だ!と言われたことです。諸葛亮があまり、劉表に仕官したがらなかったのに対して、ホウ統は(家族を養う都合もあったのでしょう)仕官を望んでいました。しかし、門地を大事にする劉表の元ではたいした待遇を受けることはありませんでした。そんな中、赤壁で勝利した周瑜が曹仁を追い払い、南郡太守として赴任してきます。赴任前から周瑜に付き従っていたかは不明ですが、演義では赤壁の時から周瑜の知り合いで、連環の計を行っています。
事実としては、周瑜がホウ統を南郡におけるNo.2(功曹)にしたことです(もともと南郡のNo.2でそこに周瑜が来てホウ統を留任させたケースもあります。功曹よりも別駕の方が上ですが、別駕が登場しないので)。
つまり、ホウ統は周瑜の片腕として、209年から210年の間活躍していたことになります。その後、周瑜が没します。この周瑜の死体を呉に運んだのがホウ統です。死体を運ぶ役目は重要な任務なので、この事からもホウ統が周瑜の腹心だったことが伺えます。呉に赴いたホウ統は魯粛の推薦を持って孫権に仕えることを望みますが、風体が良くなかった為、孫権はホウ統を嫌い採用しませんでした。
今まで、周瑜によって現地採用されていたホウ統が、現地法人が解体となったので本社採用に切り替えようとしたかったのですが、さすがに本社採用は難しかったと言うところでしょうか…
そこで本社の重役であった魯粛が、今度は子会社を経営する劉備のところに転属を取り計らってくれます。(呉を本社、荊州での呉の勢力を現地法人、劉備が呉の子会社と言う表現はけっこう的を得ていると思います。)
そうしてホウ統の転属が決まると、呉の陸績、全、顧邵などがその別れを惜しみます。彼らは呉の四姓だったりと、後に呉で中核をなす若手です。送別会を開いて送り出してくれたような感じだったのでしょう!
しかし、転属先の劉備のところでは冷遇され、地方の営業所に飛ばされてしまいます。それに怒ったのが親会社の重役である魯粛です。魯粛は劉備に手紙を書きます。さすがに親会社の重役に言われてしまうと逆らえない劉備は、手元に呼び軍師中朗将と言う秘書官の地位を与えます。
そうなってはじめてホウ統は魯粛(or親会社)の勅命を実行に移します。それは劉備に蜀を取らせることです。劉備は諸葛亮の天下三分の計に従って、荊州の次は蜀(益州)を取る必要があります。しかしそれは荊州の基盤を安定させてからです。この時まで劉備は性急に蜀とりを行おうとはしておらず、ホウ統に言われて初めて腰を上げることになります。しかも、猛将 関羽も、軍師 諸葛亮も荊州に置いたままで、張飛も別働隊です。この陣容からして如何に劉備がこの時点での蜀とりに本気じゃなかったことが伺えます。
さらに劉備は、ホウ統が数々の進言を行いますがこれをことごとく、仁義に反するとか、住民の心がまだとかの言い訳をつけて実行しません。演義では同族である劉璋を攻めるのを躊躇ってと上手く誤魔化していますが・・・
そしてラク城攻略において、ホウ統は劉循・張任らの攻撃によって流れ矢に当たって死んでしまいます。軍師の立場で本陣に居そうなものなのに、どうして流れ矢が当たる状況なのか不思議です。
その後、劉備は俄然やる気になります。まず、荊州に居た諸葛亮を呼び寄せ、さらに張飛や趙雲らに各郡を平定させます。さらに趙雲を迂回して成都に向かわせることで、ラク城の守備兵を動揺させこれが決め手になってラク城も陥落。最後に諸葛亮・張飛らと合流して成都を包囲することで勝利を収めます。
見事なまでの平定戦です。この作戦立案から各部隊への指揮を取り仕切っていたのが、諸葛亮ではなく劉備なのです。ホウ統が居る中では呉の影響力が残ってしまうので、この時点では蜀は取りたくない…。しかし、ホウ統が居なくなれば呉の影響力が及ばない形で蜀をえることが出来ます。そう劉備が考えていたと疑ってしまいます。
以上がホウ統が呉の臣下説です。一般的には劉備の腹心で、劉備の為に尽力する中で不遇の死を遂げてしまったと見るべきですが、こんな風に見ることも出来ると言う紹介でした。
ネットでホウ統が、劉備の部下ではなく魯粛が遣わした呉の臣下であると言う面白い説を読みました。さすがにこの説は行き過ぎと思ったのですが、他の事象やここら辺の経緯を見ていくと、あながちホントかも? と思ったので、そこら辺を書きたいと思います。
まず、ホウ統が最初に登場するのは水鏡先生の門下生として諸葛亮が伏龍なら、ホウ統は鳳雛だ!と言われたことです。諸葛亮があまり、劉表に仕官したがらなかったのに対して、ホウ統は(家族を養う都合もあったのでしょう)仕官を望んでいました。しかし、門地を大事にする劉表の元ではたいした待遇を受けることはありませんでした。そんな中、赤壁で勝利した周瑜が曹仁を追い払い、南郡太守として赴任してきます。赴任前から周瑜に付き従っていたかは不明ですが、演義では赤壁の時から周瑜の知り合いで、連環の計を行っています。
事実としては、周瑜がホウ統を南郡におけるNo.2(功曹)にしたことです(もともと南郡のNo.2でそこに周瑜が来てホウ統を留任させたケースもあります。功曹よりも別駕の方が上ですが、別駕が登場しないので)。
つまり、ホウ統は周瑜の片腕として、209年から210年の間活躍していたことになります。その後、周瑜が没します。この周瑜の死体を呉に運んだのがホウ統です。死体を運ぶ役目は重要な任務なので、この事からもホウ統が周瑜の腹心だったことが伺えます。呉に赴いたホウ統は魯粛の推薦を持って孫権に仕えることを望みますが、風体が良くなかった為、孫権はホウ統を嫌い採用しませんでした。
今まで、周瑜によって現地採用されていたホウ統が、現地法人が解体となったので本社採用に切り替えようとしたかったのですが、さすがに本社採用は難しかったと言うところでしょうか…
そこで本社の重役であった魯粛が、今度は子会社を経営する劉備のところに転属を取り計らってくれます。(呉を本社、荊州での呉の勢力を現地法人、劉備が呉の子会社と言う表現はけっこう的を得ていると思います。)
そうしてホウ統の転属が決まると、呉の陸績、全、顧邵などがその別れを惜しみます。彼らは呉の四姓だったりと、後に呉で中核をなす若手です。送別会を開いて送り出してくれたような感じだったのでしょう!
しかし、転属先の劉備のところでは冷遇され、地方の営業所に飛ばされてしまいます。それに怒ったのが親会社の重役である魯粛です。魯粛は劉備に手紙を書きます。さすがに親会社の重役に言われてしまうと逆らえない劉備は、手元に呼び軍師中朗将と言う秘書官の地位を与えます。
そうなってはじめてホウ統は魯粛(or親会社)の勅命を実行に移します。それは劉備に蜀を取らせることです。劉備は諸葛亮の天下三分の計に従って、荊州の次は蜀(益州)を取る必要があります。しかしそれは荊州の基盤を安定させてからです。この時まで劉備は性急に蜀とりを行おうとはしておらず、ホウ統に言われて初めて腰を上げることになります。しかも、猛将 関羽も、軍師 諸葛亮も荊州に置いたままで、張飛も別働隊です。この陣容からして如何に劉備がこの時点での蜀とりに本気じゃなかったことが伺えます。
さらに劉備は、ホウ統が数々の進言を行いますがこれをことごとく、仁義に反するとか、住民の心がまだとかの言い訳をつけて実行しません。演義では同族である劉璋を攻めるのを躊躇ってと上手く誤魔化していますが・・・
そしてラク城攻略において、ホウ統は劉循・張任らの攻撃によって流れ矢に当たって死んでしまいます。軍師の立場で本陣に居そうなものなのに、どうして流れ矢が当たる状況なのか不思議です。
その後、劉備は俄然やる気になります。まず、荊州に居た諸葛亮を呼び寄せ、さらに張飛や趙雲らに各郡を平定させます。さらに趙雲を迂回して成都に向かわせることで、ラク城の守備兵を動揺させこれが決め手になってラク城も陥落。最後に諸葛亮・張飛らと合流して成都を包囲することで勝利を収めます。
見事なまでの平定戦です。この作戦立案から各部隊への指揮を取り仕切っていたのが、諸葛亮ではなく劉備なのです。ホウ統が居る中では呉の影響力が残ってしまうので、この時点では蜀は取りたくない…。しかし、ホウ統が居なくなれば呉の影響力が及ばない形で蜀をえることが出来ます。そう劉備が考えていたと疑ってしまいます。
以上がホウ統が呉の臣下説です。一般的には劉備の腹心で、劉備の為に尽力する中で不遇の死を遂げてしまったと見るべきですが、こんな風に見ることも出来ると言う紹介でした。
