
横浜市中央図書館には戦前の電話帳があり、昔の町の様子を知る手掛かりとなるので、私はときどきそれを利用させてもらっている。 今日は、そのなかから広告をご紹介したいと思う。 冒頭の画像は中華料理「永楽軒」のもの。住所は南京街通りとしか記載されていない。ここで本編を撮影するべきだったのだが、うっかり忘れてしまった。メモもないし、どこにあったのかは不明。また後日、図書館に行った際に確認してこようと思う。 ところで、横浜中華街でこの「軒」と名の付く中華料理店は、現在それほど多くはない。先ごろ閉店した「福養軒」が最後だったのかもしれない。(今すぐに思い出せる店名が出てこないから……) ![]() 「安楽園」。店内の様子が掲載されている。部屋の広さのわりにテーブルが小さい……。食事は別テーブルだったのかなぁ。 ![]() 「聘珍楼」。こんな素敵な建物だったのね。 ここで気になったのが「シウマイ」という表示。「シューマイ」でも「焼売」でもない、「シ・ウ・マ・イ」。 やっぱりシウマイが正統派なんだ。 ![]() |
やっぱり「蓬莱閣」ですね。
https://blog.goo.ne.jp/chuka-champ/e/a9813502da95d2571a1abd835741bdaa
ランチで随分食べさせてもらいました。
でも、いちばん好きだったのは、
関内駅近くのビルの地下にあった水餃子の店でした。
山東水餃。
…………。
すごい…。
あの頃は石川町だけでなく本牧でも、杉田でも、野毛でも、
どこでもあったようですね。
今はそれほどひどくないのかなぁ。
本牧と通じるところがあったようですね。
やっぱり見ておくべきでした。
アメリカのMPが仕切っていたなんて、
そっちの方が怖いですね。
チキン一羽を唐揚げにした屋台!
そんなのが出ていたなんて、見てみたかったです。
がリアルに居ると信じ込んでる人が沢山居ましたね
笑)
東京の友達に地下道の入り口は何処に有るのと聞かれたりもしましたよ。笑)
ベトナム戦争時も荒れてました!
音楽もその当時に興味を持ちました。
あちこちのバーから、クリーデンスとかドアーズ
クリームのホワイトルームとかが大音量で、私の家の居間まで聴こえてました。
今の時代だと騒音で110番されそうなレベルですが、
日本の警察は権限が無かったのか?
一切関わらない感じでしたね。
アメリカ軍のMPが仕切ってました。
日本で有って、日本で無い場所でしたよ。
ゴミ箱にJazzのレコードやRookのレコードのシングル盤がが無造作に捨てて有りました。
それを、拾って、自分のポータブルレコードプレーヤーで聴いてました。
屋台も出てまして、チキン一羽を唐揚げにした屋台が有りました。女性の方が一人で揚げてましたよ。
アメリカ兵とバーのホステスさんが常連さんでしたね
今、思うとアメリカ、西欧文化のが方が強かった感じですかね
アメリカ兵、船員さん相手のバーのが中華料理屋さん依り沢山有りました。
そこに出前してたのが中華料理屋さんです。
怖い思いはしたことがありません。
ただ飲んで食べていただけです。
あまり深くかかわらなかったからでしょうね。
福富町は怖かったです…
失礼しました。
丁度私も中華街に生まれ住んで20年目でした。
歳がバレた!ストーリー懐かしいですね。
ストーリーは朝いつも満席なので、ブラジルでモーニングしてました。
コーヒー頼むと必ずトーストとゆで卵が付いて来ました。近所の華僑の長老、仕事前の調理服姿のコックさん。仕事途中の遅い朝食のサラリーマン等色々な方が居ましたね。
安記は朝迄飲んでた、近所の若者達のシメの朝粥等、色々な方々が居ました。
昔は怖い町でしたよ!華僑系、朝鮮系、暴れたくて
ウズウズしてる酔っぱらた船員さん、ベトナムから休暇中の兵隊さん。もうめちゃくちゃでした。
ミドリムシさん。楽しそうな夢ですね。
映像が浮かびます。
そのあとは場所が小港のチャブヤに変わって、
飲んだり食べたり、踊ったり…
なんだか谷崎潤一郎の世界ですね。
>イサさん
発展会などの資料によると昭和30年、
善隣門ができたときからというような記事が出てきますが、
実際にはもっと早く、終戦後まもなく出てきます。
ベトナム戦争頃までは、中華街も本牧も怖い町だったと聞きました、本牧の方々から。
中華街の若者VS本牧の若者!
崎陽軒はあえて外しました。
崎陽軒だけが「シウマイ」と言っているのではないですし。
「楼」「記」「園」などの他に、
漢詩の頭文字を使っている店もありますね。
私が朝粥を食べていたのは「安記」でした。
トーストは「ストーリー」とか「ブラジル」。
私が中華街に来るようになったのは、昭和50年代からです。
当時はこんな町じゃなかった…。
もっと様々な店がありました。
私はしばしば中華街で朝ご飯を食べていました。
たいていはお粥です。
たまに喫茶店のトースト。
この写真は昭和9年頃ですから、
戦争で消滅したでしょうね。
今の建物の直前はどうだったのか、
私はすでに記憶がなくなっています…
南京街大通になっていますよ。
電話局番は昭和38年頃、2桁になりました。
東京オリンピックの直前ですね。
丁寧に教えてくださってありがとうございます。
戦時中あたりまでだったのですね。
子どもの頃、日活映画に登場する怪しげな
あの街に憧れました。
藤村有弘という俳優さんが、筒袖の中国服を着て
登場し、麻薬をこっそり売ってました。
ベトナム戦争の頃までは、怖い場所という
イメージが強かったという話もありますね。
其れ迄は中華街に住んでる私の母親も南京町と言ってました。地元の不良系の方々はチャン町、チャン街と
呼び、大手を振って町を闊歩してました。今、その方々も70過ぎですね!話しが脱線してしまいました 汗)
(正門)加賀町警察署の処です。門は1つだけでした。
昔聞いた話しですけど、戦前華僑の方達を監視しやすい様に警察署が出来たと言ってました。
中華街の通りを石川町駅方面に真っ直ぐ出ても警察署にぶつかる、
山下公園側も交番にぶつかる。
真偽は解りませんが?
後、戦争を経験した方は支?町と呼んでいたのを覚えてます。脱線しまくりで、申し訳有りませんでした。
〇〇軒という屋号は崎陽軒然り昔の日本人の町中華店に多かったように思います。
中華街は樓や飯店と酒家が多いですよね。
イタリア料理店のリストランテ、トラットリア、オステリアなどに当たる用途や規模を示しているのでしょうか。
今回の記事を拝読し、これまた多い安記、徳記、杜記、謝甜記の記の意味合いが気になってきました。
失礼しました。謝)
特別な町でした。
他の町の人は南京町は危ない所と思い、
地下道が張り巡り、麻薬の売買が横行してる町と
誤解されてる方が沢山居ました。
私が住んでると言うと、ビックリされましたね。
外から外れた特別区でした。
友達が私の家に泊まりに来ると必ず言われます。
お前の住んでる処日本じゃないねと 笑)
だから、日本人みたいに何時に朝ご飯とか
決まって無かったですよ。
大体、お母さんとか、奥さんは家事はしません。
家事は男の仕事です。
後、華僑の方は喫茶店のモーニングが好きです。
喫茶店も昔は沢山有りました。
華僑の方は大体朝9時から10時頃から朝ごはんで
近所のお粥屋さん等で食べますよ。
私の記憶では、聘珍さんとか、安記、金陵さん等朝早くから営業して、華僑の方達の情報交換の場所と化します。
まだ、入り口のお店の壁に武将の壁画が無かった
頃だと思います。この建物だと思うのですが、
勘違いかなあ?
子供の頃近所の中国人のおじさんに朝、お粥やサンマー麺等食べに連れてって貰いました。
店内は木造建築で、床も板張りです。
お客さんが歩くとドタバタと賑やかな音がし、近所の華僑の方の社交場と言う感じの
お店でした。