昨年の今ごろのことを思い出したりするのだが、
マスクをはじめ、トイレットペーパーなどが品薄だったりして。
たった1年前のことだが、これを思い出すたびに口の中に苦いものを感じてしまう。
理屈抜きに、ただただ気持ち悪かったのだ。つくづく思う。
もうひとつ、象徴的だったのが「ホットケーキミックス」の品薄状態。
「どこに行っても、『粉』がないっ?!」
って、さっちゃんが驚いてたっけ(^ω^ゞ
あの時はお好み焼き粉まで店頭から姿を消したので、
僕だって「これはなにごとか?!」って、心底驚いた。
一年後の現在では「ホットケーキミックス」が品薄という話は聞かない。
だけど、いろんな「宣言」が各地で乱発されている。
ご家庭によっては今日もせっせと「ホットケーキ」を焼いていたりするのかもしれない。
わが家で「小麦粉」を使うとなると、さっちゃん得意のクレープが定番の中でも筆頭ということになる。
たいてい週末になるとお気に入りのstaubのパンケーキパンで
おいしいクレープを焼いてくれる。
このパンケーキパンはすぐれもので、そういえば尾嵜シェフも
「これ、優秀!」って喜んで使ってた(^ω^ゞ
ホットケーキもこのパンケーキパンを使って焼くと本当においしく仕上がるし、
さっちゃんが長い時間をかけてアップグレードしてきたレシピのおかげで、
さらにおいしくなって、もうこれなしの生活は考えられない(^o^)/
というわけで「小麦粉」ならいつも、わりとたっぷり目に置いてある。
昨年の「小麦粉」「ホットケーキミックス」の品薄についても、
驚きはしたが、重大な影響があったわけではない。
なので、わが家的には「クレープ」も「ホットケーキ」も、
日常の風景のままではあった。
先だって、手に取った本がおもしろくて、ついつい持って帰ってきたのだが、
読み終わるとちょっと怖くなった。
タイトルは「暮しのファシズム」。
副題がふるっていて「戦争は『新しい生活様式』の顔をしてやってきた」。
内容については読んでもらうのが一番なのだが、
なぜかと言えば、「日々の生活」「日常」の「ていねいな暮し」のディテールこそが
「大政翼賛会」の提唱にある「新生活体制」がもたらしたことと言い得るから。
もっと正確には、そういうプレッシャーを政治がではなく、
国民の側から要求してきたという事実を確認できるから。
このコロナ禍におけるあれこれに、違和感を通り越した気持ち悪さを感じていたのには
確たる理由があったんだなということを確認する感じ。
近衛内閣、翼賛体制下で提唱された「新生活体制」という字面だけを見ても、
なるほど、現下の状況はあまりにも似すぎているように見える。
もっとも、「新しい生活様式」という言葉に白々しさを感じている人々は少なくない。
指摘そのものは順当とさえ思う。
昨年からずっと頭にはあって、この白々しさを承知でなにかを押し進める態度に、
「こりゃ、不穏なんてレベルじゃないぞ」くらいは思っていた。
しかしながら、本書に列挙されるあれこれを確認していくと、
実はコロナ禍以前の僕らの生活のベースの部分が
いかに翼賛体制的であったかについて、驚きとともに認めざるを得ないのである。
日本型ポピュリズムの究極のカタチとか、これをもって日本型ファシズムの正体とするとか、
そう言い切ってもよいくらい。
「暮しの手帖」とか「女文字」とか、「太宰治」にその証左をみるという手続きは
あまりに自然で唸ってしまう。
もっとも、すべてをそこに帰着させることには、いささか違和感がある。
この論旨の自然さには注意が必要だとも思う。
きわめつけは「ホットケーキ」である。
翼賛体制下、家庭ではたくさんの「ホットケーキ」が焼かれていたという事実は
なにごとか胸をざわつかせるものがある。
米の代用食としての「ホットケーキ」は、積極的に家庭が翼賛体制に参加する、
いわば「ていねいな参加表明」とさえ言い切れる。
その詳細を読むにつけ、こりゃ、たいへんな本を手にとってしまったなと(^ω^ゞ
とは言え、今朝も美味しく、さっちゃんのパンケーキをいただいた。
わが家の平和の味。
この「平和」っていうのがくせものだ!とこの本は言うわけだが。。。
週末の朝、さっちゃん得意の「クレープ」や「ホットケーキ」を
おいしくいただくことにこれからも変わりはない。
僕らのホットケーキがたとえ「大政翼賛会」的風土とは無縁でないとしても。
ただ、僕としては「新しい生活様式」などまっぴらごめんと、本気で思っている。
ちょっと頭がくらっとしちゃう土曜の真昼ではある(^ω^ゞ
マスクをはじめ、トイレットペーパーなどが品薄だったりして。
たった1年前のことだが、これを思い出すたびに口の中に苦いものを感じてしまう。
理屈抜きに、ただただ気持ち悪かったのだ。つくづく思う。
もうひとつ、象徴的だったのが「ホットケーキミックス」の品薄状態。
「どこに行っても、『粉』がないっ?!」
って、さっちゃんが驚いてたっけ(^ω^ゞ
あの時はお好み焼き粉まで店頭から姿を消したので、
僕だって「これはなにごとか?!」って、心底驚いた。
一年後の現在では「ホットケーキミックス」が品薄という話は聞かない。
だけど、いろんな「宣言」が各地で乱発されている。
ご家庭によっては今日もせっせと「ホットケーキ」を焼いていたりするのかもしれない。
わが家で「小麦粉」を使うとなると、さっちゃん得意のクレープが定番の中でも筆頭ということになる。
たいてい週末になるとお気に入りのstaubのパンケーキパンで
おいしいクレープを焼いてくれる。
このパンケーキパンはすぐれもので、そういえば尾嵜シェフも
「これ、優秀!」って喜んで使ってた(^ω^ゞ
ホットケーキもこのパンケーキパンを使って焼くと本当においしく仕上がるし、
さっちゃんが長い時間をかけてアップグレードしてきたレシピのおかげで、
さらにおいしくなって、もうこれなしの生活は考えられない(^o^)/
というわけで「小麦粉」ならいつも、わりとたっぷり目に置いてある。
昨年の「小麦粉」「ホットケーキミックス」の品薄についても、
驚きはしたが、重大な影響があったわけではない。
なので、わが家的には「クレープ」も「ホットケーキ」も、
日常の風景のままではあった。
先だって、手に取った本がおもしろくて、ついつい持って帰ってきたのだが、
読み終わるとちょっと怖くなった。
タイトルは「暮しのファシズム」。
副題がふるっていて「戦争は『新しい生活様式』の顔をしてやってきた」。
内容については読んでもらうのが一番なのだが、
なぜかと言えば、「日々の生活」「日常」の「ていねいな暮し」のディテールこそが
「大政翼賛会」の提唱にある「新生活体制」がもたらしたことと言い得るから。
もっと正確には、そういうプレッシャーを政治がではなく、
国民の側から要求してきたという事実を確認できるから。
このコロナ禍におけるあれこれに、違和感を通り越した気持ち悪さを感じていたのには
確たる理由があったんだなということを確認する感じ。
近衛内閣、翼賛体制下で提唱された「新生活体制」という字面だけを見ても、
なるほど、現下の状況はあまりにも似すぎているように見える。
もっとも、「新しい生活様式」という言葉に白々しさを感じている人々は少なくない。
指摘そのものは順当とさえ思う。
昨年からずっと頭にはあって、この白々しさを承知でなにかを押し進める態度に、
「こりゃ、不穏なんてレベルじゃないぞ」くらいは思っていた。
しかしながら、本書に列挙されるあれこれを確認していくと、
実はコロナ禍以前の僕らの生活のベースの部分が
いかに翼賛体制的であったかについて、驚きとともに認めざるを得ないのである。
日本型ポピュリズムの究極のカタチとか、これをもって日本型ファシズムの正体とするとか、
そう言い切ってもよいくらい。
「暮しの手帖」とか「女文字」とか、「太宰治」にその証左をみるという手続きは
あまりに自然で唸ってしまう。
もっとも、すべてをそこに帰着させることには、いささか違和感がある。
この論旨の自然さには注意が必要だとも思う。
きわめつけは「ホットケーキ」である。
翼賛体制下、家庭ではたくさんの「ホットケーキ」が焼かれていたという事実は
なにごとか胸をざわつかせるものがある。
米の代用食としての「ホットケーキ」は、積極的に家庭が翼賛体制に参加する、
いわば「ていねいな参加表明」とさえ言い切れる。
その詳細を読むにつけ、こりゃ、たいへんな本を手にとってしまったなと(^ω^ゞ
とは言え、今朝も美味しく、さっちゃんのパンケーキをいただいた。
わが家の平和の味。
この「平和」っていうのがくせものだ!とこの本は言うわけだが。。。
週末の朝、さっちゃん得意の「クレープ」や「ホットケーキ」を
おいしくいただくことにこれからも変わりはない。
僕らのホットケーキがたとえ「大政翼賛会」的風土とは無縁でないとしても。
ただ、僕としては「新しい生活様式」などまっぴらごめんと、本気で思っている。
ちょっと頭がくらっとしちゃう土曜の真昼ではある(^ω^ゞ