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1975年の暮れも押し迫ったある日、シベリア行きの話が持ち込まれた。日本全国から青年を集め、バイカル湖畔でキャンプをしようというのだ。時期は翌年の夏だという。私は一も二もなく参加を決めた。 年が明けるとロシア語の特訓が始まり、横浜在住のメンバーの多くが集まった。初めて合う人ばかりだったが、半年間の講座でお互いに親しくなることができた。これでキャンプはもう100%成功したも同然だった。 7月31日、いよいよ出発の日がやってきた。これから二週間の旅が始まるのだ。大さん橋では、色とりどりの紙テープが乱舞するなか、仕事仲間たちが見送ってくれた。
2泊3日の航海でナホトカに到着。そこからすぐシベリア鉄道の寝台列車に乗り、翌朝、やっとハバロフスクにたどり着いた。横浜を出航して4日目だった。
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ここで1日滞在することになり、私は一人で街なかへ出かけた。すると現地の若い男たちが近寄ってきて、いろいろと話しかけてくる。 「ウヴァース イェースチ ハッシッシ(ハッシッシを持ってないか)?」 人民に対する締め付けが厳しいソ連で、こんな接触があるとは思ってもみなかったので、この言葉にはビックリした。その時の私の風体といえば、ロングヘアーに絞り染めのシャツ、あちこち破れたGパンに下駄というスタイルだった。おそらく西側から来たヒッピーかなにかと勘違いされたのだろう。 「ニェット! ウミニャー ニェーット!(そんなものないよ)」と答えると、今度は「お前の履いているそのGパンを譲ってくれ」ときた。こんなボロでも欲しいんだ。そう思い周辺の若者を見ると、ほとんど全員がジャージー姿であることに気がついた。 しかし、これ一着しか持って来ていないので売るわけにはいかない。「ニェット、ニェット!」 奴を振り切って歩き出したが、どこまでもついてくるのには閉口した。そして、やっといなくなったと思いきや、新手が近寄って来て同じことを喋ってくるのだ。 東側諸国の領袖・ソ連ともあろう国で、こんなにも西側の物品、それもアメリカ的な物を欲しがる若者が多いとは…、あの頃からソ連邦崩壊の芽が出ていたのかもしれない。 翌朝、私たちは飛行機でイルクーツクへ飛んだ。いよいよバイカル湖は近づいてきたが、ここでも施設見学が組み込まれていて1泊することになった。
夕食後、私は団長と2人で散歩に出た。暗がりを歩いていると、不意に物陰から声が…。 「ドーブルゥィ ヴェーチェル!」 今度は若者ではなく中年のおじさんだった。「なんか用か?」と聞くと、 団長の腕で光っている安物のSEIKOを指さし、「その腕時計を売ってくれ」との返事。 「これは高いんだぜ。いくらなら買う?」 「ドルはないんだ。イクラで売ってくれ」 「だからあ、いくらなんだよ」 「だから、イクラだ!」 話がこんがらがってしまったが、よくよく聞けば「イクラと交換しよう」ということだった。ブツは事務所にあるらしい。なんだか怪しい感じがしたが、こちらは2人だし、行ってみることにした。 事務所に着くやいなや、おじさんは金庫の扉を開け、棚から大きなビンを出してきた。中には紅い宝石、まさしくイクラが詰まっていた。「本物かどうか調べなきゃいかん」ということで、スプーン何杯も試食させてもらった結果、これは「上もの」と判断し団長の安時計と交換した。おかげで、この日からキャンプが終わるまで、私たちはずっとイクラを食べ続けることができたのである。 しかし、その時はたいして危険とは思わなかったため、ノコノコおじさんについて行ってしまったが、日本に戻ってから冷や汗の出るような事件が発生していたことを知る。私たちの乗った船の次の便「バイカル号」で、日本人女性がソ連の船員に殺されていたのだ。もし、あのイクラおじさんが悪人だったら、今頃は永久凍土の中に埋められていたかも…。 イクラおじさんと物々交換したあと、私たちはウォッカを仕入れるため市電の乗り場に向かった。電停で待つこと十分。電車が到着し扉が開くと、大勢のお客に続いて車掌がお婆さんを引きずり降ろして来た。 「*(=―¥!>*:…&$#…@!」 おばあさんは酒ビンを振り回しながら、訳の分からないことを大声で叫んでいる。どうやら大トラのようで、そのまま電停脇の草むらに放り出されてしまった。市電に乗った私たちは、後方の窓からずっと眺めていたが、視界から消えるまで騒いでいるようだった。 1時間後、ウォッカを買い込み先ほどの市電停留所に戻ると、例のお婆さんはまだ息巻いていた。手に握った酒瓶はすっかり空になっていたので、状態は最悪。電車を降りた私たちにまで絡んできた。 ハバロフスクで「ハッシッシを譲ってくれと言い寄ってきた若者」、そして、いま目の前にいる「アル中のお婆さん」…、あのソ連からは想像もできないシーンに、ただただ驚くばかりであった。 さて、イルクーツクで1泊した私たちは、翌朝、バスでバイカル湖に向かった。市街地を抜けると、道路はほとんど一直線だ。運転手は両手を離して後ろを向いたまま、陽気にロシア民謡なんか歌っている。 「危ねえぞ。ちゃんと前を見ろ、前を!」とクレームをつけるが、そんなことお構いなしだ。そのうちメンバーの一人がソーラン節などを歌い出すと、車内は日ソ民謡合戦の会場と化してしまった。 何曲か披露しているうちに、バスはキャンプ場に到着した。敷地はかなり広く、大きなテントやバンガローがいくつもある。入り江に面して建つ食堂は、壁などない粗末な造りだが、私たち青年団40人が一堂に会して食事できるほど大きい。 ![]() しばらくキャンプ場内を探索していると、昼食の時間になった。初めて食べるキャンプの食事は目を見張るものだった。スープが洗面器のような器で出てくるのだ。これで1人分である。スメタナも同じような器に山盛り。黒パンは密度が濃く、しっとりとして美味しかった。さすがに肉は固かったが、充分すぎるほどの分量で、女の子たちはずいぶん残していた。 こうして私たちのキャンプ生活が始まった。そして3日目の朝。私は湖の入り江でボートを漕いでいた。すると向こう岸から若いロシア娘3人の乗ったボートがやって来た。 ![]() ボート越しに話をしていると、自分たちのキャンプにおいでとのお誘い。こんなチャンスを逃すことはない。美女3人に連れられて対岸へ向かった。 森の中にある小さなバンガローに案内されると、中から2メートル近い大男が出てきた。背後には、木こり用のナタを持ったヒゲ男もいた。
「こりゃあ、ヤバイな。もしかしたらソ連版***では…」 怯えている私の鼻先に、男がカップを差し出してきた。透明な液体が入っていて、ツーンとくる臭い。一目でウォッカだと判った。しかし、これは90度ぐらいありそうだ。ビンにラベルがないところを見ると、密造酒かもしれない。 私は鼻をつまんで一口呑んだが、喉が焼けるように熱くなり、完全にむせてしまった。それでも大男は「呑め、呑め」と言う。でも、これほどきつい酒、ツマミもなしには呑めない。 すると、そんな思いを察したのか、ノビルとタマネギの中間のようなものを出してくれた。これをかぶりつきながらウォッカを呷るのが、どうやらシベリア風の呑み方らしい。 「平和のために乾杯!」 「オエッ!」 「友好のために乾杯!」 「オエッ!」 1時間ほどの宴会で、みんなと仲良くなってしまった。大男はサーシャ、ナタ男はボリス、美女3人はターニャ、ナターシャ、マリーナという名で、全員がイルクーツク歯科大学の学生だった。 ![]() その日の夜は、再び対岸に渡り日ソ友好青年コンパを開催した。彼らが用意していたのは、やはり90度はあろうかというウォッカだった。初めて呑む仲間たちは全員、強烈なアルコール分にのたうち回っていた。 そんな状況を見かねた大男のサーシャが、突然どこかへ出かけて行き、30分ほどすると大きなビンを手に戻って来た。ビンの中身はバイカル湖の水だった。この水でウォッカを割る。みんな、「冷た~い」「旨い!」と口々に叫んでいた。 ![]() それもそのはず、彼が汲んできた水は、バイカル湖のかなり沖の方の水なのだった。はるばる来た日本の青年たちに、湖畔の汚い水を飲ますわけにはいかない、冷たくてきれいな水を味わってほしい、そんな思いから闇のなか、危険を冒して汲んできてくれたのだ。 いかにもシベリアらしい純な青年に対して、私たちの気持ちを表すには、ウォッカを呑み続けるしかなかった。コンパは真夜中まで続き、翌日は全員が二日酔いになっていた。 ![]() |
今回は、まいりましたね。いきなりバイカル湖ですもん。しかも時計とイクラの物物交換ですもんね。すごい、凄すぎる!
写真もまた大変貴重なものですよね。服装とか、とっても懐かしい感じがします。ところでバイカル湖には、アザラシいましたか?
日ソツーリスト・ビューローという会社が企画していました。
先輩なんか3回も行っちゃいましたよ。
たしかに病みつきになります。