横浜中華街では上海路という通りは、あまり目立たない通りですが、その通りの中でも目立たないのが、ここ「富貴楼」です。表には、いつ補修したか分からないメニューボードがあり、建てつけもなんだか悪そうです。そんなことから長いこと入らないで来たのですが、今日、とうとう入ってみました。 20人も入れば満杯になりそうな小さな店です。テーブルやボックスにはスーポーツ新聞、漫画、週刊誌が置かれ、奥からはテレビの音がガンガン聞こえてきます。どことなく町のラーメン屋さんのイメージですが、ちゃんと中華街発展会に加入している中華料理屋なのでした。 働いているのはオジサンとオバサンの2人。夫婦なのでしょうか。店内にはレトロなピンク電話なんかもあり、なんだか懐かしい雰囲気を醸し出しています。そんなだから、すごいメニューは見当たりません。2000円以上するのはエビチリだけ。ごく普通のモノが目立ちました。 その中から私が食べたのは、横浜名物のサンマーメン(650円)と餃子(500円)。写真ではよく分からないかもしれませんが、普通に見かけるサンマーメンとはちょっと様子が違います。なんだか全体にトロミが付けられているような感じでした。家庭料理風というんでしょうか、洗練されていないというんでしょうか、不思議なお味でした。 他に、ラーメン(550円)、エビワンタン(650円)なんていうのもあったので、次回に来たらどちらかを食べてみましょうかね。 ところで、この「富貴楼」という店名ですが、なんだか気になりますね。昔の横浜には「岩亀楼」とか「神風楼」とかいう遊郭がありました。でも、ここは遊郭の流れを汲んでいるとは思えません。 明治時代の横浜には、他に「富貴楼」という料亭もあったといいますから、こちらの方との関係を知りたいところです。今度行ったらオジサンに聴いてみますか。 その明治時代の富貴楼については、鳥居民が『横浜富貴楼 お倉 明治の政治を動かした女』という本を出しています。その紹介文によると… 『明治の初め、国際港となった横浜は、戊辰戦争の後遺症が癒えない東京を尻目に活気に沸いていた。 新宿の遊女だったお倉はこの活気にひかれるようにして横浜にたどり着き、関内に料亭富貴楼を開業する。 お倉の才覚によって富貴楼は繁昌し、明治の元勲たちもここに集まってくる。 金沢八景で憲法の草案を練る伊藤博文もその一人。富貴楼は政治と経済の中心になり、お倉の活躍が始まる』 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
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