植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

スラブ民族の夢・ユーゴスラビア

2007年06月04日 19時52分23秒 | 国:オスマン・イスラム
 サッカーオシムジャパンが、モンテネグロを下しました。この対戦相手のモンテネグロは、昨年までセルビア・モンテネグロ共和国と言う国でW杯に出場していました。そして、さらに昔はユーゴ(ユーゴスラビア)と言えばサッカーの強豪でした。
 国が分かれれば、人口が減りますので選手層も薄くなり、強豪ではなくなって行く可能性は高くなります。国がスポーツに与える影響を感じずにはいられません。
 では、なぜ分かれてしまったのでしょう?

 ユーゴスラビアは、1929年第一次大戦後に成立した国です。以下にバルカン半島の諸国の民族と宗教を表にして見ましたが、旧ユーゴに所属した国々が、全てスラブ民族で、ブルガリア以外の全てが参加している事が一目で判ると思います。


スロベニア人         :スラブ民族 :カトリック :旧ユーゴ
クロアチア人         :スラブ民族 :カトリック :旧ユーゴ
ボシュニャク人※1      :スラブ民族 :イスラム教 :旧ユーゴ
セルビア           :スラブ民族 :正教徒   :旧ユーゴ
モンテネグロ人(セルビア)※2:スラブ民族 :正教徒   :旧ユーゴ
マケドニア人(ブルガリア)※3:スラブ民族 :正教徒   :旧ユーゴ
ブルガリア人         :スラブ民族 :正教徒
ルーマニア人         :ラテン民族 :正教徒
アルバニア人         :ラテン民族 :イスラム教
ギリシャ人          :ラテン民族 :正教徒


 かなり平たい言い方ですが、セルビアとブルガリアが、スラブ民族の統一国家を建設しようとして、その結果セルビアが勝ち、セルビア主導の元つくられたスラブ民族統一国家が、ユーゴスラビアなのです。
 今なら地方分権の風潮の中、ミニ国家が存続できますが、当時は中央集権的な強力な国家を作らなければ生き残れない時代でした。その為、各バルカン半島のスラブ民族は、民族のアイデンティティや、宗教などを無視し、1つに纏まったのです。
 第二次大戦やその後の冷戦が終わり、中央集権的な強力な国家であり続ける必要が無くなると、他の地域の人たちは、セルビアから離れ独立していきました。最後まで、セルビアと同じ共和国に所属し続けたのは、同じ宗教※4のモンテネグロだけでした。そのモンテネグロも、民族のアイデンティティからセルビアと一緒に国家を運営し続けることを止め、2006年に分離独立します。


※1:ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の人口比率は、ボシュニャク人が48%ですがセルビア人も37%います。

※2:モンテネグロ人はセルビア人と同じ民族という説と、バルカン半島の先住民族イリュリア人(その混血)であると考える説があります。モンテネグロ共和国の人口比率は、モンテネグロ人43%、セルビア人31%です。

※3:マケドニア人は、ブルガリア人とほぼ差異が無い民族であると言われています。ちなみに、マケドニア出身のアレキサンダー大王はギリシャ人で、紀元前はギリシャ人の土地でした。

※4:セルビアもモンテネグロも正教徒ですが、セルビア正教徒教会とモンテネグロ正教徒教会と別の所属です。

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クリミア戦争

2007年06月01日 23時33分42秒 | 国:ロシア
 現在、自身で行っているコンベンションでクリミア戦争を題材として、遊ぶ予定でおります。掲示板を中心に議論されておりますので、ここで少し戦争の経緯を書いてみたいと思います。

 18世紀末より衰退するオスマントルコに対して、ロシアは度重なる侵攻を繰り返し、クリミア半島を含む黒海北岸を手中に収めていました。
 19世紀に入り、さらに勢力を弱めるオスマントルコに対して、ロシアはバルカン半島の分割と、ダーダネルス海峡とボスポラス海峡の艦隊の通行権を得ようと目論見ます。
 両海峡の通行権を得ることはロシア艦隊の地中海への進出になり、これは不凍港を獲得し、海外進出を図るロシアの悲願でした。しかし、地中海は英国にとって、大植民地インドと本土を繋ぐ生命線であり、そこにロシアが進出することは許されないことでした。

 しかし、ロシアはオスマントルコの領土を英国と分割することで了解が得られると考え、オスマントルコへの開戦に踏み切りますが、これはロシアの目測は見誤りで、英国は終始オスマントルコを支援します。
 1852年にヘルツェゴヴィナ東部で発生した農民反乱を、同じ正教徒のモンテネグロが支援。これに対して、オスマントルコはボスニア人ムスリムに武器を渡し支援したことで、戦況は泥沼化。この状況に、スラブ人国家であるモンテネグロを支援する為にロシアが介入し、ロシア・オスマントルコ間で和平が模索されます。
 ロシアは、これを契機にトルコ解体を目論見、オスマントルコ領内の正教徒の保護を要求します。これはオスマントルコが正教徒を支配することを放棄しろと言う要求にも近いもので、オスマントルコにとっては飲めない要求でした。
 その為、両国はバルカン半島・黒海で開戦します。

 戦争は、ロシア有利に進み、シノープの海戦でロシアがトルコに一方的な勝利を収めると、遂に英国はフランスと共にトルコと同盟し、ロシアに宣戦布告します。

 当初、英国・フランス連合軍は、ブルガリア東部に上陸し、ロシアの拠点オデッサの攻略を目指しますが、オーストリアが介入し国境付近に兵を集めたため、攻撃目標をクリミア半島の要衝・セバストポリへ変更し、ここで1年に及ぶ激戦を繰り広げることになります。
 結局、フランスに味方することで、友好関係を築こうとした、サルデーニャ王国の参戦により、セバストポリは陥落しますが、両陣営共に戦争継続することは困難になり、1856年3月30日にオーストリア帝国とプロイセン王国の立会いのもとでパリで講和します。

 結局、ロシアは両海峡の通行権を得ないこと、黒海の非武装化に合意せざる得なくなり、この結果内政改革を余儀なくされます。

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