中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

昭和9年の電話番号簿

2020年10月12日 | レトロ探偵団

 横浜市中央図書館には戦前の電話帳があり、昔の町の様子を知る手掛かりとなるので、私はときどきそれを利用させてもらっている。
 今日は、そのなかから広告をご紹介したいと思う。

 冒頭の画像は中華料理「永楽軒」のもの。住所は南京街通りとしか記載されていない。ここで本編を撮影するべきだったのだが、うっかり忘れてしまった。メモもないし、どこにあったのかは不明。また後日、図書館に行った際に確認してこようと思う。

 ところで、横浜中華街でこの「軒」と名の付く中華料理店は、現在それほど多くはない。先ごろ閉店した「福養軒」が最後だったのかもしれない。(今すぐに思い出せる店名が出てこないから……)


 「安楽園」。店内の様子が掲載されている。部屋の広さのわりにテーブルが小さい……。食事は別テーブルだったのかなぁ。


 「聘珍楼」。こんな素敵な建物だったのね。
 ここで気になったのが「シウマイ」という表示。「シューマイ」でも「焼売」でもない、「シ・ウ・マ・イ」。
 やっぱりシウマイが正統派なんだ。



←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね






コメント (32)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 9月下旬の横浜中華街 | トップ | 10月17日は… »

32 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
餃子 (管理人)
2020-10-19 10:24:24
>ミドリムシさん
やっぱり「蓬莱閣」ですね。
https://blog.goo.ne.jp/chuka-champ/e/a9813502da95d2571a1abd835741bdaa
ランチで随分食べさせてもらいました。
でも、いちばん好きだったのは、
関内駅近くのビルの地下にあった水餃子の店でした。
山東水餃。
返信する
Unknown (ミドリムシ)
2020-10-18 17:45:00
すいかさん…ヤッパリ…凄過ぎるよね。コノテノ…方達のお話って…面白可笑しく話すし…途中からは、ほぼ…武勇伝になって行くいくし(笑)。…案外、普通に聞けちゃうんだよね。信憑性は…???と言うと。。。若いモンに話すのだから…それなりに誇張はされているかもね…‼ しかし、異色なる街の、異色なる人間が、生で触れた戦後の横浜…体験談ですかね。…それと…ゴメンネ🙇💦💦…『いかさま』だって…。『す』を、書き忘れちゃいました。すいかさん…私は、今、中華街で、ニクマン…ではなくて、ギョーサ…を探しています。子供の頃によく食べた、長さ10cm位あったかなあ?…フニャフニャ…じゃなくて、皮がパリパリのゴッツイやつを…ジュッ!…と、酢に浸けて思いっきり食べたいな…💕
返信する
Unknown (管理人)
2020-10-18 09:54:17
>ミドリムシさん
…………。

すごい…。
返信する
Unknown (ミドリムシ)
2020-10-18 08:30:23
いかさん…おはようございます🐤…昨日は、冷え込んだね。私…3年間、歌舞伎町に住んだ…と、前に話しましたが、その時のマンションの大家さんが言っておりました。『戦後間もない頃さあ…浜に出張ると、ロクな目に遭わなかったねぇ。。。集金行けば、帰り際に背中を撃たれるし…(ホレ…ホレ…見てみろよ‼…肩とケツに弾丸が入ったままだよ‼…笑)。まる2日…禁された事もあるぜ。爪の中を針で…ツッ突いたり…と、あいつら…エグい事しやがる。…阿片窟もあったね…俺、見に行ったもん…⁉』…って…ホントカネ‼。大家のオジさんは、若い頃渋谷界隈で…ビッキ、ビキ‼…に、ならしていた。渡世人🎴…バクト…だったそうです。。。
返信する
米兵 (管理人)
2020-10-17 09:40:30
>ミドリムシさん
あの頃は石川町だけでなく本牧でも、杉田でも、野毛でも、
どこでもあったようですね。
今はそれほどひどくないのかなぁ。
返信する
Unknown (ミドリムシ)
2020-10-16 13:28:15
すいかさん…アメリカのM.Pには、腹が立つね‼…真夜中の石川町を一人歩いていたら…『ヘ~イ…ファック・ユー~‼』と指を立てて、ジープが通り過ぎました。ご丁寧にスピードまでゆるめてね。言葉通りに受けた私は、ビビッタ‼…のですが、後で友達が、それは『バカ女~‼』って事だよ…と、笑いました。私は辞書でスラングを探して(あまり載ってないよ…💦)文章を組み立てて、こんど遭ったら絶対言い返してやろう…と思いましたが。。。よくよく考えたら、真夜中にうす暗~い石川町を一人歩きしていれば、確かに、バカ女と思われても仕方ないのか?…と、悟った。
返信する
どこか (管理人)
2020-10-16 11:38:14
>ミドリムシさん
本牧と通じるところがあったようですね。
やっぱり見ておくべきでした。
返信する
ベトナム戦争時代 (管理人)
2020-10-16 11:37:06
>イサさん
アメリカのMPが仕切っていたなんて、
そっちの方が怖いですね。
チキン一羽を唐揚げにした屋台!
そんなのが出ていたなんて、見てみたかったです。
返信する
Unknown (ミドリムシ)
2020-10-16 11:30:35
すいかさん。長老様。昔の南京町は、アメリカン+ちょっぴりヨーロピアンでいて、中国だったのですね…💕タイムトラベラーに…ナリテエ~‼…です。…当時の最新の音楽や風俗を体感出来ます。何~んと‼…ジャズやロックのレコードが、無造作に棄ててあるなんて…お宝ごみ箱です…🎵🎵🎵…舶来のレコードなんてそう簡単には手に入らない時代ですよね。
返信する
冬桃さん (イサ)
2020-10-15 21:26:23
映画の影響で藤村さんや、三木のり平さんみたいな人
がリアルに居ると信じ込んでる人が沢山居ましたね 
笑)
東京の友達に地下道の入り口は何処に有るのと聞かれたりもしましたよ。笑)

ベトナム戦争時も荒れてました!
音楽もその当時に興味を持ちました。
あちこちのバーから、クリーデンスとかドアーズ
クリームのホワイトルームとかが大音量で、私の家の居間まで聴こえてました。

今の時代だと騒音で110番されそうなレベルですが、
日本の警察は権限が無かったのか?
一切関わらない感じでしたね。
アメリカ軍のMPが仕切ってました。

日本で有って、日本で無い場所でしたよ。
ゴミ箱にJazzのレコードやRookのレコードのシングル盤がが無造作に捨てて有りました。
それを、拾って、自分のポータブルレコードプレーヤーで聴いてました。
屋台も出てまして、チキン一羽を唐揚げにした屋台が有りました。女性の方が一人で揚げてましたよ。
アメリカ兵とバーのホステスさんが常連さんでしたね

今、思うとアメリカ、西欧文化のが方が強かった感じですかね
アメリカ兵、船員さん相手のバーのが中華料理屋さん依り沢山有りました。
そこに出前してたのが中華料理屋さんです。









返信する
50年代 (管理人)
2020-10-15 18:18:53
>イサさん
怖い思いはしたことがありません。
ただ飲んで食べていただけです。
あまり深くかかわらなかったからでしょうね。
福富町は怖かったです…
返信する
酔華さん (イサ)
2020-10-15 17:21:10
先程の投稿名前を書いていませんでした。
失礼しました。
返信する
華僑、日本人の (酔華さん)
2020-10-15 17:04:14
下町の様な町でしたね。S50年頃ですか?
丁度私も中華街に生まれ住んで20年目でした。
歳がバレた!ストーリー懐かしいですね。
ストーリーは朝いつも満席なので、ブラジルでモーニングしてました。
コーヒー頼むと必ずトーストとゆで卵が付いて来ました。近所の華僑の長老、仕事前の調理服姿のコックさん。仕事途中の遅い朝食のサラリーマン等色々な方が居ましたね。
安記は朝迄飲んでた、近所の若者達のシメの朝粥等、色々な方々が居ました。

昔は怖い町でしたよ!華僑系、朝鮮系、暴れたくて
ウズウズしてる酔っぱらた船員さん、ベトナムから休暇中の兵隊さん。もうめちゃくちゃでした。

ミドリムシさん。楽しそうな夢ですね。
映像が浮かびます。


返信する
夢の続き (管理人)
2020-10-15 11:35:10
>ミドリムシさん
そのあとは場所が小港のチャブヤに変わって、
飲んだり食べたり、踊ったり…
なんだか谷崎潤一郎の世界ですね。
返信する
町の愛称 (管理人)
2020-10-15 11:26:04
>冬桃さん
>イサさん
発展会などの資料によると昭和30年、
善隣門ができたときからというような記事が出てきますが、
実際にはもっと早く、終戦後まもなく出てきます。

ベトナム戦争頃までは、中華街も本牧も怖い町だったと聞きました、本牧の方々から。
中華街の若者VS本牧の若者!
返信する
 (管理人)
2020-10-15 11:13:01
>ミケさん
崎陽軒はあえて外しました。
崎陽軒だけが「シウマイ」と言っているのではないですし。
「楼」「記」「園」などの他に、
漢詩の頭文字を使っている店もありますね。
返信する
Unknown (管理人)
2020-10-15 11:09:32
>イサさん
私が朝粥を食べていたのは「安記」でした。
トーストは「ストーリー」とか「ブラジル」。
私が中華街に来るようになったのは、昭和50年代からです。
当時はこんな町じゃなかった…。
もっと様々な店がありました。
返信する
朝飯 (管理人)
2020-10-15 11:05:42
>ミドリムシさん
私はしばしば中華街で朝ご飯を食べていました。
たいていはお粥です。
たまに喫茶店のトースト。
返信する
聘珍楼 (管理人)
2020-10-15 11:04:21
>イサさん
この写真は昭和9年頃ですから、
戦争で消滅したでしょうね。
今の建物の直前はどうだったのか、
私はすでに記憶がなくなっています…
返信する
Unknown (管理人)
2020-10-15 10:57:10
>ミドリムシさん
南京街大通になっていますよ。
電話局番は昭和38年頃、2桁になりました。
東京オリンピックの直前ですね。
返信する
Unknown (ミドリムシ)
2020-10-14 17:32:18
すいかさん。長老様。昨晩見た夢のお話です。お写真…ヘイチンロウ?…もしくはアンラクエン?…の店内です。今日も一日…繁盛…繁盛…‼。『お疲れ様~』…閉店後に灯りを落とすと…蓄音器から音楽がなり始めました。前掛けを外した店主は、奥方の頭の三角巾をほどいて、二人して手を取り合ってワルツを踊りました。ふっ…と、隅のテーブルに目をやると、いつの間にか…仕事を終えた南京町の長老様が集まっています。鶴のような翁。猪八戒のような旦那。…どうも、お祭りの打ち合わせみたいですね。広東語なのですが、意味は分かりました✌。。。(そこは…夢デス‼)…次は、軽快な音楽の始まりです。二人は楽しそうにチャールストンを踊っています。ステップにあわせて木の床も、コツコツ…ギィギィ 鳴っていますよ。。。ここで、目が覚めちゃいました(笑)…令和時代にもね!…こんなお店が欲しいですね…💕
返信する
南京町だった頃の中華街 (冬桃)
2020-10-14 17:06:26
イサさん
 丁寧に教えてくださってありがとうございます。
 戦時中あたりまでだったのですね。
 子どもの頃、日活映画に登場する怪しげな
あの街に憧れました。
 藤村有弘という俳優さんが、筒袖の中国服を着て
登場し、麻薬をこっそり売ってました。
 ベトナム戦争の頃までは、怖い場所という
イメージが強かったという話もありますね。
返信する
冬桃さん (イサ)
2020-10-13 23:23:06
S30年代位迄ですかねぇ?私が思うには正門が出来た頃から中華街と呼ぶ様に成ったと思います。
其れ迄は中華街に住んでる私の母親も南京町と言ってました。地元の不良系の方々はチャン町、チャン街と
呼び、大手を振って町を闊歩してました。今、その方々も70過ぎですね!話しが脱線してしまいました 汗)
(正門)加賀町警察署の処です。門は1つだけでした。

昔聞いた話しですけど、戦前華僑の方達を監視しやすい様に警察署が出来たと言ってました。
中華街の通りを石川町駅方面に真っ直ぐ出ても警察署にぶつかる、
山下公園側も交番にぶつかる。
真偽は解りませんが?
後、戦争を経験した方は支?町と呼んでいたのを覚えてます。脱線しまくりで、申し訳有りませんでした。
返信する
中華街は (冬桃)
2020-10-13 21:46:03
いつごろまで南京町と呼ばれていたのですか?
返信する
屋号のお話 (ミケ)
2020-10-13 18:34:41
文末にシウマイまであるのに思い出されない崎陽軒(笑)
〇〇軒という屋号は崎陽軒然り昔の日本人の町中華店に多かったように思います。
中華街は樓や飯店と酒家が多いですよね。
イタリア料理店のリストランテ、トラットリア、オステリアなどに当たる用途や規模を示しているのでしょうか。
今回の記事を拝読し、これまた多い安記、徳記、杜記、謝甜記の記の意味合いが気になってきました。
返信する
酔華さん (イサ)
2020-10-13 16:47:58
趣旨が違いましたね。
失礼しました。謝)
返信する
Unknown (イサ 連投)
2020-10-13 15:54:54
むかしの中華街は観光地では無かったし、
特別な町でした。
他の町の人は南京町は危ない所と思い、
地下道が張り巡り、麻薬の売買が横行してる町と
誤解されてる方が沢山居ました。
私が住んでると言うと、ビックリされましたね。
外から外れた特別区でした。
友達が私の家に泊まりに来ると必ず言われます。

お前の住んでる処日本じゃないねと 笑)
だから、日本人みたいに何時に朝ご飯とか
決まって無かったですよ。
大体、お母さんとか、奥さんは家事はしません。
家事は男の仕事です。
後、華僑の方は喫茶店のモーニングが好きです。
喫茶店も昔は沢山有りました。
返信する
Unknown (イサ)
2020-10-13 14:19:36
ミドリムシさん
華僑の方は大体朝9時から10時頃から朝ごはんで
近所のお粥屋さん等で食べますよ。
私の記憶では、聘珍さんとか、安記、金陵さん等朝早くから営業して、華僑の方達の情報交換の場所と化します。
返信する
Unknown (ミドリムシ)
2020-10-13 12:51:56
すいかさん…中華街大通りではなくて、なんきんまち大通りだったんですね。中国の人は、朝御飯は家でとらずに、家族で外食というのは本当…???
返信する
あっ、 (イサ)
2020-10-13 11:38:18
私が覚えてる聘珍楼の建物はS30年代頃です。
まだ、入り口のお店の壁に武将の壁画が無かった
頃だと思います。この建物だと思うのですが、
勘違いかなあ?
返信する
Unknown (イサ)
2020-10-13 11:11:54
聘珍楼、懐かしいですね。
子供の頃近所の中国人のおじさんに朝、お粥やサンマー麺等食べに連れてって貰いました。
店内は木造建築で、床も板張りです。
お客さんが歩くとドタバタと賑やかな音がし、近所の華僑の方の社交場と言う感じの
お店でした。
返信する
Unknown (ミドリムシ)
2020-10-12 12:32:45
すいかさん…お写真…ヘイチンロウのアドレスが、山下町中華街と…なっていますね…🐾。電話も局番が一桁です…🎵
返信する

コメントを投稿

レトロ探偵団」カテゴリの最新記事