これはキャノン中佐が中区の山手町に住んでいたことを伝える神奈川新聞の記事です。日付は昭和27年(1952)12月12日。 見にくいですが、こんなことが書いてあります。 鹿地事件の真相はどうなのか、さらに鹿地氏を調べたという米軍将校三名は誰なのか、国際的話題を巻き起し11日のUP電(毎日新聞11日付夕刊3面)はこれら三名の将校に関し、米極東軍司令部の言明として「米軍の記録を調査した結果、J・Y・キャノン中佐という人物が1950年11月11日から52年2月23日まで総司令部G=2 (情報関係)に配属されていた」と伝えた。 ところが鹿地氏救出に一役買った重要証人山田善二郎君を知っているという横浜在住の某青年(28)は、11日午後3時ごろ市内某所で本紙記者に対し「キャノン氏は少くとも昭和22年(1947年)ごろから横浜に住んでいた」と、注目すべき事実を大要次のように語った。 キャノン氏は横浜市中区山手の米軍住宅8-515A (横浜共立高校前)に住んでいて、山田善二郎君は1948年(昭和23年)2月に雇われたが、当時キヤノン氏の階級は少佐だったと思う。綴りはCANONと書いた。 諜報機関の仕事をしており、米人の年齢は良くわからないが35、6歳ぐらいの感じがする好男子で、チョット見るとタイロン・パワーとクラーク・ゲイブルを半々にしたような顔立で、髪は濃い褐色、眼も茶色だった。 身長は五尺六寸以上あつただろうか、テキサス生れの陸士出という話で、見るからに精カンな感じをうける人だ。家庭にはジョセフという夫人と男女各一名の子供があり、仕事が諜報関係だけに、毎日の生活は不規側だつたが、猟銃が好きで、攀銃も常に二挺ぐらい持っていたようだ。 使用人には細いことを言わぬ人だった。出入する人たちは雑多で仕事上の同僚をはじめ芸者やプローカー、二世風、白系露人などがあり、有名人では内山知事もパーテイで3回位、女優の山口淑子も3回あっている(22年から翌年にかけて)。 どこの諜報機関に所属していたかハッキリわからないが、1949年(昭和24年)8月ごろ一時帰国し、一年ばかりして再び来日し(米軍の言明にほゞ合う)去年の末、中佐になったと知人から聞いた。 横浜には彼を知る者はまだ数名いるはずで、おそらく鹿地事件に登場したキャノンと同一人物と思う。 蛇足だが山田証人はウソをいうことのない勇気のある人だ。 この話の中にあるキャノン氏が、果して米軍のいうキャノン中佐と一致するということになれば、ここに鹿地氏を取調べたといわれる米3将校のうち一名の輸かくが浮かびあがり、さらに米軍言明の在日期間以前から来日していた事実が明らかにされたことになる。 (神奈川新聞昭和27年12月12日) キャノン中佐が住んでいたという山手の米軍住宅8-515A。共立高校前ということですが、具体的にどの場所だったのか、昭和31年(1956)の中区明細地図で調べてみました。 8-514Aの下側、「空地」と書いてあるところが8-515Aのようです。彼は鹿地事件の直後に帰国していますから、昭和31年だと、ここにあった米軍住宅は解体されていたのでしょうね。 ちなみにこの場所を現代の地図で見ると、こんな所です。 ところで、昔の明細地図を見ていると、いろいろと思わぬ発見があったりします。 キャノン中佐の住宅の傍に「Bluff Area Boiler」という文字を見つけてしまいました! そして、その横にタンクと書かれた丸いものが描かれています。 これは米軍が使用していた集中暖房用のボイラー施設ではないでしょうか。本牧に海浜住宅があった頃、小港町と間門町に大きなボイラーがあったことは知られていますが、山手にも同じような施設があったんですかね。 新しい発見でした。 さて、キャノン中佐が住んでいた場所が分かったところで、むかし本牧の喫茶店主から聞いた話がいきなり、つながってきました。 本牧1丁目の交差点を少し入った所に、昭和レトロ感が漂う古い喫茶「アンデルセン」があります。10年程前、そこでご主人の柳田さんから終戦前後のお話をお聞きしたことを記録として残しておきたいと思います。 彼が招集されたのは大学生のとき。陸軍の兵隊として中国に送り込まれ、各地を転戦してきました。その間、米軍のP51戦闘機から機銃掃射を受けたこともありましたが、それらを潜り抜け生き延びてきました。 あと3ヶ月で終戦という1945年5月、柳田さんは日本に帰国する兵隊仲間たちと別れて、さらに満州へ向かうことに。 しかし、これが生死の分かれ道となりました。帰国する兵隊たちは汽車に乗せられて黄河の鉄橋を渡っているとき、米軍機による爆撃を受け川に転落し沈没。全員、帰らぬ人になったというのです。 昭和20年(1945)8月、柳田さんは上海で終戦を迎えました。 しかし、日本に帰ることはできず、そのまま捕虜として残されてしまいます。 内地に戻る日本人を見ながら、自分はいつ帰還できるのか思い巡らす毎日だったといいます。 捕虜の間にやっていたことは、日本に帰る人たちが置いて行く軍票の回収と保管。(軍票というのは戦争中に占領地において軍隊が現地で物資を調達するために発行される擬似紙幣のこと) 戦争が終われば、どんなにたくさん軍票があっても、もはや使うことのできないお金。そんなものを大量に抱えていたある日、米軍の兵隊が声をかけてきました。 「その軍票の中に香港上海銀行の紙幣が混じっていないか?」 まさかそんなものが入っているとは思ってもいなかった柳田さん、軍票の束をめくっていくと中から本当に紙幣が出てきたのです。 米兵は、それをくれと言います。 捕虜の身では軍票と同様、香港上海銀行の紙幣だって使うことはできません。 どうせ自分の金ではないし、あるだけの紙幣を彼に渡しました。 それから米兵がしばしば来るようになり、そのたびに紙幣を差し出していると、だんだん親しくなってきます。何日か経ったころ、米兵が大量のチョコレートを持ってきました。それはそれは、美味しいHERSHEY'Sのチョコでした。 しかし、いくら美味しいといっても、一人で食べ切れるものではありません。 そこで、帰国者を乗せる引き揚げ船「氷川丸」が入港するたびに、乗務していた看護婦にそれをプレゼントしたら、おおいに喜ばれたといいます。 やがてご主人も日本に帰還できる日がやってきました。しかし帰国しても、住む所も仕事もありません。 故郷の広島は原爆で壊滅していました。 上海で紙幣とチョコで親しくなった米兵に、横浜に行ったら進駐軍の事務所に行き、〇〇という下士官に相談するよう言われていたので、そこを訪問することに。 しかし、目的の人物は不在で、代わって応対してくれたのが日系2世の兵隊でした。 いろいろ話していると、彼の親は移民で、偶然にも柳田さんと同じ広島の出身ということが判明。 日系2世だから日本語も喋っていましたが、それは恐ろしく古い広島弁でした。 そこで柳田さんは、中国人コックの手伝いの仕事を見つけました。 しばらく見習いで働いたあと、次に得た仕事は米軍将校の家での料理人でした。ボーイとして入りたかったのですが、相手の求めているのがコックだったのです。 正式には料理人とはいえない経歴でしたが、そこはハッタリで採用されました。 当時、本牧の接収地に住んでいたのは下士官と兵隊で、将校は山手の高級住宅に住んでいました。柳田さんを採用したのがジャック・Y・キャノンという中佐。 仕事は中佐夫妻の子どもたちの食事を作ることです。しかも彼らはテキサス出身。そこの郷土料理を作らなければなりません。 夫人にそれを作れるかと聞かれた柳田さん、 「私がやっていたのはアメリカ東部の料理で……」と咄嗟に答えたそうです。 キャノン中佐宅へ通ううちにクッキング・ブックを借り受け、自宅で翻訳し作り方を学んでいったといいます。 ここで料理の腕と英語力に磨きをかけたのでした。 山手の邸宅ではこんなことも体験したそうです。 ある朝、柳田さんが中佐を起こすため彼の部屋に行きドアを開けると、ベッドの上でピストルをこちらに向けられたのです。 この家にはいたるところに銃器が置いてありました。銃身の長いライフル銃、ピストルなど、身近なところに5,6丁は見たといいます。 ジャック・Y・キャノン中佐というのは、単なる将校ではありませんでした。実はGHQ参謀第2部直轄の秘密諜報機関(通称キャノン機関)の最高責任者だったのです。 肩書きは凄い人物ですが、なかなか気さくで優しい軍人だったそうで、たまには中佐からプレゼントをもらうこともあったといいます。 今まで日本軍の上官から貰っていたのは、意味もないビンタだったので、これは新鮮な驚きでした。 山手のキャノン宅で料理を作っているうちに、中佐から意外な話が舞い込んできました。 「ホテル・ニューグランドでコックをやらないか」というのです。 すごいお誘いでしたが、大学生の途中で出征した柳田さんには復学の希望がありました。 その話はそれで立ち消えになったのですが、もしもニューグランドに行っていたら、と思うこともあったそうです。 英語力を高めた柳田さんは、その後、チャブ屋を利用する米兵たちの通訳などもやったりしたあと、昭和30年代には設備関係の店を始めました。そこでも、ボイラーやストーブなどの仕事で、やはりアメリカ人の家を訪問したりする日々でした。 その後、設備関係の会社と一緒に喫茶店も始めたのですが、最終的には喫茶店専業となります。 先日、久しぶりにお店を訪ねたら、なんと、その数週間前に柳田さんが亡くなったことを奥様からお聞きしました。 神奈川新聞の記事に出ている横浜在住の某青年(28)というのは、柳田さんだったのではないか…そんな気がしてなりません。 もっとキャノンのことを聞いておくべきだったと悔やまれます。 (おしまい) ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
ドレスをつくっていたかも……
なんていうことを想像しました。
あの資料があったら、名前をさがす
ことができたかも。
>今まで日本軍の上官から貰っていたのは
軍隊相手の商売の人も似た証言をしますね。(私の出身地には海軍病院があったので・・・さすがに物を買いに行く店の人に暴行しないが、部下をサンダルで殴っているのをしょっちゅう見たから怖かった、と八百屋やっていた祖母が言っていた)
・・・本日のテーマにそぐわなくて申し訳ありません。・・・
4月に裕福楼のクーポンを買ってしまい、酔華さんのレポートがあるかな?とこちらを訪問しました。
「チャーハンはおいしいけど、他は・・・。」レポートありがとうございます。
その裕福楼、一週間の改装を経て「日昇四川菜館」となったとか・・・。
しかもクーポンをお持ちの方は、同じメニューを提供します、とか・・・。
あやしいものです。今週行ってきます。
ところで「日昇」というのは何でしょうか?前に日昇酒家というお店があったとか、八百屋だったとか・・・。
ご存知でしたら、ご教示下さい。お願い申し上げます。
かしこ。
同感です。
もしかしたらキャノン中佐夫人は、
ボングーの顧客リストに載っていたかもしれません。
あの店には山手の上流夫人がついていたから、
可能性はありますよね。
何しに行ってたんでしょうかね。
昭和20年代後半の山手には、
いろいろ有名人が登場していますから、
よくある話なのかもしれません。
小学校の担任が軍隊にいたとき、
直径10センチ以上の堅いロープで何度も叩かれていたそうです。
裕福楼と品珍楼は系列店だという人もいます。
http://ameblo.jp/buruhawai/entry-11957617906.html
日昇酒家と日昇四川菜館と裕福楼の関係は…
よく分かりませんが、
電話番号が気になります。
http://motos999.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-c9de.html
背筋が寒くなりました。
諜報戦というのは虚々実々といったところで、
必ず真相は闇の中というのが相場のようです。
ある意味では、
外交は諜報力の強弱で決まるものといえるでしょう。
歴史を研究する人の中には、
文献の中に書かれたもののみ正しいという考え方と、
証言の積み重ね、すり合わせにより、
真実が見えてくるという考え方など様々です。
ソ連社会主義の拡大・南進を恐れて、
中国・朝鮮共産党をアメリカが支援していた
という話しもあり、
鹿地氏を抹殺せずに解放した意図は何なのでしょう?
聞き取った話を記録に残すこと、
大事なことだとわかっていても、
なかなか文字にして残すことははばかれるものです。
今回の記事は、大変興味深いもので、
ここに記述されたことに感謝します。
こういうことを話してくれる人って、なかなか出会えません。
たまたま、この喫茶店に入ったとき、
お店の雰囲気が良くて、しばしば入るようになりました。
そこでご主人と世間話をしているうちに、
なにかがきっかけとなって戦争前後の体験を話してくれるようになったのです。