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大好きなカルロ・マリア・ジュリーニによるレクイエム。
モーツァルトに限ったことではないけど、
名曲には、ものすごくたくさんの「名盤」がすでに存在している。
「レクイエム」なんてその典型中の典型。
「名盤」というジャンルがとにかく巨大な1曲とは言えますよね。
作曲者とは直接に関係ないところで、1曲、1曲にとてつもない
アーカイブがすでに構築されているし、それが常に増殖し続けていく。
名曲たる所以ということになるだろうけど、音楽が再現芸術であるからには、
どういうカタチであっても将来にわたって「再現され続ける」ことが条件。
なので、どんな1曲であろうと、だれであろうと、
「過去から未来へと続く演奏のすべてを聴く」というのは
時間のすべてを見通すというのとほとんど同じレベルで不可能であると言えるし、
考えるもなにも、音楽の条件として自明なはず、なのに。
にも関わらず、「この曲はやっぱりこの演奏だよね」と得意顔っていうか、
したり顔っていうか、どこか自分の中で決定されてしまっている満足の領域というのはあって、
とにかく音がそこに触ってくれないと落ち着かないっていうことがある。
自分の耳がなにかの録音に定位してしまうっていうのは、具体的には
どうしたことなんだろうか?とはずっと思っていた。
好き、嫌いっていうだけじゃ、ちょっとおさまらない話なんだな。
耳は習慣化されやすい、という話は聞いたことがあって、
通り一遍には「なるほど」と思わせるところもあるのだが、
それだけで説明しきれるものでもない。
大好きだった録音があっという間に別の録音に上書きされるようなことだって
案外、容易に起こることでもある。
というのも、僕の場合、ベートーベンでそれを経験した。
長らくカルロス・クライバーで聴いてきたので、
「これじゃないとね ♪」とか言って満足してたはずなのに、
フルトヴェングラーでふるえてしまった瞬間に、耳が切り替わってしまったのか?
どうにもカルロス・クライバーでは居心地がよろしくないことになってしまった。。。
嫌いになったわけじゃない。経験が経験を乗り越えてしまった。。。
としか言い様がないのだけれど。。。
思い出っていうのは、本当に重大な要素だけれども、
それさえ乗り越える体験っていうのだってあるのだから、やっぱり一筋縄ではいかない。
そういう意味では、個人的に特別な1枚が
このカルロ・マリア・ジュリーニの「レクイエム」なのです。
結構、いろんな演奏を聴いてきたはずなんですけど、
僕の中ではただの1回も他の演奏に凌駕されたことがない、という
特殊な位置にあり続けているものですから。