山田五郎さんの「大人の教養講座」がきっかけで、図書館から画集などを借りることが増えてきた。
関心のある美術展にはよく出かけていたし、好きな作品が掲載されている画集などはためらいなく買い求めてきた。
そういう意味ではもともと好きなことではある。
だけど、好きなことだけが好きというだけで、全体を眺める美術史的な視点で見てきたことはない。
美術史的なことが個人の趣味に関わりがない、っていうことではないのだけど(^o^;)
とは言え、有名すぎる絵というのも、これは星の数ほどある。
山田五郎さんのお話は僕の知らない人のことをたくさん教えてくださる一方で、
特定の絵に対して、なぜ僕はこれを嫌っているのか?
その理由とも言える背景の情報を、ハッキリと示してくれてるところがあって。
なるほど、それで!とひとり得心することが重なる。
好きな絵の詳細についてちょっと掘り下げてくれたりすると、たいへんおもしろいし、うれしいのだけど、
僕が嫌いなその絵がどうして描かれるに至ったか?その必然的背景も教えてくれたりして。
そういうのがとてもおもしろいなと。
もちろん、どうしても自分の好き嫌いは先に立ってしまうのだけど、それはそれ。
話を聞けば、好き嫌いは別にして、もっとじっくりと作品を眺めてみよ〜(*^O^*)/というきっかけを得る。
せっかくおもしろい話を聞かせてもらったのだ。確かめてみたくなるのは人情(^ω^.)
それに、自分ならどう見るか?ということについては、自分としてもたいへん関心がある。
絵を見るということも、どこか読書に近いところもあって。
同じ作品を前にしても、幼いときの印象と若かりしときに得たそれがおどろくほど違ったものになる。
この種の体験は、すでにありふれているかもしれないが、必ず自分の身に起こることなのだ。
人生のうちに何度起こるのかは人によるのだろうけど、いまの僕はふたたび(みたび?)この変換がわが身に起こりつつあるという自覚がある。
「すでに知っている」という意識はジャマでしかない。
もう誰でも知っているはずの名作中の名作を、改めて眺めてみるのに、こんなによい「きっかけ」というのもない。
ネットはたいへんに便利で、有名な絵などはかなり詳細に見ることができたりする。
それでPCやスマホをずっと眺めているのだけど、これをずっと続けていると、絵を見ているという感覚とはちょっと違う気もしてくる。
なんと言うか、絵を眺めているのとは違う、別種の作業のような感覚、これに近いかも。
こういうとき、本というカタチに、馴れ親しんだメディアに回帰するのは、自分としては自然な感覚なのである。
それで、ほぼほぼ毎週、図書館に寄ってはとっかえひっかえ、画集のいろいろを借りてくるようになった。
ホント、図書館様様!ありがたや〜!なのであります(^ω^.)
こうやって画集を眺めることが1年近くも続くと、すべてとは言わないまでも、淵野辺の鹿沼台図書館の美術の棚についてはだいぶ詳しくなっちゃう(^o^;)
そこで、名画分析という所期の目的とはまったく違う、自分のどストライク!っていうものを見つけることになるのだが、
これをひとことでまとめならこうなる。
きっかけの連鎖でもって、螺旋を描くように、ちゃんと自分自身の関心に戻ってくるよと(^ω^.)