市役所新庁舎建設現場から埋蔵文化財が発見されたのを受け、埋め戻す前に市民に見てもらおうということで12月19日、北仲通の現場において発掘調査見学会が行われました。 現場で配られた資料が横浜市のHPに掲載されていますので、まずはこちらをご覧いただきましょう。 敷地西側の発掘調査状況(11月12日時点)の写真は、隣の高層ビル(横浜アイランドタワー)からの撮影だそうです。 見学会が行われたのは、これを撮った時から1週間ほど経過しているため、見ることのできないものもありましたが、以下に当日の様子をアップしておきたいと思います。 見学は10時から15時までだったのですが、専門家による説明会はその間に4回程ありました。私と同行の作治さんは10時からの回に参加。 かなりの人が駆けつけていましたよ。 全体的な説明を聴きながら後ろを撮影。 資料のAの場所。 ヘルメットをかぶっている方が横浜市ふるさと歴史財団の職員です。 ハンドマイクがないので、傍の人にしか聞こえません…(涙) 同じ場所に江戸時代のものから明治時代のものまで、幾層にも重なっているそうです。 江戸時代末期の石積み。以前の大岡川護岸です。 のちに川の一部を埋め立てたので、この旧護岸は見えなくなっていたのですが、今回の発掘調査で現れました。 明治時代の遺構も重なっています。 資料のFの場所。 これが松杭のようですね。 北仲通の道路境界杭であるとの説明を受けましたが、作治さんの見方としては河川との境界杭ではないかとのこと。 土管。 下水排水のための陶管で、関東大震災前のものではないかとのことでした。 ですが、ここでも作治さんの見解は、もっと新しい物だといいます。それは管を繋ぐ目地で分かるとのこと。震災前だと目地を使っていないのではないかと。 横浜貿易新報社の遺構。 関東大震災で倒壊しましたが、建物の一部は傾いたまま埋まっていたといいます。 資料のDの場所。 横浜銀行集会所の遺構です。 こちらの土管は継ぎ目に目地がありません。 ひび割れは震災の被害のためのようです。 奥の方が原合名会社アパートのあった場所です。 この辺はだいぶ埋め戻されていますが、今後は右側に写っている残土の場所を発掘するそうです。 これまでに発掘された品々。 いろいろなものが発掘されていますね。 しかし、洲干島遺跡というのに、それに関するものは何もありません。ただ、この場所が江戸時代に洲干島と呼んでいたことから、遺跡の名称に使っただけのようです。 さて、この日は近くの空き地で、北仲マルシェというのが開催されていました。 11月に初めて行ってみたのですが、今回はこのあと予定があるため買い物は断念。 かわりに11月に買った珍しいものをアップしておきます。 「もものすけ」というカブです。 手で剥けちゃうから便利♪ おまけ情報 北仲通で撮影した昔の写真と地図は・・・コチラからどうぞ。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
食器、硝子瓶に興味津々です。
少し分けてくれ。。。。。ませんよね。(笑
新市庁舎建設で地元オフィス街に更なる地殻変動が起こらないか少し心配しています。
古くなった現市庁舎を取り壊す時に何が出てくるかも興味が尽きません。
本年もよろしくお願いいたします。
腰はだいぶ良くなりました。(苦笑
ビールは麒麟のようです。
どんな味だったんでしょうかね。
現市庁舎の地下には何もないと思います。
あれを建てた時に全部捨ててしまったような・・・
今年もよろしくお願いいたします ♪
この見学会に参加できなかったので、
詳しいご報告、とてもありがたいです。
しかし、アホなことをと思われるかも
しれませんが、金細工とか金貨とかは
なぜか出てこないものですねえ。
立派な建物があったのですから、茶碗や
瓶以外の貴重品も出てきて良いのではないかと
つい思ってしまう私は、子供の頃、シュリーマンの
伝記やツタンカーメンの墓発掘記を読んで
考古学者に憧れていた夢見るおばさんです。
埋め戻ざるを得ないのが残念ですが、見学会をやってくれたおかげで、こうして市井に記録が残りました。
このページも貴重な文化記録の1つですね!
あけましておめでとうございます (〃⌒ー⌒〃)
今年もよろしくお願いいたします ♪
埼玉屋レポ、よろしく。
私も不思議に思いました。
銀行集会所なんかは金庫があったのではないかと思います。
震災のあと、金目のものは運び出されたんでしょうかね。
それにしても、
あのような広い屋外で、
しかも見学者が多くなるだろうと想定できるのに、
ハンドマイクなし、というのは何故って思いました。
折角の説明なのに、ほとんど聞き取れなかったです。
敷地の端の方は新庁舎建設に関係ないので、
うまく展示をするとか言っていました。
いずれ詳しい報告書ができると思いますよ。