若い頃、福富町(正確には長者町8丁目)にある「エイトセンター」によく通っていた。このビルには、約40店舗の呑み屋さんが入っており、たいていは桜木町駅前にあった「桜木町デパート」から移転してきた店だった。 最初に入った店は地下の「美津の家」だ。ここは同期の仲間に教えてもらった。婆さんが一人で切り盛りしている安い酒場で、桜川沿いのカストリ横丁から「桜木町デパート」を経て流れてきたという。 その後、出入りするようになったのは3階の「美代」。やがて、そこから対面にあった「太平山」に通うようになり、長いことコチラに定着することに。 ここには「桜木町デパート」時代をよく知っている常連客が多く、昔話をよく聴かせていただいたものだ。 やがて、話だけでは姿がよく見えないということになり、誰かが当時の記憶絵図を書いてくることになり、そのうちの頂いた1枚が、冒頭に載せた写真である。 「桜木町デパート」が造られた経緯は、『市史通信 第22号』(平成27年3月31日発行)の中で、「桜木町デパート根岸線高架下移転案」という記事に出ている。 戦後間もなく、桜川沿いに沢山の呑み屋が建ち並んでいた。カストリ横丁とかクスブリ横丁と呼ばれた一帯である。 呑み屋さんは店の裏から川にごみを捨てるので相当に汚れて臭かったらしい。やがて、この川を埋め立てて幹線道路を造ることになり、すべての店が立ち退きをさせられた。 昭和27年、当時の中区役所隣接地に「桜木町デパート」(約670坪、2階建て)を建設し、翌28年2月に完成、入居が始まった。 桜川埋立工事の様子。 しかし、昭和30年代になると駅前は交通渋滞がひどくなり、しかも「桜木町デパート」が建っている場所は都市計画による道路予定地だったこともあり、移転計画が持ち上がってきた。 そこで、「桜木町デパート」を根岸線高架下に移転させる計画が持ち上がったという。当然反対意見が多く出て、この案は立ち消えになった。 昭和38年、半井市長から飛鳥田市長へ変わると方針転換が行われ、野毛大通りにあった露店を都橋際に建築する共同店舗に移転させた。それが現在の野毛都橋商店街ビルで、昭和39年に開業した。 一方、「桜木町デパート」の各店は、補償金による移転に同意し、昭和46年に退去。やがて取り壊された。 横浜市が発行している『調査季報 第125号』に、大谷一郎さんが「桜木町デパート」のことを書いた産経新聞の連載のことが出ている。 それは本になり図書館で読めるのだが、その一部がネットで出ているので参考に、どうぞ。 ←「桜木町デパート記憶絵図」は、ここをクリックして拡大。 【参考に】 2019年7月 名物カストリ横丁よさらば 2013年5月 懐かしのエイトセンター ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
闇鍋みたいなエネルギー。私が通い始めた頃の
野毛には、まだすこ~しその空気が残っていたように
思います。天を衝く高層ビル群と違って、地を這う人々の生々しいエネルギーです。
私が足を踏み入れた頃の野毛は、
労働者の町でした。
桜木町デパートはもうありませんでしたが、
先輩たちから昭和30年代の様子を聞くことができました。
なかには終戦後の野毛で悪さをしていた人の体験談は貴重でした。