数か月前の話で恐縮だが、今年の夏、大腸の内視鏡検査を受けるための予約をしに、西区にあるMクリニックまで出かけた。 この病院は電話で予約するのではなく、本人が直接出向いて面談しながら日程を決めていく方法を取っている。 ということで桜木町駅から岩亀横丁を通って行くことに。 この通りも他の商店街と同様に、シャッターが降りたままの店舗が多い。だが、そんな中でも“昭和の香り”をプンプンとさせながら営業している店もある。 その一つが「三河屋 杉原酒店」だ。銭湯の脱衣所でよく見かける格天井から、この店の古さを感じさせられる。 建物の建築は昭和27年だという。 以前は近くに三菱の造船所があり、横丁一帯はおおいに賑わっていたそうだ。 「三河屋」の壁。 やはりスクラッチタイルが使われている。 横壁に注目 亀の甲羅をデザインした模様だよ。岩亀横丁らしいね。 ここで角打ちなんぞをして行きたいところだが、これから病院に行かねばならないので、それは断念。 そこからさらに進むと「岩亀稲荷」がある。 狭い参道を入って行くと… 稲荷の由来を書いた案内板が目に飛び込んでくる。 ここでご紹介するのも面倒なので、皆さん、写真から読み取ってね。 狐の横には、自害した遊女・喜遊の辞世の歌が。 鳥居の手前に「岩亀閣」なんていう店があったけど、なんだろう? 岩亀稲荷の2軒先には、これまた懐かしさいっぱいの「開勢堂ベーカリー」がある。 「はまれぽ」の記事によると… 正確な年は不明だが1935(昭和10)年より以前に、高島町で創業したお店で、当初は「開盛堂ベーカリー」という名前だった。第二次世界大戦で高島町の店は強制疎開となり、戦後、この岩亀横丁に店を出したのが1946(昭和21)年。その時、名前も「開勢堂ベーカリー」となった。 と書いてある。 コロッケパンを購入し、その場で食べてしまう。 「福山豆腐店」。 角を隅切りした建物って、結構、古いんだよね。 昭和な佇まいの薬局。 目的地、「Mクリニック」はこの先にある。 同じ系列の「M病院」の方は痔の治療で有名だが、クリニックの方は大腸内視鏡検査が専門だ。 2階で採血と血圧検査を行ったあと、待合室で名前を呼ばれるまで待つ。 40分後、やっと自分の順番が来て、受付の人と相談しながら予約日を決定することができた。 ここで解放されたわけだが、さて、どうやって帰るか。同じ道を引き返すのも面白くないので、秋に公演予定のある西公会堂を視察して、そこから横浜道を辿って関内まで向かうことにした。 一応、この辺から歩き出すことに。 海抜50センチだ。 歩道に何かが埋め込まれている。 近づいてみると… 「横浜道」を示す丸型プレートだ。 おそらくこれが道に沿って埋められているのだろうね。 さて、この横浜道とは何か。市外に住む方々には“未知”の“道”だと思うので、少しだけ解説しておこうか。 日米修好通商条約が結ばれると、1859年に神奈川を開港することが決められた。 しかし、ここは東海道の宿場町で大勢の日本人が行き来している場所。そんなところに外国人が入ってきたら無用な衝突が起こる可能性がある。 そこで幕府は、当時、百戸足らずの半農半漁の横浜村(現在の関内付近)を開港場にすることにし、横浜村だって神奈川の一部だとして準備をどんどんと進めていった。 (昔の日本人は偉いね。アメリカの言いなりにはならなかった) しかし、神奈川・横浜間の交通は不便で、岡野新田、平沼新田、吉田新田、太田屋新田は埋め立てられていたが、まだ湿地で道らしい道はなかった。 そのため幕府は神奈川と横浜を短距離で結ぶ道を造ることにした。 戸部村から野毛山を越える野毛の切通しを開削。野毛橋(現・都橋)、太田橋(現・吉田橋)を架けて現在の馬車道付近を通って開港場に至る道を造った。 これが横浜道である。 野毛の切通し。 こちらでは四角いプレートに変っている。 坂道を下って行く。 仏壇坂との交差点。 角地は、旧平沼専蔵邸の擁壁。亀甲石積の美しさは市内随一だ。明治中期の築造といわれている。 岩亀横丁の酒店で見かけた亀の甲羅模様とは、ずいぶんとお金の掛け方が違うよね。 六角形に近いのかな。 そんな亀甲模様は歩道にも施されていたのだが… いつの間にか覆われてしまっていた。 こちらははっきりしているよね。 横浜市中央図書館の敷地だ。 その建物を上空から見てもらうと…… こんな姿なのだ。 さて、ここから野毛本通りを関内方面に向かう。 街灯のデザインも六角形を基調にしているようだ。 ラーメンの店「菊家」。 一度も入ったことがなかったなぁ… ここは鯛焼きだったか今川焼だったか、そんな店だったはず。 都橋商店街。 戦後すぐ、桜木町駅前には闇市が並んだ。桜川沿いにはカストリ横丁とかクジラ横丁なんていう呑み屋通りもできた。 だがやがて、占領軍からそれらが汚いので整理しろという命令が出され、各店(あれ、店っていうのかな)は野毛坂から野毛本通りにかけての露店や屋台として、あるいは駅前に造った桜木町デパート(昭和28年)の店子として収容されていった。 そうこうするうちに、今度は東京オリンピックが決まり、横浜でもサッカーの試合が開催されることになり、露店・屋台は汚い、邪魔だということで都橋商店街に移転することになった。 物販店は1階に、呑み屋は2階に入った。 ちなみに、桜木町デパートの方は桜川新道建設のため立ち退きを余儀なくされ、昭和47年に閉鎖されてしまった。 中に入っていた約140店の飲食店等は、福富町や野毛の町の中に分散していく。その一部が入ったのがエイトセンターである。 昭和50年代まで、その地下に「美津ノ家」という店があった。婆さんが一人で切り盛りしている安い酒場であったが、ここなんかもカストリ横丁から流れてきたという。 ま、この辺の話はまたの機会にして… 都橋商店街、今は1,2階ともほとんど飲食店になっているが、昔の名残を1階の看板に見ることができる。 ここは現在、タコ焼きとなっているが、かつては靴屋さんだった。 ここは時計屋だったところ。 珍味の販売店だった店は今、「まると」という居酒屋だが、こちらとは関係ない(と思う)。 「てまり」の入ってるところは昔、旅行代理店だった。 「水晶堂」というのはメガネ屋だ。 今は呑み屋が入っている。 都橋商店街の向かい側にある、気になる建物。 これ全部が一つの建物みたいだね。 昔はアパートか旅館だったのだろうか… いい感じだ。こういうドアが好き。 窓もいいね。 ここからは横浜道をはずれて福富町に向かう。 宮川橋のデザインは青海波かな。 橋上から都橋商店街を望む。 親柱は何をデザインしているのか。 宮川橋の表示。 平仮名で書くと「みやかははし」である。 「は」は旧仮名遣いなので、現代の方式で書けば「わ」なのだが、注目すべきは濁点がないことだ。 「みやがわばし」ではない。 これは橋名を書くときの鉄則らしい。 川の水は濁ってはいけないので、どこの橋もすべて濁点なしなのだ。 野毛の街をあとにして… 福富町に入る ここで腹が減ってきたので、懐かしい「イタリーノ」でランチをとる。 この日はフライ2種の盛り合わせだった。 エビフライとチキンカツだったかな。 相変わらずご飯は旨い。女将さんの出身が秋田県ということで、あちらの美味しいコメを使っているんだろうね。 キャベツもいいね。マヨを混ぜて食べると、あ~昔を思い出すなぁ… 食後は伊勢佐木モールに向かう。 ここのシンボルツリーって、クロガネモチなんだ。 初めて知ったわ。 これが、その木だ。 こちらはカツラ。ハート型の葉っぱがいいね。 有隣堂の前。 なんの木だったけか… シラカシかな。 実だと思ったら、これは花らしいね。 シンボルツリーだけではなく、いろいろな樹木が植えられている伊勢佐木モールであったが、吉田橋を渡ったところで、この日のツアーは終わり。 あ~、疲れた。 この記事をお読みいただいた皆さんもお疲れになったでしょ。 で、最後に息抜きの写真を。 横浜八景のうちの「野毛乃晴嵐」。 馬に乗る外国人の遠方に、野毛の切通しが描かれている。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
いい記事ありがとうございます
コメントを残すタイプではないのですが汗
応援の意味で(笑)
次回もよろしくです
幼い頃からのあまりに自然な眺めなので、その昔を思いやることなぞなくブラブラと散歩をしておりましたが、これからはちょっと違う目で見たいと思います。
感謝デス♪
へぇぇぇ 知りませんでした !!
開勢堂ベーカリーのコロッケパンも美味しそうです ♪
(ヌシが通るとき(時間)は大概閉まっているんです・泣)
コメントをいただき、ありがとうございます。
次回も、こんな感じでいきます。
貴殿の散歩道でしたか。
いきなり踏み込んで申し訳ありません。
あの周辺は非常に面白いところですね。
また、なにか発見があるかも。
開港当時に活躍した人々は、だいたいが天保時代に生まれているみたいです。
育ち方と時代背景に何か関係があるのかもしれません。
いい店ですね。
経営者が高齢なので、このあとのことが気になります。
後継者はいないのかなぁ。
実に素敵な写真を拝見致しました。
捲れた赤い途端屋根、かっこ良く歪んだドア
下げられているモップと箒が歌を歌っているようで、
砂漠化しちまった横濱の街に、ハミングが聞こえてくような情緒あふれる素晴らしい芸術作品です。
古いお写真もまた期待。